19世紀、ゼンメルワイスというドイツ系ハンガリー人の医者がウイーンの総合病院にいたころ、
病院では産婦が産褥熱で死亡することが非常に多かった。
しかし、奇妙なことに二つある病棟のうち片方では産褥熱による死亡が10%を超えているのに対し、
もう片方ではわずか2%に過ぎなかった。ゼンメルワイスがこのことについて調べていたころ、
友人が死体解剖中に誤ってメスで指を傷つけてしまい、それがもとで死亡してしまう。
その友人を解剖して死因を調べたところ、産褥熱で死亡した女性患者たちとよく似ていることがわかった。
そしてこれによって、二つの病棟の死亡率の差についても説明がついた。死亡率が高いほうの病棟では
出産を医師や医学生が担当しており、低いほうでは産婆(助産婦)が担当していたのだ。
当時はまだ細菌学が確立されておらず、医師たちは死体を解剖したあと手を洗うことなく出産に臨んでいた。
ゼンメルワイスは死体が持つ何らかの粒子が医師を介して産婦にうつることで産褥熱が発生すると考え、
手を洗って消毒することを医師たちに義務付けた。これによって産褥熱は減少し、二つの病棟ともほぼ
死亡率が変わらなくなったが、ゼンメルワイスはさらに消毒の範囲を広げ、医療器具も含めるようにしたところ、
産科病棟から産褥熱をほぼ撲滅することに成功した。

これらの実績にもかかわらず、ゼンメルワイスの発見はドイツ医学界で認められることなく、「病気は体液の
バランスの崩れや悪い空気によって起こるものであって、接触によって起こるはずがない」、「医術は神聖なもの
であり医師は神聖だから穢れていることはありえない、手を洗う必要などない、だいたい診察の前に手を洗う
なんてことは面倒でやっていられない」とメタクソに批判され、ゼンメルワイスは失職してハンガリーに戻った。
ゼンメルワイスの去ったウイーン産科病棟では産褥熱による死亡率がふたたび上昇した。

手と医療器具を消毒することで産褥熱を予防するという試みはハンガリーでは受け入れられて、彼のつとめた病院や
設立した病院だけではなく国中に広がり妊産婦の死亡率低減に多大な貢献したのだが、ハンガリー国外、特にドイツでは
ゼンメルワイスの学説は否定されつづけ、多くの妊産婦が権威を守りたい医学界によって意味もなく死んでいった。