2010年に宝島社が発刊した『GLOW』という女性誌は「40代女子、万歳!」というセンセーショナルなコピーでデビューしました。
それに眉をひそめる人、よくぞ言ってくれたとスタンディングオベーションをする人、さまざまな反応がありましたが、当時私はこれを見て板垣退助を思い出しました。
板垣死すとも自由は死せず! 加齢すれども女子魂は死せず!
これがのちの女子民権運動である。
嘘です。
とにかく、属性を越えた気分や雰囲気を誌面に具現化し、読者の気持ちを承認するのが、宝島社は本当に得意な出版社だなと感服しました。

何歳までが「女子」なのか? と問われれば、答えは多分、「女は生涯いち女子」であります。
かわいらしいものを見てテンションがあがったり、同性だけで集まってとりとめもない話を延々続けたり、明確な根拠なく何かを嫌悪したり、下手したらきれいな夕陽を見て涙を出したり、女子行動は合理性と無縁の地に存在している。
「なんとなく」が立派な理由になる。
なんとなく、にもホントは理由があるんだけど、それを説明するのは無粋なのが女子。
これは馬鹿にしているのではなくて、性差のひとつだと思います。

ちょっと板垣云々のところをはしょってしまったので話を戻しつつざっくり説明しましょう。
自称女子を除いた一般社会において、「女子」とはみずみずしい肉体とその未熟なメンタリティの二つをセットにした言葉として使用されています。
しかし、肉体は変化し非処女になり社会的立場が如何に変わろうとも、女子スピリットは死ななかった。
あんな辻褄の合わない気持ちのあれやこれやは人間が成熟するための成長痛だと思っていたのに、いい年になっても自分のなかに女子がいることに私は愕然としました。

>>2以降に続く