一方で、庶民宗教として発展してきた天理教にこれらの難問の負荷をかけるのも
可哀想な気がする。ここまでの文章を天理教人が読めば
「考えるのか、考えないのか、どっちだよ!」と詰問されそうである。
しかしそれらは聖職者であるイリイチが「深い両義性」と言ったことに通じると思う。
イリイチもまた、挑戦的な宗教批判を展開してバチカンと喧嘩したことで
有名であるが、西欧社会の権力を大義にした操作主義を批判したことからも
我々が学ぶことは多いのではないかと思う。
天理教でも権力構造やお金など西欧社会の産物を多分に利用している。
一方で、それらと対をなす教え(貧に落ちきれ、陽気ぐらし)に対して、
どのような解釈がなされているのかは天理教人の言動をみても疑問ばかり残る。
というか、そこまで深く自分だけの信仰を考えて求めている人は少ない気が
してならない。血や肩書きがないと、発言できないなんてその典型だろう。
裸の王様ではないか。反対に名前や学歴や資格を黒塗りして天理時報を読めば、
一人の人間として何か残せているのだろうか。私には見つけられない。
そこには一貫した信仰心や、答えのない教えを求めていく姿勢よりも、
いかにして人間を操作し、世俗的な評価を勝ち得るかということに思考を
費やしている傾向が強いと感じざるをえない。
あくまで私の主観的感想である。