>>81
何? コレ貼って欲しいの? 

竹島編入には抗議することができました。

1904年 8月22日 ■第一次日韓協約■ 外交顧問としてアメリカ人(駐日公使館顧問)が就任

1905年 1月28日 ■■【竹島 島根編入】■■ 山陽新聞・壱岐新報・朝日新聞・読売新聞・官報などで公表

1905年10月17日 大韓帝国外相・朴斉純が「第二次日英同盟」の条文について日英両国へ公式に抗議 ⇒【外交権が存在した証拠】

1905年11月17日 ■第二次日韓協約■ 大韓帝国の第三国への外交権は制限されたが、日韓間の外交は禁止されず

1906年 2月 4日  大韓帝国が日本海軍の用地買収について日本統監府に公式に抗議し承認させる ⇒【日韓間では抗議出来た証拠】

1906年 3月29日 ■島根県の隠岐島司一行により竹島編入を大韓帝国側が認知■ 調査を命じたのみで抗議は行わず。

1907年 4月 5日  第13回韓国施政改善協議会で、大韓帝国大臣が早稲田大学学長の処分を要求 ⇒【日韓間では抗議出来た証拠A】

1907年 6月    ハーグ密使事件※ 親書でも演説でも竹島編入への言及無し ⇒【大韓帝国が竹島編入を問題視していなかった傍証】

※平和会議が開催されていたオランダのハーグに、大韓帝国が外交権回復を訴える密使を送った事件。
 日本の影響下にない密使であったため、大韓帝国が何でも自由に主張出来たが、竹島編入には一切言及しなかった。