満州では、石油が見つからなかった。だが、航空隊は当時、
満州領だった現中国の大慶油田の上空を度々飛行し
眼下の湖沼にギラギラと黒く輝く油膜のようなものを認め、
満州鉄道に報告していた。
満鉄は「石油が出る地層にあらず」と回答をよこし、
一度も現地調査を行わなかった。
 中国は約20年後、その場所に大油田を発見し大慶と命名。
ピーク時には、年間5000万トンの産油量を誇った。
これは第二次大戦開戦時の日本の年間消費量の10倍にあたる。
「調査さえしていれば、日本は事件後、資源を求めて南方に進出し
米国と衝突しなくてもすんだのかもしれない。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/091008/acd0910082057005-n3.htm
満鉄調査部顧問 尾崎秀秋が握り潰したという訳でんな

詳しい地図
http://www.teamrenzan.com/archives/writer/saito/warandoil10.html
 昭和9年から19年にかけて、満州各地で石油探鉱を実施
その中で、大慶油田周辺でも掘削を行った
実際に掘削した深度:1000m(600mではありません)
 その井戸で若干の油を発見したようです
 油の流動性が悪く(流れないために)諦めた
その他、日本の小規模油田でも、昭和15年ごろには
いずれも1000mを越えて掘削しております
従いまして、600mしか掘れなかったから、
大慶油田を見つけることが出来なかったというどなたかのご理解は、
やはり間違っております。
しかし、昨日申し上げましたように、仮に日本が大慶油田を見つけたとしても、
常温で固まってしまう特殊なオイルのため
当時の日本の技術では大規模な開発は難しかったと思われます。
(大慶から日本までの、パイプライン、タンカー、貯蔵タンク、製油所施設を、
全て24時間間加熱しておかねばならない
出光オイルアンドガス開発株式会社 
 取締役副社長 美谷島
http://blog.goo.ne.jp/kowmurak/e/d4351916a992f1efe1d5d2809ba26581