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三国時代の文学スレッド

0001無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2011/12/12(月) 22:09:48.11
| 機
|*Д`)ハァハァ
雲 ノ )
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( ヘヘ (´ω` )  . (´ー` )  (゚∀゚ *)  (´<_,` )  (´∀` )  (・∀・ )  (‘∀‘ )
 ̄  //王\ / 徐 \ / 劉 \/ 孔 .\/ 応 \/ 陳 \/ 阮 \
   .\) .粲ノ/\) 幹 ノ/\) 驕@ノ \)融 )/\) 瑒ノ/\)琳 ノ/\)瑀 .ノ/
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            / 丕 o━ヽニニフ )) |  (⌒)  〔~植∪ ̄〕=
           しー-J    彡   _ し⌒^    ◎――◎=


後漢末期の建安年間とその前後には、唐代以前の詩聖・曹植や
曹操・曹丕・曹叡など曹家の偉大な詩人たち、建安の七子などが
たくさんの優れた文学作品を残し、中国文学を著しく発展させました。
三国志の戦いや武将、社会情勢などが、
それらの漢文の重要な題材や背景となっています。
また、後世の中国・日本の文芸の題材にも、
三国志の英雄たちは多く取りあげられています。
文学的な側面からも、歴史・人物的な側面からも、
真面目に語るも気ままにだべるも良し。マターリ楽しみましょう。
三曹でも西晋でも蘇東坡でも土井晩翠でもなんでもおkかとミ ・∀・ ミ

まとめサイト
http://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/
0203無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/05(水) 21:50:56.34
>>202
一番有名なのは、晋書巻一
>先是,預作終制,於首陽山為土藏,不墳不樹;作顧命三篇,斂以時服,不設明器,後終者不得合葬。一如遺命。
>晉國初建,追尊曰宣王。武帝受禪,上尊號曰宣皇帝,陵曰高原,廟稱高祖。

「作顧命三篇」というのが曲者で、下記のリンク先(日本語訳)にあるとおり、諸説ある。
ttp://strawberrymilk.gooside.com/text/shinjo/01-1.html#P4

あと、「同じところ」については、
三國志魏書巻二 魏文帝
>六月戊寅,葬「首陽陵」。自殯及葬,皆以終制從事。

隋・唐王朝は司馬懿の研究もしており、その成果として「晋宣帝文集」というのが十巻(五巻?)あった
残稿があるらしいので、全三国文・全晋文を探せば見つかるかも試練
あとは、曹植が司馬懿に送った手紙などは現存しているので、当時の常識程度には文筆家だったと思われ
0204無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/05(水) 21:56:33.85
っと、隋王朝が5巻つくって、後から唐が追加して十巻になったんだったか>「晋宣帝文集」
気力ゲージ切れとるんで、後は他の方のレスでもお待ちください
0206無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/08(土) 23:08:32.04
人がいないよーなので、ちゃんとした遺言とやらを書きなぐってみるテスト。

まず遺言について、晋書の記述を中央研究院から引用。
>九月庚申,葬于河陰,諡曰文,後改諡宣文。先是,預作終制,
>(A)於首陽山為土藏,(B)不墳不樹;(C)作顧命三篇,(D)斂以時服,(E)不設明器,(F)後終者不得合葬。

訳:九月庚申、河陰で弔われた。文(文貞という説もある)と諡し、のちに改めて宣文と諡した。あらかじめ、終制を作り、預けていた。
A.於首陽山為土藏 (墓は首陽山に作れ)
B.不墳不樹 (土盛り、植樹をするな)
C.作顧命三篇(?)
D.斂以時服 (平服で納棺しろ)
E.不設明器 (祭器を副葬するな)
F.後終者不得合葬 (後に死んだ者(妻や妾、殉死者)と合葬するな)
これらの遺命どおり、執行された。

ここでの「C.作顧命三篇」について、>>203のリンク先では、魏皇帝の手紙三篇を、司馬懿の墓に納めたとする。
しかし、この顧命は、「司馬懿の遺言」が正解だと思う。台湾も、Bでいったん区切ってるし。
同じ晋書の列伝第五十三に、司馬懿が「顧命終制」と呼ばれる遺言を出したと、発言している。

>「以宣皇顧命終制,山陵不設明器,以貽後則。景帝奉遵遺制。
(宣帝陛下(司馬懿)は顧命終制で、山陵に明器を設置するなと仰せになったので、後の皇族もこれに従ってます。以下略)

よって、前もって作られた「終制」の内容が、「A.於首陽山為土藏」「B.不墳不樹」。
(曹丕も、黄初7年に亡くなる4〜5年前、黄初3年に終制を発している)
死ぬ時に発した「C.作顧命三篇」の、「顧命」が、「D.斂以時服」「E.不設明器」「F.後終者不得合葬」の三篇(3つ)。
このA.B.D.E.F.が司馬懿の遺言であり、魏皇帝の手紙を自分の墓に埋めろと言ったわけではない。
晋書における晋皇帝の記述なので、皇帝の遺言扱いでも問題ない。よって、

「墓は首陽山に作れ、土盛り、樹をするな」
「平服で納棺しろ、祭器を副葬するな、私の後に死んだ者(妻や妾、殉死者)と合葬するな」

というのが、晋書に記された遺言ということになる。内容としては、魏晋代の考え方としては普通ね。

ただ、正史曹操の遺言と、陸機が記した曹操の遺言との内容が、違うからなー。
陸機が記した曹操の遺言は偽作だという説もあるが、司馬懿の遺言が他にもあるとしたら、そっちまでは判らない。調べれば判るかもしれないけど。
0207無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/08(土) 23:18:38.37
いずれにせよ、司馬懿は遺言通り、首陽山に葬られた。この首陽山の東(北)に、曹丕と郭皇后が合葬された首陽陵があるとされる(>>203)。
司馬懿が直接、「自分を曹丕の近くに葬れ」と遺言したのではないが、まぁ曹丕の近くであることは判っていただろう。

ただ、洛陽の北は、有名人の墓が多い。
土や景色、風水の配置もよかったから、洛陽の著名人が死ぬと、まず洛陽城の北(北芒、もしくは北?{亡β})に葬られた。
後漢の建武十一年に皇族の城陽王が葬られて以来、洛陽北部は、後漢の皇帝王侯の墓地になった。後漢光武帝の墓も漢魏洛陽の北にある。
あの辺は、他にも、秦の呂不偉、曹魏、西晋、北魏などの皇族、大臣、唐代の杜甫などの墓があった筈。

死んだら洛陽の北に葬るのが、当時の王侯貴族の流行であって、曹丕と司馬懿の墓が近い=特別な事情があるとは断言できない。
逆に、特別な事情はない、とも断言できないし、しない。想像するぶんには面白いだろうしw

以上、どっかミスってたり、すっぽ抜けてたらスマソ
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