私は天理教の発展のためにはAcademicや一般庶民レベル双方での知的、
経験的探索が必要だと常々訴えている。
そのためにも天理教の信仰者や研究者が開かれた研究会を持ってほしいと思うだが、
なかなか難しい。難しい理由は2つある。1つは天理教が宗教団体であること。
宗教団体という明確な教義をもつ組織では、
そこに異物が混入することは組織の求心性を減じることに直結する。
しかし、一方でそういった閉鎖的な姿勢は社会学的にカルトに分類される危険性も
ある。宗教の持つ「よく分からない」という閉鎖性は、
中世であれば畏怖として扱われていた。
しかし科学主義の現代では「よく分からない団体」というのは恐怖=カルトとなる。
前回おいて天理教の建築学的評価の見直しを私は提唱したが、
それは宗教を社会に開いていく一つの方法ではないだろうか。
宗教研究というのは教義研究だけではない。
むしろ教義以外の様々な側面(建築、芸術、社会規範)こそが、
宗教組織が社会共同体の入場券となることは歴史が証明している。
現在の天理教の知名度に大きく貢献している高校野球やスポーツの世界は、
それに当てはまる。
しかしスポーツは限定的で宗教理解に繋がりにくい
(天理教と聞いて天理高校を想起する人は多いだろう。
しかし天理高校を想起しても天理教理解にはならない)。天理教の持つ、
資産管理を洗いなおして、その価値を見直すことが必要な時期にきているのではないか。