>>624 大正12年の6月生まれなので鏡里とは同年のようだ。大学に進んで後、旧制中学時代の同級生とよく鏡里を語った。
戦後生まれ世代にはわからないかもしれないが、じつは我々が一番「いい思い」を経験した世代だったのではないかと思う。
昭和に入るとモノは豪華に充実し、山の手の大邸宅には電気の洗濯機も冷蔵庫も掃除機もあった。クーラー完備の富豪屋敷もあった。
現在の生活と異なるのはテレビくらいなもの(エログロナンセンスもウーマンリブもアルバイトも流行った)
ファッションに目を移せば、きものは勿論、上質な洋装や帽子、靴、時計や貴金属を身につけていた。
時代は明るく豊かで自由にして豪放、旧制中学では自由を謳歌し、高歌放吟の日々。
今の若者の自由は萎縮し、アメリカの下着のようなシャツや労働者のパンツを穿いているように見える。洒脱ではないね。
関取衆も上位ともなれば華美であった。まだ花柳界が繁栄していたので、力士は男芸者と言われてパトロンによくかしづいた。
それでいて大衆は税金を一銭も納めなくていいんだから。相撲・活動・芝居・講談・落語……大衆の娯楽は隆盛をきわめたね。
「四場所優勝、無敵双葉山」だとか「タンクに日の丸南京入城」なんて掛け合いでよく言ったものだ。

戦後、高度経済成長期を過ごしてみたものの、どうも全体がアメリカ的ヤスっぽさに満ちていて
昭和初期にあった欧州的なディグニティやオーセンティックな品格が、きもの同様、完全に廃れたね。
高校時代にみんなしてむさぼり読んだ九鬼周造の「いき」の構造のような感性を自覚し体現する者は花柳界が下火になって消え、
三太郎の日記、善の研究、愛と認識との出発のような理念を緻密に説く文章を今の書き手に求めることもできない。

日本は豊かだったんですよ。戦争を挟んで、取り返しのつかない、着る物も頭の中もカップラーメンのごとく成り下がってしまった。
相撲から娯楽の外連味が薄れてスポーツ化していることも、往年の贔屓には忸怩たる思いがある。
芸能としての妙を、今時の「公正(フェアネス)」だとかプロスポーツの清廉に嵌め込んで測り、貶めるのはいかがなものかと思うがね。
民主主義病理マスコミが悪いんだな。私は貴乃花、富士桜や竜虎、高見山、魁傑にかろうじて妙を見るが。
輪湖はおもしろくいないね。国体競技でも見ているようだ。