自分は元々呂布軍にいて、
あの敗戦の後、縁あってしばらく関羽軍で歩兵隊にいたんだわ。
基本的に劉備軍は小さい戦の度に豪族から出た報酬を農民からしたら結構な額で配ってたんだけど、
募集受けて兵卒やってるやつって行き場のないやつは実は少なくて、家族がいたり親がいたり農地があったりで、1戦したら大金もらって帰るやつが大半。
今で言うファンやファミリーや付き人みたいな扱いのやつはずっと前から金をまるごと帳簿につけて預けて平時も忠誠のごとく生涯ついてたみたいだが、
そういうやつらが将軍や武将になるような学問や実力あったかといわれたらまあ強いやつもいたけど劉備関羽張飛の上には立てないのよずっと。それを不満がるやつもいない。
数十、数百、数千の軍団に歴史に名を刻むような指揮官なんかそう何人もいないのよ。
そこで終わりマジで。
あの時代の乱世の兵卒は。

荊州はなかなか過ごしやすくて乱世の中の歩兵隊やってたやつらも妻帯してそこで劉備の兵卒はやめて荊州の住人になってたわ。
金も結構な額もらってたから、息子を学問に出してるやつら多かった。
一部の信者はそのあともついていって裏方に回れるやつもいたし関羽張飛趙雲の下について戦えたり指揮官みたいなことしてたやつもまあいたけど、
軍勢の最高責任者に肩を並べます、なんてのは兵卒上がりの側近より、
やっぱり学問受けて財があって責任者の振る舞いができる優秀な若いやつが荊州って自治体を動かしてたやつらや武将にたくさんいたんだわ。益州にもな。

たださっきも言ったように元側近の、
学問を受けた子らが蜀の官職についたり武官だったりはあったぞ。
生き延びて現代に子孫もいるだろうし。