最近五胡十六国〜南北朝について調べてるんだけど面白いな
春秋戦国もオヌヌメ
つか、中国史で面白いのって三国時代だけじゃないんだけどなー 教科書だとこの時代はバサっと省略され気味だな
濃い時代なのに
春秋戦国は諸子百家もいるし、結構触れるけど この時代のあまりのキチガイっぷりに正直ドン引きした
それだけに大唐帝国の偉大さには感服せざるを得ない 北魏の前に前秦が華北統一してるんだけど、それに触れられてる教科書は見たことが無い
前秦が華北統一→シ水の戦い→諸国が独立してまたもや乱世に→北魏が台頭
の流れは重要だと思うんだけど 李世民さまは始皇帝と並ぶ神君ですよ
あとは朱十八さんくらいかな? 趙匡胤さんもすごいね
でも趙さんの元主君のなんとかさんの手柄も無視しちゃいけないと思うんだ 宇宙大将軍と徳光は即覚えたね。あと、高麗王と同姓同名の王建とか >>6
前秦の最盛期の領土は魏+蜀+長江より北のほとんどであり、統一前夜の隋や西晋に匹敵する。
よくこれで負けたものだ。 五代十国はその時代名が実態とかけ離れていることを知るところから始まると言う この時代ややこしいんだよな。
わかりやすい本無い? >>10
柴栄な。
制度的な功績であれば、劉徹、王莽、劉秀、曹操も結構なものだと思う。
三国志を知ってから中国史全体を知っていくと、
漢魏の制度は目新しい改革とは映らないせいか蔑ろにされがちだけど。 >>19
王莽ってなんか新制度つくったか?
旧態前の昔の律令持ち出して国内混乱させただけじゃね? >>23
王莽は昔の律令は全く持ち出してない
周の制度とされるものを理想として模範にはしたが、中身はどれもオリジナルだ
そして天子七廟、天地や神々への祭祀、五行相克などの各種制度から、効率的な簒奪方法まで、後世に受け継がれたものは多いよ >>13
淝水の戦いは、東晋政府が最後まで粘り強く戦い続けたことが勝因
赤壁が何か勢いで開戦しちゃったのに対し、前秦は計画的に作戦準備を進めており、
特に西府軍団の益州・荊州方面での逆襲を防ぎきってから反転攻勢に出ている点は、
東晋側にしてみれば最悪(西府軍の疲弊が大きく、運用が困難になった。)
前秦の負ける要素は、兵の疲弊と首脳部の意見不一致以外特になかった。
(江南平定は大抵首脳部の意見が割れるもんだから、特記事項ではないのだが。)
しかし、東晋政府の土壇場での一致団結が大勢を引っくり返す。
東晋は、桓温の時代から少数精鋭かつ武士階級による団結力の強い集団戦闘等
独特な軍事制度が醸成されてきていたのだが、それを西府軍から出向してきた
謝玄が京口でも普及させ、北府の兵の精強化に成功する。
元来、北来の異民族等の血も流れる者が多かった北府の兵は謝玄という指揮官を
得たことで豹変し、組織的な軍事集団へと変貌する。
伝統的な精鋭主義は、大軍を相手に回したとき、指揮伝達の速さや足回りの軽さから
むしろ兵数の不利を利点へと変換する役割を果たした。
謝玄は敵の大軍に怯むことなく、開戦早々先遣部隊5万の将をわずか5千で戦死させる。
これに手ごたえを掴んだことで、主力に対し決戦を挑む準備ができた東晋は、前秦側からの
渡河の申し出を受け入れる。
敵が引き我が渡河し会戦に至る、東晋は圧倒的に不利である、前秦側には待ち受けの
利があるのだ。
しかし、前秦軍よりも東晋軍の方が精強かつ疾さで勝っていることを確信していた謝玄は
渡河を受け入れ、一斉に渡河、そしてその勢いを駆って前秦軍に突撃を仕掛ける。
前秦にとって、鈍重な大軍が自分たちの息の根を止める凶器へと変貌するのは、正に
この瞬間であった。
指揮系統の混乱、晋からの降将朱序の謀反(どう考えても死ぬ状況で裏切ったんだから
かなりの漢である。)、東晋の突撃力、偶然ではなく必然の累積により、前秦は敗れる。
東晋首脳部が最後まで自暴自棄にならずに、勝ち目を探り続けた点はもっと評価されて
いいと思う。謝玄は凡将かもしれないが、勝利への飽くなき意思を貫徹した点では、
いかなる歴代の名将を凌ぐものであったと思う。 >>12
成蜀は桓温が制圧したと思ってたが…いつ前秦が侵攻したんだろ? >開戦早々先遣部隊5万の将をわずか5千で戦死させる。
シナではこれで梵鐘なのかよ…
レベル高すぎだな >>32
前秦軍100万の主要な司令官たちに比べると、謝玄のキャリアは駆け出し同然、
韓信の大元帥抜擢以上のミラクル人事と言っても差し支えない。
肥水で勝利したからこそそこそこの評価を得ているが、その大部分は「一発屋」
的なものがほとんど。
まあ、化け物揃いの五胡十六国において「凡将」という評価は仕方ないと思う。
桓温に比べたら、それこそペーペーだしな。 三国志の子孫が意外と出てこなくて寂しい(いることはいる)
日本だと島津家とか伊達家とかずっと出てくるのに >>33
謝安が軍事の最高責任者だから
一流貴族であるその一族が指揮官ってのもミラクル人事ってわけじゃないだろ
それ以降の一発屋、凡将の評価に関しては俺もそう思う
よくもまあ実務能力に欠けたお気楽貴族どもで前秦を撃退できたよな
前秦が一枚岩でなかったこと、北府の軍とそれを率いた劉牢之らの奮闘があったからなのかね
なんにしろ攻めるのは大変だ >>38
中国では、盛族は王朝が交代すると没落することが多いからね
ただし、いつの時代でも血の繋がりはなかれど士大夫(知識人階級)が権力を握ることに変わりはない
日本では公家→院→武家と権力の移り変わりがあったけど、
中国はずっと士大夫 永嘉の乱で中央の名家は殺され尽くしたんじゃないだろうか
しらんけど >>41
南に逃れて最上位の貴族になってるよ。それも隋の統一で没落したけど
そういえば、長く続いてる戦国大名家のルーツはだいたい鎌倉、室町幕府に封建された功臣が土着化したもの
中国史では、土着化する前に粛清されるか戦乱で淘汰されるから伊達や島津のような存在が生まれない よく旧呉の土豪がすんなり受け入れたな
抵抗しなかったのか >>38
王叡や王雄の一族が大いに栄えてるでしょう >>43
旧呉の権豪たちが東晋の政権運営を壟断できる可能性はかなり高かった。
むしろ、どんな名政治家がいようが十中八九、北方貴族による政権の独占は
不可能だったと言っても良い。
王導という怪物がそれをやってのけたわけだが、調整型の政治家としては世界史級、
中国史なら他の追随を許さないレベル
個人的には、人間味のある謝安の方が好きだ。 >>40
士大夫→知識階級と言えるのは最低でも科挙が成立して以後でしょ。
それまではほぼ貴族が権力を握ってる。
少なくとも後漢から魏晋南北朝の士大夫→知識階級とは言えない。
>>43
抵抗して仲間割れしていれば北から侵略されるだけ。
南方の土豪にとっても北府の軍や皆をまとめる晋っていう大義名分が必要だった。
荊州ではひと悶着あったみたいだけども。
>>46
南方の土豪は実権ある地位に就き辛かったはずだけど。
朝廷では北方の言語を使って南方語と馬鹿にされてたし。
あ、そういう状況を王導が作り上げてみせたってことか
江南豪族の分断とかかなりの切れ者だよな >>47
後漢代は既に士大夫=知識階級と言っていいように思うがな。
太学の定員が大幅に増えて三万人に達していて、太学出で中央にコネもある曹操すら、
思った地位につけず、さらに郡国学などの地方教育機関もあったから、
一定階級以上はほぼ基礎教育のある状態と見ていいだろう。
さらに、それに加えてより知性を誇るための私塾ブームが起きていたわけだし。
そんな中、寒門の中から清代にいたるまで重要視される大儒の鄭玄が登場しているわけで。 王導ほどの政治力を誇る人物は三国志にはいない
三国志の名将以上の戦上手がごろごろいる
なのに人気は三国志以下
悲しいよね その時代のスーパースターのフ堅が曹操はおろか劉備にすらイメージで負けてる
実際はともかく無理もないだろう
統一してたら曹操なんかとは比較にならないとかいう儲がでまくりだろうけど
せめて自分の代で滅亡とかしてなければ・・・ >>49
構造的に全体を一つの話にはし難いしね。
一つのラインのある五代の方がストーリーは立てやすいぐらいで。 異民族に蹂躙されていく物語になっちゃうから、そりゃ人気出ないでしょ 符堅は王猛が死んだのは確かに痛いけど
ポストが出てこないほど人材難だったのかね?
曹操は郭嘉が死んだって他にも参謀がたくさんいたじゃない 符堅は最後、裏切された部下にくびり殺されてるからな
かっこ悪すぎる
信長の最期みたいなミステリアス性があれば少しはマシだったかもしれんが 前秦は各部族を征服したばっかりだったからねぇ
符堅は焦ったのか、お人よしだったのか 曹操がいなかったら五胡はあんなに栄えなかったというのに、石ロクの酷評は酷いよね いや石ロクは彼なりの筋を通した見解をしている
でもその見解だけが正解というわけではない 石勒のその評価は多分どっちかって言うと、紳士ぶって様子窺いながら
前王朝の名分に寄生し続けた(ようにみえる)ことに
「すっきりしねえ奴等だな!」
「男なら真っ向から反逆しろよ!」
つってキレてるだけかと。 三国志の群雄は魏呉蜀を除いたら冴えない連中が多いけど
五胡の連中はツラ構えが違うね 南朝に陳って王朝があるんだが、そこの皇帝は陳って名字なんだよ。
名字が陳だったから王朝の名前も陳だったのか? >>63
古代中国では、滅亡した国の王族がその国号を姓とするパターンが多々見られた
陳覇先はいわゆる寒門だったんだが、自分の陳という姓に権威をつけるために
古代の陳の後継者を自認して国号を陳にしたのかもしれない >>60
そういう石さん自身、野盗まがいのことやって天下とったんだから、曹さんや司馬さんも、奴にだけは言われたくねーだろうな >>61
慕容恪の方が上だろうな。
両名とも、関東の領土拡張で活躍を見せているものの、結局後趙・前秦崩壊の
ドサクサにまぎれての火事場泥棒でしかないからな。
そう考えれば、宇文部・段部・高句麗を討滅した慕容恪の方が功績としては、
慕容垂を圧倒している。
慕容垂は本人ではどうしようもない所が過分にあるにせよ、どうしても初動が遅い観が
否めない、対桓温、対拓跋部なんか特にだが。
まあ、流れをぶった切って桓温最強説を提唱してみる。 なぁ、このスレの住人って、どんな本読んでるの?
出版社と書名を教えていただけると、大変ありがたいんだけど。