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三国時代の文学スレッド
0001無名武将@お腹せっぷく
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2011/12/12(月) 22:09:48.11
| 機
|*Д`)ハァハァ
雲 ノ )
゚ー゚)   ∧ ∧    ∧ ∧   .∧ ∧   ∧ ∧   ∧ ∧   ∧ ∧    ∧ ∧
( ヘヘ (´ω` )  . (´ー` )  (゚∀゚ *)  (´<_,` )  (´∀` )  (・∀・ )  (‘∀‘ )
 ̄  //王\ / 徐 \ / 劉 \/ 孔 .\/ 応 \/ 陳 \/ 阮 \
   .\) .粲ノ/\) 幹 ノ/\) 驕@ノ \)融 )/\) 瑒ノ/\)琳 ノ/\)瑀 .ノ/
   ./ ◆<  ./..◆ <  ./..◆< ./ ◆<  /..◆<  ../..◆<   ./ ◆<  
  /  '´ ヽ).../  '´ ヽ...)../  '´ .ヽ. .((操)))/  '´ヽ..) ./  '´ヽ..)/  '´ヽ )
∠/   ノノ∠/ ∧ ∧/   .  ノノ  (・∀・)っ   ∧ ∧    .ノノ     .ノノ
           (; ゚Д゚)  。・゚・⌒)  (つ   /.  .  (゚∀゚,, )
            / 丕 o━ヽニニフ )) |  (⌒)  〔~植∪ ̄〕=
           しー-J    彡   _ し⌒^    ◎――◎=


後漢末期の建安年間とその前後には、唐代以前の詩聖・曹植や
曹操・曹丕・曹叡など曹家の偉大な詩人たち、建安の七子などが
たくさんの優れた文学作品を残し、中国文学を著しく発展させました。
三国志の戦いや武将、社会情勢などが、
それらの漢文の重要な題材や背景となっています。
また、後世の中国・日本の文芸の題材にも、
三国志の英雄たちは多く取りあげられています。
文学的な側面からも、歴史・人物的な側面からも、
真面目に語るも気ままにだべるも良し。マターリ楽しみましょう。
三曹でも西晋でも蘇東坡でも土井晩翠でもなんでもおkかとミ ・∀・ ミ

まとめサイト
http://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/
0128無名武将@お腹せっぷく
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2012/07/26(木) 19:56:24.77
これだけ読むと、奸雄と呼ばれた人とは
とても思えないお (´;ω;`)
0130無名武将@お腹せっぷく
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2012/07/26(木) 21:24:58.10
やっぱ曹操様は部下思いですねぇ
自分のために命を張ってくれる人たちへの愛情はすごい強い人だなぁ、と


そういやこの間芸文類聚で曹植が書いた『黄初六年令』って文章を見つけたんですけど(曹植の仲達宛の手紙とかも発見)
芸文類聚だと省略されてる部分が多そうだなぁ、と思ってネット漁って他の部分を探して補完してみた
(全文載ってる本もあるらしいんですが自分の手元に無いので…一部変換できない漢字は現代日本の漢字とか同じ意味の他の漢字とかに変更してます)


黄初六年令曰、 
吾昔以信人之心,無忌於左右、深爲東郡太守王機、防輔吏倉集等任所誣白、獲罪聖朝。
身輕於鴻毛、而謗重於泰山。ョ蒙帝主天地之仁、違百寮之典議。赦三千之首戻。
反我舊居、襲我初服、雲雨之施、焉有量哉。
反旋在國、ノ門退掃、形景相守、出入二載。
機等吹毛求瑕、千端萬緒、然終無可言者。
及到難,又為監官所擧,亦以紛若、於今復三年矣。
然卒歸不能有病於孤者,信心足以貫於神明也。
昔熊渠、李廣,武發石開、鄒子囚燕、中夏霜下。杞妻哭梁、山為之崩。固精~可以動天地金石、何況於人乎。
今皇帝遥過鄙国,曠然大赦、與孤更始,欣笑和楽以歡孤,隕涕咨嗟以悼孤。
豊賜光厚,[言比]重千金,損乗輿之副,竭中黄之府,名馬充厩,駆牛塞路。
孤以何徳、而当斯恵。孤以何功、而納斯。
富而不吝、寵至不驕者、則周公其人也。
孤小人爾、深更以榮為戚。何者.將恐簡易之尤、出於細微、脱爾之愆、一朝復露也。
故欲修吾往業、守吾初志。欲使皇帝恩在摩天、使孤心常存入地、將以全陛下厚コ、究孤犬馬之年。
此難能也、然固欲行衆之難。
詩曰、コ軽如毛、鮮克舉之。此之謂也。
故為此令,著於宮門,欲使左右共観志焉。


「犬馬の年」という言い回しの典拠として結構有名らしいこの文章ですが
全体の意味としては、曹丕が黄初6年に曹植の国に行幸して泊まってった時のことを回想しつつ、曹丕の情け深さや徳の高さを讃えている文ってことでいいんですかね?(全訳できるほど漢文スキルが無い)
「欣笑和楽以歡孤,隕涕咨嗟以悼孤。」のところを読んでちょっと驚いてしまいました
日本語訳すると「(曹丕兄上は)楽を和して楽しそうに笑い私といることを喜び、涙を流し嘆息し私の境遇を哀れんだ。」って感じでしょうか
やっぱり、文帝陛下はただの冷酷ドSじゃないんだろうなぁ、としみじみと思いました(私の読みが間違ってる可能性もありますが…)
この半年後に曹丕が死んでしまうことを考えると、曹植の『文帝誄』での嘆き悲しみの激しさの理由がなんとなくわかったような気がしました

0131無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/07/27(金) 20:55:57.96
>>127うp乙
そういや、こっちのまとめサイトには未掲載なんだな。意外だった

董卓の移転した長安がでているが、長安は当時の呼び方として西京(王粲)等が使われ、咸陽を使う意味合いは薄い
また、連合軍が成立した当時、董卓はまだ洛陽にいた
ではなぜ、ここで咸陽を使っているか?
咸陽といえば秦の都であり、前漢の成立期、反秦連合が咸陽を攻めた。そこで先に入った劉邦が、やがて漢を建設した
部下や民衆思いというだけでなく、「我こそが現代の劉邦となり、乱れた時代を正さん」とする野心の詩、という分析も出来る。実際、曹操は董卓を追撃しているしね

咸陽という単語を使うことで、古代と現代を重ね合わせ、作品に含みをもたせる
曹操の詩はそういう「一見こう、しかし裏は……」という作品がちょこちょこある
0133無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/07/27(金) 21:12:29.81
>>130
乙。よくここまで補完したな
書籍によって使われている漢字がちょっと違うんだが、ここでは無視してこちらなりの分析を

私は昔は人の心を信じていた、左右を忌むことはなかった。
東郡太守の王機、防輔吏の倉集などによる任務先での無実の罪で、罪をえてしまった。
身の軽さは鴻毛、そしりの重さは泰山。ョ蒙というのは敬語で、「幸いをこうむる」といったニュアンス。幸いにも帝主の天地を覆う仁を受け、百寮の典議を違える。「赦三千之首戻」てのが微妙に判らん。連座で罪をこうむった連中が許された?
我旧居に帰り、我初服を襲う、雲雨の施しに、限りがあるでしょうか(いや、無い)。
国に戻り、門を閉ざし(人を?)払い、このままにして、二年たった。
王機たちは毛を吹き瑕を求め、雑多なことを言いふらし、しかしついに言うべきこともなく。
んでまた監官に何か言われて、3年たったんかな?
「然卒帰不能有病於孤者,信心足以貫於神明也」てのは病気と称して篭ってたんか?

昔熊渠や李広は,武を発し石をも貫きました。(熊渠は夜にトラと見間違えて石を撃ちぬいた、李広も虎に似た石を弓矢で撃ちぬいた)
鄒子は燕の恵王に仕えた、五行思想で有名な鄒衍かな? 讒言のため捕えられたが、天を仰いで慟哭したところ、夏五月に秋の霜がおりた。
杞梁の妻は夫のために泣き、ゆえに山は崩れた。固き精~は天地や金石をも動かすもの、ましてや人を動かせることは言うまでもない。
今、皇帝は遥かに鄙国を過ぎ,広く大赦してくださいました、孤の古きをあらため?,欣笑和楽を以って孤を歓待し,隕涕咨嗟を以って孤を悼みました。
中黄之府(皇帝の在庫)は尽き,名馬は厩に満ち,駆牛は路をふさぐ。
豊かな財産を賜り、千金を給与してくださり([言比]は資ともする)、
孤に何の徳があって、このように恵んでくださるのか。孤に何の功があって、このように収めてくださるのか。
富を惜しまず、寵をえて驕らぬものは、すなわち周公その人である。

詩曰:「コ軽如毛、鮮克舉之(徳のかろきこと羽毛の如し、良く之を挙げるは少なし)」は詩経の大雅。徳は言うのは簡単だが、実行するのは難しいと

「故為此令,著於宮門,欲使左右共観志焉」てのは「以上、宮門にて記しますので、どうぞご覧ください」という感じで、本文というか末尾だな

……どうも真面目に分析すると時間がかかるんで、とりあえず抄訳すると↓こんなか

昔は純粋だったから、変なやつに冤罪をくらってヒッキーしてました。
うるさい連中にあれこれ詮索されたけど、陛下に無実といわれて嬉しいです。
世の中、やっぱ神様ってのはいるもんですね。
昔から偉い人がいましたが、陛下は古の偉人にまさるとも劣りません。
なんか許されるだけじゃなくて、色々して貰っちゃってすみません。
昔から言うは易し、行うは難しいといいますが、難しい行いができる陛下はやっぱスゲーです。
兄孝行を尽くしたいのに、何もせんで年月だけ重ねてしまい情けないです。
重ね重ねお礼を申し上げます、皆様にもよろしく。

で、ここの人物が「王機」で正しいならば、王昶の兄など同姓同名が居るんだが、同一人物なんだろうか?
他だと「玉」を使っているケースもあるんで不確定だが
0134無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/07/27(金) 21:29:33.62
>>132
ぁ、そっち(韻)の視点を忘れてた。指摘感謝します

文字化けは困ったなー。現代の字に直すのも面倒だし、どっか原文へのリンクで済ませたくなるのココロ
0136無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/07/27(金) 21:55:21.24
>>135
つ【ttp://zh.wikisource.org/wiki/曹子建集/卷八#.E9.BB.84.E5.88.9D.E5.85.AD.E5.B9.B4.E4.BB.A4】はダメ?

あそこは色々と助かるねぇ
OCA使ってるんだかで誤字脱字欠損があるのが玉に瑕だが
0137130
垢版 |
2012/07/27(金) 23:30:34.68
補完&訳ありがとうございます!
抄訳がめっちゃ詩聖様らしくて笑ったwww

曹植伝だと曹植への弾劾といえば、黄初2年の灌均による使者脅迫の件についてのものぐらいしかありませんが
どうもこの令に書かれてるのは曹植がけん城侯orけん城王(変換できない…)の頃のものっぽいので黄初2年の国替え後〜黄初3年の頃みたいですね
あと黄初4年の参内の記述の注で、曹植が自分に罪があると考えて密かに参内し許しを請うた話がありますけど
「王機たちは毛を吹き瑕を求め、雑多なことを言いふらし〜」はこの事なのかなぁ、と推測

王機については王沈の父の王機が東軍太守だったという記録が晋書にあるらしいのですが、他にも同姓同名は多そうなので…
0139無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/07/28(土) 21:11:39.80
>>137
黄初五年令はどんなんなってます?

この頃は諸侯王を県王に降格させたり、かと思えば「反逆と大逆罪以外はチクるな嘘つくなゴルァ」詔が下ったりしてたような
史書に明確に記されていないだけで、皇族の扱いを巡っても、かなり激しい政争があったんだろうね
0140無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/07/28(土) 21:28:19.64
>>139
黄初六年令と一緒に芸文類聚に収録されてたっす
でもこっちも省略部分とか多そうなんだよなぁ…とりあえず置いときますね
白丸と黒丸は判読不能文字かな?


魏陳王曹植黄初五年令曰.
夫遠不可知者天也.近不可知者人也.
傳曰.知人則哲.堯猶病諸.
諺曰.人心不同.若其面焉.唯女子與小人為難養也.近之則不遜.遠之則怨.
詩云.憂心悄悄.慍于群小.自世關l.或受寵而背恩.或無故而叛.
○本集叛上有入字.違顧左右.曠然無信.大嚼者咋斷其舌.右手執斧.左手執鉞○文館詞林六百九十五二字無.
傷夷.一身之中.尚有不可信.況於人乎.唯無深瑕潛釁.隱過匿.乃可以為人.
諺曰.穀千駑.不如養一●.○文館詞林作驥.
又曰.穀駑養虎.大無益也.乃知韓昭使藏弊?.良有以也.使臣有三品.
有可以仁義化者.有可以恩惠驅者.不足以導之.
則當以刑罰使之.刑罰復不足以率之.則明所以不畜.故唐堯至仁.
不能容無益之子.湯武至聖.不能養無益之臣.九折臂知為良醫.
吾知所以待下矣.諸吏各敬爾在位.孤推一概之平.功之宜賞.
於疏必與.罪之宜戮.在親不赦.此令之行.有若皎日.於戲群司.其覽之哉.
0141ジャイアニズム
垢版 |
2012/07/29(日) 08:20:40.20
このスレは無用。
なぜならば、乱世に文学など無用だから。
0142ジャイアニズム
垢版 |
2012/07/29(日) 12:48:06.54
乱世に文学など無用なのだ。
こんな糞スレを立てたのは誰だ!
0143ジャイアニズム
垢版 |
2012/07/30(月) 20:12:44.17
文学より兵学だ
0144無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/08/01(水) 23:08:44.20
そんなら魏武注孫子を全文翻訳してくれ。以上、無視する。

黄初五年令の自己流分析。分析が間違ってたら指摘願います。

夫遠不可知者、天也.近不可知者、人也.
#遠きにして知るべからざる者は、天である。近きにして知るべからざる者は、人である。
傳曰.知人則哲.堯猶病諸.
#尚書・皋陶謨「知人則哲.能官人」人の品行や才能をこまかに観察することができるもの、即ち賢人
#論語憲問篇「尭舜其猶病諸」伝説の聖人である尭舜でも難しい
諺曰.人心不同.若其面焉.
#『春秋左氏伝』 「人心之不同也、如其面焉」人の心はそれぞれ違う。人の顔とおなじ
唯女子與小人為難養也.近之則不遜.遠之則怨.
#論語陽貨篇「唯女子与小人、為難養也、近之則不遜、遠之則怨」
#『ただ女子と小人が、取り扱いにくい。これを近づけると礼を失い傲岸不遜、疎遠にすると恨まれる』
詩云.憂心悄悄.慍于群小.
#詩経国風の柏舟。まとめサイト
ttp://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/others/shikyou_hakusyu.html
#憂いしょんぼりする。「群小」の状態に対し腹を立てる
自世關l.或受寵而背恩.或無故而(入)叛.違顧左右.曠然無信.
#世間の人は寵愛されても裏切り、あるいは理由もなく叛乱し、左右に違顧し、曠然として信無し
大嚼者、咋斷其舌.右手執斧.左手執鉞。
#咋は「どのように」。大嚼者はよく噛みつく者、罵詈雑言しか言わない者といったニュアンス?
#口で治世を乱すものは、その舌をどのように断つべきか。右手に斧をとり.左手に鉞をとるのだ。
傷夷.一身之中.尚有不可信.況於人乎?
#傷夷(けが)、一身の中にあり、なお有にして信じられないもの、いわんや人を於いてをや?
#怪我や病巣が体内にあっても当人は案外気づかなかったり、信じなかったり。まして組織内の人についてはなおさらだ、という感じか
唯無深瑕潛釁.隱過匿愆.乃可以為人.
#深瑕は深い裂れ目、深い傷。釁は生贄とか仲たがいとか。
#見えるような傷ではなく見えない(生贄を求め)仲たがいをつくり、瑕疵を隠し過ちを匿し、これこそが人のありようだ?
(君上行刀鋸于左右耳,前後無其人也。)
#この行は出典によってはあったり、無かったり。
諺曰.穀千駑(馬).不如養一驥(驢とも).又曰.穀駑養虎.大無益也.
#穀は谷とも書く。養育の意。驥は驢とも書く。
#千の駄馬を養ったところで、一の良い駿馬を養っていることにはならない。同じように虎を養ったところで無益だ。

続く
0145無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/08/01(水) 23:11:48.95
乃知韓昭(侯之)使藏弊?.良有以也.使臣有三品.
#韓昭侯は戦国七雄の韓、釐侯。この人も酒の飲みすぎで遅刻した逸話あるっぽい
有可以仁義化者.有可以恩惠驅者.(此二者)不足以導之.
#仁義で人を教化する者、恩恵で人を動かす者、この二者は人を導くには足りない。
則當以刑罰(使之).(刑罰)復不足以率之.則明所以不畜.故唐堯至仁.
#刑罰を用いるべきだが、刑罰もまた人を率いるには足りぬ、すなわち明ゆえに人を育てぬ。ゆえに唐堯は、敢えて「仁」という手段もとった。
不能容無益之子.湯武至聖.不能養無益之臣.九折臂知為良醫.吾知所以待下矣.
#不能容:容るること能わず。受け入れられず。
#無益之子は不肖の子、愛していない子供といったニュアンスの方が近い。《墨子・親士》 か?
#九折〜:たくさん臂を折る=多くの治療方法をためし、みずから良医となること。多くの経験を積むこと。
#『楚辭』屈原・九章の惜誦「九折臂而成醫兮、吾至今而知其信然。」
#愛さぬ子は受け入れず、ゆえに 湯武(殷の湯王、周の武王)は聖となった。
# 無益の臣は養わず、九たび肘を折れば醫者となることを知る。我は知るゆえに、待つを「下」とする。
諸吏各敬爾在位.孤推一概之平.
#推は平らにするとか。概ってのは古代の糧食を量る枡の木。派生的な意味として、標準。
#気力が尽きたのもあって、このへんのニュアンスは不明
功之宜賞.於疏必與.罪之宜戮.在親不赦.
#功を賞賛するときは些細なことでも褒め称え、罪を裁くときは、親がいても赦すべきではない?
此令之行.有若皎日.於戲群司.其覽之哉.
#この令を行えば、…駄目だ、集中力尽きた。群が戯れていても太陽のように睥睨できる、管理できる?
#皎日は明るい太陽。古代は誓いの言葉として多用されている
0146無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/08/01(水) 23:46:34.98
 穴埋め部分は、文館詞林から行われたものを、維基文庫から又引き。
 諺の出典がいくつか不明だが、客家の諺に「養子不教不如養驢、養女不教不如養豬(男の子を養うも教えなければロバを養うのと同じ,女の子を養うも教えなければ猪を養うのと同じ)」というのはある。
 細かい部分は正直判らん。詳しい人に降臨願いたい。

 ただ、表立った内容は、賞罰に関する意見だと思う。
 罵詈雑言しか言わないものは、組織の病巣である。組織を運営するには、人格や報酬だけでは駄目だし、罰だけでも駄目だ。
 人間の体に巣くう病巣を手術で切り取るように、正しい人材を見極め、飴とムチを上手く使い分けて、という感じかな? 芸文類集でも、分類は刑法の項目だし。

 で、作品というのは、たいてい作者が置かれた当時の状況が反映される。特に「罪を得て」苦労している人物が、罪について論じるというのは、無視できない。
 この作品を逆にみれば、ほぼ曹植が置かれた(と本人は認識している)環境であり、作者なりの現状改良案かな。
 組織を食い潰す無能の群に殺されるのを待つよりは、組織を正すため、何度でも文を出そう。理解されないならば、いっそ魏国のために殺してくれ、という感じの。

 で、父にせよ兄にせよ、曹植を理解していた。
 曹操の(一時とはいえ)溺愛っぷりは酷いし、曹丕も曹丕なりに理解していたからこそ、(多分この作品が)黄初六年令の内容に繋がるんだと思う。
 しかし曹丕が死ぬと、曹植は単に家族を失うだけでなく、いざという時には庇ってくれる理解者が居なくなってしまう。
 それは残された家族としても、芸術家としても、政治家としても辛いわな。

 ここまで書き連ねて、実際の内容が分析と正反対だったら大笑いorz
0147140
垢版 |
2012/08/02(木) 00:03:33.26
>>146
ありがとうございます!

黄初五年に曹丕は結構大事な法令を出していて
一つ目は諸王を県王にするというもの、もう一つは有名な謀反・大逆以外の密告禁止
ココらへんもこの曹植の令につながってくるんじゃないかなーと思いました(刑罰や家臣への君主としての接し方についてなので)」
暗に曹丕の周りにいる側近たちを批判してる?ように読める気もしましたが…

曹叡の頃になると曹植が積極的に上奏してたのは記録に残ってますけど、曹丕の頃だとそういう記録ってあんまりないんですよね…
周囲(曹丕も含む?)の目が厳しくてそんな政治的な意見を述べることが一切出来なかったのか
曹叡の頃は公式の上奏として意見を出していたから記録が残ったけれど、曹丕の頃は私的な手紙として出してたので残らなかったかはわかりませんが
0148無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/08/05(日) 10:34:47.48
両方とも5年だったのか。そのへん疎いんでちと調べた。

年表:弟の方
●黄初1年(220年)
植與諸侯並就國(ここで)。作品『請祭先王表』(父を供養したい)、『上九尾狐表』(瑞兆の九尾狐が出た)?
●黄初2年
灌均、「劫脅使者」を上奏。植、爵位を安郷侯に落とされる、同じ年のうちに□城侯に改封(正史版)。
(□=ケン。以下同じ ttp://www.weblio.jp/content/%E9%84%84)
魏書載詔曰:「植,朕之同母弟。朕於天下無所不容,而況植乎?骨肉之親,舍而不誅,其改封植。」+王機らの告発?2年隠遁?
●黄初3年
夏四月戊申、□城王となる。
●黄初4年
『応詔詩』(都へ来いの詔に応じる)『責躬詩』(自責)「上責躬應詔詩表」(詩二首を受け取ってお願い)を提出→文帝に拝謁
『任城王誄』『贈白馬王彪』(兄弟へ贈った詩)



次は兄の方
●黄初3年
三月乙丑,叡を平原王に。弟の彰ら十一人を皆、王にする。夏四月戊申,植を□城王にする。
皇后をたてる、「女は政治に口出すな」詔
●黄初4年
夏五月,有鵜*鳥集靈芝池,詔曰:「此詩人所謂汚澤也。
曹詩『刺恭公遠君子而近小人』,今豈有賢智之士處於下位乎?否則斯鳥何為而至?其博舉天下儁コ茂才、獨行君子,以答曹人之刺。」
(*は「胡鳥」の字。ここの「曹詩」というのは、《詩經-国風-曹-候人》。この詔を分析している所はない? )
植を雍丘王とする(植伝)。其の年、朝京都で植により、上責躬應詔詩表等の上疏あり。褒める(植伝)。
●黄初5年
春正月、例のチクるな令。五月、有司は公卿が朔望日の朝、疑事の奏により、大政を聴断し〜
秋七月、東を巡る。幸許昌宮。
八月、水軍。潁や淮、寿春等をうろうろ。揚州界隈で五年以下の犯罪に服していた将吏士民を赦す。
九月,九月、廣陵に至り、青、徐二州で大赦。諸将守を改易した。
魏書載癸酉詔曰:「近之不綏,何遠之懷?今事多而民少,上下相弊以文法,百姓無所措其手足。
昔太山之哭者,以為苛政甚于猛虎,吾備儒者之風,服聖人之遺教,豈可以目翫其辭,行違其誡者哉?廣議輕刑,以惠百姓。」
(近きを綏(安んじ)ずして、何で遠きを抱けようか? 今、事多くして、しかるに民は少なし。上下は法文のせいで互いに疲弊しており、百姓は手足をおくところもない。
苛政は虎より猛しというが、私は儒の気風を備え、聖人の残した教えに服したい。もちろん孔子様の辞から学習したいし、教えと違う事をしたくない。つーわけで刑罰を軽くするんでヨロ)
●黄初6年
帝は東征し,雍丘を還過し,植の宮に行幸し,五百戸を増やした(植伝)。
●その他
景初中詔曰:「陳思王昔雖有過失,既克己慎行,以補前闕,且自少至終,篇籍不離於手,誠難能也。
其収黄初中諸奏植罪状,公卿已下議尚書、秘書、中書三府、大鴻臚者皆削除之。撰録植前後所著賦頌詩銘雜論凡百餘篇,副藏内外」
0149無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/08/05(日) 13:48:57.12
って、途中でうpってた('A`)
●黄初1年(220年)
植與諸侯並就國(ここで、いったん□城侯になった可能性あり)。

5、6年令はまだ調べてる部分もあるけど、記述を正しいとすると、
2年
罪により(□城侯から?)安郷侯に、爵位を落とされる
→初服を着る=未做官(まだ出仕していない、平民)時期の服。官をやめ、隠退することの比喩
→爵位は戻ったが、2年間屋敷に篭った
4年
雍丘王に任ぜられる→任地に向かう→また監官にいろいろ言われた。
黄初六年令の「於今復三年矣」については、雍を雍丘王(黄初4年〜)とみなした場合、「(4年から)三年たった」じゃおかしいので、罪を獲てから今まで三年という感じか。
5年9月に植の恩赦?皇族の扱い云々が出た?で、6年に兄弟の再会を受け、六年令が出る。

で、三国志自体はこの板の猛者ほど詳しくないので、文帝と明帝の時代で、曹植の上奏数がどれだけ変わっているかは分からない。
まぁ曹丕みたいな返しはないだろうし、その分数が増え、内容も悲痛になるわな。

ただ、兄の黄初4年の曹詩詔(「遠」君子而「近」小人)、弟の黄初五年令文頭(「遠」不可知者天也、「近」不可知者人也)、兄の癸酉詔文頭(「近」之不綏,何「遠」之懷)。
兄の癸酉詔「苛政甚于猛虎(厳しい政治は虎より酷い)」、弟の黄初六年令の「武発石開(固い精神は石の虎をも貫く)」。
「遠近」も「虎」も、非常にありふれた表現ではあるが、妙に似た言い回しだよね。

曹丕の詔は「遠く(呉)を攻める前に、近く(足元)を固めたい」など為政が主で、命令を実行するには弟を無視できなかった程度かもしれない。
が、この兄弟ほどの文人なら、その気になれば幾らでも違う表現は出来たと思うし、少なくとも植の方は、そういう意図を含んでいる可能性はあるかな。
0150無名武将@お腹せっぷく
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2012/08/07(火) 21:09:02.64
んー、ちょこちょこ調べたけど、植の真意は判らん。
本人を直接批判したら流石にやばいから、周囲を批判したことで間接的な批判を行ったとも言えるし。
呉との戦争を前に仲たがいしても為にならないから仲直りのポーズをとったのか、素直に読んでいいのか。

ただ兄弟の言動が妙にリンクするのは、やっぱ気になるな。皇后に政治を奏上するな、と女子供は扱いが難しいとか。
当時の他の作品も読めば、もう少し違う意見が出てくるかもしれない。
気力ゲージが回復したら、『応詔詩』『責躬詩』「上責躬應詔詩表」と黄初4年の曹詩詔に挑戦してみるか
0151無名武将@お腹せっぷく
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2012/08/10(金) 20:02:49.94
225年に兄貴と腹を割って話ができたと思った半年後にその兄貴が死亡。
228年には「曹叡死亡、後継曹植」のデマが飛び(出典魏略)、おそらく曹叡からは警戒。
ますます政界からは遠ざけられる。つくづくツイていないなあ、曹植は。
0152無名武将@お腹せっぷく
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2012/08/15(水) 17:03:44.29
 気力ゲージが半分ぐらい復旧したので、黄初4年の曹詩詔について

 まず、「此詩人所謂汚澤也」てのが判らん。
 他の分析例だと「曹詩の郭璞注にある汚澤のこと」とあるんだが、郭璞は晋代の人なのよね。曹丕が先なのか、郭璞が先なのか。
 曹詩『刺恭公遠君子而近小人』,については、《詩經-国風-曹-候人》をあげる。

読み下しもどき
序:此の詩は、曹の君、君子から遠ざかりて、小人に近づくことをそしれり。
その昔、晋の文公が曹国にはいったとき、当時の曹の共公は国の賢者禧負覊を用いず、小人三百人を軒車(大夫の車)にのせた。文公、これを責める。このことを指す。

彼の侯人,戈と?(矛)とをになう。彼の其之の子,三百の赤(せき)?(ふつ)。
維(こ)れ鵜の梁に在って,其の翼を濡(ぬらさ)ず。彼の其之(こ)の子,其の服に稱(かなわ)ず。
維(こ)れ鵜の梁に在って,其の?(くちばし)を濡(ぬらさ)ず。彼の其之(こ)の子,其(の)媾(いつくしみ)遂(かなわ)ず。
薈(わい)たり蔚(い)たる,南山朝(あした)に?(のぼ)る。婉(えん)たり?(れん)たる,季女斯(これ)飢(うえ)たる。

適当訳
警備兵が、戈と矛とを肩にかけ持っている。彼らが護るのは高位高官とは名ばかりの小人、三百人。
水に入らず、翼をぬらさず、ただ梁上にあるペリカンは、ペリカンではない。同じように、何もせず高位に居るだけの小人に、高位高官の服は似合わない。
水に入らず、クチバシをぬらさず、ただ梁上にあるペリカンは、ペリカンではない。同じように、何もせず高位に居るだけの小人に、支配者の寵愛は似合わない。
小人の類が多く、威勢もさかんにしている。うるわしの乙女、ために飢えに苦しむ。

【侯人】つかさひと。道路を往来し、賓客を迎送する官人。
【之子】少子(小人)とする。
【赤?】?(フツ。http://www.weblio.jp/content/%E8%8A%BE)は?(ヒツ。前掛け。http://www.weblio.jp/content/%E9%9F%A0)なり。祭服のときは、これを?と言い、諸侯の大夫以上のフツの色は赤。古代中国では、地位によって身につける衣服の色が違う。
ちなみに当時の諸侯の大夫は、基本的に定員5人。これが曹の国は300人も大夫がいる。しかも全員小人だ、という嘆き。
【鵜】水鳥。ペリカン。 【媾】寵愛
【薈・蔚】どちらも樹木の生い茂る様。
【南山】曹の南方にある山
【朝?】朝、雲が空のぼる。朝の次に来る字はttp://www.weblio.jp/content/%E9%9A%AE。雲のような数の小人が、高位についていることの例えとされる。
【婉・?】婉は若い、?(れん・ttp://www.weblio.jp/content/%E5%AD%8C)は顔の形がいい。
【季女】末娘。年頃の娘さん。身を守り、みだりに男に従わないために、却って飢餓に苦しむ。賢者が暴君に従わず、そのために権力者に追従する小人から批判され、中央から追放され、貧賤に苦しむことの例え。

今豈有賢智之士處於下位乎?否則斯鳥何為而至?其博舉天下儁コ茂才、獨行君子,以答曹人之刺

 これについては、この場に賢者がどれほど居るのか?鳥はなんのためにここに居るのか?人材をあげよ、独り君子のもとへ行きて、もって曹人の風刺に答えん。という感じ。

この詔を分析しているサイト自体は幾つか見つかったんだが、自分が無能を重用していないか自戒の意をこめたものだ、人材がいないことに対する、文帝の余裕のなさだ、という段階で止まっていた。
そりゃそうだが、これが皇帝の詔ということは、高位高官=自分の周りにいる連中の前で、「おまえら小人じゃね?」って堂々と明言したようなものでもあると思うの。つまり周囲に不満がある、曹植の作品に繋がってしまう。
0153無名武将@お腹せっぷく
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2012/08/15(水) 17:20:12.67
次に、植の上責躬應詔詩表関連。原文はttp://zh.wikisource.org/wiki/上責躬應詔詩表。もうひとつの参考書だと違う字もあったので、()で追加。
我流の読み下しもどきと大意。

臣植、言す。臣、?(釁)を抱き藩を歸りしより,刻肌刻骨。罪戻を追思し,晝分に而食し,夜分に而寢す。
誠に以しに天網の重罹すべからざる,聖恩再恃すべ難し,相鼠之篇を感じ,無禮?死之義に竊し,形影相弔し,五情愧赧す罪を以って生を棄てんとすれ,則ち古賢夕改之勤に違ふ。
垢を忍を苟しくも全うせんとすれば,則ち詩人胡顏之譏を犯ふ。
伏し惟れは陛下,コは天地に象り,父母より恩隆なり,春風を施暢ひ,時雨は澤如し。
是を以て荊棘を別れざる者は,慶雲之惠也。
七子均養する者は,?鳩(かっこう)之仁也。
功を責し罪を舍き者は,明君之舉也。
愚を矜み能を愛する者は,慈父之恩也。
是を以て愚臣の恩澤に徘徊,而るに敢を自棄せざる者也。
前に詔書を奉し,臣等朝を絶つ,心離れ志絶ふ,黄?を自分とす,永く執珪之望み無く。
聖詔図らず,齒召を猥垂せんと。至止之日,心を輦轂に馳す,西館に僻處し。闕庭に,踊躍之懷て未奉,瞻望反(及)側,犬馬戀主之情に勝ちえず。
謹ふ拜表し并ら詩二篇を獻す,詞旨淺末,采覽するに足らず,下情を露すを貴ひ,冒顔以聞す。
臣植、誠惶誠恐,頓首頓首,死罪死罪。

【釁】不和
【?鳩之仁也】詩経・曹風・?鳩(侯人の次の作品)。
茨城大学の解説:ttp://chubun.hum.ibaraki.ac.jp/kano/peper/piya/36sikyu.htm
【舍罪】朝廷が赦免令を下し、罪を許すことだったと思う
【黄?】年老いる。後述の犬馬戀主之情とで、後の「犬馬の年」に繋がるか
【執珪】高官。その国ナンバー2クラスの地位、君号をもつ封君相当とも言われる。
【齒召】採用、召集、【猥垂】みだりに垂れる、【輦轂】天子の乗り物、【闕庭】宮殿の庭

意味としては、不和となり郷里に帰り、色々と考えた。かってのような恩赦を再度望むことは難しいし、色々考えた結果自殺しようにも、旧い教えはそれを許さない。
陛下の徳は、父母を超え、天地に行き渡るもの。その徳は、私をして自殺を思い留めさせた。
かって上奏し、官を辞し、志は絶え、老人とならん。長く出世活躍の望みもなし。
しかし図らずも、陛下はわが身を招集してくださった。即日、心は陛下のもとへ馳せ、身は西館の片隅に至った。踊るように宮廷に至るも御身にあえず、犬や馬が主人を慕うように、空の玉座をそっと仰ぐ。
ここに詩2編を認めました。浅学非才の作ゆえ、わざわざ御覧に為らなくて結構ですから、どうか私の感情吐露を慮ってください。
ほんとスミマセンスミマセン、偉そうな事ゴメンナサイこの通り、死罪死罪。
0154無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/08/15(水) 17:33:37.07
責躬詩の訳は、既存のものをぐぐってくれ。数が少ないし多分大意は変わらないので。

躬を責る詩
於穆たる顯考,時れ惟れ武皇。命を于天に受け,四方を寧濟す。
朱旗拂わん所,九土披攘す。玄化滂流し,荒服來王す。
商に超え周に越え,唐與蹤を比す。我皇を篤生し,奕世聰を載す。
武は則ち肅烈,文は則ち時雍。禪を于漢に受け,萬邦に君臨す。
萬邦、既に化し,舊則に率由す。懿親に廣く命し,以って王國を藩とす。
帝曰、爾侯,茲青土(上)に君とし。海濱を奄有し,周に于魯に方ふ。
車服に輝有り,旗章に敘有り。濟濟たる俊乂,我が弼にして我が輔。
伊し余小子,寵を恃み驕盈たり。舉は時網に挂り,動は國經を亂る。
蕃と作り屏と作り,先軌是?る。我皇使に傲り,我朝儀を犯す。
國に典刑有り,于理にゥて,元兇是率んと將に我を削し我を黜す。
明明たる天子,時し惟し類を篤ふす。我を刑め之を朝肆に暴すに忍ばず。
彼執憲に違ひ,予小臣(子小子)を哀す。?邑に改封す,河之濱に于す。
股肱置か弗,君有りて臣無し。荒淫之闕,誰か予(余)が身を弼ひん?
煢煢たる僕夫,彼冀方に于。嗟余小子,乃斯殃に罹る。
赫赫たる天子,恩物を遺さず。我に玄冕(晩)を冠せしめ,我に朱?を要にせしむ。
光光たる大使,我を榮し我を華す。符を剖ち土(玉)を受け,王爵是加ふ。
仰て金璽に齒ひし,俯め聖策を執る。皇恩過隆,祗承し?タ。
咨我れ小子,頑凶是嬰す。逝を陵墓に慚ち,存め闕庭に愧つ。
敢て傲るに匪ざるコに,寔に恩是恃む。威靈改加し,以って齒を沒ふるに足れり。
昊天罔極,生命不圖。嘗(常に)顛沛を懼る,罪を黄?に抱んを。
願くば矢石を蒙,旗を東嶽に建てんを。庶くは毫?を立て,微功自ら贖んを。
身を危ふし命を授けは,?を免るに足るを知れり。江湘に赴き,戈を呉越に奮んを甘ふ。
天、其衷を?き,京畿に得會するを。聖顏に奉せんを遲つ,渇の如し飢の如し。
心之云に慕る,愴矣め其れ悲む。天高め卑に聽く,皇、微を照し肯ぜよ。
0155無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/08/15(水) 17:42:35.84
文字化けが酷いが、原文とつき合わせるかして推測してくらさい。読み下しは間違ってるところもあると思いますので、参考程度に。

詔に應ずる詩
明詔に肅承し,皇都に會す應に。星陳夙駕し,秣馬脂車す。
彼掌徒に命じ,我征旅を肅す。朝に鸞臺を發し,夕に蘭渚に宿す。
芒芒たる原隰,祁祁たる士女。彼公田を経し,我が稷黍を楽む。
爰に樛木有り,重陰息すに匪ず。?糧有りと雖ども,飢を遑食せず。
城を望みて過せず,邑に面ひ遊ばず。僕夫警策し,平路是由む。
玄駟藹藹と,?を揚げ沫を漂す。流風衡を翼(冀)く,輕雲蓋に承く。
澗之濱を済り,山之隈に縁り。彼河滸に遵り,黄阪是れ階す。
西の關谷に濟り,或は降り或は升る。({馬非})驂路に倦む,再(載)ち寢再(載)ち興く。
聖皇に朝せんと將に,敢て晏寧せ匪ず。節を弭き長?し,日を指し?征ん。
前驅燧を舉け,後乘旌を抗す。輪は運を輟めず,鑾に廢聲は無し。
爰に帝室に?て,此の西?に税す。嘉詔賜はざる,朝覲從ふ莫し。
城閾を仰瞻し,闕庭を俯惟す。長懷永慕,憂心酲の如し。

詔に応じ、酷道険道辿って、寄り道もせずに来たけど、陛下からお言葉頂けません。拝謁すら叶いません。
城を仰ぎ、庭を俯き、長旅の間募らせたこの思い、憂いに心は濁っていきます、という感じ

以上。
思ったんだけど、後に曹植に関する資料が処分されている→逆に言えば正史に残った作品というのは「残す価値があるほど重要だった」のでは→残す価値があったのはなぜか→皇帝に関わる文章だったから?
曹植の家系は曹志など、晋代で当初はそれなりの立場を得ているので、そちらで保存されていたものが出た可能性もあるけどね。次で最後。
0156無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/08/15(水) 18:08:26.55
最後。作品だけを見た個人的感想。

曹操の時に酔いすぎて援軍に行けなかったり、普段の言動から、曹丕(もしくは周辺)の機嫌を損ねることは、あったかもしれない。
そうした兄弟喧嘩はあっても、兄思いの純真な弟と、世間知らずの弟に振り回されつつ嫌いになりきれない兄にも見える。

(例として、諸祭先王表は、曹植が「父親を祭りたい」と言うもの。結局、曹丕に却下された。
 下手すると、自分が父を祭る⇒一族の祀を継ぐ≒曹氏の家長という宣言にも受け取られかねず、稚拙な気がする。
 ただこの頃、植は鍾ようと《大饗碑》を合作している。
 鍾ようは曹丕が曹操のあとを継ぐと復活しているので、諸祭先王表は問題にはならなかったのかもしれない)

どういう意図で残されたのか判らないけど、この二人の文章と関係に関しては、注をうのみにせず突き合わせたほうが良いのでわ。
というか、既に論文ありそうなもんだが。

というわけで、もし読んだ方がいらっしゃったら、お疲れ様でした。
0157無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/09/02(日) 15:28:54.32
上で言った、兄弟に関する論文について。支那文学大綱巻14にあった。
ttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/871686/36
この筆者は、文帝に厳しい立場。今でも、この考え方は結構多いみたいね。

話は変わって。
楽府詩集、相和歌・平調曲の項に「銅雀臺」もしくは「銅雀妓」「雀臺怨」というタイトルの作品がある。
どれも曹操が去った後の銅雀台を歌ったもの。
この項目に載っている作品の数が、中央研究院だと「銅雀臺」10、「銅雀妓」16、「雀臺怨」2。「三臺(銅雀台の三つの台を指すという説あり)」も含めると、あと1増える。
ちなみに他は多くても、せいぜい5〜10。
あまりの多さに、銅雀台の項を「銅雀台愛好会メンバーリスト」と名付けてしまった。勿論、陸機さんは名誉会員で。

しかし何で三曹の作品は、よく後に「同前(前と同じタイトルです)」の字がずらずら並ぶんだ。や、無いものもあるけどさ…
0163無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/09/16(日) 20:34:33.59
漢詩が好きだけど、良し悪しはまだわからないorz
下手って言われる司馬懿の詩は何をもって下手とされるんですか?
0164無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/09/16(日) 23:28:58.77
文才ゼロの自分から見ても司馬懿の詩は下手というか、詩に見えないと思った。

ただの状況説明にしか見えないというか…全く心に訴えかけてこない。
「ふーん、そうですか」という反応しか出来ないというか…
0165無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/09/22(土) 21:44:01.07
>>163
 漢詩作成ルールの解説本を探すのも手かもしれない。
 個人的に分類しているポイントは、文法、全体構成、影響力の3つかな。

・文法
句の構成:五言、七言などの文字数を守っているか。押韻、平仄の規則を守っているか
上記以外の構造上の基本法則、禁止、例外事項:畳言と呼ばれる特定の単語以外では、同じ字は使用禁止など

・全体構成
対比の有無:視覚と心境、具体と抽象、対句、前半と後半の比較など
決め台詞:詩眼?季語みたいなもの、殺し文句(一樹梅花一放翁など)、古典引用
全体構成:起承転結、5w1h、最初に情景描写→心理描写という順を踏んでいるか、句同士による相乗効果
テーマを絞っているか、テーマを描写しきっているか

・影響力
革新性、後世への影響

現代の評価方法だと文法を重視するので、ルールにそぐわないと評価が厳しくなる。
ただルールが成立したのは唐代からで、それ以前の古体詩はルールを守っているとは限らない。よってルールより全体構成を重視する。
ためしに例の詩を評価する。本文はまとめサイトさんを見てもらうとして、

1.句の構成、押韻、平仄規則等→まぁ一応、守っている。

2.全体構成→対偶表現が不明。どれとどれが、対応しているのか?
引用はしている。日月重光は、魏の軍楽曲(>101の10)から。帰老は史記の孟嘗君列伝。引用しただけで使いこなせていない。悪く言えば、つぎはぎ。
起承転結が判りにくい。そもそもテーマは何よ?

3.影響力→後世への影響:知らん。

総合評価としては、「形式さえ守れば良いってもんじゃねぇぞゴルァ」という感じかね。
0166無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/09/22(土) 21:50:03.62
例をもう1つ、古詩源から。
寡婦
序:友人の阮元瑜は早くに亡くなってしまった。その妻が寡居せるを傷んで、為にこの詩を作った。
A: 霜露粉として、こもごも下り。木葉落ちて、淒淒たり。候鴈は雲中に叫び。帰燕は翩として、徘徊する。
B: 妾が心感じて惆悵し。白日たちまち西に頽(くずれ)る。長い夜を守って君を思い。魂は一夕に九たび背く。
C: 悵として長く佇み仰ぎ観るに。星月随って天にめぐる。いたずらに衿を引いて房に入り。ひそかに自ら孤栖を憐れむ。
D: 願わくば死して、黄泉の君に従わん。生ある限り付きまとう憂いを、どうして久しく抱かねばならぬのか。

A:情景描写。晩秋〜冬の描写により、雰囲気を高める。
B:情景から、登場人物(一人残された妻)の心理に視線を移動させる。
「魂は一夕に九たび背く」は楚辞-九章-抽思からの引用。愛しい人を思うあまり、一晩に9回、魂が身を離れるの意。
C:荒涼とした情景と、妻の寂しい心理をひとつに融合させる。
D:A~Cまでの流れを踏まえた上での、作者の決め台詞。
「人の運命は天に定め付けられており、星が落ちれば人の命も終わるという。
 天よ、その孤独な星を終わらせよ。彼の星は、黄泉の月に従って巡るべきなのだ」

まぁいろんな作品を比較すると、色々な違いがあって面白いよね。
え、作者は誰かって? そりゃこのスレのアイドル。
0167無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/09/22(土) 22:14:11.48
>>166訂正
A:情景描写。晩秋〜冬の描写により、雰囲気を高める
B:情景から登場人物に視線移動。引用によりCへ繋ぐ
C:天の月と星、地の孤独な妻一人の対比
D:A~Cまでの流れを踏まえた上での、作者の決め台詞。だな
0168無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/10/05(金) 22:49:31.49
一つ対比があるかもしれない
「告成」と「待罪」が対比する。罪〜のくだりは、論功恩賞を待つことの言い回し。功を報告し、恩賞の宣下を待つ。と。

批判だけじゃ気の毒なんで。
同じ作品でも、評価要素のうち、どの要素を重視するか変わる。
当時の基準でいうと、シバイの作品が平均であり、人によってはシバイ>曹操かな。
曹操の、特に後期の作品は突き抜けすぎて、伝統や文法を重視する側から見ると厳しい。
文法や詩経の伝統など、当時の決まり事を重視したのがシバイで、決まり事を重視する名士を意識するなら、これで正解。
ちなみに評価要素をバランスよく備えているのがそう植で、だからこそ詩聖と呼ばれたんだと思う。

……うん、まぁ頑張ったけど、これ以上の擁護は無理。
0169無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/10/07(日) 17:09:57.15
司馬懿の詩に関しては、既に曹丕が七言の詩を作ってたり、五言の詩も多くなってる時期だというのに今更四言かい!と突っ込んでしまった
0170無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/10/08(月) 22:31:20.95
確かに減ってはいるんですが、魏明帝の作品や晋代でも、四言の作品はありますぜ。
特に宮廷の儀式音楽と、元歌(多分)に四言がある作品の一部。

宮廷音楽
晉郊祀歌(天命有晉 穆穆明明〜)、晉天地郊明堂歌(皇矣有晉 時邁其コ〜)、
正旦大會行禮歌(天鑒有晉 世祚聖皇〜)、晉江左宗廟歌(於赫高祖 コ協靈符〜)、
上壽酒歌(於赫明明 聖コ龍興〜)、食舉東西廂歌(天命大晉 載育群生〜)他、めがっさ多数

元歌の一部が四言
短歌行:傅玄(長安高城 層樓亭亭〜)、陸機(置酒高堂 悲歌臨觴〜)
秋胡行:陸機(道雖一致 塗有萬端〜)
隴西行(歩出夏門行):陸機(我静如鏡 民動如煙〜)

宮廷音楽では、周から続く王朝の正当な後継者、という意味合いで、形式の古さこそが評価される部分もあるのかなと。
元歌のほうは、元曲にあわせる為かと。
もし楽師も居ない場所で歌うなら、旧いリズムに合わせて簡単な作品にならざるをえないですし。

まぁ、そういうのを差っ引いても、庇いきれないんですけどね。
曹操の歩出夏門行が晋書楽志に登場するのに対し、仲達タソの作品は楽志に出ませんし。
晋宮廷の人たちも、見なかった事にしたかったのかもしれません。
0171無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/10/12(金) 12:57:35.46
>晋宮廷の人たちも、見なかった事にしたかったのかもしれません。

確かに目を逸らしたくなる出来だもんね
0172無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/10/17(水) 23:39:45.76
>晋宮廷の人たちも、見なかった事にしたかったのかもしれません。

ある意味晋王室最大の黒歴史ですものね……
0173無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/10/19(金) 16:51:41.80
>晋宮廷の人たちも、見なかった事にしたかったのかもしれません。

晋王室の人たち「曹丕の四友とかいわれてたのにどうしてこんな出来なん…?(愕然)」

0174無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/10/19(金) 23:25:26.95
仲達「教えてくれなかったのだ。詩作の技術は一族秘伝だと」
曹丕「最低限のマナーとコツは教えた筈だが? 周りから学ぶ機会もあって、この出来だ。凡愚め」
仲達「『凡愚め』は私のモノです」カエセ
0178無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/10/21(日) 20:55:40.09
>>176
「よい詩人はこんな詩を作っちゃだめだよ☆」という
反面教師=駄作の一例を示すためではないかと…
0179無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/10/22(月) 00:15:37.46
日本の話だが、「あんな尻軽だから簡単にやらせてくれるって評判ですよ」って内容の和歌が残っちゃったしなぁ
0181無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/10/23(火) 21:15:53.34
>>176
宣帝配下「宣帝様のお言葉だ、記録に残すぞ!」キリッ
歴史家「歴史に残すのが仕事です」キリッ
朝廷音楽担当「詩の収集は義務です」キリリッ
後世の文人「面白いから、とっとけ」

>>179
和歌kwsk

>>180
スレ回転に貢献しているという意味合いじゃ、いいネタ芸人っぷりじゃないか
まぁ、他のネタが出ない限りは…?
0182無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/10/23(火) 21:29:27.21
もうやめて!宣帝のライフはゼロよ!

このスレ住人、「建安マエストロ!」とか好きそうだな。
0183無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/10/24(水) 00:02:04.28
>>181
清少納言と藤原行成の逸話ですよー

藤原行成は書の名手で三蹟の一人に数えられる人だが、当時の基本教養である和歌がさっぱりだった
そんな彼が清少納言と恋の和歌のやり取りをしてたが
清少納言の「夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」
(夜中に朝を告げるニワトリの鳴きマネをしても大阪の関は越えられませんよ=私との逢瀬はなかなか難しいですよ)という歌に
行成は「逢坂は 人越えやすき 関なれば 鶏鳴かぬにも あけて待つとか」
(大阪の関は簡単に越えられるのでニワトリなんか鳴かなくても開けてるらしいですよ=あんたホイホイ男と逢瀬をする軽い女だって噂だから別にいいでしょ)
という直球すぎてデットボールな詩を返した

ちなみに清少納言の歌は百人一首に入ってるくらい有名でいい歌だったりする
行成さんは政治方面も優秀で男気がある方だったっぽいんだけど、誰にも欠点ってあるもんですねw(宣帝陛下を見ながら)

>>182
今でも続き待ってますよ
曹植系男子も結構好きだったりする
0184ジャイアニズム
垢版 |
2012/10/24(水) 18:08:00.96
文学など軟弱者のすることぞ!
文学よる富国強兵に努めよ!
0186無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/10/24(水) 20:17:12.05
>>183
>誰にも欠点ってあるもんですねw(宣帝陛下を見ながら)

魏武帝陛下   チビガリ
蜀昭烈帝陛下  ヒゲなし
呉大帝陛下   酷い酒乱
呉桓王殿下   酷いイケメソ自慢

デキる漢でも欠点ぐらいあるさ、にんげんだもの
0187無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/10/24(水) 22:23:49.02
>誰にも欠点ってあるもんですねw(宣帝陛下を見ながら)

まぁまぁ…変な詔で遊んでる何処ぞのスイーツ皇帝に比べればまだボロは出してない方さ…
0189無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/10/24(水) 22:26:48.55
>>183
ありがとう、そういうことか。
てっきり「宣帝みたいな奴は信用できるか」みたいな和歌があるのかと思った
0190無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/11/05(月) 17:36:16.49
まあ仏教文化のパクリってとこかな
洛神賦の洛神は経文における天女のようだし
0191無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/11/08(木) 21:32:47.15
   ∩___∩         |
   | ノ\     ヽ        |
  /  ●゛  ● |        |
  | ∪  ( _●_) ミ       j
 彡、   |∪|   |        J
/     ∩ノ ⊃  ヽ
(  \ / _ノ |  |
.\ “  /__|  |
  \ /___ /
0192無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/11/09(金) 19:02:37.37
いやこの時代って本当にある種仏教文化の全盛
中国文化は根底から変わり飛躍的に進歩した
曹植は仏教についての論も書いてるし

その後の時代は胡人達も仏教だけを信奉していればよかったのに
変に、遅れたシナ文化の圧力に負けて、仏教を素直に受け取れなかった
そのくびきが後にまで影響を与え中国が進歩できなかった理由だろう

日本は対照的に仏教の研究に励んだので先進国になれた
0193無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/11/09(金) 19:11:06.07
>>192
あなた創価学会員ですか?
0194無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/11/09(金) 19:19:30.28
仏教を弾圧、儒教を国教化した中国・朝鮮
(朝鮮は近世以降キリスト教を受容)

キリスト教をを弾圧、仏教を事実上国教化した日本
(儒教は必要最低限のみ受容。
ちなみに神道は宗教というより祖先霊の祭祀ならびに
処世道徳という方が近い)

これが進歩できない国と進歩できる国の差ですね
0195無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/11/09(金) 22:20:10.05
               .|   |  | |   |    |  | |   |   |   || | |
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  彡、   |∪|   |              .J                レ
 /     ∩ノ ⊃  ヽ
 (  \ / _ノ |  |
  \  "  /  | |
   \ / ̄ ̄ ̄ /
      ̄ ̄ ̄ ̄
0196無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/11/18(日) 22:31:46.23
   | \
   |Д`) ダレモイナイ・・謡俗詞オドルナラ イマノウチ
   |⊂
   |


     ♪  Å
   ♪   / \   甕中無斗儲♪
      ヽ(´Д`;)ノ    發篋無尺潤
         (  へ)    友来従我貸♪
          く        不知所以応♪


   ♪    Å
     ♪ / \   甕(かめ)の中には 食いものが無い♪
      ヽ(;´Д`)ノ   箱の中には 着るものが無い♪
         (へ  )    トモダチ来てさ 貸そうとしてさ♪
             >     モノを貸すにも モノが無い♪


   | \
   |Д`) <こんな作品を作っちゃう曹操。息子の上留田行も遺伝ですね。
   |⊂    この親子相手に、そんな畏まった評価は要らないと思うデスヨ。
   |


   |
   | ミ  ピャッ!
   |
0197無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/11/20(火) 02:58:41.12
>>196
ワロタww

ところで曹丕の呉質書について的な論文で、後世で影響を受けていると思われる書簡に
南朝の蕭統、蕭綱兄弟のものと陳後主のものが例としてあって面白かったので
ほかにもそういうタイプの書簡があるなら見てみたいのでもし良ければお願いしますorz

グルメ皇帝はやっぱり人気者だな〜
0198無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/11/21(水) 23:37:08.27
んーと、対象は与呉質書だけ? ほかの書簡てことは詩なども含む?

影響を及ぼした対象というのが、曖昧すぎて…
該当するだけなら、謝霊運の「擬魏太子?(ギョウ)中集詩八首」もそうだし
0199無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/11/22(木) 02:09:46.20
197です。言葉足らずで申し訳ない

模擬詩は含まずに実際の君→臣への書簡で亡くなった臣下について触れていて
呉質書のように身分差を感じさせない親愛や懐かしい思い出、文人としての批評などを1つに含むものがあれば…ということです

これでも曖昧でしたらすみませんorz
0200無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/11/23(金) 14:02:13.86
>>197の言う論文をざっと見た。
この論文で言う、「文学批評」「文雅の遊」「身分を越えた連帯感」「失われた悲しみ」
この4つを受け継いだ文章が他にもあるか? ってこと?

それは、悪いけど判らない。
魏以降、皇族が芸術家集団を率いて宴会を行うケースは非常に増えてはいる。
文選以外で、文学集団を率いた皇族の手紙を片っ端から探せば、あるかもしれない。六朝だと、竟陵王の八友かね。
0201無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/11/23(金) 19:36:20.06
>>200
そうですそうです!
なるほどー、宴会が増えているのなら希望はありそうですね
文も歴史も最近興味を持ち始めたので、自分で探すにもどこから手をつけるべきかと思っていたのですが
ひとまずその竟陵王の八友周辺から当たってみます。お答えいただきありがとうございました
0202無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/05(水) 07:07:03.47
もうないだろうと思いつつ検索してみたら…このスレまた立ってたのかー、嬉しい!

まとめにある司馬懿の作品ってポエムwひとつだけだけど、確か遺言なんかも残してたよね
内容が「曹丕(または曹叡)と同じ所に葬れ、他の奴を入れるな」というような感じで、
曹丕にも司馬懿にも無双のイメージが強い自分はエッと驚いた記憶があるんだが、どなたか詳細ご存知の方おられないだろうか
内容は私の勘違い記憶違いかもしれないし、ちゃんとした司馬懿の遺言内容が知りたい…
0203無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/05(水) 21:50:56.34
>>202
一番有名なのは、晋書巻一
>先是,預作終制,於首陽山為土藏,不墳不樹;作顧命三篇,斂以時服,不設明器,後終者不得合葬。一如遺命。
>晉國初建,追尊曰宣王。武帝受禪,上尊號曰宣皇帝,陵曰高原,廟稱高祖。

「作顧命三篇」というのが曲者で、下記のリンク先(日本語訳)にあるとおり、諸説ある。
ttp://strawberrymilk.gooside.com/text/shinjo/01-1.html#P4

あと、「同じところ」については、
三國志魏書巻二 魏文帝
>六月戊寅,葬「首陽陵」。自殯及葬,皆以終制從事。

隋・唐王朝は司馬懿の研究もしており、その成果として「晋宣帝文集」というのが十巻(五巻?)あった
残稿があるらしいので、全三国文・全晋文を探せば見つかるかも試練
あとは、曹植が司馬懿に送った手紙などは現存しているので、当時の常識程度には文筆家だったと思われ
0204無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/05(水) 21:56:33.85
っと、隋王朝が5巻つくって、後から唐が追加して十巻になったんだったか>「晋宣帝文集」
気力ゲージ切れとるんで、後は他の方のレスでもお待ちください
0206無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/08(土) 23:08:32.04
人がいないよーなので、ちゃんとした遺言とやらを書きなぐってみるテスト。

まず遺言について、晋書の記述を中央研究院から引用。
>九月庚申,葬于河陰,諡曰文,後改諡宣文。先是,預作終制,
>(A)於首陽山為土藏,(B)不墳不樹;(C)作顧命三篇,(D)斂以時服,(E)不設明器,(F)後終者不得合葬。

訳:九月庚申、河陰で弔われた。文(文貞という説もある)と諡し、のちに改めて宣文と諡した。あらかじめ、終制を作り、預けていた。
A.於首陽山為土藏 (墓は首陽山に作れ)
B.不墳不樹 (土盛り、植樹をするな)
C.作顧命三篇(?)
D.斂以時服 (平服で納棺しろ)
E.不設明器 (祭器を副葬するな)
F.後終者不得合葬 (後に死んだ者(妻や妾、殉死者)と合葬するな)
これらの遺命どおり、執行された。

ここでの「C.作顧命三篇」について、>>203のリンク先では、魏皇帝の手紙三篇を、司馬懿の墓に納めたとする。
しかし、この顧命は、「司馬懿の遺言」が正解だと思う。台湾も、Bでいったん区切ってるし。
同じ晋書の列伝第五十三に、司馬懿が「顧命終制」と呼ばれる遺言を出したと、発言している。

>「以宣皇顧命終制,山陵不設明器,以貽後則。景帝奉遵遺制。
(宣帝陛下(司馬懿)は顧命終制で、山陵に明器を設置するなと仰せになったので、後の皇族もこれに従ってます。以下略)

よって、前もって作られた「終制」の内容が、「A.於首陽山為土藏」「B.不墳不樹」。
(曹丕も、黄初7年に亡くなる4〜5年前、黄初3年に終制を発している)
死ぬ時に発した「C.作顧命三篇」の、「顧命」が、「D.斂以時服」「E.不設明器」「F.後終者不得合葬」の三篇(3つ)。
このA.B.D.E.F.が司馬懿の遺言であり、魏皇帝の手紙を自分の墓に埋めろと言ったわけではない。
晋書における晋皇帝の記述なので、皇帝の遺言扱いでも問題ない。よって、

「墓は首陽山に作れ、土盛り、樹をするな」
「平服で納棺しろ、祭器を副葬するな、私の後に死んだ者(妻や妾、殉死者)と合葬するな」

というのが、晋書に記された遺言ということになる。内容としては、魏晋代の考え方としては普通ね。

ただ、正史曹操の遺言と、陸機が記した曹操の遺言との内容が、違うからなー。
陸機が記した曹操の遺言は偽作だという説もあるが、司馬懿の遺言が他にもあるとしたら、そっちまでは判らない。調べれば判るかもしれないけど。
0207無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/08(土) 23:18:38.37
いずれにせよ、司馬懿は遺言通り、首陽山に葬られた。この首陽山の東(北)に、曹丕と郭皇后が合葬された首陽陵があるとされる(>>203)。
司馬懿が直接、「自分を曹丕の近くに葬れ」と遺言したのではないが、まぁ曹丕の近くであることは判っていただろう。

ただ、洛陽の北は、有名人の墓が多い。
土や景色、風水の配置もよかったから、洛陽の著名人が死ぬと、まず洛陽城の北(北芒、もしくは北?{亡β})に葬られた。
後漢の建武十一年に皇族の城陽王が葬られて以来、洛陽北部は、後漢の皇帝王侯の墓地になった。後漢光武帝の墓も漢魏洛陽の北にある。
あの辺は、他にも、秦の呂不偉、曹魏、西晋、北魏などの皇族、大臣、唐代の杜甫などの墓があった筈。

死んだら洛陽の北に葬るのが、当時の王侯貴族の流行であって、曹丕と司馬懿の墓が近い=特別な事情があるとは断言できない。
逆に、特別な事情はない、とも断言できないし、しない。想像するぶんには面白いだろうしw

以上、どっかミスってたり、すっぽ抜けてたらスマソ
0208無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/09(日) 15:31:25.10
おお、暫く来ない間に面白い話題で盛り上がっているw

>>202
無双の司馬懿の「凡愚がはびこるくらいなら自分が天下を取る(ただし曹操や曹丕は凡愚じゃないから逆らわない)」というキャラも結構好きだけど
個人的には司馬懿ってそんなに野心的な奴だったのか?という疑問が多々あったりする

曹爽一派へのクーデターだって今まで隠していた野心をついに表に出した結果だという意見もあるが
クーデター当時の司馬懿は72歳と超高齢で同年に死去するくらいのお年寄りだし、待ってたというよりは曹爽達のバカっぷりに
「隠居しようと思ったけどあのバカ共には任せられん、陛下への最期の奉公に奸臣共を一掃しよう」という感じだったような気もする
唐の太祖の意見に皆流されすぎじゃね?と思ってしまうひねくれ者がここにいますよ

>>203-207
なるほど、直接曹丕の近くに埋めてくれと言ったわけではないのか
それでも当時の認識として魏の初代皇帝の墓が首陽山の近くにあるのは一般常識だろうし、司馬懿に何か思うところがあったのは確かかなーという印象を受けた
ただそれが明確な忠義からくるものなのか、曹爽一派一掃は野心のためではなく曹丕たち魏への忠義からくるものであると示すパフォーマンス的なものなのかはわからないけど

陸議が言う曹操の遺言は曹瞞伝的な感じが強くするんだよなぁ、呉の人だしそういう嘘っぱちがまことしやかに語られててもおかしくないかな、とww
0209無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/10(月) 19:09:40.65
>>208
いやぁ、別にひねくれてはいないんじゃね?

曹操の作品は、作品中やラストを昔の有名人の名前や言葉を出すものがあるのよ。
(少なくとも短歌行其の一、苦寒行、秋胡行、薤露)
中でも、周公、斉桓、孔子(論語)がやや多い印象。個人的なものだが。
後世では、これは作者本人の意思を仮託しているとされる。(個人的にはこうありたい、という理想を表したものと考えているが)

で、曹操の短歌行其の2は、周文王の聖徳→斉桓公の徳→晋文公の詐称と読み上げていく内容。
そして、司馬懿の勢力は晋。偶然にしては出来すぎだと思わん?
また、王朝の称号を、偶然で片付けていいものか? そこに意図があるなら、何か?

曹爽一派へのクーデター、首陽山の近くの墓、いずれもパフォーマンスだとしたら、
>>208の意見だけでなく、短歌行其の2を踏まえた上で、漢→魏→晋と続く正当性というか、「自分のほうが、あんな若造より魏を知っているんだぞ」みたいな主張もあると思う。
と同時に、「自分の威は、曹操や曹丕の徳には追いつけない。所詮は詐称者に過ぎない」という一種の謙遜でもあるかもな。
まぁ、魏晋代は過去の作品を弄っているんで、曹操の作品を、上記の考えにあわせて作り変えた可能性も否定しないけど。

陸機はねぇ。張華に「わしらは言葉がでなくて困ってるのに、君は言葉が出すぎて困ってる」みたいなことを言われてるからなぁ。
ちょっと口が過ぎて、敵を作ってしまう事もあったんだろう。
0210無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/10(月) 20:44:49.97
>>209
>陸機はねぇ。
>張華に「わしらは言葉がでなくて困ってるのに、君は言葉が出すぎて困ってる」
>みたいなことを言われてるからなぁ。
>ちょっと口が過ぎて、敵を作ってしまう事もあったんだろう。

何せ陸機さんの曾祖父様は
「軽はずみというか、「爽やかー!」な性質の人だったのでしょうw」
「遺言は悲愴感ないねー(笑) 」
「もうすこし悲愴になれww 」
とまとめサイトで言われているあの御方ですからw
0211無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/10(月) 21:23:11.41
>>209
…アカン曹髦が司馬昭を晋公に任命しようとした意図とかそれをきっちり断った司馬昭とかそういうの思い出していろいろ勘ぐりたくなってきた
曹操の魏公就任→魏王就任→曹丕の皇帝即位の流れから司馬昭は断ったんだろうと単純に思ってたけど、もしかしてそんなレベルの話じゃなかったのか、これ…

>>210
義兄弟はもう涙なくして読めないような悲壮かつ感動的な遺言残してるあのお方っすねwww
…まぁ信頼出来る義兄弟に将来有望な弟を託す人と
そんな義兄弟の期待に答えようとしたけど結局果たせなかった人じゃ悲壮感が違うのは無理ないけど

そういやそんな爽やか兄さんの後継いだ弟さんはどんな遺言残してたのかな
0212無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/10(月) 22:16:39.72
あぁ、>>209でひとつ忘れてた。司馬懿の諡だが、台湾中央研究院の晋書から引用

>九月庚申,葬于河陰,諡曰文,後改諡宣文。
(諡は文という,後に諡をあらため、宣文とした)

すなわち、「晋文」だ。

>>211
あぁ、そっかそっか……言われてみれば、司馬昭が晋公を断ったのか。あいまいになってた

確かに勘ぐりたくなるわ。結局は晋を名乗った、しかし高祖の諡を文→宣文→宣帝にしている。
曹髦の最後の嫌がらせなのか、それでも晋を名乗らざるを得ないほど、当時の司馬一族が不安定だったのか、
「晋」が持つ意味は、想像以上に重いのかもしれん

>>210-211
…なんという説得力orz>爽やかさんは、子孫もやっぱり爽やかですたw

弟さんこと孫権の顧命終制を探してみたけど、どちらも出てこないなぁ。
0213無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/10(月) 22:52:16.00
>>212
王朝の名称はその王朝が起きた場所で決まるらしい
例えば蜀漢は春秋・戦国の頃の古蜀などあの西地域を指す蜀から来てるし
孫権の呉も春秋の呉から来てるし、曹操の魏も戦国の魏と同じ地域だから
司馬昭が晋公に任命されそうになったのは、司馬氏が河南省(春秋の晋の地域)出身の豪族だったからだと思うよ
うろ覚えだから違うかもしれんが、名前が晋なのは当然なんだけどいろいろ勘ぐれる名前なのは事実
そもそも春秋の晋が分裂して出来たのが戦国の魏だし…
0214無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/10(月) 23:57:42.72
>>213
うん、本当に色々勘ぐれる名称だは

晋という称号自体は、213の言う通り、古い地名説が一番妥当だと思われ
逆に、漢魏の前例や、出身地の古名から、司馬一族が王朝を開くなら、まずは晋が来ることは判っていたと思う

では、司馬懿の諱が変わっているが、よくあることなのか?
変えるぐらいなら、なぜ文と言う諱をつけたのか?曹丕と同じだからか?
文では都合が悪かったなら、どのように都合が悪かったか?諱の変更以外に解決法はなかったのか?
司馬一族が実権を握っていたなら、晋以外の称号に出来なかったのか?
調べてみないとわからんが、六朝時代以降、王朝名イコール地名とは限らなくなっているのは、異民族だから名乗れそうな地名がない、それだけの理由なのか?

「晋」は想像以上に重いと言うのは、由来もだけど、むしろ、上でいう諱問題や、晋の名がもたらした(かもしれない)結末の方だな。
どれも大した問題じゃないと言えばそうなんだが、そういうのを考えていたら、ちょっと混乱した
0215無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/11(火) 00:08:05.83
投稿した後で気付いた、連投スマソ
今ちょっと確認できないんだが、司馬懿の諱については別の字だという(貞?忘れた)説もあった気がする
2つあるなら、どっちが正しいか、間違っている方は、なぜ、その字が出てきたのか?という問題も出てくる
0216無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/11(火) 00:27:10.13
>>202です

>>203-207
うおーすごい!ありがとうございます!!
そもそも洛陽の北に墓を作るのが当時のトレンドだったんですね
当時の時代背景などは考えてなかったので、その辺りすごく参考になりました

曹丕・司馬懿の主従が好きな身としては、実際のところがどうだったかは分からないにしても、余白を読んであれこれ想像を巡らせることの出来る遺言でよかったですw


それにしても、てっきり人少ないものと思ってスレ覗くの怠ってたら何やら興味深い流れに…
三国時代初心者の私としては、このスレは本当に勉強になるので有り難いですー
0217無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/11(火) 00:34:39.59
そもそも諡号の宣ってどういう意味だっけ?って思ってググったけどいまいちわからんなぁ
で、調べてるうちにこんなん見っけた↓晋書の記述らしいけどどこの話なんだろ。

文帝(司馬昭)が上表して謙譲した。
「わたくしの亡き父(司馬懿)は丞相、相国、九命の礼をあえて受けず、亡き兄は相国の官位をあえて受けなかったのは、まことに太祖(曹操)がつねづね区別をしていたからでございます。
いま諡号が二祖と同じであることは、必ずや恐懼するところでしょう。むかし蕭何、張良、霍光はみな補佐の功績がありましたが、蕭何は文終と諡され、張良は文成と諡され、霍光は宣成と諡されました。
どうしても文武という諡を頂けるのであれば、蕭何ら(の前例)によって(文字)の追加をお願いいたします。」
詔勅により許され、忠武と諡された。
この文章で諡号が与えられたのが誰なのかイマイチわからんが、司馬懿の諡号に関してヒントが出てるような気がする

で、ここで出てくる霍光(諡号は宣成)って人なんだけど、『晋書』の宣帝紀にこんな記述を発見

(司馬懿の)葬儀の格式は漢の霍光の故事にならったものとされた。

この漢の霍光さん、漢の武帝の命で幼帝を補佐した政治家らしいが
そういう政治家にありがちな権力欲に取り付かれて国を滅ぼすようなマネは一切せず幼帝は成人しても霍光を信任し続けたらしい
昭帝への反乱の企てを察知して処理したりもしてる非常に有能な補佐役
まぁ昭帝が子供が出来ずに亡くなった後、次に選んだ皇帝を27日で廃して新しい皇帝を建てるなんてこともしてるけど
で、その次に選んだ皇帝の諡号は宣帝
多分当時の人(司馬昭含む)は司馬懿を野心家の逆臣ではなく、幼帝を補佐した清廉潔白な政治家と考えてたんじゃないかな
ちなみにこの霍光さん、宣帝に政権を委ねるって言われた時の返事に「関(あずかり)り白(もう)す」って言ったらしい
これが日本の関白の元ネタらしいよ

>>216
私もまだまだ勉強不足なんでいろいろ助かります
皆さんの意見聞くとほんとに目からウロコ落ちるんですよね
0218無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/11(火) 00:45:07.19
連投すみません

文帝(司馬昭)が上表して〜の文相は晋書景帝紀で司馬師の話でした
司馬師が死んだ時に、曹髦が司馬師の諡号を武侯にしようとしたのに対して司馬昭が辞退した時の上奏文だったようです
司馬師の葬式の時も司馬懿の時と同様霍光の故事に倣ったらしい

司馬懿が霍光の故事に倣った葬式だったのは幼帝を補佐して反逆者を一掃したからだけど
司馬師が霍光の故事に倣った葬式だったのは皇帝を廃して新しい皇帝を立てたから
…のように見えなくもないんだけど邪推かな
0219無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/11(火) 22:36:45.77
>>217-218 資料探索乙っす。>>214-215のうち
>文では都合が悪かったなら、どのように都合が悪かったか?諱の変更以外に解決法はなかったのか?
についての、司馬氏側の動きが、>>217-218ですな

晋書の帝紀第1から引用
>天子 素服臨弔,喪葬威儀依漢霍光故事,追贈相國、郡公。

晋帝紀第2から引用
>二月,帝之喪至自許昌,天子素服臨弔,詔曰:「公有濟世寧國之勳,克定禍亂之功,重之以死王事,宜加殊禮。其令公卿議制。」
{司馬師がなくなると、許昌から都へ運ばれ、天子が喪服で葬儀にのぞんだ、詔にいわく、「公(司馬師)は国を安定させた功績(ry)王事に殉じたのであって、特別な礼を加えるべし。公卿の協議で決めよ」}

>有司議以為忠安社稷,功濟宇内,宜依霍光故事,追加大司馬之號以冠大將軍,摎W五萬戸,諡曰武公。
(協議の結果、天下を救った功績により、霍光の故事に従うのがよろしいと決まり、諡を武公とした)

で、司馬昭の言う、>>217の内容が続く。
司馬懿、司馬昭ともに霍光なんだな、確かに…宣帝により一族どころか縁者関係者のきなみ皆殺しにされてるねぇ。
晋書だけで見るなら協議の結果が霍光に習ったもので、司馬昭の言葉だと司馬昭が霍光に習って変更するよう提案しているし
両方とも霍光にならったんなら、協議は何をを霍光に習ったか
漢書の該当項を見たんだが、眺めただけじゃ、判らなかったorz

諱のつけ方としては、基本的にその人物の人となりを表すものだと思ってたんだが何で文にしたか?が判らん。師は「協議の結果」だけど
司馬懿なら、文より宣の、広く公開する、古代の皇帝が座する部屋、皇帝の命令、そんな意味合いの方が、正直確かに似合…失礼
0220無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/11(火) 22:41:44.12
ただまぁ、晋が、「魏を補佐した功績」を強調しているのは確かだな。
「晋鼓吹曲二十二篇(軍歌曲みたいなもの)」以下一部引用

*霊之祥
>序:(ry)「《霊之祥》は,宣皇帝(司馬懿)の魏を補佐すること,昔の舜が堯に仕えるがごときであった事を(ry)」

>繼大舜,佐陶唐。讚武、文,建帝綱。
(大舜の意思を継ぎ、陶唐を補佐する。武文を讃え、帝綱を建てる)

大舜(舜)、陶唐(尭)は神話上における五帝の名前。
舜は尭を補佐して天下を治め、尭から禅譲を受けた。また、陳・田斉の祖でもある。実はこれも微妙なんだよなぁ…幽閉説もあるし

*宣輔政
宣皇輔政,聖烈深。撥亂反正,從天心。
(宣皇は政を輔佐し,聖烈深し。反乱をはねのけ反を正し,天心に従う)

あと>>215の司馬懿の諡についてだが、晋書の注に
>諡曰文後改諡宣文 各本皆作「諡曰文貞,後改諡文宣」。考異:「按禮志,魏朝初諡宣帝為文侯,景帝為武侯。文王表不宜與二祖同,於是改諡宣文、忠武。然則初諡文,無『貞』字也。禮志及文帝紀並稱舞陽宣文侯,宋書禮志同。此云『文宣』,亦轉寫之誤。」今據改。

というわけで、「文貞」をのちに「文宣」に変えたという説もあるが、文帝の上奏内容から、貞は誤字だろうというのが今の考え方らしい。
0221無名武将@お腹せっぷく
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2012/12/11(火) 23:52:39.94
霍光の葬式は準皇族並の規模で盛大に行われたらしいけど、司馬懿も司馬師もそれくらいでかい規模で送られたってことかな

そもそも後半生(というか曹叡以降)西から東へ戦場を駆け巡った大将軍に文って諡号はどうなんだこれ
本人が文が良いとか遺言したわけじゃないだろうし
0222無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/12(水) 01:46:55.88
久々に三戦見てみたら懐かしいスレが復活してたんだな良かった

文って字は諡号としては格が高い方じゃ無かったっけか
歴戦の大将軍と言っても降したり領域拡げたわけでは無いし官職の一つなんだから文が相応なのではないかね
0223無名武将@お腹せっぷく
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2012/12/13(木) 19:28:54.23
アク禁イヤンバカン
>>222
なるほど、皇帝なら周文王と武王、臣下なら周文公の文がまず最初に来る
司馬昭の上奏にもあるとおり漢でも重要だから、事実上のトップに最高級の称号を贈るのは、普通にありうるのか
0224無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/13(木) 21:58:00.30
あ、解除されてら。既に判っている内容も含むけど、大目に見てくれ

まず、曹操の短歌行は、少なくとも2つ現存している。其の一は有名な「對酒當歌」、其の二が「周西伯昌」。
原文と日本語訳は、「短歌行 其の二」で検索すれば出てくるので、ここでは略する。
この「周西伯昌」の最後の「晋文」が、司馬氏による晋王朝、司馬懿の諡号である文と一致している。

で、前に「周西伯昌」を訳したときは、
(まぁ偶然かもしれんが、当時も気づいた人はいただろう。晋書宣帝紀の「曹操は夢を見て、司馬氏がいつか曹氏に取って代わると予言した」という話は、この話から生まれた寓話かもなぁ。晋書のオカルトも、元ネタが有るならバカにできんぞ)、という所で止まっていた。

ところが「司馬昭が、晋公の称号をいったん断っている」「司馬懿の文を変えるよう上奏している」
つまり、「周西伯昌」が、作者の意図とは別に、魏晋禅譲の流れに影響を及ぼしている可能性が出てきた。

この問題に対し、「周西伯昌」側からのアプローチと、「司馬懿の諱変更問題」側からのアプロ−チが考えられる。

まずは「周西伯昌」についてだが、謎といえば謎が2つある。

1)史書の掲載
まず、晋書楽志に「周西伯昌」は掲載されていない。
(曹操の作品自体、「歩出夏門行」のうち、「艶」を削除した晋楽所奏《碣石篇》が、名無しさんとして掲載されているだけ。晋楽所奏として「對酒當歌」が改変されたものはあったようだが、掲載はない)

宋書楽志だと、其の一と其の二が逆。
ためしに、宋書楽志第三から、同じタイトルが複数ある作品を、掲載順に並べてみる。
左からタイトル、作者、歌いだしの部分を、宋書の掲載順に並べたもの(内は楽府詩集等、後世の主な掲載順)

短歌行 魏武帝詞 周西伯昌(2)>對酒當歌(1)
燕歌行 魏文帝詞 秋風蕭瑟天氣涼(1)>別日何易會日難(2)
秋胡行 魏武帝詞 晨上散關山(1)>顧登泰華山(2)
善哉行 魏文帝詞 朝日樂相樂(1)>上山采薇(2)>朝游多高臺觀(3)
善哉行 魏武帝詞 古公亶甫(1)>自惜身薄?(2)


善哉行 魏明帝詞 我徂我征(1)>赫赫大魏(2)

短歌行のみが、1と2が逆なんだよ。
まぁ宋書楽志自体、他の本が甄夫人作とする塘上行を曹操作と言ってたりと、詩集としては異質ではあるんだが。
なぜ逆なのか? については、後述。
0225無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/13(木) 22:16:51.28
2)「周西伯昌」に込められた志
当時の詩は、基本として、志(どうしても詩にしたいと思った理由、思いのたけ)を詠む。
曹操の短歌行其の一であれば、人材を求める志。歩出夏門行なら一応、「幸甚至哉!歌以詠志」。

「周西伯昌」の場合は、これが判りにくい。一見、故事の羅列だから。
なので、後世では忘れられた。文選、古詩源もそうだけど、「周西伯昌」の登場しない詩集が出てくる。
これが1)の掲載順に対する回答1。

しかし、曹操の作品は楽府、つまり宴会など人前で奏でることを前提に作られた。また、短歌行は、曹丕が曹操の追悼に使ったタイトルであり、ある意味重要な曲だ。
曹操の居城で、重要な曲を使って、歌い上げる必要があった「周西伯昌」の志は何か?

先行論文として、「正当性の主張と、自戒をこめたもの」とする説、「受命(漢魏禅譲)問題に対する、曹操の己の苦悩する志」とする説がある。
私が訳したときも、上記の論文と、孫盛説の「周囲に帝位をすすめられたとき、曹操は『天命が我にあれども、我は周文王となろう』といった」説から、「曹操の理想が周文王、現実が斉桓、晋文にだけはなりたくない」と解釈した。
あるいは、善哉行其の一や董卓歌詞、「宦官を滅ぼしても天下は変わらん」みたいな発言から、皮肉かと思った。

ただ、上記の説だと、曹操が自分のほかの作品で、周文王と周武王をとりあげないのは何故か?
(分析対象となる作品の母数が少ないけど、周文王と晋文は「周西伯昌」でのみ登場、周武王は登場0)
短歌行、苦寒行、で周公をあげたり、最晩年によまれた秋胡行其の一で「周西伯昌」にも出てくる斉桓の「正而不譎」を使って自分を慰めるあたり、曹操は初期は周公、後期は斉桓に親近感を懐いていたのではないか?
何より、自戒や自分の苦悩を、人前で、重要な曲を使って、歌う必要があったのか?

私なりに考えるのは、上記の説に加え、「臣下に対し、『禅譲の意義、漢魏禅譲の覚悟』を問いかけるもの」
この詩を発することで、魏を詐称者にしないよう、周囲に協力することを求めた。
この詩に答えるように、臣下から連判状や上奏が出て、曹操も受命問題に関する自分の敵味方を見分けられる。

だとすると、漢魏禅譲が済んでしまえば用済み(というか皇帝にとっては邪魔)だし、曹丕が自分の短歌行を、父への鎮魂歌にした理由もまぁ解決?
これが、1)の掲載順に対する回答2。

と同時に、こんな曲がぶんがぶんが流れていた朝廷で、「晋文」をそのまま名乗るのは、勇気がいる。
晋が成立した後も、詩に詳しい人間ならこの詩を思い出し、晋の詐称を思うだろう。特に八王の乱以降は。

ここで「司馬懿の諱変更問題」にみる、魏晋の禅譲問題が出てくる。
これについては、魏晋禅譲の時系列と、霍光の葬儀問題をまとめないと混乱するorz

先行論文も探したいけど、手がまわらん…また後で。

何にしても、この「周西伯昌」、下手すると漢魏と魏晋、2度の禅譲に影響した作品ってことになるぞ。
正直、何でこの作品があの「對酒當歌」と同じ短歌行なんだ?と思っていたが、違うね。對酒當歌とは別の意味で、短歌行に相応しいわ。
0226無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/14(金) 00:26:38.45
うーん…曹操の漢魏禅譲への考えは諸説あるからねぇ
その人がどの説に立つかによってかなり解釈は変わってくるのがまた大変だ…

素直に曹操の発言や詩の内容を読めば、自分はあくまで漢の忠臣でありたいと言ってるように読める
しかし荀ケの発言について正史で「不快に思った」という記述があるからそういう発言は建前だったと考えることも可能だ
ただ個人的に正史の「〜と思った」という記述については疑問がある(思っただけのことがどうして記録に残るんだ)
実際曹操は散々群臣たちから勧められつつも自分の代では禅譲に応じてないからな
禅譲にむけて水面下でいろいろやってる群臣たちへの心の叫びだったんじゃないかな、というのが個人的な意見

で、疑問なんだけどこの詩本当に魏王朝でしょっちゅう詠われてたのかな?
皇位簒奪の意思なんかなかったのに息子の代で奪っちゃいました☆って親父の意思に反してるからいろいろ問題があるような気がするんだけど…
むしろ積極的に詠われてて曹操に簒奪の意思はなかったって言うことが周知の事実だったら晋の時代陳寿が「荀ケの発言を不快に思った」なんて記述はありえない気がして
それとも曹丕が禅譲した時点で口ではああ言ってたけど実際は簒奪の意思が合ったと思われてたのかな?


あと司馬懿の諡号はいつ変えられたんだっけ?
司馬師の代か司馬昭の代かでまたいろいろ変わってくるような気がする
0227無名武将@お腹せっぷく
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2012/12/14(金) 23:33:43.89
おっしゃるとおり、解釈は人によって異なる。
だから曹操の詩も、本来の意味と周囲の受け取り方両方を検討する必要があるが、特に秋胡行が曲者なんで、ちょっと置いとく。

ここでは、「周西伯昌」のうち、斉桓にもとづいて、「小白不敢爾,天威在顏咫尺」をベースにしている。
神聖な肉を賜わるとき、周の使者は「堂下で拝礼しなくてよい」と伝えた。これを桓公は断って、堂を降りて拝し、 堂に登って胙を受けた。あえて近づかずとも、天威は常に顔の傍らにあった。
この解釈で正しいならば、天子=皇帝とは限らない。天子の臣下に、もう一人の天子を置くのも答えだ。
「わざわざ皇帝にならずとも、天子にはなれる。それでもオマイらが禅譲させたいなら、禅譲を起こすことで何を天下に示すか、その意義と覚悟を決めろ」、曹丕の代は「その覚悟を忘れるな」、と言えばいいか?

何にしても、曹操は禅譲問題に関しては、これ、という自分の意見を明確に決めてないと思うよ。「俺的に」レベルの話だが、必要ではない事項を曖昧にしといて後は臨機応変、というのは法治的によくある話なので。
だから周囲は、曹操には簒奪の意思がないとも考えるし、あるとも考える。

斉桓も後世の評価がさまざまで、上記の肉を賜った話も、謙譲と言われたり、逆に野心のあらわれとも言われる。封禅の儀を行おうとして、管仲に止められたって話がある。
同じ儒でも孔子は斉桓を褒め称えているが、孟子はけなしているし、荀子は一応評価したうえで、小人の英雄であって見習うべき大人ではないと言っている。


短歌行が実際に魏で演奏されていたかについては、それが「周西伯昌」のことならNoだな。演奏するなら、まず曹丕の「仰瞻帷幕」、次があるとしても、「對酒當歌」だろう。
だけど、短歌行の曲が変わらない限りは、イコール「周西伯昌」の曲が流れることになると思う。

曹丕の「仰瞻帷幕」については、楽府詩集からの又又引きだが、

>“王僧虔《技?》雲:‘《短歌行》“仰瞻”一曲,魏氏遺令,使節朔奏樂,魏文製此辭,自撫箏和歌。歌者雲“貴官彈箏”

,貴官即魏文也。

あと、陸機が弔魏武帝文で言う、

>月朝十五[日]、輒向帳作妓。汝等時時登銅雀(爵)臺、望吾西陵墓田。

この二つが本物とするなら(偽説もあるので仮定になっちまうが)、曹操の遺言で、月はじめと15日には、それなりの規模の演奏があったことにならんか?
この全部で短歌行を奏でていたわけではないだろうし、曹丕が自ら奏でた理由や「しょっちゅう」の定義にもよるが、
まぁそういう環境では、「周西伯昌」を知らない人が新たに知ることはないが、知っている人は忘れにくいだろう、と思ってた。
0228無名武将@お腹せっぷく
垢版 |
2012/12/17(月) 19:34:27.63
>>224の件についてだが、晋書帝紀の1、2巻だけじゃ判らん
司馬懿の諡号・魏晋禅譲がらみの時系列を上げてみるテスツ。晋書 帝紀第1、第2から抽出。あくまで晋書ということに注意

嘉平
元年
 春正月、曹爽が魏皇帝とともに高平陵へ。司馬懿、司馬師、対曹爽クーデター。
 冬十二月、九錫の礼を加えられ、朝会において拝礼せぬことを許された。九錫は固辞。

二年
 春正月、魏皇帝が司馬懿に「洛陽に廟をたてる」よう命じる。司馬懿が病みがちのため、大事があるときは、魏皇帝が司馬懿の屋敷に訪れた。

三年
 春正月、王?の乱。
 夏四月、司馬懿が王?の乱を鎮圧。
  皇帝が使節を派遣、「司馬懿を相國となし,安平郡公に任ずる」。司馬懿は相国を固辞し、安平郡公を受けず。
 秋八月、司馬懿死去。
  皇帝は喪服で弔問。葬儀の威儀は漢の霍光の故事にならった。相国と郡公を追贈。
  弟の司馬孚は、故人の遺志を理由に、郡公および??車(始皇帝陵からも出土した銅車馬)は受けなかった。
(葬儀について、漢書霍光伝の該当部分抄訳:喪は皇帝、皇太后他お偉いさんが臨席した。色々賜った。棺を??車にのせた。諡を宣成侯にした。祠には村を置き、長く旧法のごとく守らせた)

 司馬懿が死去したとき
  議者「伊尹既卒,伊陟嗣事」、天子は司馬師に命じて、撫軍大将軍として政を補佐させることとした。
 九月庚申、司馬懿を河陰に埋葬。文と諡し、のちに改めて宣文と諡した。司馬懿の遺言>>203

四年
 春正月、司馬師が大將軍に。侍中,持節、都督中外諸軍、録尚書事。
  百官に命じ賢才をあげ,年齢の少長を明らかにし,窮者獨人を思いやり,廢滯(廃棄品、もしくは人)を整理。
  制度を変えようという意見があったが、詩経の故事をあげ、魏の制度のうち、軍事以外のものは変えないとした。

五年、呉、諸葛恪の侵攻。
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