【復興道】三陸道(三陸沿岸道)と周辺道路
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※関係ない話題(道路と無関係に鉄道の話を展開するなど)は禁止です。 まぁ震災前に唐突に出来た区間だしな
当時の市長が支援者の土地の有効活用に
無理矢理引いたルートだから
あの区間は侍浜から夏井に抜けて大川目を
通り小久慈を芦が沢に抜けて今作ってる
南インター辺りに出るのがよかった
そうすれば盛岡と結ぶ281号線とシームレスに
大川目で結ばれて便利だし津波浸水域を
通らなくてすんだ >>772
久慈ICの手前の県立病院に向かう進入路が
渋滞時には塞がれて非常に危ない
片側1車線で反対車線に回避出来ない
自動車専用道路だから救急車が巻き込まれると
大変な事になる。 北岩手北三陸横断道路の要求の前に、久慈道路の4車線化だろうに >>774
長年の悲願である三陸ができたからとりあえず他にも要望しとけ以上の意味はないだろあれ
”今後整備が妥当とされる候補入り”みたいなポーズだけ決まれば当人達は多分それで満足するわ 久慈ー普代間は2年くらいかかる恐れが出てきたとの情報あり
何やっとんねん >>777-778
久慈〜久慈南〜久慈宇部 先行開通
久慈〜野田〜普代北 工事中
普代北〜普代間 先行開通
とか区分けされそうな
問題になってるの久慈宇部〜野田の斜面変状と野田〜普代北のトンネル変形だけだったような? >>779
久慈宇部ICは確かハーフICだから
先行開通は無理ではないの
フルICの野田ICが出来なきゃ開通は無理かと >>780
>>>779
>久慈宇部ICは確かハーフICだから
>先行開通は無理ではないの
>フルICの野田ICが出来なきゃ開通は無理かと
ハーフだからダメなのは普代北
久慈方向のみだから野田が出来ないと開通できない >>777
>久慈ー普代間は2年くらいかかる恐れが出てきたとの情報あり
>何やっとんねん
ソースが無いけどまさか
>>541
の事じゃないだろうな?これなら
>>551
ですでに話が出てる >>779-781
久慈 フル
久慈南 宮古方面へのハーフ
久慈宇部 久慈方面へのハーフ
野田 フル
普代北 久慈方面へのハーフ
普代 フル
久慈〜久慈宇部は先行開通しようと思えばできる
野田〜普代は先行開通も無理と 元々
久慈〜野田 夏開通 ← 野田付近法面変状
野田〜普代 年内開通 ← トンネル変状
田野畑〜田野畑南 夏開通 ← 問題なし?
夏開通もお盆前とかなら今月末〜来月辺りプレス発表ありそうな気も Googleマップ見ると、なぜか久慈〜野田だけ、すでに開通してることになってるのな >>786
これはwww永久に完成しないフラグでは >>786
>>764でそれ言ったのにアスペが絡んできて気持ち悪かったわ 今日岩手県の県議会の委員会が三陸道の
田野畑工区の視察してたらしいが報告だと
田野畑工区は7月開通予定らしいな
となると宮古方面から普代村までが7月開通
久慈野田間も同じ頃開通出来るのかな
野田普代はかなり遅くなりそうだし >>799
>今日岩手県の県議会の委員会が三陸道の
>田野畑工区の視察してたらしいが報告だと
>田野畑工区は7月開通予定らしいな
てことは道の駅ふだいと田野畑道路が同時開通かな そういえばこの前、田野畑方面行ってきたけど、
道の駅田野畑のすぐ隣は、やはり三陸道のパーキングエリアだそうだ
ただしそこから通常出入りは出来ない
非常用の退出路は出来るみたいだけどね イオンの釜石も町だけど都会指標のコロナは宮古ダントツかな 岩手も累計四桁オーバーしたんだな
ゼロコロナはなんだったんだろう 三陸って牡鹿半島からじゃないの?
石巻の街中は違うと思うよ 陸中の香港と称された釜石こそイオンモールorイオンタウンが必要 三陸は陸前 陸中 陸奥の3国でそのうち
宮城県はかつての亘理郡伊具郡刈田郡が福島県
沿岸部と共に磐城国でそれ以外の殆どが陸前
ちなみに陸前と陸中の境界は岩手県釜石市南部
陸中国と陸奥国の境界は岩手県洋野町 >>804
理想としては大船渡釜石宮古の三都市で広域合併してもらいたいが >>814
五葉山が藩境だね
ヤマセ的には唐丹から北三陸町は南で正解 唐丹は気仙郡なんだがなぜか釜石なんだよな
トンネルできて釜石に近くなったのが理由なんだろうね >>816
三陸地域にはどこの藩も城や陣屋作らなかったの? 釜石市の南までは伊達藩でそこから北の野田村
までが盛岡藩そして久慈市からが八戸藩だな
訛りも沿岸でもかなり違うよね >>818
やるなら大船渡と釜石だな
名付けて三陸中央市なんてどうだ? 三国の入札情報に田野畑地区の開通式運営が
出てたからもう直ぐ開通だね
やはり問題は久慈から普代間だな
工事車両もほとんど見ないしかなり遅れそう それ逆めっちゃ怒られる
道州作れば北東北は佐竹津軽八戸盛岡になる
岩手県北は八戸へ
岩手県南は宮城県北と陸前を形成するだろう
仙台抜けた宮城なんて蛻だから陸前山形福島相馬まで自称仙台になるだろう >>831
wikipediaによれば、
八戸藩は藩主が南部氏族なのは間違いないけど、
幕府命によって盛岡藩3代藩主を決めた時と同時に当時の盛岡藩から分割されたものだが、そういうのは支藩扱いではなく別藩になるらしい。
因みに八戸藩初代藩主は、四代将軍家綱により南部盛岡藩2代藩主の弟が任命されている。(八戸藩初代藩主の兄が盛岡藩の3代藩主を継いだ。)
因みに盛岡藩2代藩主が参勤交代で江戸在任中に家綱に跡継ぎについて幕府に願出ている最中に亡くなって、それを国元の家臣らは知らなかったので国元は後継について内紛したらしい。でその仕置として南部藩(盛岡藩)を2つに分けた(分けられた)ってことらしい。
2つに分けたのは騒ぎを収めるためというより、小さく分けて勢力を削ぐ方が外様大名の力を削ぐには後々なにかと都合がいいから幕府は後継問題を利用したってのが本音
因みにの因みに、幕末近くに出来た七戸藩は盛岡藩の支藩扱いらしい。 津軽と南部の中の悪さは歴史的なものだけど、津軽も元々は南部氏族の大浦氏(遠い?親戚の一派)。ただ、その1派だったときから仲はすでに悪かったらしく大浦氏は南部氏の支配を嫌って度々争いが起きていて、最終的には南部支配が強い勢力を領内から一層した当時の大浦氏は、豊臣政権時代に中央工作が成功して津軽氏として南部氏から完全に独立した大名に認められた。
因みに武士団だけじゃなく、領民レベルで争い続けたみたい。二戸付近は幕末から明治時に津軽(弘前藩)に組み込まれそうになったときに地元領民が凄い抵抗して、結果取りやめになってるみたい。 >>834
因みに話ついでに…
豊臣政権は津軽氏(大浦氏)の独立を認める代わりに南部氏の不満を収める為に、津軽領の代わりに本来は南部領ではなかった領境に接したいくつかの地域(たぶん南側方面。まだ江戸期前なので伊達領ではなかった?)を正式な南部領として認めたらしい。 ついで話その2
南部氏は、もともと現在の青森県南部町あたりから出た一族なんだが、周辺で拠点を変えながら、豊臣政権下で一帯を納める大名と認められ、当時の拠点は福岡城(九戸城)。
だったが、豊臣政権下で奥州方面に睨みをきかす有力大名だった蒲生氏郷らのアドバイスで、拠点を構えるにはそこは北過ぎるから、いま少し南に城をつくれ!と言われて、紫波付近にとりあえず仮住まいしつつ、築城したのが今の盛岡城っつことらしい。
以来盛岡は南部藩の拠点としてさかえて、全国各地からも武士、町人が集まったので南部藩の実際の国力の割には華やかな文化が栄えたし、国力の割には代々南部の殿様は贅沢好きだったらしいけど、盛岡以南の北上川周辺はともかく、他の領内農村部・山間部は飢饉も多く決して豊かじゃなかったらしい。領民の不満も小さくはなかったかもだけど、贅沢も多かった南部の殿様の代々の方針は、領民を生かさず殺さず
らしかったみたいにだから弾圧一辺倒っつわけではなかったんだろうね。
領内の年貢の取り立ては概ね五公五民(作物の半分は持っていかれる)だったらしい。
我慢強い?(笑)県民性はその辺りの影響かも
「良いわけじゃ無ぇども、力っこも無ぇし、黙って言うこと聞いてた方がなんだかんだ得(言う事聞かねぇば損する)かも…」みたいな >>821
野田から沼宮内方面への塩の道(現県道29号沿い)の今の久慈市山形町霜畑(住所には無いけど「関」という集落名・地域名が残っている。)に盛岡藩と八戸藩の境の関所があったらしいから、藩境は入り組んでたんだろうね。 ・イスラムテロの様な鉄道キチガイの永遠に続くテロ攻撃
・誰かのレスに関連したその場限りの展開話題
比較するなら、前者に比べれば後者の方がかなりマシ
知らんけど >>837
その県道29号線の途中に野田ICを作ってるみたいだけど、なんかまだまだこれから感満載なんだよね。
問題になってる三陸道本線途中の法面崩落?が無くても最初から夏開通に間に合わせる気がないみたい見える進捗具合なんだが >>836
南部氏族と領地についてだいぶ詳しく解説してくれてありがとう!興味深く読んじまったぜ
しかし仮に盛岡が成立してなかった場合どうなったんだろうな…もしかすると今の岩手県はなかったかもだが >>843
人間が一人もいなかった所に突然南部氏が湧いて出たわけじゃないから、南部氏が支配しなかったら別の豪族や氏族が代わりに支配しただろうし、
岩手県域の大枠の基礎になった旧陸中國も、
南部氏領地と被る部分も確かにあるけど、
南部氏領≒陸中國ってわけではないから、
南部氏領や盛岡藩が無かったら岩手県も無かったとは結論つけられないかと… >>842
>>>837
>その県道29号線の途中に野田ICを作ってるみたいだけど、なんかまだまだこれから感満載なんだよね。
これでしょ!後は舗装だけレベルだからどうにかなりそうだけど
https://twitter.com/1ZcSKSpzmCiQF9X/status/1394434187378139136
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>844
言い方かえれば、
南部の領地を割って南部領北部を青森県の東部にした(南部氏領の南部を岩手県北部に組み込んだ)みたいな氏族が支配した土地領地を基本にした訳では決してなく、
陸奥國≒青森県に、陸中國≒岩手県、陸前國≒宮城県に定めたら、結果的に、
青森県は津軽領+南部領の北部、
岩手県は南部領南部+伊達領北部、
宮城県は伊達領の北部と現福島の一部(新地町)以外みたいになったと・・・ >>845
これさぁ、
写真の一枚目→久慈方面入口、
二枚目→久慈方面出口、
三枚目・四枚目→普代方面入口(撮影位置違い)
なんだけど、
久慈方面は見ての通り地ならしだけだから舗装が残ってるだけだけど、普代方面出入口は本線とのランプルートは、新たな盛り土や橋脚作るか盛りコンクリートしないと繋げないのね(一部だけ出来てるのが写真には写ってる)。最初から久慈方面だけが夏までに出来ればいいのなら間に合うかもね。
普代方面は結構前から年内開通だから確かに一緒じゃ無くても不都合ないだろうけど、
先に作ればいいのにね。
ちゃっちゃと作れる部分は先に作ればいいのにね。
もしかして担当業者が北と南で別れている? >>846
個人的に青森県はいらなかったような気さえするんだけどね
弘前は秋田県入りすればバランスよかった >>847
気仙沼中央も開設時には港方面ランプは影も形も無かったぞ >>848
わざと割ったりくっつけたりしたからな
津軽羽後は奥羽庁
本線あるし
東半分盛岡八戸は陸奥庁としよう
伊達藩領は丸々仙台庁で良いかな
盛岡八戸も30万双子だからね 八戸三沢の出身の奴と話してた時にどうせなら地元は岩手県だったら良かったのに言ってたわ
どこまで本気かは知らん >>848
うん。だから、おもしろおかしく氏族のはんと(人の生業)を重視すればそういう廃藩置県も全国あちこちにあったかもしれないけど、時の政府は最終的にそうは考えなかった(世の中はそうはならなかった)って事だよ。そんな事より地理的・歴史的に既存していた旧國境界区分の方を重用したんだよ。 >>852
福島とかは旧國分けをいくつか纏めて一緒くたにされちゃった例になるけどね。
会津への嫌がらせ説もあるけど >>848
本来は初代県庁は弘前だったんだけど、
政府が命じた初代県知事がいざ弘前に赴任してきたら弘前の人間が反抗的でやりづらかったから、県庁を青森に移し、以後、青森県の名になった。
旧陸奥國を基本にした県があった無かったの話とは別だけど、
「青森県」という名は無かった(代わりに弘前県だった)可能性は十分あった。もともとそうだったわけだから。 >>854
まぁ、建前とは別にあったよね、それ。
奥羽列藩同盟から早く脱落して官軍に恭順した山形、秋田、弘前(後の青森)は城下町=県名になったし、
戦いの末に降伏した会津、仙台、盛岡はその栄誉?は取り上げられた… >>850
伊達藩も明治維新で領地減らされ過ぎだろ。一関江差水沢北上は宮城県入りすべきだったと思うがね。 >>857
花巻北上仲悪いからなぁw
西和賀は岩手だが正味秋田にくれた方が良い
気仙は伊達だ
江刺も伊達だ
金ヶ崎も伊達だ
北上は分かんないw >>853
会津勢は下北半島に追い出されたから
代替統治のために福島や二本松や白河と合併
そこに磐城もなぜか混ぜられた 津軽藩と南部藩(八戸)が拗れたのは
元々の南部と津軽の争いもあるけど
幕末の藩主が津軽が熊本の細川家から
八戸が鹿児島の島津家から養子が入った事も
大きい、細川と島津は同じ九州でも
仲が良くなかったからな
ただし八戸南部家は盛岡藩に同調して幕府側に
ついたにも関わらず殿様が島津家だったので
お咎め無しでさらに薩長の司令官は八戸の殿様に
頭が上がらずどっちが敗北した側か分からない
ほどだったらしい >>859
北上は藩境の黒沢尻が栄えた町だからはほぼ南部だよ
領地境は北上のだいぶ南にある
旧伊達領は端っこのごく一部 金ヶ崎に行く方についてくだろ
金ヶ崎は仙台に帰属したいかね >>856
戊辰戦争で仙薹藩が抵抗したのは世間一般的に知られていない >>856
に付け加えると山形県の出羽荘内藩(鶴岡)も単独の県としては存在できなかったよね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています