>>319
歴史時代においては、
各時代に、
土地を失ったり、厳しい官物や年貢の徴収に耐えきれず逃散した百姓が山に逃げ込んだものが最大多数であったと記憶していますが。

あとは縄文人の生き残りである
解死人
もいたかもしれません。

>>316で書きました、
禁忌中の禁忌とされた行い、
すなわち
「蠱毒」は、百済人が我が国に持ち込んだ、残酷にして外道の極みである呪詛法ですが、
これを大祓において「畜仆し(けものたおし)、蠱物(まじもの) せる罪 」
(= 家畜を残酷なやり方で苦しめて殺し、その恨念で他人を呪う呪詛法)
として禁忌とした際、
百済人が逃げ込んだ山は、吉備の山中です。

ほかにも、
越のヤマタノオロチ(=アビコを首長とする、まつろわぬ韃靼人反逆者集団)
が大和朝廷に制圧されたあと、なお、従わない者の一部が逃げ込んだのが、
大江山の酒呑童子とその配下たちであると言われています。