1968年(昭和43年)2月から、虫プロはわんぱく探偵団(江戸川乱歩原案、モノクロ
作品、全35話)を放送開始した。つまりリボンの騎士の2クール目の後半あたりの
10月ぐらいからは制作のための準備をしていたのではないかと思われる。

また「リボンの騎士」の放送開始よりも前の1967年(昭和42年)1月7日から、
(既に前年末に終わった「鉄腕アトム」の後をうけて)「悟空の大冒険」が
カラーで放送開始するもいろいろあって39本制作で9月30日までで放送終了した
(その後をとったのはタツノコの「おらぁグズラだど」)。
それで悟空の制作班は手あきになってしまったはずで、一部リボンの騎士に
流れたのだろうが、わんぱく探偵団に移ったのだろうか?


フジテレビに10年間の作品放映権の提供はそれだけだったのだろうか?
新作の制作もフジテレビのみに限定されたりはしていなかっただろうか?
もともとアトム依頼虫プロはフジテレビを放送の足場にしていたわけだが、
他の放送局には新規作品の提供を持ち込めないようにタガを嵌められて
しまっていたとするならば、価格競争力も、内容企画の提案力交渉力も
うんとなくなってしまうわけだろう。

1億3千万円はどういう根拠の金額だったのだろうか。スポンサーのサンスター歯磨きが
1クールで降りた後のリボンの騎士の放送予定本数が39本だとすれば、
そのための金額は1本あたりの制作費が300万円のカラー作品x39本=1.17億円
となり、だいたい符合はするな。

リボンの騎士の時期ぐらいから、虫プロは転落していった。一つにはこのリボンの
騎士の視聴率不調問題があり、悟空の大冒険に対するPTAとの軋轢だとか。
それにも増して広告代理店や放送局の裏を最も知っていた穴見常務が激務から
脳溢血で急死してしまったことで、経営のことが分からず、直接の客である
広告代理店や放送局との営業がダメになったことだろう。裏の接待とかそういう
ことができない人が、良い作品を作りさえすれば売れるはずといった、昔の
制作競争が無かった頃のやり方をとり続けて作品を企画提案し続けて負け続けた
からではないかと思う。リベートを渡したり、色仕掛けしたりがなかったのだろう。