【全国各地で】西大和学園を語れ!【受験できる】 [無断転載禁止]©2ch.net
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2017年 中学入試 日能研結果R4偏差値(合格率80%ライン)
http://www.nichinoken.co.jp/np5/schoolinfo/pdf/r4/results/r4_2017_e_m.pdf
72 開成
69 ★西大和(東京) 聖光@ 渋谷幕張@
68 麻布
67 栄東(東大T)
66 武蔵 駒場東邦
65 栄光
64 海城@ 早稲田@ 浅野
63 渋谷渋谷@ 慶應普通部 慶應湘南 ラ・サール
62 函館ラ・サール@ 愛光(東京) 早大学院 慶應中等部 市川@
61 早稲田実業 東邦大東邦(前期)
60 明大明治@ サレジオA
59 芝@ 立教新座@
58 本郷@ 広尾@ 逗子開成@
57 北嶺(東京)
56 桐朋@ 立教池袋@ 暁星 中大横浜@ 栄東A 開智(先端A)
55 攻玉社@ 芝浦工大柏@
54 青山学院 公文国際A 桐蔭中等@ 鎌倉学園@
53 成城@ 中大附属@ 法政第二@ 開智@
52 城北@ 法政大学@ 明大中野@ 専大松戸@
51 世田谷@ 国学院久我山@ 山手学院A
50 巣鴨@ 高輪A 学習院@
49 明大中野八王子A@ 桐光男子@
48 早稲田摂陵@早大 早稲田佐賀(東京@) 穎明館@ 成蹊@ 成城学園@
<前スレ>
【全国各地で】西大和学園を語れ!【受験できる】
https://mao.2ch.net/test/read.cgi/ojyuken/1493557290/ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:d127b0244123b0e9f9b21866d0b8b0c1) 私は、健康保険証、運転免許証の裏面に脳死により臓器移植をすることに
サインしています。
80歳の私の臓器がどこまで利用できるのかは分かりませんが、
利用できるのであれば利用してほしいとの思いでサインしています。
天理時報の視点は読んでいませんが、例えば、
角膜移植で目が見えるようになる人があるのであれば、
サインをした甲斐があるというものです。
家族の気持ちは、賛成、反対に二分しています。
天理教は、これを否定したのでしょうか。真柱はどのように思っているのか問いたい。 腹立ちのご様子で、明らかに反感を抱いてのコメントですね。
ネット上では言葉のやり取りだけですから時として感情が爆発することも有ります。
人は痛い点を突かれると、えてして子供のような反応をしがちです。
最初のような反応がまさしく典型的な例なのです。
論理的な記述に対して、大人と小学生とのレベルくらいに違う最初の記述は
ほぼ、内容が無いと言えましょう。
しかし、何かしら腹立たしい思いで反応しておいでなのですから、
どうぞ、論理的に冷静に、考えるところを改めてコメントされてはいかがでしょうか。 臓器移植に関してどのように天理教は考えるかは、
信者にとっては見過ごせない重要課題です。
教団としての考えの表明は、その内容は、
世界に発信されている訳ですから熟慮されるべきです。
投げかけておられる質問に答えが頂けないとすれば、又、
この問題も無かった事としていつものごとく時がすぎていくのでしょうか。
私は天理教を信仰していると胸を張って世の中の人に言いたいのです。
恥を感じることなく匂い掛けがしたいのです。 世界は昔より狭まっています。
発信されているツィッターの中には天理教関係の不祥事
(天理市長の買春代金ねぎり問題など)を本部が悪いと結び付けるのは
おかしい等という指摘が見られます。
そうでしょうか?天理教的思考からいえば、
起きた事から何らかの悟りを得るということが求められるのではないでしょうか。
本部を信じたい気持ちは痛いほど理解できます。
けれど、間違いには間違いだと指摘し修正できなければ、
社会の中でその宗教団体は存在価値の無いものになっていく恐れも十分あるように
見えませんか?
もっと言えば「ダメのおしえ」「最後の教え」と親神が降りたにもかかわらず、
どうにもならない宗教団体と見なされれば、ひょっとすると、更なる
「最後の教えver.2」が始動するかもしれません。 一部には既に別派として神が降りている事実も史実として書物にありますね。
本部は異端と称しますが。
私は天理教に縁あって信仰しているのですから、
誇りを持てる天理教として認識したいだけなのです。
天理教の場合、聖職者はいないに等しい、人間臭い団体です。
なので、言われれば腹も立つでしょうが、正すところは正すとい「素直な心」で
批判をお聞き取り頂きたのです。 それにつけても、年輪を重ねた方の真摯な透明な御心からのコメントを
拝読する度に敬服しています。
師走となりましたが来年もぜひ、ご壮健であられますよう、心からお祈りしております。
貴重な場を提供下さっている事を感謝しております。 個人的教義解釈ですが「臓器移植オールOK」です。
人間の体は神様からの「貸しもの」ですから、
使われなくなった(亡くなった)人の「貸しもの」を別の必要としている人が
「又借り」するだけのことで何も問題はありません。
「神様から借りたものを勝手に又貸しするな」という意見もあるかと思いますが、
神様は直接「ダメ」とも「良い」とも言ってくれませんから、
「個々の判断」でよろしいかと思います。
もし「又貸し」がダメだと言うのなら、
人毛のカツラや入れ歯だってダメという事になってしまいます。
金歯銀歯だって「神の身体の地球上の鉱物を勝手に又借りしてる」様な
ものなのですから。 とはいえ、臓器移植の問題と「脳死が人の死」という判断は別の事です。
ご存知のように、臓器移植をするには新鮮な臓器が必要だという医学上の必要性から
「脳死を人の死とする」という判断をしているに過ぎません。
また、心肺停止と違って脳波停止から蘇生した例は本当に極マレですから止むを得ない
判断かもしれませんが、この点は議論が必要でしょう。 そして、もっと問題なのが「臓器移植はお金が掛かる」という事です。
医療行為のコストもそうですが、臓器そのものも需要と供給のバランスが崩れています。
その為に、日本ではあまりありませんが諸外国においては
「お金持ちが優先的に臓器移植を受けられて貧乏人は後回し」とか
「臓器移植のために健康な人間の臓器を取り出す事件
(本人の意思によるものも有ればそうでないモノもあるらしい)」などが
頻発しています。
私個人としては、臓器移植の是非よりこのような貧富の差による格差や事件の方が
問題で早期に解決しなければ「神様はお嘆きになる」と考えておりますが。 最後は記事の意図からずれてしまいましたが、様々な異論反論ご意見があると思います。
「天理教として一つの意見にまとめる」必要はありませんので、
この場で意見を出し合う事が意に沿う事かと思います。
遠慮なくご意見ください。 敬服いただくほどの身ではありませんが、7年近く前に97歳で出直した母は、
視力の障がい者でした。
母が生きていた頃の話で申し訳ありませんが、書かせていただきます。
ある日の夕方、見知らぬ方から電話を頂き、
あなたのお母さんが近くの運河に転落寸前を声掛けで何とか転落を止められました。
ついては近くの公園のベンチまで同行して、
そこで待っているように伝えましたので迎えに来て下さい、
といわれて電話は切られました。
お礼を言う間もなく電話を切られましたので、
その方のお名前もお聞きする間もありませんでした。 自動車で迎えに行くと、母は暗い公園のベンチでしょんぼりと座っていました。
夕方には目が見えなくなるにも関わらず夕方にうろついていた母に腹立ちを感じつつも、
何事もなかったことに、電話を頂いた方に感謝の気持ちを捧げました。
それを契機として、視力のいい私は献眼の登録をしました。
その後更には、後期高齢者保険証、運転免許証の裏面にも躊躇なくサインを
することができました。
母を助けてくださった方への感謝の気持ちの一端だと思っているのです。 年齢的には長生きされたと言えるお母さまですが、
きっと思いだされる度に寂しいとお感じになられることと思います。
親って、そういうものですね。
貴重な話をご披露下ってありがとうございました。
私は献体に未だ踏み切れずにいたものですから、これをきっかけに考えます。
つとめ場所様が教えて下さった「脳死からの蘇生は稀」であれば恐怖感は薄れますし、
年齢的には自分は十分生きてきたと思いまし、以前、
献体を考えた際の自分の状況とも変わってきた事からも再考しようと思います。
(恐怖感というのはかなり昔に死にかけてこの世に戻った経験があるため、
呼吸停止でもまだ意識があるのに臓器を摘出されたら怖いと、
心底感じていたからでした。) >>934
私は天理教被害者の会代表の辻正彦でございます。本当に天理教っていうのはひどい宗教ですね。
天理教に関する苦情・ご相談はこちらにお願いします
天理教被害者の会代表 辻正彦(42)(畝傍高校46期逮捕歴3回 前科一犯 童貞歴42年 稼ぎゼロ 偽発達障害
人間のクズ 汚物 池沼 穀潰し キショい)
住所
〒634-0071 奈良県橿原市山之坊町43−2
電話番号 0744-24-0266
電子メールアドレス
daiyakaisei@gmail.com
daiyakaisei@yahoo.co.jp >>935
私は天理教被害者の会代表の辻正彦でございます。本当に天理教っていうのはひどい宗教ですね。
天理教に関する苦情・ご相談はこちらにお願いします
天理教被害者の会代表 辻正彦(42)(畝傍高校46期逮捕歴3回 前科一犯 童貞歴42年 稼ぎゼロ 偽発達障害
人間のクズ 汚物 池沼 穀潰し キショい)
住所
〒634-0071 奈良県橿原市山之坊町43−2
電話番号 0744-24-0266
電子メールアドレス
daiyakaisei@gmail.com
daiyakaisei@yahoo.co.jp 先日こどもおぢばがえりの記事において鼓笛隊活動を例に挙げ、
信仰の世代的循環について話をした。
すると「じゃあ縦の伝道のためには鼓笛隊をさせればいいんですね!」という
感想をいただいた。う〜ん、そういう意味で言ったのではないのだけど。
なかなか自分の思いというのは相手には伝わらないものである。
私なりに丁寧に説明したつもりなんだけどね。 私も本業ではコトバを主要ツールとして扱っており、コトバには強い思いがある。
このブログではコトバがどのように発生し、浮遊し、伝達し、
反響してくるのかは非常に興味深くモニタリングしている。
しかしネットという未知の世界では実験的色彩が強く、学ぶことも非常に多い。
コトバは変容し、一人歩きをし、時にはレセプターの情動を激しく揺さぶる危険性を
学んだ。
一方で、こんなブログのコトバでも人を励まし、
レセプターの情動に安定をもたらすことも驚きとして学んだ。
しかしやはりコトバは不安定でなかなか相手に届かない。
面と向かっていてもコトバは伝わりにくいのであるから、
その思いは非常に強いものであるというのが一番の感想である。
私の周りに「話せば分かる」ということを平気で言う人がいるが、
コトバを生業としていれば話せば分かるなんて
「話したい欲求を満たすだけの独りよがりであることに気付く。 再度説明すると、鼓笛隊をすることは信仰が伝達することの解答ではない。
私が言ったのは社会学的に観察された現象でしかない。
鼓笛隊活動が信仰を伝達する可能性を持っていることは容認できるものの、
「鼓笛隊をさせればいい」という言葉からは、その可能性を感じることはできない。 なぜなら私が考える信仰の本質とはいかに信仰に対してオリジナルなメリットを
見いだすかということである。
「メリットだと?信仰を損得で語るなんてけしからん」と怒られそうだが、
最後まで聞いておくれ。この場合メリットとは経済的利益ではない。
精神的安寧のための信仰やコミュニティセーフティネットのための信仰、
家族の精神的繋がりのための信仰、自己実現のための信仰、
陽気ぐらしのための信仰と色々な複合的利益を指す。
そして、それは天理教の雛型でもある。
新興宗教の始まりは「貧・病・争」の救済であり、
天理教も病の救済として現世利益を人に付与することが伝統的な入信動機である。
つまり信仰することは何らかの”良きこと”がなければならない。
そのためには信仰に対して個人的な意味づけをすることが必要である。
その意味づけを他者が代わって行うことはできない。
できないというより意味がない。
意味がないということは信仰を継続する上で動機が脆弱ということである。 鼓笛隊に置き換えるのであれば、一番継続性が強い動機は「鼓笛隊をしたい!」と
自分で意味付けを行い動機を駆動させることだと思う。
子どもであれば、とりあえず大人から「鼓笛隊やりなさい」と言われるかもしれない。
しかし継続させるためには「言われて始めたけど、鼓笛隊って楽しいよね」と
自分なりに意味付けを行なわなければいけない。
冷静に考えると当たり前な話だけど、
「鼓笛隊をさせればいい」ということが本質的でないことが理解できる。
鼓笛隊のスタッフ側からの視点で考察するならば、
子どもに鼓笛隊をさせればいいのではなく、
いかに子どもに「鼓笛隊をして楽しい」と思わせるかがポイントとなる。
ここまでは一般論であるが、ここから私なりの持論を展開するならば
「鼓笛隊をして楽しい」と子どもに思わせるのは、
大人がいかに楽しむかであろうと思う。
いくらコトバで「楽しめ」といっても子どもは興味を示さない。
子どもが興味を示すのは、大人がいかに興味を示して楽しんでいるかであろう。
大人が面倒臭そうに「やらされている感」でやっていれば、
子どもも「やらされている感」が出てくるだろう。
一方で、大人が「ちょっとこれはおもしろいんだぜ」という視点で取り組んでいる
ならば子どもは寄ってくる。
これは教育者であれば誰もが経験したことであろう。 そして、これらは鼓笛隊に限られたことではないのかと思う。
つまり上記の「鼓笛隊」の単語を「天理教」に置き換えてみれば、
そのまま信仰の動機付けをいかに駆動させるかという話になると思う。
「天理教ってめちゃめちゃおもしろいんだぜ」と天理教人に言われれば
「え?なんで?教えてよ」と興味を示すだろう。
それはコトバよりも、その人の表情や雰囲気が大切であることはコトバよりも
本質をついていることだと思う。
私の周りの天理教人を見ても「話を聞いてみたい」と思う方は、
話の内容よりも天理教に対する生き方に興味がある。
一方、私に信仰の話ばかりしてコトバに頼り切る方は、正直私は避けていると思う。
コトバとはツールであり、コトバも生き物であることを考えた。 辻君がコピペしまくってる天理教関連のスレに彼のことを一度紹介してみようか?
天理教批判のためのスレなんだから、辻君はさぞかし英雄扱いされることだろう。 縦の伝道
はじめまして。
言葉と教育を生業として過去に鼓笛隊にも参加していました。
いつもこちらのページを興味 深く読ませていただいております。 「縦の伝道」のために鼓笛隊はいい活動だと体験から感じております。
しかし、これは一つ の方策だと思います。
つまり「縦の伝道=鼓笛隊」ではなく、「縦の伝道>鼓笛隊」だと認識しています。 通常、鼓笛隊というのは規律訓練もあり、どこの鼓笛隊でもそうだと思うのですが、
練習は厳 しく泣きながら練習することもしばしばです。
それでもやさしい指導者の青年さんがいて休憩には遊んでくれたり楽しい
リクレーションもあっ たりで、行けばしんどいこともあるけど、
それに勝る楽しいことがあるのを知っているからだと思います。
それは指導者側も同じで、大人がいかに興味を示して楽しんでいるかという部分だと
思います。
会長さんに言われ、音楽の経験もなく鼓笛隊に関する知識もな く、
鼓笛の講習にも参加せずに、ただ
「やらされている感」を感じながら指導者側 がやっているのでは、意味がありません。 人が何かをする時に動機付けは非常に大切なものだと思いますが、
教育でも目先のアプロー チやメソッドばかりに目を向けているのではなく、
なぜそれをやるのか、なぜそのアプローチで行くのかなどにも目を向けないと昨今の
「総合 的な学習」のようにうまくいくケースといかないケースが 出て来るように
思います。
教える側が本気で面白いということを感じ、言葉を使い学ぶ側にも伝え、
共に面白さを共有できるようにデザインし なければならないように思います。
言い換えればオーセンティックかどうかということで、
うそじゃない本物志向をしなければならないという ことです。
これ「ちょっとこれはおもしろいんだぜ」という部分だと思います。 以前、言葉以外の部分で伝達する身振り手振り、目線、表情などのノ
ンバーバルな部分の研 究を読んだのですが、
実際の発話以上に伝達という部分でノンバーバルな部分が占める割合は
かなり高いということを記憶しています。
本物志 向であれば、この部分も自然に熱を帯び、
言葉足らずでも訴えてくるものは感じられるものじゃないでしょうか。 レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。