赤毛のアン第51章「マシュウ・カスバート驚く」
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>>691
だから今まで経験してきた別れの痛みでしょ?
過去でアンが味わった辛い別れならトマス家のケティとハモンド家のビオレッタ
泣きながら別れを告げたその時の痛みが過去の記憶としてあるってだけのこと
トマス家とハモンド家の人たちとの別れを惜しんでいる様子は皆無だからこっちは痛くも痒くもないようだ マリラがギルの父親との昔のロマンスを話してたね
些細なケンカで意地を張ってそれきりて
ツンデレなマリラらしい
アンとギルはめでたく結ばれるけど
マリラも始めはまさかアンが
昔のロマンスの相手の息子と一緒になるとは
ビックリだったろうな
でもこれアンがもしマリラの腹を痛めた実の娘なら
ギルは好きにならなかったろうしな
だって当然アンではないしアンとは違うマリラに似て
大人しい優等生娘だったろうし
後にギルはアンに最初から石板で殴られた時から好きだったと白状してた
運命の綾というかマリラとおよそ正反対で
血の繋がりのないアンだからこそで
いや本当良く出来てるわ >>693
どう考えてもアンはフィリップスのタイプではないだろ
反発し合ってるよ 何かと生徒を殴ってた昭和のクソ教師に比べればフィリップスは聖人。
どのみち女受けはしないだろうけど。 ロミオいいよね。でもここでは何故か評判よくないんだよね。
ロミオが好きだっていうとすぐ「若者」「他を見ていない」と決め付けられたりするし。
でも他の板でたま〜に名作劇場のスレが立つと
ロミオに関する肯定的なレスが多くてびっくりするよ。 まずキャラデザが好みじゃないと見る気がしないんだよ
もちろん個人的な好みなことは分っているけど・・・
そりゃ「トムソーヤの絵が不細工に思える」ってのは俺の偏見か・・・ キャラデザが好みじゃないと見る気がしない
別にいいんじゃない、アンタの価値判断なんだから
そして表面だけで作品の判断をする人を軽蔑する
これも別にいいよね、ワタシの価値判断なんだから レベルの高い初期作品を好きな人格レベルの低いファンと
レベルの低い後期作品を好きな人格レベルの高いファン
まさしくこの通りになってきたな ロミオの設定書にロミオの全裸の設定もあって 股間部分に「かなり大きい
です」と注意書きがあった。ズボンを履かせた場合の基準をアニメーター
に指示したんだろうな エッダの全裸では「胸かなりあります」と書いて
あった。 そういえばハイジも1才の時に親と死に別れたけど親を恋しがるそぶりもなかったな >>707
でも駿も高畑もアン嫌いなんでしょ?
嫌いだから思い入れもなく原作に忠実にすることに専念したとか
彼らに嫌われたおかげで余計な演出をしなかったので神作になれたのかな 一体どこでそんな大嘘を目にしたんだか
>>711
アンタ、アンを見る資格ないよ >>698
フィリップスって鞭で生徒を躾ける場面はなかったっけ
原作の方に
トムソーヤと混じってるかな >>712
>松本正司氏著の世界名作劇場大全によると、赤毛のアンはアニメ化にあたり監督である高畑氏がどうしてもアンの心情を理解する事ができず、脚色せずにストーリーを忠実に追うしかなかったそうだ。しかしそれにも限界があったのか、赤毛のアンで作画を担当していた、かの有名な宮崎駿氏は第14話の途中で「アンは嫌いだ、あとはよろしく」と言い残して赤毛のアンを去り、ルパン三世カリオストロの城へ去っていったそうだ。
高畑は嫌いまでとは言ってないけどアンの心情を理解できずに淡々と原作をアニメーションにしただけのようだ
駿は途中で我慢できず投げ出したんだと 高畑さんがアンに思い入れがないってか心情がわからないから原作通りにしたとかいう話は当時のアニメスタッフが後年書いたムックにあったそうでそこから話が広がったみたいね
でも高畑監督本人のインタビューや著書を読めば決してそんなことはないと思うんだな
そりゃ近藤さんみたいに根っからの赤毛のアンファンではなかったとしても
というわけで毎度貼られる高畑監督インタビュー
http://www.ghibli-museum.jp/anne/kataru/takahata/ >>714
そうそうそれです
でもこういうのはやっぱり本人の言葉を受け止めたいと思うよ 一方の答えが全く正しいとは言えない
それは相互で話し納得しないと正しくはない >>714
その本、俺も持ってるけど大嘘書いてるよな
名作劇場の本の中では当てにしちゃいけない代表格だと思う 高畑監督本人が赤毛のアンについて語ったインタビューで
「理解できなかった」的な発言はしてないと思う
もしそういうインタビュー記事があるなら見てみたいわ どこかのサイトで宮崎氏は、アンは日常生活の作画ばかりだったのが嫌だったとあったよ
例えばお茶をポットから注いで飲むとか、そういうシーンの絵ばかりだったって どこかで見たとかどこかで聞いたみたいな書き込みを鵜呑みにする人のせいで
高畑はアンの面白さが理解できなかったみたいな大嘘が広まっていくんだろうな
あ、宮崎駿に関しては合ってると思う アンが名劇から浮いているのは認める
世界名作劇場に駄作が多いのも原因だが
アンのクオリティの高さはずば抜けている
同列に語れる作品は皆無 文学、絵画、陶芸・・・
文化にはどれも旬の時期というものがあり、
日本映画の黄金時代は昭和30年代、てことで評価が定まってるが
日本テレビアニメの黄金時代は昭和50年代が中心だと言いたい(広目にとると70〜80年代)
多分、異論はないだろう
その中のでも、一つの頂点に立つのが "アン"である
名作劇場シリーズとしても飛び抜けて異次元の作品だが、
それどころか、20世紀に日本が産出した、最も価値ある文化作品の一つだと断言しよう アンが優れた作品であると再認識するたびにとても誇らしい気持ちになるな
そんなアンを愛している自分自身も誇らしく思えてくる不思議 私はうまく言葉に表せないし、名作全部は見ていないけど、フローネも若草も好きで昔から見てたけど、アンにはやっぱりかなわない。
引き込まれる度合いが違う。
アンはアボンリー(広く言ってPEI)という限られた空間の中だけであれだけの珍事件や感動ストーリー、そして美しい絵とこまやかに描かれた心情の描写が素晴らしい。
どの回を見てもおもしろいんだもん。
退屈がないんだよね。
抜群! 泣けるのも疲れるより、ストレスが浄化されて
泣いた後に「本来の自分」が自然にもどってくるかんじなんだよな。
そうして、観た後に「自分の人生も満更でもないじゃないか」と
自分を優しく認め、肯定できるから不思議
自分はアニメを観た後は、なぜか自分を少し否定的にみてしまう事が
本当に多いのだけど、アンを観た後はそうはならないことに驚く
飾りや打算で忘れていた本来のふんわりとしたものが心にもどってくるんだよね 駿は物語に壮大さを求めるからそりゃ犬猿の仲
ただ離れていても互いに思えるものはあったんだろうな >>725
客観的にみて個人的には、いろいろ述べられていることに大体同意。
>>725はむしろ逃げだと思う。
述べられていること自体に反論しないと無意味。 |
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| ノ | >>713
アニメではなかったが原作では勿論鞭をふるっている。というかアンですら教師になって鞭を振るう
>>694
当時なら15、6歳なら歳上と結婚しても普通ではあるからプリシィの
クイーン学院卒業を待ったのだとしたら割合紳士だと思う >>684
>>686
>>687
ちょっとね、日本語の読解力大丈夫?って心配になるよ。
こっちのレスちゃんと読んだの?なんでマシュウが亡くなった晩、アンは「最後の最後でなんで親をずっと思って悲しんでいた」って受け取れるの?本当に日本語大丈夫か?
悲しみを開放して幼な子みたいに泣いているアンは、マシュウの死を思う存分、純粋に悼み悲しんでいる。この時には「鈍い痛み」はないの。「鈍い痛み」はその号泣の前の段階にあったもの。
で、論点は、ずっと昔のこととして説明されている、アンの「鈍い痛み」とはなんぞやでしょ
アン的に言えば、想像力のかけらもなさすぎる
カスバート家に向かえられてからは、孤児時代の不遇が一転して、幸せを刈り取る「報いの季節」だから、アンの両親のことだけではなく、孤児時代の苦い思い出自体が前面に出てきて描写されてたら不自然だろ。別に描写されていないのは、早すぎる両親の喪失だけじゃない。
ところがだ、一見すると両親への想いが描写されていないように見えるが、実はそうじゃない。アンは自分が教員になることを「それこそ私の一生の夢だったの」と言って、クイーンへの進学意思を問うマリラに答えている。
つまりアンは、学問に目覚めるずっと以前から、将来の選択肢の一つとして、教員になる夢を描き続けてきた。なぜだい?両親が高校教師だったからだよ。
そして、両親と同じ職業に就く事を「一生の夢」として心の片隅に持ち続けていたのは、教師をしていた両親への敬愛と愛慕でなくて一体なんだというんだ?
孤児時代、両親の住居についてすら何千回も想像していた女の子が、家主のウォルターとバーサ自身については、なおのこと何万回、何十万回も思い描かなかったわけがないだろ。
もちろんアンに、両親との個人的な関係に基づく思い出は皆無だ。しかし、だからこそ渇ける孤児は、繰り返し繰り返し両親を想像し慕ったんだよ。
(つづく) (つづき>>734)
>>684
>>686
>>687
読み物に親子愛が登場すれば自分の両親を重ねて想像し、日常的に目にする乳飲み児を慈しむ母親の姿や、手を引かれて街を行く親子の姿、転んで泣いている幼子をなだめる母の姿等々・・・こんな愛情溢れる親子愛を目にするたびに、孤児時代のアンは何を想像したと思うね?見たことのない自分の両親を重ねて投影したに決まってるでしょ
根拠なくこの論を展開しているわけではない。
アンが孤児時代、両親のスイートホームを何千回も想像していたこと。物語を読むたびに「お母さん」や「お母さま」とか「ママ」とあるたびに自分の言葉で口ずさんでいたこと(これは原作にない高畑の演出だが、彼はよく原作を読み取っているとみた)。
もちろん、カスバート家に来てからは孤児時代のように両親を想像する必要は無くなってしまっただろうが、かと言ってシャーリー家両親への愛慕が全く消えてしまったわけではない。アンが持ち続けた「教師への夢」が何よりの証拠さ。因みに、これも原作にない「猫いらずリンゴ事件」で、アンのセリフに「カスバート家とシャーリー家の恥にならないように潔い死を向かえよう」を与えた高畑は、アンのシャーリー家(それはつまり両親)への想いの一端を演出している。
で、この前提を踏まえて、遠い昔の「鈍い痛み」とは何なのかその核心に迫る。
(つづく) (つづき>>735)
>>684
>>686
>>687
孤児の悲哀とは一体何かね?
誰もが当たり前に、幼い頃から、無償の愛や家庭の安らぎを経験する。それを提供してくれるはずの両親が「い・な・い」という喪失感こそが「孤児の悲哀」でなくて一体他に何があると言うんだい?
「孤児と言う理由で差別された、意地悪された、虐められた」と言うのは、決して小さくはないが、枝葉のことであって核心ではない。
孤児の悲しみを、両親の喪失と切り離して考えるなんてナンセンス以外の何者でもない。
11歳の春、カスバート家に向かえられたあの日以来、少女の「鈍い痛み」はようやく癒され久しく止んでいた。無償の愛や家庭の安らぎをカスバート兄妹が提供してくれたからさ。
しかし「愛する者の死」という「同一の符号」によって、忘却の彼方に沈んでいたはずの「鈍い痛み」に再びスイッチが入った。無論そのスイッチを押したのは「マシュウの死」さ。
スイッチとなった「マシュウの死」に符合する「死」が、「ウォルターとバーサのあまりにも早すぎる突然の死」意外に一体なにがあると言うんだね?
マシュウが亡くなった晩、アンが悲しみの感情を解放して溢れる涙に身を委ねるまで、彼女を苛んだ「鈍い痛み」を、うめきにも似たアンの心の声として読み取るならきっとこうなる。
「まただ、死の刈り入れ人の厳かな白い手は、またしても私の愛する大切な人を突然に奪っていく…」
(つづく) (つづき>>736)
>>684
>>686
>>687
アンが孤児として歩んだ苦境の11年間の表裏に常にあったものは何か想像してみろよ?
そもそもアンは、なぜ孤児という茨の道を歩むようになったんだい?両親が流行病で倒れて帰らぬ人になったからだろ?しかもご丁寧に二人同時にだ。
アンは、ウォルターとバーサの死を直接体験していない?だから何だって言うんだよ?11歳までの彼女の人生そのものが、両親や家庭の愛情に飢えた「喪失感」そのものなんだよ。
しかし、健気な少女は「両親の喪失」とそれによって引き起こされた自分の身の上をできるだけ直視しないようにしていた。
これは、アンにしてみれば陰鬱に落ちないための自己防衛でもある。この根拠は第4話のホワイトサンドのスペンサー夫人宅に向かう海岸の道でのアンとマリラの会話からわかる。
ところが、悲しい過去を直視しないように努めても、深層心理は決して欺けない。
想像してみろ、道ゆく幸せそうな親子や、窓辺から溢れる灯火の向こうに団欒する家庭の温もり、父親の太い首に走り寄って抱きつく子供達、日常の生活でこれらを目にするたび、孤児のアンはいつも何を想像して眺めていたと思う?ウォルターやバーサの事を重ねて想像しないわけがないだろ。
この辺のアンの心の空洞は「キリスト幼な子を祝したもう」の聖画へのアンのリアクションで表現されている。
普段は意識しないように努めても、潜在的にこびりついて決して離れないこの痛みを直接的な「鋭い」とは書かず、間接的な「鈍い」と書く、これが文学なんだよ。
「ウォルターとバーサの死」こそが、11歳の春までのアンの潜在意識につきまとった「鈍い痛み」以外の何者でもないわ。
両親がいなかったことによってアンがどれほど苦渋を舐めてきたか、想像力があるならちょっとはわかるだろ。
(つづく) (つづき>>737)
>>684
>>686
>>687
両親の記憶がないと言うことは、人生で最も愛情を必要な時に両親を喪失していた事実を消さないし、孤児の少女の人生に「鈍い痛み」の影を落とさない事を意味しない。
もちろん孤児時代の不遇を総体的に捉えて「鈍い痛み」と受け取ることを否定しないが、
その「鈍い痛み」の核心部分に圧倒的に存在するものは「喪失感」以外の何者でもないと言うことさ。
マシュウを失なった「喪失感」が、物心ついた時からウォルターとバーサがいなかった「喪失感」の記憶を呼び覚ました。文字に起こして説明するとこんなに長くなってしまったが、47話の初見で、過去に由来する「鈍い痛み」はコレだって、すぐにピンと来たよ。
で、なんで原作でも、アニメでも、この「鈍い痛み」について「遠い昔」としか説明がないのかといえば、いちいち説明されずとも、行間を読めっていうのが文学だからさ。
もちろんその行間の読みについては個人差があって然りだろうが、それは筋の通らない論を受容することとは全く違う。最低限、話の筋は通さないとな。
もし異論があり、かつ建設的に作品を思索する真摯な態度があるなら、
「マシュウの死」に符合する同一の符号となる「鈍い痛み」が「ウォルターとバーサの死」意外に何があるのか?納得のいく説明と根拠を示してレスしろよ
筋の通らない反対のための反対のレスならいらない こういうのって正解は一つだろうけど、人間の思考って様々だから受け取り手次第で正解は何でもいいんじゃないの?
一応、わたしも両親が居ないことかなあとは思ったが確信できない
書かれていなくても設定で推測させることは良くあるけど、その正解が納得出来ないことがよくあったわ ふと思い返せば、わたしもマリアやアンと同じだった
以前見たときはまだ付き合ってて、アン超面白いって言ってたのにwオワタ >>739
もちろん作品をどう解釈して楽しむかは受け取り手の自由だよ
ただしそれはセオリーを無視して良い理由にはならないと思う
少なくともパブリックな場での発信ではね
たかだか便所の落書きのような5ch だけど
>>740
ん?大切な人が天に召されたってこと? >>741
いや。マシューの死別の方じゃなく、ロマンスの方 >>742
エイブリィ奨学金を諦めるとギルとヨリガモドルラシイゾ >>715
改めて良いインタビューだよね
赤毛のアンという作品に対する理解と愛情を感じる >>745
製作者らがみんなアンと言う作品を愛しているんだもの
良い作品にならないわけがないよ せっかく長文書いた人
妄想凄すぎてやばいな
原作にないけど高畑もきっとこうだったに違いないとか大丈夫かよ 駿は物語に壮大さを求めるからそりゃ犬猿の仲
ただ離れていても互いに思えるものはあったんだろうな ふう、49話まで観たけどどこまで泣かせるつもりなんだ
清々しいまでに小学校低学年を無視した大人向けアニメ 可愛いげのない子供らしくないアンに共感できずにあれこれ視点をかえることでなんとか面白く仕上げた高畑はたいしたもんだ
確かにマリラは途中からアンが馬鹿真面目にやらかす騒動を面白がってたしコミカルだった
駿…アトヨロだったんかい これ当時の子供はどんな風に見てたんだろうな
隣で涙してる親を見て「なんで泣いてるんだろう?」て感じかね >>753
親はアニメなんて子供が見るものという感じで見てなかったよ
8時からの大河ドラマのために家事を終わらしたり風呂入ってた
子供は8時になるともう寝ろと部屋に行かされて大人のテレビタイム
昔の大河ドラマはレイープやエロシーンあったし殺戮シーンも残酷たったから子供には見せたくなかったんだろう 子供の視点だと
「意地悪なオバサンに引き取られても頑張って生きる明るくて強い少女の物語」
に見えていたのかもしれないね。
時には厳しく躾けるのも愛情なんだけど小さい子供にはわからないだろうし。 >>753
( ´∀`)。⚪︎(心の友が欲しいなあ。どの国でも男子は乱暴で意地悪で敵なんだなあ) >>753
花の子ルンルンとかはいさらさんとか、他にいくらでも少女アニメあったからね
あえてこれを見るということは恐らく、相当マセガキだったのは間違いないな。
小学生でも中学受験はするレベル位の。 >>758
当時の少女にとって前半はそこまで難しくないよ。友達がいて仲の良い子意地悪で嫌いな子がいて
ギルみたいに男子が意地悪で新学期毎に嫌な先生や優しい先生になったり
マリラみたいな厳しい母親と当たり障りなくいるかいないかわかんない父親とか
それは日常だったから 普段アニメなんて観ない70過ぎの母が毎日これ楽しみに見てるわ
朝ドラっぽくて面白いのかもしれないな >>760
朝ドラっぽかったら赤毛のアンは見てなかったわ
自分でも何故だか分からないけれど、大半の朝ドラ大嫌いなんだよ >>760
朝ドラっぽかったら赤毛のアンは見てなかったわ
SFC慶應芸能人AO入試の葵わかなとか二階堂ふみが今の朝ドラStandardだろw
AO芸能人入試とか姑息な手段使わずにアンみたいに自分の頭と自分の実力とでAO使わずに大学にしろ行けよ言いたいw この成長ぷりやストーリーからすれば2周目を見る楽しみはあるな >>762
冒頭の文章がシンクロしてるから、しばらく後の文章が、何でこんな化けてるのかと思ったわw >>763
MX組はまだまだ続くので余韻楽しめる
それにしてもサンテレビの再放送の方がMXTV再放送開始後に始まったのにサンTV再放送が途中で追い抜いてしまってMXTV組興ざめいうかしらけさせるサンTV恐るべし阪神駄目でも名激再放送か >>764
そうさのう、わしゃあもうずっとサンテレビはアンの再放送でいいと思うが >>734-738
ちょっと長いけど全部読んだ
教師の夢は両親の影響か
ふつうに考えたら鈍い痛みは両親の喪失だわな
ってかそれ以外何があるの? ギルとの結婚まで引っ張ってほしい。
アンの花嫁姿を見て泣くマリラ。
「マシュウにも見てもらいたかったな」と呟くアン。 そのアンを見て「山を越え谷を越えて来たかいがあったでござるよ、ニンニン」
と、ジョージーパイがしみじみ呟くのを見たかったでござるよ 時は流れ
アンとギルとその子供達。
マシュウ墓で佇むアン家族。
だがそこにはマシュウの墓と並んでマリラの墓もあった。
アンの子供「このお墓に入ってる人はおじいちゃんとおばあちゃん?」
アン「いいえ、でも本当のおじいちゃんおばあちゃんよりもずっと素晴らしい人達よ」
花を供えた後、二人の墓を後にするアン家族。
そしてグリーンゲーブルズの美しい風景が次々と映し出されて物語は終わる。
こういうのも見てみたいぞ。 >>772
マリラは長生きで(85オーバー)、アンの子供たちを溺愛するんだが
アン、ギルバートの長男はミドルネームにマシュウの名前をもらう つべのSD画質もあるけど当時画質があれなら
HDリマスターは抜群やな
顔のアップの目尻、まつ毛のキワがシャープで実物のセルの品質の再現性が高い >>770>>772
そういうのを口に出して台詞で言っちゃうと興ざめだわ >>773
マリラはそんなに長生きするのか。それはよかった。
まあ墓云々は自分の勝手な想像なので気にしないでね。 できれば具体的な描写でギルとアンの1話「おごそかな初夜」おねがいします マシュー『そうさのう〜バラの刺が刺さっていたいのぉ〜こりゃ有り難迷惑ってもんじゃよアン』 赤毛のアンアンだからな。成人向けの、18禁赤毛のアンあってもおかしくない 高畑はアンの原作の面白さが理解できなかった
こっちの説の採用がスレの総意でいいよね
やっぱりちゃんとした出版物に記されているのが決定的 理解してないのにあそこまでできるのが
高畑の天才なんだよなあ アニメの話に原作を持ち出して我の理論シコシコしたいとか悪趣味すぎて吐き気する >>782
オマエみたい毒しか吐かない空っぽちゃんよりずっとマシ
アンが好きだって熱意が伝わる内容のあること書いてみよ アンを好きな人たちってのは、このスレの人たちも含めてだけど
人の情とか機微みたいな微妙な心理を自然と読み取ることのできる人種。
こうゆうタイプの人間は日々の生活のいかなる場面でも
物事の内面をつぶさに捉えることが出来て、だからこそ
他人・相手の気持ちを思慮深く想い図ることが出来るんだろう。 赤毛のアン昔から大好きだけど
今アニメも再放送見てるが
本当良く出来てると思う
改めて素晴らしい作品だわ
元々原作が素晴らしいのもあるが
小中高生の特に女子は原作アニメ共に或いはどちらかでも
必ず見せてあげるべき
それぐらい名作 泣けるのも疲れるより、ストレスが浄化されて
泣いた後に「本来の自分」が自然にもどってくるかんじなんだよな。
そうして、観た後に「自分の人生も満更でもないじゃないか」と
自分を優しく認め、肯定できるから不思議
自分はアニメを観た後は、なぜか自分を少し否定的にみてしまう事が
本当に多いのだけど、アンを観た後はそうはならないことに驚く
飾りや打算で忘れていた本来のふんわりとしたものが心にもどってくるんだよね 私はうまく言葉に表せないし、名作全部は見ていないけど、フローネも若草も好きで昔から見てたけど、アンにはやっぱりかなわない。
引き込まれる度合いが違う。
アンはアボンリー(広く言ってPEI)という限られた空間の中だけであれだけの珍事件や感動ストーリー、そして美しい絵とこまやかに描かれた心情の描写が素晴らしい。
どの回を見てもおもしろいんだもん。
退屈がないんだよね。
抜群! 確かに他の名作劇場も良作、だがけなしてるわけじゃないけど、アンには遠く及ばない
アンだけが名劇20数作の中で同列に語ることができない、浮き上がって、他と隔絶した存在に思える
人物・場所・時代などによって形成される作品世界はそれ自体のまとまりを持っているが、
どんなによくできていたとしても、やはりつくりもの、明確に現実との間がある
しかしアンの場合、その世界が、描かれてないところまでずっと広がり続け
それはどこかで継ぎ目なくこの現実につながっているのだと、無意識の内に自然に感じられることが素晴らしい 文学、絵画、陶芸・・・
文化にはどれも旬の時期というものがあり、
日本映画の黄金時代は昭和30年代、てことで評価が定まってるが
日本テレビアニメの黄金時代は昭和50年代が中心だと言いたい(広目にとると70〜80年代)
多分、異論はないだろう
その中のでも、一つの頂点に立つのが "アン"である
名作劇場シリーズとしても飛び抜けて異次元の作品だが、
それどころか、20世紀に日本が産出した、最も価値ある文化作品の一つだと断言しよう
無形文化財の国宝に指定させたいくらいだ 天候、時間、場所などによる光の変化による色合いの違いを、
これほど徹底的に描き分けたテレビアニメはありえないだろう
見れば見るほど驚く
さらにその上、この作品には空気感の中に光が満ち溢れている
その光は、自然の活力、豊かさ・美しさの源であり、
ひいては、そこに生きる人生の素晴らしさということをも表現している
アンは光の作品でもある アンが優れた作品であると再認識するたびにとても誇らしい気持ちになるな
そんなアンを愛している自分自身も誇らしく思えてくる不思議 その作品自体を理解しようともしないやつの書き込みなんぞ冒涜であり肥料にもならんゴミカス
その足りん脳ミソの裏にでも書いとけや >>753
高校生だったけど原作のシリーズを読んだ後だったから期待して見たよ
母親も喜んで一緒に見てたw
絵がキレイだし内容がほぼ原作通りだったのが嬉しかった
名劇は成人になっても「若草物語」「小公女」「小公子」「ポリアンナ」辺りは見てたな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています