易占勉強スレ【二十五変】 2
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キチガイが騒ぐせいで真勢なんたら派まで偏見の目で見られる羽目に ソーシャルディスタンスのを周易の基準卦が兌為澤?
兌の象意は会話とか咳で全然的外れ
正解は艮為山でしょう 地天秦上爻は崩壊の始まりという卦で合ってますかね?
これを悪い習慣が崩壊していくという見方をするのは流石に無理がありますかね? >>546
上で言っているが、爻をひとつだけ持ってきて良いだ悪いだ言うのは、
高島呑象がやっていた間違いのやり方でそんなやり方は易経に書いていない。
そもそも、変爻をただひとつ定めるようなやり方は、以後やめたほうがいいですが、
それでやってしまったなら、今のあなたのそのことへの悩み方と解決しようとしている
姿が完全に泰に現れている。
そして、それが重ね合わさったあとに、大蓄のような心とありようがいまの自分
で、泰の自己認識があやまっていたのだと気づいた時に全てがわかる本来の感性
が現れます。
悪い習慣が崩壊する姿じゃないかなとか連想するのは、何の意味もありません。
易のやり方でもないし、そんなことをひとつも合わない。 >>539に答えられないのは全員、易できるとは言えない >>547
マジか
ここ数日じゃまともな方だと思ったんだがな
>>548
ありがとう
爻は一つしか出なかったんだが もう一度書く
>>539に答えられないのは全員、易できるとは言えない
今後はこれについての意見を書いてから書き込みをすること
わからない者はそう書け >>554
要するにわからないってことだろ。そんなのは答になってない。しつこいぞ、お前。 もう一度書く
>>539に答えられないのは全員、易できるとは言えない
今後はこれについての意見を書いてから書き込みをすること
わからない者はそう書け 今日の卦を出したら坎為水の上爻でした
相当悪いということでしょう
個人的な感想なのですが、四大難卦が出た時は疲れているがむしろ心身リラックスできている時が多い気がします
四大難卦は休息をとるには良卦だったりしますか? >>557
すみません、ネットの知識をかじった程度の浅学なもので
わかりません。教えてほしいです。 サイコロ法って複数のサイコロを使うやり方と一つのサイコロでいいやり方があるけど
ぶっちゃけどれが正しいの?
そもそも投銭法といい賽子法といい最初に言い出したのは誰なんだろう もう一度書く
>>539に答えられないのは全員、易できるとは言えない
今後はこれについての意見を書いてから書き込みをすること
わからない者はそう書け >>561
もういいって。分からないなら分からないで。
分かる人に訊いただけだし。 もう一度書く
>>539に答えられないのは全員、易できるとは言えない
今後はこれについての意見を書いてから書き込みをすること
わからない者はそう書け >>558
全然違う。本卦の坎は「そのように今の問題と解決のことを思っている自分がいる」
ということだ。根拠は、畏れ多くも易経繋辞伝に記載がある。
上のほうに書いたので読んでください。
よって、「その日についてどう捉えればいいか」という問いであれば、
そもそも八卦内卦の坎とは、ただ意思をもつだけでは状況が動かないという悩みに
対し、自分の意思をもってあくまでも行動をして解決しようとしている、という悩みと
行動があり、それが問いの「その日についてどう捉えたらいいんだろう?」という悩みと
同じだ、ということだ。
そして、そのすべてが間違っており、(つまり、その日がどうなどと考えていないし、
解決策は行動ではない)全ては変卦が本当の心としてあるのだ、ということだ。
それが換なのだ。
思うだけではまずい、思い通りになる=その日に対してどう捉えれば ということだと
思うので、たとえば自身を治めるために、他者との間を解決するためにどうするかと
いうことなどが悩みなのかもしれないが、そこはわからないし、他者がどう想定しても
ずれてしまう。坎の身読をして、その後に自己を一変させるとわかる。
そして、散らばった心や関係性を治めて統治していくことが、真の問いの答えであり
必然的な未来なのである。本当の心が喝破されたのちは、聖経の通りに必ず実現して
いくのである。 539の五行易について語れということなので、基礎となる視界を語る。
五行易は易の活用、また捉え方として間違いである。すぐにやめよ。
ただし、このスレッドで行われているそれ以外の方法もすぐにやめよ。
五行易の成立への批判はいくらでもできるが、そこに根本の問題はない。
この浅ましさのある場所の書き込みを見ていて思うが、「易は、自分が認識している
事物の未来や判断を表すのだ」というイメージを持っている者が多い。
これは最悪の間違いである。そういうイメージを持つことは易から大きく外れて
おり、易の実践だと思っていることが害になっている。やめた方が良い。
今の社会における「占い」イメージの範囲で、少しも易を扱うな。やらない方が良い。
五行易など繋辞伝・説卦伝やその他の伝と本文の、どこにその典拠がある。
易経の原典聖典において完結したものと捉えれば良いが、あえて広げるとして、
四書五経にすら、その典拠はどこにもない。卦象爻象の扱いとしてそもそも間違っており、
しかも、それは単に伝によるものではなく、根本的に、上のようなそもそもの易の
実践への誤解を持たざるを得ないという意味で間違いだ。
悶々とするからそれが何だ。爻に勝手に別象徴の意味を持たせ、暦と何か影響関係が
仮に本当にあるとして、それが一体なんだ。どこが繋辞伝に表現されている聖人への
変容に繋がるのだ。意味がわからない。行うことの意味をよく考えよ。 「易は、自分が認識している事物の未来や判断を表す」ということがあるわけがない。
そうではなく、「そのように思っている自分」こそが重要で、そこに聖人
への変容の可能性があり、易の象は全てそれに対して示されているのである。
よく聖伝を熟読し、そうであることを早く理解せよ。
筮を行う時に、この浅ましい自己が思った結果が、機械のように示されるわけがないであろう。
そんな考え方は最悪の冒涜である。それを行っている自己のありようと心がそのまま本卦に
反映され、真実の姿が変に現れるのみである。これは聖伝に明らかである。
畏れ多くも、繋辞上伝第七章の意訳を貼る。各人の反省と易の正道への復帰を念願する。
ーーーーーーーーーー
聖人は次のごとく伝えられた。
易とは至上のものである。易は、聖人として生きようとする人間の徳を磨き崇くし、
その行いを広める基礎となるものである。その英知の高貴さは天空のごとくであり、
その行いの謙虚さは大地のごとくである。天と地、陽と陰を定め、その中での自然な
行いの基盤として易が実現していく。その各人の使命を果たし、本来のあり方を実現
するのは、この天地においてただ一つの道義と英知の門である、易によるのである。 布教活動が完全に裏目に出ている
これだから狂信者は >>570 >>571
まともに反論もできず、易に触れていながら、正道の提示に対して耳を塞いでいる行為は、
必ずいつか後悔する時が来る。良薬は口に苦し。人生を無駄に過ごすのをやめよ。
易道を汚すのをやめよ。
畏れ多くも繋辞下伝 第五章36節
小人は、小悪をもって傷うことなしとなして去らざるなり。故に悪積みておおうべからず。
小人は、小さな悪を行っても、心に引っ掛かりがあろうとそれをあえて気にせず、
習慣だから、今までやってきたからと反省する心を持たない。結果として悪が積み重なって、
その結果はどうしようもないものになるのである。
お前たちは完全に小人そのもの。易を行っているつもりで欠片ほどもできていない、
情けない自分を恥じ、早く気づけ。 また、反論するならば、聖典十翼の聖人の文書に基づいて発言せよ。
易を行う上での正しさの基準をどこに置くのか整理して考えればそれしか方法がないと
気づくはずだ。
あるいは、議論するならば聖人のお言葉に基づくか、「この議論に対してどう捉えればいいか」
「この者の言うことに対してどうすればいいか」などの、問いと筮の結果をもって共に
検討する提示をせよ。
その2つの提示であれば、まさに同志であり、共に易の道を歩み研鑽しているのに外ならず、
ぜひ共に発展的に検討したいと思う。魔に入られたなど、よく何も根拠のない発言をして恥ずかしく
ないものだと呆れる。聖人のどの言葉に基づくのか、自身のどの筮に基づくのか、返答せよ。 なんで十翼なんだよ
本文読まないの?
つまりそれが君に屯が出た理由じゃないかな 断易とは五行易と呼ばれる時もありますが、漢代に発明されたもので周の時代
には存在しません。(易断ではありません)
日本には古くから伝わってはいたようですが、儒教のほかに暦や五行など理解
できる人が少なく断易の参考書や解説書は良いものが残っていないようです。
(四柱推命の理解を前提としている部分もあるので実際に非常に難しい)
断易は易に五行の要素を取り入れて判断する一種の象数易ですから易経の本文
を読むことはまず無いですネ。
象数易では記号を見て判断するので命卜相の「相」に近い見方になります。
変コウだけでは分からない部分を五行の関係で見るようなものです。
これは父母官鬼等のとおり人間関係を見るときにも有効です。
易経の本文を重視する考え方は義理易といいますが、たぶん義理易の人は
殆どの人が象数易については否定的でしょう。
原著を読む360さんはこの義理易の立場だと思いますが、昔から実践家は易経
など読んでいる時間はありませんから象数易の人が多いのです。
易には易経を読むだけではなく象数易という考え方もありますから間違い
ではないと思いますヨ。 >>575
丁寧に書いて頂いているのはありがたいのですが、その次元の話をしているのではありません。
「易経の本文を重視する立場を義理易という」って、易経の本文以外に、易の正統性や真実性・やり方について、何が正しさを保証するのですか?
義理易・象数易などというおかしな概念化で、どちらも正しさの根拠があるなんていうのは詭弁です。
そもそも、五行易はあなたも言う通り、納甲の原型はあったにせよ、京房がほとんど一人で創始
して、その後に屋上屋を架す形でおかしな考えがいろいろ加わったものだ。
この事実を、あなたはどう捉えるのか?ということだ
易が成立した時の聖人の方法が易だとし、その真実性のある行い方を探求し、正しい視点に立つのか。
それは義理易でそっちは象数易だなどという、明らかに詭弁的な概念を、それも何百年の歴史があるからという理由で
墨守し、何か正しさがあるということで、聖伝に解かれる聖人への成長など到底あり得ない、予言予知の妄想でしか
あり得ない体系を、これも易なりと決めつけるのか。
どちらを選ぶのか、ということです。私は前者しかありえないと思うし、
畏れ多くも易の体系と聖典が聖人が作成し、そのように生き行うことを命じている
書き方になっている以上、多説の併存を許してはならないと思う。 もう少し易の序の内容についての解説も色々とあるから、さらに別論の提示もできるのだが、
畏れ多くも、繋辞上伝第二章の原文を読みましょう。
易を作成した聖人が、私は易をこういうものとして表した、と仰っている。
いわゆる五行易という妄想家の作った、易に仮託した暴論は、この文の前から順にいけば、
卦もそういう卦として使わず、吉凶悔吝もずれる、易の序としての構造もずれる、爻の辞も
使わない、ということになる。この事をどう判断するのか?ということだ。
義理易と象数易っていう2つの易があってどっちも易だから良いんだ(?)と思うのですか。
その根拠は?
(第二章)聖人卦を設けて象を観し、辞を繋けて吉凶を明らかにす。剛柔相推して
変化生ず。この故に吉凶とは失得の象なり。悔吝とは憂虞の象なり。変化とは進退の
象なり。剛柔とは昼夜の象なり。六爻の動くは、三極の道なり。
この故に君子の居りて安んずる所の者は、易の序なり。楽んで玩ぶ所の者は、爻の辞
なり。この故に君子は居るときはすなわちその象を観てその辞を玩び、動けばすなわち
その変を観てその占を玩ぶ。是をもって天よりこれを祐け、吉にして利ろしからざるなし。 易に関わる者なのであれば、
断易スレのような場自体の存在を許すな! ここのこと研究会で話題になってるぞ
皆知っているから覚悟しておけ
あまりふざけている易学界が黙ってはいない 360さんを始めこのスレの住人の方々が易に対して造詣が深いのはよく理解できるし勉強にもなるのですが、
自分はネットスクリプト・アプリ・サイコロ等で立卦して当て物として易を楽しんでいるので
宗派が異なったりやり方がご自身と違うからと自分がやっていることを否定されるのはとても
悲しいので、ご自身のやり方や「これが正しい」と考えを押し付けあう今の流れはとても寂しいです。
「自分はこうだけどあなたはこうなのだ」とお互いを尊重できる前のスレの雰囲気に戻ってほしい >>582
ある種の良識だとは思いますし、書かれていることが他のことだったらもちろん
賛成しますが、易はそういうものでは断じてないです。
人類最古の書典に、こういうものだと聖人が定言的に書いているものがあり、
ただそこに、不遜な様々なおかしな考えも現れてしまっている、でもその本来の
そのままの体系は、本当に聖人がただ1つ作った貴重な体系、人類の最初で最後の
絶対的な知恵の道なのです。
それを行うからには、私は遊びだと思うから遊びでいいんだなどという考え方
ではだめだと思う。何が正しいのかをよく考えてください。
「たとえば、黒人の肌の色が黒いので私は黒んぼだと呼んで楽しんでいます。
「自分はこうだけどあなたはこうなのだ」と認めてください」といって認められますか?
同じです。これが認められない、そんな認められないレベルではない。
易は、畏れ多くも聖伝で聖人がおしゃっている通り、人間が聖人へと至るただ一つの
道なのです。それを、私はぜんぜん違う体系で遊ぶと決めているからそれでいいんです
などというおかしな相対主義で捉えることは単に不遜であって、絶対に与することはできない。
考え直してください。 >>582
付け加えますが、
これは決して、単に言論封殺をしようとしているのではありません。
ただ、広い視点でいろいろ見ているならば、「それは義理易だ」などとおかしな
レッテル貼りで無価値化するのではなく、私が言っている易経の伝の聖人の言に
基づく正統性についても理解できるはずでしょう。
それでもなお、それを無視するという立場を取っているということは、
ご自身が寄って立つ考え方や信念がなくてはならない。
そういうものがなく「私は当て物として易を楽しんでいる事実あるんだ」くらいしか
根拠がないのであれば、それはやめなくてはならない。
しかし、何か主張や根拠があるならば、ぜひ主張してください。ただ、
すみませんがこれは本当に重要なことで、人類にとって重要なことですから、主張に
誤りや間違いがあれば徹底的に反論します。 >>584
してるじゃん
お前のせいで断易の話する奴一人も居なくなったじゃん。
お前は独裁者。 >>360さん
ID変わっているかもしれませんが582です
岩波文庫の易経は読みました
現在周易と呼ばれているもののスタンダードは360さんの仰るとおり
中国の聖人たちが智恵を集結させてとりまとめたものであり易経に記載されているものだと理解しています
自分の勉強が不足しているので引用ができるのは易経のみ、易経に記載されていることが周易だと考えております
360さんが>>403で引用されているように繋辞上伝には
>聖人卦を設けて象を観し、辞を繋けて吉凶を明らかにす。剛柔相推して変化生ず。
との記載がありますが、>>405で引用されているのはあくまでも松井稀星という方が認識している内容であって
易経には書かれていませんよね?
360さんが松井稀星という方の流れを汲んで、その方の考えを尊んでおり、かつご自身もそれが正しいと
もちろん考えていらっしゃるかと存じますが、360さんの易に対するお考えの理屈は松井稀星さんが根拠と
なっていらっしゃって、易経に書かれている象や卦に対する説明を尊んでいないように感じてしまうんです
なので私のように易経をベースとした周易に馴染んでいるものからすると、360さんは他の考え方を
受け入れない、排他的なかたに見えてしまいます
これはあくまで私の受け取り方であり、360さんの仰ってることが間違っているとは決して思いませんし
360さんの深い智恵には尊敬の念も持っていますが、スタンダードな周易の考え方や、周易から派生した断易も
「正しくない」とつっぱねるのではなく、「そういう考え方をする人もいる」と受け取って
ご自身と異なる考えの人を論破するのではなく受け流すという手段をなさってほしいのです 易の解説文を書いた人は孔子という人ですが彼が易経のすべてを発明
した訳ではなく
儒学の孔子が論語を書いたのも学問という視点ですから宗教とは違います。
易経を宗教のように勘違いしているのでしたら、それは間違いです。
聖人に至るという考え方も違っていて、儒教というものが示す四書五経
は宗教ではなく今で言うビジネス書に近いものです。
学ぶという姿勢が大切なのであって聖人を目指すことを目的としていません。
易経の読み方も様々に読めますので100人居れば100通りの解釈もある
でしょう。
筮竹を用いてもイーチンダイスを用いても銅銭を用いても変わらず結果は
出ます。その結果をどう理解し判断するのかが人間側に求められるのです。
人類の英知云々とか易経を宗教のように特別に持ち上げて理解する人達より
はスマホのシミュレーションゲームで遊ぶ現代の人のほうがはるかに易経の
本質に近いのです。
聖人への絶対的な道が最後にサイコロでしたら最高の皮肉でしょう。 まず、丁寧にお話しくださったことは誠にありがとうございます。
あなたのようにきちんと検討しようという方はいままでここに
いませんでした。大変貴重なことだと思っております。
そこはそのように思っている上で、私の言っていることや易に
対して大変な誤解をお持ちだと思います。
そこをご説明します。特に、587に書いてあることは全体的に
大きく間違っているとしか言えません。特に易経の繋辞伝をよく
読んだことがあれば、決して出てこないようなことを仰っています。
以下、ひとつひとつご返信します。 まず、流派は私にとっては大変役に立ちましたんで、松井稀星の伝承もしばしば
口にしましたが、流祖や稀星先生の意見や言動を尊崇しているという要素は全く
ありません。
すべて私の主張は、易経本文と十翼しか根拠にしておりません。全てです。
易が聖人になるためのものだということも、筮は本筮法のみだということも、
辞の使い方や経典と実践の位置づけも、象が自身の心を反映し、百姓(ひゃくせい)
の心が聖人に近づくために示されるのだということもです。
全て、明快に繋辞伝に記載があります。また、このように言うと、繋辞しか読まないのか
などという者もいたが、何を言っているのか。
本文十翼はすべて尊崇しているが、やり方と扱い方は主に繋辞伝に具体的明快に言及
されているために引用回数が多くなるだけである。 もちろん、文書が様々な解釈を許すということはそうでしょう。
しかし、解釈可能な幅というものがあります。
易が編纂されたときに、これはこういう目的でこう使うのだ、と明快に
書いてあり、しかもそこに、これは心を表し聖人になるためのものだ、
そして尊いものだと書かれている。
それに対して、どのような解釈余地がありますか?教えていただきたい。
易の説明はこのように明快なのですから、主張も反論も易の本文十翼に
基づいて行われるべきです。
私は、あなたの議論姿勢は大いに肯定しますが、あまりに読み込みが足りません。
それで易を論ずるなと言いたい。何かを分かったかのように物語るなと言いたい。
繋辞伝に、孔子がすべて書いたと書いてありますか?間違っています。
繋辞下伝に、周王憂患の時とありますよ。よく読んでください。
あなたの宗教の定義は知りませんが、別に私は後付けで易を宗教とくっつけたいわけ
ではない。易の本文十翼に、易とは聖人にになるための道であり、日々の実践により
目指すものだと書いてありますよ。よく読んでください。
後世において、ダイスでも銅銭でも卦を出している者がいるのは事実だろうが、易には
ただひとつの筮法しか書いてありませんよ。よく読んでください。
最初に定義したものと違うことをやっている者がいたら、それが正しくなってしまうのか。
だとしたら物事の正しさの基準、価値の基準をどこに置くのですか。
聖人になる道ではなくビジネス書だというのが正しいなどという記載は噴飯ものです。
本文十翼あるいは構造的な典拠をもって語ってください。 他の方の言うこともそうです。習慣的に行われていることをよしとして、易の本来の
価値があまりに忘れられており、それを指摘しても何も振り返るものがいない。
それは明らかに小人の道であり、到底、易ではありません。
別に、自分の言っていることがすべて正しいなどと思っていない。
易の本文十翼に基づいて、自分の正当性の根拠を正しく築いている方が
いらっしゃり、そういう主張をなさるのであれば、ぜひ積極的にお聞きし、
参考にし、受け入れ検討したい。
しかし、今までのところ、そういう方が一人もいない。
態度においては失礼な者も、586さんのように丁寧な方もいるが、
等しく、易をやっているといいながら、あまりにも聖典を軽視しすぎであり、
特に繋辞伝をあまりにも読んでいない。
易とはそもそも何で、何が正しいのかということを軽視しすぎです。
いま習慣的に行われているおかしな易という名のついた行いを弁護するあまり、
易における正しさへの認識があまりに足りない。
だから言っているのです。到底、看過できません。
ご自身の主張が、何に基づいて正しいのかをもっとしっかり考えてください。
その程度のことも行わない方に対して批判することが、なにか不適当なことだとは
私は一切思いません。 >>581
狭い業界だなぁ
>>590
お前まさか筮竹使ってねーだろうな? >>592
乱暴な言葉遣いの低能なアホの質問に答えてやる義理はないが、質問返しだけ
してやる。
何となく、何が言いたいのか予測はつくが、恐らくおまえが悪い頭で考えている、
「本文十翼を典拠にするなら筮竹を使ってはならない」
ということの根拠となる、本文十翼の記述は何なの?会話してやるから、
まずそれを書け。
また、突然質問から入るのは失礼だということを認識しろ。
質問するなら、主張したい意見を丁寧に最初にかけ。わかったかバカ。 >>582=586です
360さんお返事ありがとうございます
ひとつだけ申し上げますが、>>587さんは私とは別人です。587さんすみません
繁辞上伝十一章には
>孔子がいう、そもそも易は何のためのものか。そもそも易は物事を開いて、やらねばならない仕事を成し、
>天下の道をおおうものである。このようなものだけである。
なので、易経そのものが聖人になるためのものだとは記載はないかと存じます
他にあったら浅学な私のためにご教示お願いします
以下は私の主観的意見でしかないのですが、中国儒教の教えでは聖人とは
>一般的に徳が高く、人格高潔で、生き方において他の人物の模範となるような人物のことをさす。
とWikipediaにあり、易経に書かれている卦辞の内容も(私の意訳になってしまいますが)
小人のごとく無知であったり恐れを知らなかったりすると悪い結果を招き、
大人=聖人であれば災いを逃れる、咎なし。とあるものが多いです
これは導かれた卦辞の教えに従うことで災いを避けられるということだと理解しています
なので360さんの仰るように、
>百姓(ひゃくせい)の心が聖人に近づくために示される
というのはごもっともだと感じます
お百姓さんが易に触れ、立派な心掛けで過ごすことにより精神的に聖人になるためのものだと思うと易は素晴らしいです
そしてこれも私の感じ方の話になってしまうのですが、例え古代中国の無学なお百姓さんであっても
易に触れ、学ぶことで自身の精神を高貴なものとし、自己を高めるために易を利用するのであれば
易経は>>587さんが仰るビジネス書または現代の自己啓発書に近いものと受け取るとあながち間違っては
いないように感じるのですが、いかがでしょうか?
そのような柔軟さを見せていただけると、スレを読んでる他の方にも360さんのお話しを受け入れやすく、
また私のように易について勉強させて頂く機会になり、360さんはご自身の仰る正しい易を理解してもらうための
足掛かりになるように私は感じております もう少し教えてやる。蓍が説文解字でどう解釈されているか、
恐らく知らないだろう。単一の植物の意になっていない。
失礼な奴にこれ以上指導する気はない。
知らないなら知らないと言え。 >>594 さん
なるほど、587さんと別の方なのですね。だとすると、586については、易論そのものは
少ないですが、何か端的に間違っているという記載はないように思われますし、ご助言
ありがとうございました。
それでご質問の、聖人になるためのものだという記載は多数あるというか、繋辞伝には
そのことばかり書いてあると思いますよ。私見もありますので、ご一緒に検討できれば
とは思います。
繋辞上伝の7章 聖人として生きようとする者の徳を磨き行いを崇くするものだ
10章 易に聖人の道が4ありとして四聖道を記載
11章は、自分でない聖人が易を作った時のありようとして取ることも可能ですが、
私としては易で至る所のありようを表すと考えたほうが良いと考えています。
また、特に象伝には、君子・聖人・聖王との記載が様々にされていますが、
詳論は省くものの、君子とは聖人へ向けて実践を積み重ねる最中の姿、
聖人は目指す姿そのもの、聖王はめざす姿を達成した後の事績と考えるのが
一番良いと思います。
これら全ての要素から言って、易は聖人を目指すもの、少なくともそれに近くなることを
志向するものだというのは疑い得ないのではないでしょうか。 >例え古代中国の無学なお百姓さんであっても
>易に触れ、学ぶことで自身の精神を高貴なものとし、自己を高めるために易を利用するのであれば
>易経は>>587さんが仰るビジネス書または現代の自己啓発書に近いものと受け取るとあながち間違っては
> いないように感じるのですが、いかがでしょうか?
こういう趣旨であれば、私も同感です。
ただ587さんの内容を見ると、そういう趣旨は少ないように思われ、神聖性・精神性の
対極としての「単なる参考としての読み物」「合理性しかない」というような意味合いで
ビジネス書と書かれているようにしか読めないです。
なので、そういう意味合いでは全体として間違っているとしか言えませんし、ほかの
587さんの内容を見ると、あまりに易の捉えが主観的過ぎ、ほとんど何も原点を味読
していないのではという風に感じました。否定したのはそのためです。
繰り返しますが、594さんの仰る趣旨であれば、ビジネス書に似ているということに大いに
同意いたします。 >>597-598
お返事ありがとうございます
これまでのレスを拝見していて気難しい方という印象を受けていたのですが、ご丁寧に書き込んでくださって
ありがとうございます。浅学ですが胸をお借りします
繁辞伝七章
>孔子はいう、易はなんと至れるものか。そもそも易は、聖人が徳を高め、事業を広めるためである。
ここは以下
>聖人は、おもうに天下の奥深い道理を見ることができるので、これをその事物のありさまをなぞらえて、
>その相応する物に象どった。このようなわけでこれを象という。
>聖人は、おもうに天下の動きを見ることができるので、その物が集まることと変化することを観て、
>もって定まった作法を行ない、ことばをかけてもってその吉凶をさだめた。このようなわけでこれを爻という。
と続く部分ですが私には、>>597のお言葉を借りると既に聖人であるひとが聖王へと成るためのもののように
読みとりました
十章
>易に聖人の道が四つある。易を用いて言う人は、易の辞(ことば)を尊び、易を用いて動く人は易の変化を尊び、
>易を用いて道具を作る人は易の象(形)を尊び、易を用いて占いをする人は占断を尊ぶ。
これはなるほど、易を学び使用することで聖人になるための筋道を説いていると読めます
私の受け取り方が変なのか、「でもこれを正しく実行できるひとは既に聖人なのではないか」とも思いました…
まず聖人とは改めてなんだろう?というところが改めて疑問になったので、儒教についてざっと調べてみましたが
聖人とは簡単に言えば道理をわきまえ、他者への思いやりがあり、ひととして完成され豊かなものが聖人と呼び、
聖人を目指すための学問が儒教、儒教の教典のひとつが易経になると
であれば易経は間違いなく聖人になるための教えを説いたもののひとつ、ということになりますね
初歩の初歩なんでしょうがあまり把握せずにいたのでこれだけでも勉強になりました
無知が恥ずかしいです それにしてもよくその長文を待ち構えていたかのように即レスできるもんだ
>>593
つまり質問には都合が悪いから答えられないと
分かりやすいなぁ >>597-598
レスにないお話しですが、占法についての話題が出たので、よろしければご意見を伺いたいです
>>582でも私自身が、587さんも挙げられていますがサイコロ・スクリプト・コイン等で易として立卦することが
現代では主流となっています
本来の周易は蓍(メドギ)を使用しており、いまは筮竹が使われています
それは360さんが仰るように正しいであろう占法であり、サイコロ等を使うようになったのは明治時代あたりかな?と
認識しているのですが、もちろん蓍や筮竹は古くから使われており、サイコロやコインが使用されるようになった
のは100年ほどの歴史だと思われます
他の易スレでとある方が
>簡易的な略坐法だと短時間でできるので町で商売するような易者が好んで用いるが
>本坐法と違って出てくる爻の組み合わせに制限があるので読解にも差が出てくる。
>だから普通はプロだと難しい依頼や特に重要と思われる場合には時間と結果の質の間の
>トレードオフで中坐法を使う人が多い。
と書き込みなさっており、占いとして易を使用するかたもいらっしゃり、かつサイコロやコインでも
「当たる」「易の神託を得られる」と判断した人たちが多数いたために本筮法以外の占法や筮竹以外の用具が
主流になったのかと存じます
例え話ですが「確信犯」という言葉は本来「自身の信念に基づいた犯罪、またはそれを行うひと」という意味ですが
「理解した上で悪いことをしている」と誤用をする人が多数いて(本当は「故意犯」が正解)、
その結果辞書にも「確信犯=分かってて悪いことをしている人」と載るようになりました
これと近いものと捉えると、立卦のために用いられる用具や占法がより手軽なものに変化していったのは
それが当たり前だと認識する人が増えた結果であり、誤用も続けていけば正しいものになるのと同じに
捉えられなくもないと感じてしまいますが、いかがでしょうか?
もちろん「故意犯」「筮竹」「本筮法」が正しいということは理解した上です
易経は変化の書ですから、変化を受け入れるのも易のあり方のひとつなのでは…とふと思いました その通り。どう見ても599は360の自演。
360は、都合が悪くなると長文の自演をして
自分に納得してる奴がいるという演出をしている また自演
360に従う犬みたいな奴の自演をして
質問や批判をかわす
360は、浅ましいやつ 違ったら反論するはずだが
図星だからぐうの音も出ない
なにが聖人の道だか まだ返信がないところを見ると、599とか601
は本当に360の自演なんだな。
ばれたから逃げて無視してる。
とんでもない奴。単なる荒らし >>605
外出先なのでID異なりますが599=601です
自宅のwifiだと599=601のIDになります
常にここに張り付いているわけじゃないので即レスなんてできないですよ
そのように決めつけたい方に申し上げても無駄だと思って特に書き込みするつもりはなかったですが申し上げます
>>582・586・594・599・601が私が書き込んだものになりますが
全てお読みいただいた上でご判断いただきたいのですが、360さんを全面的に肯定することを私は常に
述べているでしょうか?
あくまでも360さんのご意見ご考察は間違っていない、ただ他の人の考えも受け入れる思考のゆとりを持ってほしい、
その要望を踏まえてものを申しております
なので「他の方が仰ることをこのように受け取れば、360さんの考えに近くなりませんか?」等と>>594でも
申し上げております。その私の言動に対して何かご不満があるのでしょうか?
私の書き込みが360さんの自演という思い込みを切り離していただいた上で私に落ち度があったのであれば、
「どこが」と明確にご指摘いただいてからきちんと謝罪いたします 全面的に肯定してないから別人だってことねw
へー それが別人だってことの説明なんだw
>あくまでも360さんのご意見ご考察は間違っていない
wwww 外出先だから360出てこられないんだw
ちょっと気になって来年東京五輪開催されるか
立卦してみたら 水沢節 3爻 の微妙な結果になった
何か調子に乗ってやりすぎてひどいことになったけど
反省してやりかたを変えてなんとかする的な
五輪になれば絶対儲かるからイケイケで金使い込んだのに
コロナで回収不能になってギャフンw
今度は一転慎重に進めてなんとか開催できるみたいな >誤用も続けていけば正しいものになるのと同じに
>捉えられなくもないと感じてしまいますが、いかがでしょうか?
>もちろん「故意犯」「筮竹」「本筮法」が正しいということは理解した上です
はい、本音を言いますと、何か所か、初心の方に中筮法を勧めたこともあったと思います。
本筮以外は筮法とは言えないと考えてはおりますが、それ以外の方法に何の意味もないかというと
そこまでとも個人的には思わない節もあります。
ただ、略筮・三変筮はどう考えてもだめです。この場所に書き始めてからも絶望的にだめだと
思いましたが、このすぐ上の書き込みで、ここまで言っても、なおまだ「示された卦から連想すれば
結びつく」という根本的な誤解が、略筮だとどうしても起こってしまいます。
「節の三爻を見たらこう書いてあったのでこうだろう」という判断には、卦に接近するための
全ての重要な部分が切り捨てられてしまっており、全く別の何かになってしまっています。
そして、本筮を本当にやるべきだと私が思っているのは、筮法修練における体感であります。 >>606
その割りには360のレスのあと大して時間をかけずに長文レスしてるよね
どうして? 繰り返し行うと分かりますが、本筮法は、やり方をしっかり体得すれば、他のやり方とは
全然違うところがあります。
略筮(というものは無いと思っていますが)でも中筮でも、心の中で数を数えたり、乾坤震巽…
と唱えなくてはならないが、本筮は4本ずつ切って余りを順に徐す作業なので、心を限りなく
空にできるのです。作法の体感が本質的に全然別です。
これをありがたくも繋辞上伝 第9章を身読しながら行った時に、陰陽不測乃神が、最初に
天地を創り、四時を運行し、閏を徐して祭りとし、復年の再閏の祭において斎戒したという
宇宙創成と世界の運行そのままが、筮具手中において体感でき、易理の本質が見えてくる
ような別心情が現れてくるという経験を本当に無限にしております。
本筮法こそは易の粋であって、仕方なしに他の何をやるにせよ、これの深い修練と体感なしに、
何も語り得ないであろうという確信があります。
本筮が聖典にただ一つ述べられているからこそ、それのみが正法だということはもちろんですが、
その確信が深まる、浅学ではございますが私の体感を、述べさせて頂きました。
ご丁寧なご質問、誠にありがとうございました。少しでもお役に立てば幸いです。 別に本人であることにそこまでこだわるわけでもないが、正面から反論できないせいで
すぐ上のようにしつこく茶々を入れる馬鹿がいますので、なりすましをされても
606さんのような方と話ができなくなりますから、一応トリップを入れます。
よろしくお願いいたします。 これもう荒らしだろ
キチガイ系の荒らしは確信犯の荒らしと違って反省しないししつこいからたちが悪い >>609
全然違う。問いの捉え方・示された卦の捉え方・変化の捉え方が全ておかしい。
断言しすぎるのはよくないといわれたから、こういう意見もあると少しは考えよ。
理解できなければ説明するから、最低限の礼儀は守って質問せよ。
「東京五輪が開催されるか、ということに対してどう捉えればいいか」がその場合の
問いであって、本卦に示されるのは「それを悩んでいる自分」である。
だから、節はあくまで自分であり、その道窮まった中で悦びて険を行おうとして
その問いに対して解決し認識しようとする、節する認識の中でその情報に向き合う
自分の姿を現す。それで、それが全て間違っており、本当の姿は需だと言っている。
少しも理解できないのは、頭が悪すぎるんだな。
あと、勝手にやってればいいが、略筮なんかやったって全く易になっていない。
陰陽記号を使って理由がこうだとか未来がどうだとか妄想しているだけ。
完全に中坊の妄想のレベル。 >>609
付け加える。五輪の話だから易で試しに見てみよう、当たるかなどうかなとか
子どもみたいなバカな動機で易という名づけをしたアホな妄想遊びで筮具を
弄ぶな。バカ者。
畏れ多くも繋辞下伝の第5章に、小人は不仁を恥じず、不義を畏れず、利を見ざれば
勧まず、威さざれば懲りずとあるが、まさにお前のことだ。こうして正面から威すれば
無言になり、礼儀正しい問い質しもできず、匿名で悪口を言うだけで、易の道に
最も反しているのはアホなお前だ。
それで、くれぐれも誤解しないでほしいが、「五輪開催をきっかけにして筮を
取ってはいけない」などとは全く言っていない。
よくよく615を読んで欲しいが、「自分から切り離されたものを妄想する」風に
問いを扱うことがおかしいと言っている。示された卦は五輪でなく、五輪を考える
ばかなお前を表すんだと言っている。聖伝に書いてある通りのことを言っている。
五輪に対してどうだろうと思う、ということは、「自分から切り離された五輪
の行く末を予測する」などということはどうでもよく、そういう妄想がしたければ
勝手にしろ。ただし、それは易ではない。
そうではなく、「そういうことを気にした自分」に、畏れ多くも繋辞伝第五章の
百姓の心が相違として露見しており、つまり違う聖人の心があり、認識しやすい
状態になっている。
だから、易は本卦と変卦の2つが表され、それに気づく機縁となる。
易として与えられたその気づきの機縁をくれぐれも無視するな。
略筮はするな。
衷心から伝えている。わからなければ質問しろ。
耳を塞いで無視するな。 360さんにお聞きしたいのですが
易の昔の本に書かれている聖人とは
そのようにひとさまをバカ者だとかアホなお前だとか言う諭し方をするのですか?
少し前に屯の理由を問うたものですが
あなたはあのとき屯の不変卦を掲示に得た筈ですが
360さんのお説を鑑みるにあの時の易はこのスレッドに対する何かでなく
あなたご自身の無明に対しての易からの真摯な答えだったのではないのですか?
自作自演とやらは余人に証明不能ですしどうでもいいですが
周りがバカに見えている人はその実当人が一番バカなのが
とどのつまりこの世の中というものかと思いますが如何に? >>617
たかだか煽られてうるさいバカ!とこどものように怒ってるだけなのに
よくもそうダラダラと中身のない駄文を書き連ねられるな >>618
ご意見頂き誠にありがとうございます。
真摯に受け止めたいと思います。
そう思いつつも、こちらが書いていることを一説としても考慮せず、
ひたすらに自演だとありもしないことを言い続ける方に対して、
表層的な礼儀を守り続けた方が良いというご意見ですか?
だとしたらそれには反論いたします。
易という聖道に縁があり、しかも道義に叶った行いをしない者への警鐘を
鳴らすことは私の意思です。
もちろん、礼儀正しい方には正しく応対します。
無礼な者に激しい口調で警笛を鳴らすことについて、一方的に私が不当だとは思えないのですが、いかがですか。 この程度で自演ではないと認定されるとは思いませんが…
特に具体的なご指摘もありませんでしたが、荒らしと見られてしまうのは本意ではございませんので
鳥付けて書き込むのは本日のみです、ご容赦ください
>>606
昨晩の話ですか?
でしたらこのスレを覗いた際に360さんが続けて書き込みされていたので「いらっしゃるのだな」と判断し
レスしたところお返事があったのでそのまま書き込みしただけですよ
>>607-609の流れと同じものではないでしょうか
>>610>>612
礼を尽くしたご回答をいただきこちらこそありがとうございます
360さんが予想より排他的な考えではなかったことが嬉しいです
そして反抗するようで恐縮ですが、私はこのスレで幾度か申し上げておりますように、360さんのご意見が
間違っているとは決して感じておりません
ただ、全てが正当であるとも思っておりません
先に申し上げましたように、私は岩波の易経を拝読しただけの浅学者です
なので間違いを表すこともあるかと存じますが、易は本筮法が正当である、360さんのその主張は正しいと思っています
ただ、私が易経を読んだ限りでは本文中に本筮法の他中筮法及び略筮法の手順の記載があります
易経にはそれだけです。「略筮法が本筮法や中筮法に比べて劣ったものである」「正道を得ていない占法である」
とは書かれておりません。360さんが仰るように本筮法が易の真髄、基礎、とお考えであることは否定
いたしませんし、それは360さんの主張として何ら間違ってはいないです。ただ、易経に手法として略筮法の記載が
あり、実際にそれを易として利用している方、過去の私も含めて多数おります
そのためご自身の主義主張だけを通そうとせず、360さんからしたら恐らく不本意であるかと予想できますが
他の方のやり方を否定するようなお言葉はご自身のためにならないと思うのです
なので>>586でも同様のことを僭越ながら申し上げました。ご気分を害されたらすみません
私が荒らしとされてこのスレをご覧のかたに不快な思いをさせるのは本意ではごさいませんので、
今後お話しさせていただく機会はなくなりますが、360さんとお話しさせていただき本当に勉強になりました
ありがとうございました 改めましてこのスレをご覧の方、そのつもりはありませんでしたが私の書き込みでご不興を買ってしまったようで
大変申し訳ございませんでした
これで消えます。失礼いたしました >>623 さん
お読みいただいてありがとうございました。正直、>>625のような輩が正当だと思う
馬鹿な人が多数派だと思えないので、今後も書き込み頂いて良いのではないかと思いますが…
それで、
>私が易経を読んだ限りでは本文中に本筮法の他中筮法及び略筮法の手順の記載があります
はい、これは知識的なことなので明確に申し上げますが、間違いです。
岩波の高田先生の、解説部分は網羅的なので、そこには略筮法の記載があると思います。
しかし、易経の本文十翼の、特に繋辞伝に書かれている手法には、本筮法以外の
記載は一切載っていません。確認してみてください。
排他的に否定したいということを第一にしたいわけではありませんが、
この場所でも痛感しましたが、特に略筮のような方法は、卦と爻の意味が
変わってきてしまいます。
もう少し別の本で、あまり有名でない本になりますが、加藤大岳という人が
書いた主張では略筮まで可とされていますが、総論として私はまったく説得的
だと思いません。詳しくは割愛します。
取り急ぎ、とにかく、本文十翼をよく読んでみてください。 狂ってる奴のテンプレみたいだがこいつは自覚すらないのだろうな
とりあえず真勢派は災難だったなとしか
これでこのスレを見た人間は自称真勢派のキチガイのせいで真勢派へ偏見を持ってしまった >>627
口調が激しすぎるというお叱りも頂きましたんで、少し反省して書きますね。
あなた、狂った狂ったとおっしゃるが、何がどう狂っているのか、もう少し
対話口調でご提示され、話してみたらいかがですか。
私が狂っているとして、その言い方では反省もできませんよ。
具体的に各論で、かつ、議論ができる姿勢で話してください。
あなたと同じ人か違う人かわかりませんが、前に、たいへん興奮して、とにかく
説卦伝に象が多いからお前が言うことは間違いだという、まったく理由にならない
主張をした馬鹿な人がいました。
おっと、ばかといってはいけませんでしたね。まあそういう人がいました。
ああいう発言姿勢・論拠のない主張は対話とは言いません。
礼儀正しければ別にかみつきませんから、礼儀正しく書いてみましょう。
よろしくお願いしますね。 郷に入りては郷に従えという言葉を知らず便所に落書きをするスタイル >>628
あなたの主義主張はわかったけど、
あなたの占法は当たる、つまり未来予知が可能なの?
それとも「易はあてものじゃない」という考えなの? >>631
何度も言っている通り、易とは畏れ多くも繋辞伝に書かれている通り、聖人になるための道であり、それが唯一にして本来の捉え方だという主張です。
当て物がどうかというのは、その内容が何を指しているのかがよくわかっていません。
一つ一つの卦は連想ではなく、悩んでいる自身の捉えなおしをするためのものです。
そのプロセスで認識が真正のものになり、過去から未来まで見通せるようになります。
なので、未来予測的なものも効果に含まれるとは思います。
ただ、そこが中心ではなく、本文十翼の記載にあるわけですから、第一義は聖人の道であることです。
当然です。それ以外にはありません。
これは、あなたにとって「当てモノ」という機能を含みますか?含みませんか?
聖人への道のひとつとしての、畏れ多くも繋辞上伝第四章に言う、知幽明の故などに当たる感性は当然に出てくるものです。なので、色々見通せるようにはなりますね。 >>631
あともう一点、重要な点がありました。
「あなたの占法」を聞いているが、私の占法などというものはありません。
聖伝に書かれた占法があるだけで、当然にそれが易の全ての占法です。
聖伝をそのまま言っているだけです。 >>632
なるほど、私の考えてる実用的な易とは違うようですね
御返事どうもありがと >>634
お応えもさせて頂きましたので、こちらからもご質問をさせてください。
「実用的な易」とはどういう意味でしょうか?何か易にたくさんあるのですか?
易経の本文十翼の中で、易の使用方法は繋辞伝に書かれていますが、
易は聖人への道であり、自身の心を百姓の心から聖人の心に持っていくためのものだと
明確に書かれていますが。
その易が易であるという、あなたが根拠にしているものは何ですか?
何か自由にこれが易だと決めたらそれが易ですか?
「便所の糞を易だと呼んだら私にとってそれは易だ」というのも、その人の自己決定
だという意味ではそうですが、まったく他者から認められない信念だと思います。
そういう意味で仰っていると考えて良いですか? >>628
言っているそばから何も反省できていない…
知的障害の類いにしか見えないがキチガイとは概してこういうものよな >>636
いやいや、違いますね。
反論できるなら反論すればいいじゃないですか。できないんですよ。
繋辞伝に記載された易の目的・易の方法以外の方法に、説得力があるわけがないからです。
そして、その反論ができないことをもって、私が極端な主張をしているという風に妄想して
それでよしとしていることに気づいていますか?
それは間違っています。
そうではなく、単に正しくなくて筋が通っていないから反論根拠が見いだせないだけです。
早くそのことに気づき、易でないものを易と呼ぶ、おかしな方法をやめましょう。
ここまで普通の口調で語って、それでも狂った狂ったといったらどちらが不当かは明らかです。 これで、まっとうに対話姿勢の返事がなかったら、本当に信じられない卑怯さだ。
おかしな妄想的な方法を易だと呼んで、未来予測だの、片言節句の解釈だのに
耽っているから、人格が小人へ向かって摩耗しているのだ。
もちろん、普通に対話的に返事を頂けたらそんなことはありません。
ちゃんと検討しましょう。634さん、636さん、お待ちしています。
ひとことだけ書いたり、ひとことだけ質問したりもやめてくださいね。 >>638
また後で
映像の世紀、破獄見ているから >>638
私の考える実用的な易は具体的に言えば恋愛占・結婚占・仕事占・病占・
政治占・天気占・株占・祟霊占なです、何でもいいんです
あまり難しく考えないほうがいいですよ
「仏に逢うては仏を殺せ」ってね、執着しないほうがいい 今日一粒万倍日と天赦日が重なるから試しに宝くじで高額当選するか占ってみたら沢風大過の二爻だったw
真面目に働きます >>640
いやいや、だから、よく聞いてください。
そんなこと易でやるのは一切無理。できないんだよ。
そういう風に、客観的に物事がどうなるかを出す体系になってない。
わかりますかね。易ができた時に作った聖人が説明書をつけてくれているんだけども、
そこに、そんな風なことができるって書いていないの。
というのも語弊があるのだが、あえてわかりやすく言っているんですが、
自分があることに対して問い・違和感を持った時に、そのことに対して自分が
本当はどう思っているのか、は易でわかるのだが、それ以外のことは一切わかりません。
反対に、その自分が思っていることが恋愛とか仕事とか病だったら、
「本当の自分の心はそれに対してどう思っているか」は100%必ずわかるし、
そこで思っていることが真実ではあるよ。
それ以外のことが、何か機械のように易で予測できるという風に言っている人は、
完全に嘘なんだよ。わかるかね。
難しく考えているわけでもないし、執着しているわけでもない。
作った人がそう書いているんだから。単純な話。わかりますかね。 >>641
全然違う。
しっかり考えるということが少なくともポイントにならないと
卦の受け取りとしておかしい。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています