【漢の忠臣】劉備という人をどう思う?【逆臣】
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遊んでいるのは>>69と>>71の脳みそ
ちゃんと働かせないとニートになるぞ 負けの多い生涯を送って来ました。
自分には、戦略の概念というものが見当つかないのです。 負けてたのは入蜀するまで
と言いたかったけど最後の最後で歴史的な惨敗を喫したからなぁ 民というか当時の豪族からしたらやっかいだったろうね 益州の言葉も話せぬ北京語?山東弁?の劉備、諸葛亮が益州に国を創り出すwwwww
益州の人からみればマジウザいなあ 益州はほっといてもそのうち曹操に潰されるから結末は変わらない 益州は日本で言えば四国みたいなモンだからね
上の情勢がどう変わろうと一般人にはほとんど影響なかっただろうね
それほど漢化されてなかっただろうし 基本は野心家であって、董卓や曹操と同じだと思うな
漢の復興ってのは大義名分 劉備にしろ曹操にしろ若い頃は、漢に対して忠誠にやっていこうと思ったが
自分の勢力が大きくなってくるとだんだんと野心が芽生えたのでは >>81
董卓や曹操は帝位には登らなかった。
帝位を僭称した輩と同じにされては浮かばれないな。
>>82
曹操は劉協を庇護し、死ぬまで家臣の身を貫き通した。
劉協を曹操の下に残したまま、外で反旗を翻すわ
劉協の即位に異を唱え続ける袁紹と手を組むわ
漢中を得れば、漢から賜った将軍位を返上して王位を僭称するわ
魏への禅譲を知り、劉協が殺されたとの誤報を聞くとあだ討ちすらせず帝位を僭称するわ
などなどした劉備と同列に扱うなんて… そうやって並べてみると酷いな
でも時代も移り変わってるしなんとも言えないな 蜀には最初に劉協が殺されたって誤報が伝わったんじゃないん? 劉備と諸葛亮が漢を滅ぼしたという見方もできる。
曹操は皇帝になるつもりなかったしさ。
赤壁で、呉が降伏すれば、漢は続いていたかもな >>82
曹操についてはそのとおりだろう。
いつから取って代わることを意識しだしたのかは何とも言えないけど。
個人的には,献帝を擁立してから魏公に就くまでのどこかだとは思う。
劉備の場合,>>83氏が言うとおりそもそも漢に対する忠誠が薄い。
むしろ劉協弑殺の誤報を確認すらしないで称帝に走ったことからも,
自身が劉氏の末裔であることを利用しているだけの感がある。
もともとが成り上がった任侠集団と考えればそんなものか。 >>87
曹操のどのエピソードで野心があると断定するの?
爵位や王位は、曹操自身が望んだのか、家臣たちが望んだのか
董昭主導で行われていたが、そこに曹操の意図が乗っていたのか否かは断定できない。
爵位や王位を受ける事がイコール野心でもない。
拒み続ければ、皇帝の意に反する事になり、逆に反意を疑われる。
爵位や王位を受けた時、曹操は与えられた領地の大半を返上している。
曹操のなにを持って野心ありと断定するのか、伺いたい。 >>88
曹操は領地を返上したが、曹操の息子たちは領土領土を与えられた。しかも、返上したのよりも多い。
まあ、結局は得をした訳ですよ >>89
> 曹操は領地を返上したが、曹操の息子たちは領土領土を与えられた。しかも、返上したのよりも多い。
曹操の息子たちが得た領土の数値と得た時期を具体的に
多いとするからには把握してるのでしょ。
野心云々でいうなら三公制の廃止と丞相の復活じゃないかなあ
それと前後して司徒趙温を罷免させてるし
河北統一して自ら丞相にってなると野心が無いとは思えないんだよなあ
もちろんビビって降伏する劉表みたいなののための脅しとしての意味のほうが強いんだろうけど >>88
前提として,「取って代わる」と「野心」が同一とは限らないけどね。
漢の終焉が防げないのなら,むしろ誰かが継がなきゃいけない。
(もちろん曹操の真意なんて知らないけど。)
ただ実際問題として,魏公を受けてから後戻りなんてできたのだろうか。
司馬昭が征蜀の成功が見えてようやく晋公を受けたことを考えれば,その重さは分かるだろう。
この時点で王朝交代は視野に入っていただろう。自身の代で果たすのかはともかくとして。
個人的には>>91氏が指摘する丞相復活(特に趙温の罷免)も重要だと思うけど,
211年の時点で25歳の曹丕を副丞相にしたことが決定的だと思う。
だって,既に権力の相続まで考えていたってことだから。 >>91>>92
建安十三年正月、司徒趙温が曹操の子曹丕を召し出そうすると
曹操は「趙温は臣の子弟を召し出しましたが縁故ばかりを選抜して実力を軽視しております」
と上表し、癸未、侍中守光禄勲郗慮を持節として趙温を免官させた。
《文帝紀・後漢紀》
献帝より、曹丕が五官中郎将・副丞相に任命されたのはその3年後。
これが曹操の意図による任命なのか否かは、今になっては知りようがない。
息子に職務を手伝わせることは、珍しい事ではなく、むしろありふれている。
また、曹丕を継承者(太子)にしたのは建安22年(217年)で6年も後の話し。
司馬昭の晋公への昇進は、漢から魏への禅譲の経緯を意識して王権交代を考えていただろう。
何せ、すでに皇帝殺しの烙印は押されているのだから、後戻りしようがない。
しかし、だからといって曹操が魏公への昇進に王権交代が視野に入っていたとは限らない。
爵位を授かり責務を全うするか、頑なに拒み責務を放棄して野に下るかの二択で、
いまだ戦乱が治まらない中、責務を放棄するくらいなら爵位を授かるほうを選ぶ、と爵位を受ける際に宣言している。
まぁ、曹操に野心ありとしか捉えない人にはパフォーマンスにしか受け取れないでしょうけど。 >>91
> 野心云々でいうなら三公制の廃止と丞相の復活じゃないかなあ
孔明も同じ事をしている。
三公は、制度として廃止していなかったかもしれないが
許靖の没後(222年)、誰も三公に任命されていないので事実上の廃止。 >>90
210年
すみません。間違えました、五千戸減っている。
曹操は三県二万戸を返上。その代わり曹植、曹拠、曹豹には一県五千戸ずつ食邑が与えられた
ただし!
返上したのは陽夏、タク、苦の三県。
それと比べて
曹植の平原、曹拠のハン陽、曹豹の[食堯]陽 は比較重要な土地だった。 >>95
それ建安16年の話しで魏公就任、魏王就任と別口の話しだよ?
建安18年 魏公就任に伴い冀州の十郡を受ける所、魏郡以外はすべて返上
建安21年 魏王就任に伴い賜った領土の三分の二を返還 >>96
いや、曹操に野心が有るかどうかの話
(>>88)
>曹操のどのエピソードで野心があると断定するの?
王位の話なら別でしょう
返還しても、しなくても自分が朝廷を牛耳ってるから、実質なにも損していないと思う
曹操は常に自分を周の文公に倣効してますからねえ
「周の文公は天下の3分の2を持っているのにインを滅ぼさなかった」
皇帝までは望んでいないとは思う
ーーーーーーーーーーーーー
劉備完全放置になってた^^; 曹操が死んだ時は、江夏にいたんだっけ?
最前線にいたんだねえ。皇帝なら、そんなとこにいなさそうだけど >>93
25歳での副丞相(正確には丞相の副だけど)がありふれているのか?
そんな例があるのならぜひ御教授願いたい。
あとできれば安漢公王莽以外の「公」の例を挙げてもらえれば幸甚だけど。
>>98
曹操は洛陽で死んでいる(武帝紀)。
むしろどこから江夏が出てきたのかが気になるけど。 話を劉備に戻します
彼が益州を手に入れるという行為をどう思いますか?
曹氏、孫氏を攻めるのはいいとして
同じ宗室の劉氏を攻めているということは・・ >>101
太陰暦8月28日だったと思う
今ですと太陰暦はまだ7月上旬ではないでしょうか ┌(┐ส้้้้้้้้้้้ਊส้้้้้้้้้้)┐ >>100
サバイバル中の群雄としては何も間違っていない。
もちろん漢の忠臣としての姿はどこにも見えないけど。
>>101,>>103
諸葛亮の命日って出典あったっけ。 >>106
> 諸葛亮の命日って出典あったっけ。
演義 曹操も劉備も漢の忠臣じゃないと思う。ついでに荀イクも
でも曹操が漢の忠臣だったらそれはそれで面白い 私は劉備も曹操も年を経るにつれて野心が芽生えたのだと思ふ
若いときは二人とも漢の忠臣 劉備に漢、あるいは献帝への忠誠を感じさせる行動、エピソードはない。
曹操に漢、あるいは献帝への反逆を確信できる行動、エピソードもない。
劉備の忠誠、曹操の野心は、演義により植えつけられた虚像 言いたい事は分かる
分けるけど曹操の野心は演義ではないと思うけどな
劉備に関しては裴松之とかが持ち上げてる感があるしなぁ 思うだけで確証がない。
その思い込みが演義により植えつけられた虚像なんだよ 王になる野心はあったが、皇帝にまでなる野心はなかったとも言える 王にはなったが 王になったからといって王になる野心があったか
わかったもんじゃない。
公、王へ推戴は董昭主導で行われていた。
この董昭の働きに曹操の意があったか否かは当事者以外解らん。
しかしまぁ、公位や王位を受けた時の曹操の返礼を
知らない人、知っていてもパフォーマンスと受け取る人のなんと多いことよ 実は曹丕も帝位を望んでなかったら面白い。
18回も断ったのはガチで嫌だったからとか 本当はヤル気まんまんでも2,3回は断ってどうしても受けざるを得ない形にするってことは
中国史ではよくある事だが18回も断ったとかマジなん? >>111
曹操は劉邦の故地で漢王朝の聖地だった沛国を縮小して
同時に同じ豫州にあった自分の故郷であるショウ県を沛国から分離、独立させて郡に格上げ
これだけでも十分野心が感じられるね >>118
曹操以前に後漢時代ですでに縮小が行われてますけど?
劉邦が帝位についたとき、皇帝直轄領として免税など行われていたのは
たしかですが、本当に漢王朝の聖地として定められていたのでしょうか?
すでに形骸化してたんじゃありません?
そもそも聖地だったとしたら、家臣に賜るなよって話しじゃねw >>116
曹丕が帝位の禅譲を受けたは野心だけではなかったと多少は弁護できる。
あまり断り続けて家臣団から見限られたら仲があまり良いとはいえない弟に
その地位を取って代わられるだけ。
保身を考えるなら受けるしかない。 曹操はどうでもいいから劉備の忠臣話しはないのか?
逆賊で決定でいいのか? あの時代逆賊しかおらんよ
荀ケくらいじゃねえの
一定の立場で真面目に漢再興とか考えてたの >>119
縮小そのものが悪いんじゃなくて縮小して、且つ曹操の出身地を格上げしてるからしてるのが問題 >>122
漢中王を自称した上に左将軍や宜城亭侯を返納してきた時点で,
劉協から見れば間違いなく逆賊だな。
後世で聖人君子イメージ勝ち取った劉備さんの頭脳プレーはハンパない。 >>124
言い掛かりにしかなってねぇwww
聖地なら家臣に賜るな、賜ったならどう行政改革しようが家臣の自由
自分の出身地を特別扱いするのは劉邦の頃から行われていた事だろ >>129
賜った?沛国そのものは与えてないしそれを勝手に分断するの間違ってるから >>123
荀イクも無いわ。
むしろ進んで天子を傀儡にしてた張本人じゃん。
先入観抜きで見れば、荀イクの行動で漢の忠臣と呼べるような所は一つもない。
魏公就任に反対したのも、漢の為じゃなく時期尚早だからと考える方が一貫性がある。
実際曹操はその後反乱ラッシュに遭ってる訳だし。
「今はまだ時期尚早だから先にとっとと天下統一しちゃえよ」というニュアンスだったものの
曹操的には老い先短いから諦め入ってて、考え方の違う荀イクを危険視して排除しただけなんじゃない?
考え方の違うNo.2を尚書令に置いておくのは極めて危険だし。 >>133
一説には荀イクはただの病死だったという見解もある。
考え方の違いで排除するほど曹操はキチガイだったとは思えないな。 別に考え方の違いで荀イクを排除するのはキチガイでもないよ。
皇帝への上奏文は全部尚書台を通る。
そして尚書が「ダメ」と判断すれば却下出来る。
つまりどんなに曹操が魏公になりたくても、荀イクがいる限り上奏文は揉み潰される。
他の奴ならともかく、尚書令と考え方が違ってしまったら権力者にとって一番の脅威。
だから先手を打って荀イクを名誉職に追いやって実権を奪った。
病死か自殺かはあまり問題じゃない。 たしか
当時孫権の方では、ジュンイクは伏皇后を暗殺しなかったので曹操に死を賜ったと伝えられた・・
(うろ覚えですw違うかも)
病死?自殺?
ジュンイクの息子の嫁は曹操の娘だしね・・ 伏皇后の曹操暗殺計画を黙ってたのは、曹操と対立した時に体よく曹操を葬る名分
として使えるから切札として取っておいたのかもな。
元々曹操とは主従というより政治的協力者に近い関係だったようだし、
考え方が違えばもうただの政敵でしかない。
もし曹操に対抗出来るだけの軍事力があれば、名誉職にする上奏文も揉み潰して真っ向から対立、
司馬懿のようにクーデター起こした可能性もあったかもしれないが、
それが無い以上、名誉職就任を甘んじて受けるしか無かったんだろう。 すみません 訂正 >>136
《献帝春秋》
イク卒於寿春、寿春亡者告孫権、言太祖使イク殺伏后。イク不従、故自殺
この史料でしたら自殺 劉備は敵に回したら最後。
昨日まで味方だった人間が明日には全て劉備側に回ってる。
こんな仕掛けを組み上げる天才だと思う。 >>139
んなこた〜ない
敵が心変わりしたのは、劉備を暗殺に来た暗殺者くらいだろ
後は降伏⇒臣従で曹操と変わらん 四海才コ之士、捨死亡生而事其上者、皆欲攀龍附鳳、建立功名也
演義で漢中王就任を渋る劉備に対して孔明の説得の言葉
漢王朝への忠誠が微塵もない事がわかるw
演義ですらこれですよw ですら、って演義は史実を考証するなら何の意味もないし
演義を考察するのであれば既に劉備はこれ以前に王朝への忠誠を体現してるから関係ないし このスレタイおかしい
曹操なら臣下のまま死んだのだからこのスレタイであってる
だが、劉備・孫権だと生きてる時に皇帝に即位しているので
【名君か】劉備【暗君か】
【名君か】孫権【暴君か】
となるはず
スレタイはいつでも流動的なのですよ
こまかいなww >>144
それでは皇帝として素質があるかないかの問題になる >>149
劉璋の降伏を聞いて降伏した。
降伏⇒臣従組みじゃん。 >>150
夷陵の戦いで劉備は陸路から攻めて
黄権は水路で攻めたけど陸遜の火責めで蜀に戻れなくなり呉に降るよりはと思い魏に降った 劉備の半生は幾つかの勢力を転々としているばかりだ。何時か台頭出来る日を待ちわびて……
全ては自分の利で動いている。その為にはどんな人に付いても構わない。自分がよければね
今日、劉備は味方。明日は敵。群雄から見てそうではなかったでしょうか 劉氏の中で最も戦闘に優れているから、どこにいても自身の望む以上の注目を浴びてしまう
なので野心に関わらず、保身の為に行動していれば何時の間にかああなってしまったのでは 保身のために転々としてたか(笑)
そうだねw
あんなに転々としているにも関わらず、劉備をどの勢力も受け入れてしまうのが不思議だ。
なにか魅力があるのか?
劉備に戦果は多かった?なんか少ない気がするが……
特に延津での逃げ足は早かったなあ
劉備の凄いところは勝てない戦は逃げる!!という所だと思ふ
曹操の將旗が見えた瞬間、妻子・関張放置で逃げたぐらいだからねえ 転々としているだけに、各勢力の情勢にも詳しい…と思われたとか ああ〜詳しかっただろうな
その情勢を劉表が用いなかった所が残念。
劉備の短所は英雄無用武之地。一旦独立勢力になってしまえば、自分の持ってる情報をうまく利用してしまう >>159
劉表が用いなかったって史観がそもそももうダメ
劉表の主戦場は南部と東部でこっちに全力入れてる
対曹操戦でも劉備は一度許昌から数十kmのところまで接近してる
これが元で関羽の北上時には曹操が遷都って言い出すわけ 荊州は北から来た名士が多いのに劉表は彼らを用いようとしない。
劉備に至っては疑いながら操ってたみたいだ
ちょっと読み直してみたが…
《三国志》(劉表は)疑其心、陰御之
それに劉表は荊州刺史になってから荊州平定(エン術及び彼の配下孫堅に対して)以外自守のイメージがある。官渡は配下に諫められても両軍につかず。
劉表の最大の失敗が此処だと私は思ふ。雌雄を決する時に際し、劉表は韓信になるべきだった。曹操には「自守之賊也」と言われてるし。
曹操を支持するよう進言するホウ越?(うろ覚え)の言葉でさえ聞き入れないのなら、劉備の言うことは用いられるのか?
《三国志》注(ハイ松之)引《説語》なら
劉表は劉備を殺そうとし、鴻門の会をやった。
結局劉表は、内政重視みたいですね >>161
バカなこと言っちゃいけない
そもそも荊州の平定自体、劉表死ぬまでに終ってねーっての 対曹操とは202年の博望ハでの戦い(劉備vs夏侯惇、李典)のことですか?
劉表は劉備が荊州を奪うのではないかと警戒してた。そこで、劉備に迎え撃たせ野心を封じ込めようとしたみたい
劉備は夏侯惇を伏兵で襲うことに成功するが、李典が夏侯惇の救援に駆けつけると、劉備軍はちりぢりになって退却する
博望ハは確かに許に近いですね 自守之賊に荊州平定はやはり難しかったか
どうでもいいかもしれないが、
《後漢書》でエン紹と劉表が同じ伝にまとめられているのが気になる… >>163
博望坡の戦いってその直前に劉備が曹操の居ない許昌めがけて進軍してるんだよね
その進軍したところが葉というところでここが許昌の目と鼻の先、といっても数十kmくらいはあるけど
劉表は劉備に曹操を防がせたどころか普通に攻め込ませてるよ
この時は失敗に終ってるけどね >>165
これは知らなかった
劉備軍は一気に許に向けて突入? 戦線が長いと負けやすい。官渡・夷陵が好例
許昌攻めもそうかな >>165
博望や葉が属する南陽郡の北部って,その時点では曹操側だったようだけど,
曹洪伝を見る限りでは,208年に曹操が南下した時には劉表側だったみたい。
ということは,劉表は若干とはいえ北に拡大できたということか。
なんで劉備が新野から樊城に下がっていたのかは知らないけど。 >>166
結局、葉まで行って防がれてるから攻撃失敗
>>168
普通に劉表危篤で後事どうするか話し合いしてたんだろ
危篤に合わせて江夏にいた劉キも樊城にいるから、会議してると見るのが分かりやすい >>169
劉gは襄陽に見舞いに来て追い返されたようだけど,
わざわざ劉備と同じ樊城にいたという根拠は何。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています