その時はそれほど気にならなかったが、実際に私の知る限りにおいて、
天理教の刊行物で著名人が扱われる頻度が多くなっていると思う。
天理時報本号においても1面の下には大相撲の優勝者や女子サッカーW杯で
活躍した選手が挙げられている。
特に「すきっと」と言われる雑誌には天理教を信仰しない著名人が
天理教とは特に関係のないエッセイを書いているようで、
知り合いの天理教人は
「天理教の媒体として中味がなく何を目指しているのか分からず、残念である」
と感想を漏らしていた。
私も同じく、天理教の濃度を敢えて薄めて表現することに天理教として
何の目的があるのか疑問である。
もし天理教と社会との架け橋を目的としているのであれば、
天理教の濃度を薄めることがその架橋の本質的な理由になり得るのか
説明を求めたいところではある。天理教人を読者にしているのであれば物足りない。
天理教未信仰者を読者と想定しているのであれば著名人を扱う意味は宣伝でしかなく
布教ではない。天理教のメディア戦略は信仰的成熟を促すという側面よりは、
自己啓発本の域を出ないと今の私は理解している。