【漢の忠臣】劉備という人をどう思う?【逆臣】
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>>101
太陰暦8月28日だったと思う
今ですと太陰暦はまだ7月上旬ではないでしょうか ┌(┐ส้้้้้้้้้้้ਊส้้้้้้้้้้)┐ >>100
サバイバル中の群雄としては何も間違っていない。
もちろん漢の忠臣としての姿はどこにも見えないけど。
>>101,>>103
諸葛亮の命日って出典あったっけ。 >>106
> 諸葛亮の命日って出典あったっけ。
演義 曹操も劉備も漢の忠臣じゃないと思う。ついでに荀イクも
でも曹操が漢の忠臣だったらそれはそれで面白い 私は劉備も曹操も年を経るにつれて野心が芽生えたのだと思ふ
若いときは二人とも漢の忠臣 劉備に漢、あるいは献帝への忠誠を感じさせる行動、エピソードはない。
曹操に漢、あるいは献帝への反逆を確信できる行動、エピソードもない。
劉備の忠誠、曹操の野心は、演義により植えつけられた虚像 言いたい事は分かる
分けるけど曹操の野心は演義ではないと思うけどな
劉備に関しては裴松之とかが持ち上げてる感があるしなぁ 思うだけで確証がない。
その思い込みが演義により植えつけられた虚像なんだよ 王になる野心はあったが、皇帝にまでなる野心はなかったとも言える 王にはなったが 王になったからといって王になる野心があったか
わかったもんじゃない。
公、王へ推戴は董昭主導で行われていた。
この董昭の働きに曹操の意があったか否かは当事者以外解らん。
しかしまぁ、公位や王位を受けた時の曹操の返礼を
知らない人、知っていてもパフォーマンスと受け取る人のなんと多いことよ 実は曹丕も帝位を望んでなかったら面白い。
18回も断ったのはガチで嫌だったからとか 本当はヤル気まんまんでも2,3回は断ってどうしても受けざるを得ない形にするってことは
中国史ではよくある事だが18回も断ったとかマジなん? >>111
曹操は劉邦の故地で漢王朝の聖地だった沛国を縮小して
同時に同じ豫州にあった自分の故郷であるショウ県を沛国から分離、独立させて郡に格上げ
これだけでも十分野心が感じられるね >>118
曹操以前に後漢時代ですでに縮小が行われてますけど?
劉邦が帝位についたとき、皇帝直轄領として免税など行われていたのは
たしかですが、本当に漢王朝の聖地として定められていたのでしょうか?
すでに形骸化してたんじゃありません?
そもそも聖地だったとしたら、家臣に賜るなよって話しじゃねw >>116
曹丕が帝位の禅譲を受けたは野心だけではなかったと多少は弁護できる。
あまり断り続けて家臣団から見限られたら仲があまり良いとはいえない弟に
その地位を取って代わられるだけ。
保身を考えるなら受けるしかない。 曹操はどうでもいいから劉備の忠臣話しはないのか?
逆賊で決定でいいのか? あの時代逆賊しかおらんよ
荀ケくらいじゃねえの
一定の立場で真面目に漢再興とか考えてたの >>119
縮小そのものが悪いんじゃなくて縮小して、且つ曹操の出身地を格上げしてるからしてるのが問題 >>122
漢中王を自称した上に左将軍や宜城亭侯を返納してきた時点で,
劉協から見れば間違いなく逆賊だな。
後世で聖人君子イメージ勝ち取った劉備さんの頭脳プレーはハンパない。 >>124
言い掛かりにしかなってねぇwww
聖地なら家臣に賜るな、賜ったならどう行政改革しようが家臣の自由
自分の出身地を特別扱いするのは劉邦の頃から行われていた事だろ >>129
賜った?沛国そのものは与えてないしそれを勝手に分断するの間違ってるから >>123
荀イクも無いわ。
むしろ進んで天子を傀儡にしてた張本人じゃん。
先入観抜きで見れば、荀イクの行動で漢の忠臣と呼べるような所は一つもない。
魏公就任に反対したのも、漢の為じゃなく時期尚早だからと考える方が一貫性がある。
実際曹操はその後反乱ラッシュに遭ってる訳だし。
「今はまだ時期尚早だから先にとっとと天下統一しちゃえよ」というニュアンスだったものの
曹操的には老い先短いから諦め入ってて、考え方の違う荀イクを危険視して排除しただけなんじゃない?
考え方の違うNo.2を尚書令に置いておくのは極めて危険だし。 >>133
一説には荀イクはただの病死だったという見解もある。
考え方の違いで排除するほど曹操はキチガイだったとは思えないな。 別に考え方の違いで荀イクを排除するのはキチガイでもないよ。
皇帝への上奏文は全部尚書台を通る。
そして尚書が「ダメ」と判断すれば却下出来る。
つまりどんなに曹操が魏公になりたくても、荀イクがいる限り上奏文は揉み潰される。
他の奴ならともかく、尚書令と考え方が違ってしまったら権力者にとって一番の脅威。
だから先手を打って荀イクを名誉職に追いやって実権を奪った。
病死か自殺かはあまり問題じゃない。 たしか
当時孫権の方では、ジュンイクは伏皇后を暗殺しなかったので曹操に死を賜ったと伝えられた・・
(うろ覚えですw違うかも)
病死?自殺?
ジュンイクの息子の嫁は曹操の娘だしね・・ 伏皇后の曹操暗殺計画を黙ってたのは、曹操と対立した時に体よく曹操を葬る名分
として使えるから切札として取っておいたのかもな。
元々曹操とは主従というより政治的協力者に近い関係だったようだし、
考え方が違えばもうただの政敵でしかない。
もし曹操に対抗出来るだけの軍事力があれば、名誉職にする上奏文も揉み潰して真っ向から対立、
司馬懿のようにクーデター起こした可能性もあったかもしれないが、
それが無い以上、名誉職就任を甘んじて受けるしか無かったんだろう。 すみません 訂正 >>136
《献帝春秋》
イク卒於寿春、寿春亡者告孫権、言太祖使イク殺伏后。イク不従、故自殺
この史料でしたら自殺 劉備は敵に回したら最後。
昨日まで味方だった人間が明日には全て劉備側に回ってる。
こんな仕掛けを組み上げる天才だと思う。 >>139
んなこた〜ない
敵が心変わりしたのは、劉備を暗殺に来た暗殺者くらいだろ
後は降伏⇒臣従で曹操と変わらん 四海才コ之士、捨死亡生而事其上者、皆欲攀龍附鳳、建立功名也
演義で漢中王就任を渋る劉備に対して孔明の説得の言葉
漢王朝への忠誠が微塵もない事がわかるw
演義ですらこれですよw ですら、って演義は史実を考証するなら何の意味もないし
演義を考察するのであれば既に劉備はこれ以前に王朝への忠誠を体現してるから関係ないし このスレタイおかしい
曹操なら臣下のまま死んだのだからこのスレタイであってる
だが、劉備・孫権だと生きてる時に皇帝に即位しているので
【名君か】劉備【暗君か】
【名君か】孫権【暴君か】
となるはず
スレタイはいつでも流動的なのですよ
こまかいなww >>144
それでは皇帝として素質があるかないかの問題になる >>149
劉璋の降伏を聞いて降伏した。
降伏⇒臣従組みじゃん。 >>150
夷陵の戦いで劉備は陸路から攻めて
黄権は水路で攻めたけど陸遜の火責めで蜀に戻れなくなり呉に降るよりはと思い魏に降った 劉備の半生は幾つかの勢力を転々としているばかりだ。何時か台頭出来る日を待ちわびて……
全ては自分の利で動いている。その為にはどんな人に付いても構わない。自分がよければね
今日、劉備は味方。明日は敵。群雄から見てそうではなかったでしょうか 劉氏の中で最も戦闘に優れているから、どこにいても自身の望む以上の注目を浴びてしまう
なので野心に関わらず、保身の為に行動していれば何時の間にかああなってしまったのでは 保身のために転々としてたか(笑)
そうだねw
あんなに転々としているにも関わらず、劉備をどの勢力も受け入れてしまうのが不思議だ。
なにか魅力があるのか?
劉備に戦果は多かった?なんか少ない気がするが……
特に延津での逃げ足は早かったなあ
劉備の凄いところは勝てない戦は逃げる!!という所だと思ふ
曹操の將旗が見えた瞬間、妻子・関張放置で逃げたぐらいだからねえ 転々としているだけに、各勢力の情勢にも詳しい…と思われたとか ああ〜詳しかっただろうな
その情勢を劉表が用いなかった所が残念。
劉備の短所は英雄無用武之地。一旦独立勢力になってしまえば、自分の持ってる情報をうまく利用してしまう >>159
劉表が用いなかったって史観がそもそももうダメ
劉表の主戦場は南部と東部でこっちに全力入れてる
対曹操戦でも劉備は一度許昌から数十kmのところまで接近してる
これが元で関羽の北上時には曹操が遷都って言い出すわけ 荊州は北から来た名士が多いのに劉表は彼らを用いようとしない。
劉備に至っては疑いながら操ってたみたいだ
ちょっと読み直してみたが…
《三国志》(劉表は)疑其心、陰御之
それに劉表は荊州刺史になってから荊州平定(エン術及び彼の配下孫堅に対して)以外自守のイメージがある。官渡は配下に諫められても両軍につかず。
劉表の最大の失敗が此処だと私は思ふ。雌雄を決する時に際し、劉表は韓信になるべきだった。曹操には「自守之賊也」と言われてるし。
曹操を支持するよう進言するホウ越?(うろ覚え)の言葉でさえ聞き入れないのなら、劉備の言うことは用いられるのか?
《三国志》注(ハイ松之)引《説語》なら
劉表は劉備を殺そうとし、鴻門の会をやった。
結局劉表は、内政重視みたいですね >>161
バカなこと言っちゃいけない
そもそも荊州の平定自体、劉表死ぬまでに終ってねーっての 対曹操とは202年の博望ハでの戦い(劉備vs夏侯惇、李典)のことですか?
劉表は劉備が荊州を奪うのではないかと警戒してた。そこで、劉備に迎え撃たせ野心を封じ込めようとしたみたい
劉備は夏侯惇を伏兵で襲うことに成功するが、李典が夏侯惇の救援に駆けつけると、劉備軍はちりぢりになって退却する
博望ハは確かに許に近いですね 自守之賊に荊州平定はやはり難しかったか
どうでもいいかもしれないが、
《後漢書》でエン紹と劉表が同じ伝にまとめられているのが気になる… >>163
博望坡の戦いってその直前に劉備が曹操の居ない許昌めがけて進軍してるんだよね
その進軍したところが葉というところでここが許昌の目と鼻の先、といっても数十kmくらいはあるけど
劉表は劉備に曹操を防がせたどころか普通に攻め込ませてるよ
この時は失敗に終ってるけどね >>165
これは知らなかった
劉備軍は一気に許に向けて突入? 戦線が長いと負けやすい。官渡・夷陵が好例
許昌攻めもそうかな >>165
博望や葉が属する南陽郡の北部って,その時点では曹操側だったようだけど,
曹洪伝を見る限りでは,208年に曹操が南下した時には劉表側だったみたい。
ということは,劉表は若干とはいえ北に拡大できたということか。
なんで劉備が新野から樊城に下がっていたのかは知らないけど。 >>166
結局、葉まで行って防がれてるから攻撃失敗
>>168
普通に劉表危篤で後事どうするか話し合いしてたんだろ
危篤に合わせて江夏にいた劉キも樊城にいるから、会議してると見るのが分かりやすい >>169
劉gは襄陽に見舞いに来て追い返されたようだけど,
わざわざ劉備と同じ樊城にいたという根拠は何。 襄陽と樊城って漢水挟んで南北に対面するご近所だよ
あまりにも近いんで今の中国じゃ一つの都市になるくらい >>172
いや襄陽と樊城が近くにあるのは分かるけど,
劉gが樊城にいたなんて記録あったっけ。 >>173
襄樊は川挟んで向かいにある双子のような城だから
襄陽にいたら樊城にいないことにはまずならない
そしてその後の劉備と完全に連携した行動見ればここで相談してる可能性が非常に高い 襄陽に行って樊城にいる劉備と連絡取らないってありえんだろうが
劉キが江夏に行ったきっかけは諸葛亮
その諸葛亮はブレーンとして劉備の下で重要な役割持ってる
劉備と劉キはもうグルになってんだよ >>176
諸葛亮に相談するだけでも周囲を気にしていた劉gが,
劉表危篤の緊急時に樊城まで行って劉備と会ったとは考えにくい。
(そもそも劉gは江夏太守として追い出されたという説もある。)
劉備側から襄陽の劉gに連絡を取ったというのならまだ分かるけど,
それで曹操の進軍状況を把握できなかったのだったら間抜けだろう。 >>180
曹操の進軍状況を把握できなかったというけど
把握できなかったってどこに書いてある?
劉備が知らなかったのは「劉ソウの降伏」であって「曹操の進軍」ではねーんだわ >>181
先主屯樊,不知曹公卒至,至宛乃聞之,遂將其眾去。(三国志先主伝)
先主は樊に駐屯していて,曹公の不意の来攻を知らなかった。
(曹公が)宛に到着してからはじめてこれを知り,かくて自分の軍勢をひきいて去った。(ちくま訳)
先主伝すら読んでないのか。 ああ、そんな一文あったっけ
じゃあ俺の思い違いだったわ 確かに曹操の進軍を捕捉できなかったのは間抜けだが
そうやって内部での勢力争いやっとらんと粛清されかねない立場に劉備も劉キもいる
全て上手くやるなんて神でもなきゃ無理だし仕様のないことでもある >>183
多分あなたの思い違いではなく,
後世においてこの記事が無視されているだけだと思う。
>>184
確かにそうだけどね。
でも劉gはともかく,最初から乗っ取る気満々の劉備がそれじゃ駄目だろう。 >>185
乗っ取る気ないよ
状況も悪いけど諸葛亮という襄陽で隠然たる勢力を持った男に勧められてもお断りしてるし >>186
最初の一歩である荊州奪取が付け足しだったら,隆中対の信憑性なんて全くなくなる。
まあ曹操侵攻と劉表急死が重なったら動きようもないけど。
あと諸葛亮が持つ隠然程度の勢力じゃ,
現地有力者で政権を支える蔡瑁や蒯越の相手なんてできない。 >>187
諸葛亮の人脈のお陰で襄陽の住民の内結構な人数が劉備について来てるから
諸葛亮程度、というのはおかしいだろ
劉備独自の人脈で荊州人をそんなに多数引っ張れないよ 諸葛亮の妻はサイボウの姪。荊州に対して幾らか発言力はあるのでは?
他にも周知の通り
兄の諸葛キンは孫権の配下
叔父の諸葛玄はエン術の配下
一族の諸葛誕はギの臣
劉備と比べたら遙かに良い人脈を持っているはず 諸葛亮の人脈があろうと、あの時点で荊州を取れば蔡氏や蒯氏の反乱を招いただろう
劉備が荊州を取らなかったのは、劉表の子を討つのは忍びないなんて綺麗事じゃなく現実的な判断 劉備が荊州を奪わなかったのは良い判断だと思ふ
劉備が荊州を奪っていたら劉[王章]は易々と劉備を益州に入れなかっただろうな 乃駐馬呼[王宗]、[王宗]具不能起。[王宗]左右及荊州人多帰先主(『先主伝』)
※人…士大夫を指す
劉[王宗]の配下は劉備にことごとく付いていってしまっている…… >>189
嫁の父、黄彦承その人も襄陽に根を張る豪族なのでいくらか、じゃ済まない発言力があるよ >>188,>>189,>>193
襄陽の人々が劉備に付いて行ったのは劉jの不甲斐なさを見せつけられたからであって,
諸葛亮とは別に関係ない。(少なくとも先主伝はそのように書いている。)
少なくとも蔡瑁や蒯越と張り合えるだけの人脈なんて持っていたら,
なんで207年まで劉備に仕えなかったのかという話になる。
(劉備は仲間の徐庶や司馬徽に諸葛亮の存在を教えてもらった。
これは諸葛亮の人脈や名声の小ささを意味するものだろう。)
>>190,>>191
曹操さえ無視すれば,力ずくで何とかなるような気もするけど,
この時点でやっても南下する曹操に潰されるのがオチだろう。
>>192
劉jと一緒に降伏した連中を見れば,
その記事が誇張だってことは言うまでもないだろう。 >>194
逆だろ
そういう名の有る司馬徽の口から紹介される程、諸葛亮の名声は高かった
全国的なものではないが、襄陽周辺では諸葛亮は大したものだとされている >>193
黄承彦忘れてた……(・ω・;)
>>194
私は諸葛亮の名声は小さいが人脈はあったと思ふ。
207年まで静観してたのじゃねえ?
自分が一生仕える君は精選しなきゃだめのはず
(諸葛亮が先に劉備を訪ねたという説もある) 85 名前:クマッタ@真正ロリコン帝国皇帝 ◆.pDAHD/fcA :2012/09/11(火) 22:20:44.97
つーかな
ああいうのは鉄則がある
・相手の「望まない」ことをする
これで十分
ネタスレでマジレスしたり、クソスレで真面目に考察したり
そこの住人のやりたいことをガン無視して好き放題やれば住人がキレて戦いになる
そこから先はめくるめく煽り合いの世界だw >>195
襄陽記曰:劉備訪世事於司馬コ操。コ操曰:「儒生俗士,豈識時務?識時務者在乎俊傑。
此間自有伏龍、鳳雛。」備問為誰,曰:「諸葛孔明、龐士元也。」(諸葛亮伝注)
これを信じるのであれば,劉備は明らかに一から教えてもらっている。
司馬徽の評価は受けたけど,まだ名声は広まっていないと言うべきだろう。
そもそも近くにいる劉備にすら届いていない時点で,名声があるとは言えない。
>>196
別に人脈の存在は否定していないけどね。
あったからこそ,後に(徐庶経由だとしても)劉曄等から評価された訳で。
ただ,現地の有力豪族と張り合えるかと言われれば絶対に違うだろう。
そこまで大きな人脈を持っていたら,劉備だって最初から知っていなきゃおかしくなる。 >>198
劉備が襄陽サロンの窓口として司馬徽、徐庶を使ってるだけだろ
それで「いい人いない?」「じゃあ諸葛亮」と紹介されてるわけで
諸葛亮が襄陽周辺では名士として扱われていたことを否定できない 劉備って中山靖王家の出身といわれるが、実際は光武帝の兄さんの系統らしい
でも、なんで光武帝の実兄の系統を名乗らなかったんだ? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています