【ダーリン】宇宙人の秘密基地【ジョセフィーヌ】
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
和邇氏は物部氏を構成する氏族なのですから、
軍事的色彩が強いのは当然だし、
そもそも舟木氏を上書きしているのだから、
水軍担当ということになるでしょう。 天理市にある石上神宮の近くを流れる布留川、
この付近を拠点にしていたのが和邇氏でしょう。
そして、石上神宮の周囲にはス○ノ姓と出口姓が多い。
伊勢一志ごおりのフル川水神と布留川との関係も謎。 >>868
訂正
九鬼水郡を率いた九鬼氏
↓
九鬼水軍を率いた九鬼氏 土岐 頼尚(とき よりなお)とは、
陽成源氏(摂津源氏)流土岐氏(美濃源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。
舟木頼尚 : 舟木頼重(頼直/頼真)の曾孫、頼春(頼玄/頼員)の孫、
頼夏の子、政尚の父、政頼の祖父、光俊の曾
祖父。戦国時代の南光坊天海(秀光/随風)[1]は、その後裔である。
明智頼尚 : 明智頼重(頼助)[2]の8世の孫、
頼篤の7世の孫、国篤の6世の孫、頼秋の玄孫、頼秀の曾孫、
頼弘の孫、頼定の子、頼典(よりなお、光継)・頼明の父。
(出典: http://ja.japan.wikia.com/wiki/) 尊卑分脈によると
頼光七世孫土岐五郎光行---頼貞(隠岐孫二郎、土岐惣領)、
弟頼重(号船木、隠岐孫三郎、右衛門蔵人、從五位下、右近将監、母定親に同じ)
(出典: http://rekishkakeizu.seesaa.net/article/373162096.html)
土岐光行の子、土岐頼貞の弟であった頼重が「船木」を号すとある。
但し、この文書の原典と思われる塙保己一編『続群書類従 5下(系図部)』には、
「渡會郡山田住人書之(中略)以其素右系?因左馬介光春嫡男正光之命。」と書かれている。 この明智系図(http://blog.sasakitoru.com/201312/article_1.html、
美濃土岐氏系図の研究(1)―土岐頼貞の系譜というブログより)
に見える土岐頼貞は、
>874 の船木系図にある頼貞(隠岐孫二郎、土岐惣領)と同一人物でしょう。
Wikipedia には、
土岐頼貞(1271 〜 1339 年)、兄弟に舟木頼重とあります。
つまり、土岐頼貞の弟、土岐頼重イコール船木頼重ということ。 しかるに、明智系図に登場する
>伯耆九郎頼基・十郎頼兼・弥十郎頼明らは頼貞の正妻北条氏の子であり、
>東美濃の明智長山城の明智を名乗った。
土岐頼貞の息子たちが、東美濃の明智長山城の明智ということは、
頼貞の弟である船木頼重(船木の祖)と、明智長山城の明智とは叔父甥の関係であり、
船木頼重にとって、東美濃の明智は本家にあたるということです。 船木頼重と同じ「頼重」という名を持つ人物は明智氏にもいます。
明智頼重(1342 〜 1423 年)
明智 頼重(あけち よりしげ)は、南北朝時代から室町時代の武将。
美濃国可児郡明智城主。
美濃守護土岐頼貞の九男長山頼基の子。土岐氏支流の明智氏の祖、あるいは二代目とされる。
(Wiki より) 明智系図(>>875)にある明智頼基の子、ということは、
土岐頼貞の弟である船木頼重にとって、明智頼重は甥の子どもにあたる。
本能寺の変を起こした明智光秀の祖である明智頼重にとって、
船木頼重は大叔父にあたるということになります。
甥の明智頼重(別名明智彦九郎)が、明智光秀の直接の祖になるようです。 >頼清・頼遠は活躍し父頼貞は美濃守護に補任された。
土岐頼貞は、子らの活躍により、美濃守護に任じられた。 旧高松城跡
境内はかつて高松城(別名:喜岡城、以下同上)の本丸であった。
喜岡城は1335年(建武2年)に建武の新政で功をあげて讃岐守護となった舟木頼重(後に地名をとって高松頼重と
名乗る)が築城するも、同年11月26日に足利尊氏の臣下、細川定禅らの軍勢によって落城する。しかし、頼重は生
き延び、子孫の高松頼邑によって城は再建。(Wiki「喜岡寺」の項より)
美濃国初代守護、土岐頼貞の弟にあたる舟木頼重が、
讃岐守護となった高松頼重であるということです。 >元弘元年(1331)に始まる元弘の変で鎌倉幕府が滅亡すると、
頼兼の兄伯耆九郎頼基の子頼重(高松三郎頼重)が建武新政のもと讃岐守護になった。<
頼基の子の、頼重は、明智頼重ですので、これは間違いかと思われます。
明智頼重は美濃可児郡明智城主です。 明智頼重
美濃守護土岐頼貞の九男長山頼基の子。美濃国可児郡明智城主。
(Wiki より)
>頼基の子頼重(高松三郎頼重)が建武新政のもと讃岐守護になった。
この 2 人は同じ明智頼重を指していますが、おかしいです。 >>882 は、
土岐頼貞の弟である土岐頼重(船木頼重)と、
土岐頼貞の息子の子(つまり孫)である土岐頼重(明智頼重)を混同しています。 >>874 の舟木氏系図では、
この讃岐守護となった船木頼重の子が頼春、頼春の弟頼重の子がまた頼春で、
その子が頼夏となっている。
この頼夏が、美濃から伊勢へやって来た船木氏の初代(と思われる)船木頼尚の父親です。
>正平 8 年舟木頼夏(土岐一族)は子の頼尚を官軍につけさせた。頼尚は子とともに伊勢に入った。
(http://www.amigo2.ne.jp/~fuchisai/home/denki.htm) 正平 8 年は西暦 1353 年です。
建武 2 年(1335 年)に讃岐香川で高松城を築くも同年落城の憂き目にあった船木頼重。
その孫かひ孫にあたる頼夏の子、頼尚が、
高松城落城から 20 年も経たないうちに伊勢へやって来ている。
しかし、伊勢一志郡における舟木氏の系統というのはすべて、
この頼夏の子、頼尚、その子正尚を起点にして展開していると言っても過言ではありません。
舟木正尚の二男、正頼の子光俊、光俊の二男光頼の孫光春、その弟中村光長が△△城の城主とされています。 つまり、△△城の城主であった中村、舟木氏は、
元をただせば、美濃の明智氏だったということです。 伊勢舟木家の系図に含まれる乙部氏については、
次にあるように、
「一 正ョ之 嫡男 孫 五 カ康正 者。 爲乙部 家 之 養子」
乙部氏と養子縁組したことになっているのでしょう。
乙部氏は美濃清和源氏の一族に含まれています。
ただし、遅くとも 1185 年には成立したとされる
「平安遺文古文書編東南院文書」東大寺文書にすでに、
一志郡堀内の舟木と乙部の中村氏が記載されていることは前述しました。 この東大寺文書について検討します。
【※『船木弟虫』;伊勢ノ船来直(船木直。船木−伊勢国朝明郡舟木明神祠官。西脇−同郡耳利神社祠官)、
船木臣、船木宿祢(舟木、堀内−伊勢国一志郡人。乙部、中村−伊勢人)】
伊勢ノ船来直(船木直。船木−伊勢国朝明郡舟木明神祠官
この船木氏は朝明郡(現在の三重県四日市市)にある船木明神の神官です。
朝明郡の一部はのちに分割されて伊勢国員弁郡となった。
員弁はおそらく忌部(物部)氏と関係している地名と考えます。 www.geocities.jp/engisiki/ise/bun/is081112-01.html
耳常神社
伊勢国 朝明郡鎮座 (合祀)耳利神社
三重県四日市市下之宮町319
【祭神】 神八井耳命 (配祀)建御雷之男神 斎主神 天児屋根命 姫神 神沼河耳尊 大山祇命
この耳常神社が「舟木明神祠官」の舟木明神です。
祭神は、相鹿上神社(三重県多気郡相可)と同じ天児屋根命。
中臣氏の祖神です。
天児屋根命 ≒ 中臣大鹿島 = 建御雷之男(鹿島神宮)
ちなみに、相鹿上神社の神紋は雀口桜で、
鹿島神宮の近くに特高隊飛行場があり、
その特高兵器が「桜花(おうか)」と呼ばれたことと無関係ではないと思います。 http://www.geocities.jp/engisiki/ise/bun/is081111-01.html
耳利神社 菟上耳利神社に合祀
三重県四日市市伊坂町1388
【祭神】応神天皇 菟上王または菟道稚郎子
これが「西脇−同郡耳利神社祠官」の耳利神社。
おそらく朝明郡の船木氏と同族の西脇氏が神官を務めていたのでしょう。
菟道稚郎子(うじのいらつこ)は宇治の地名の元になった皇族です。
これについては、機会を改めて書きます。 船木宿祢(舟木、堀内−伊勢国一志郡人。乙部、中村−伊勢人)】
一志郡の舟木氏に関係しているのはこの部分です。
一般に舟木家系図とされているものがかなりデタラメであることを裏付けるのが、
東大寺文書のこの記載なわけですが、一志郡堀内の舟木氏についても、
同じ文書の同じ欄に、朝明郡(現四日市市)の船木氏と一緒に記載されているという事実は見逃すべきではないと考えます。
つまり、一志郡堀内の舟木氏も、多気郡大鹿の中臣氏に通じる系統である可能性を軽率に捨て去ってしまうことはできない。
論証の公平さを欠くことになるからです。 明智系図の原本になっていると思われる系図をお持ちなのは、
岐阜の出口さんという方なのです。
東京大学史料編纂所のデータベースで公開されている文書ですが、
下の名前だけは一応伏せておきます。
東京大学史料編纂所
【書名】 明智氏一族宮城家相伝系図書
明智氏一族宮城家相伝系図書 出口欽三 岐阜県揖斐郡揖斐町
【原蔵者】 出口○△(岐阜県揖斐郡揖斐町)
【注記】 原題:清和源姓美濃国住土岐家随一之連枝
明智氏一族宮城家相伝系図書 岐阜県揖斐郡は、揖斐川のあるところです。
揖斐川は出雲の斐川と関係がないわけがない。
岐阜県揖斐郡揖斐川町
島根県出雲市斐川町
旧伊勢街道沿いにあるフル川水神も、
この出雲の斐川がオリジナルであるとの推論を前提にしています。 >>892
ごめんなさい、下の名前を伏せてませんでした。
まぁ、いいか。公開文書だし。 この出口さんは、明智氏一族宮城家の縁者の方なのかな。
ちなみにですが、この系図の最後の部分は、
宮城家の子孫の方が「故あって恵那郡へ移住する」との記述で終わっている。
土岐明智氏の系図を、岐阜の出口氏が持っているということは、
一志郡の出口氏も、
美濃の明智舟木氏について伊勢へやって来た可能性が濃厚になることを意味しますよね。 が、しかし、
それでは辻褄の合わないことが多すぎる。
誰かが嘘をついているのです。 そな話はどうでもいいかは
福岡の部落の荒瀬一味の話をしろよ 秀吉時代に朝鮮から連れてこられた
部落の荒瀬一味は何処の末裔になるんだ? 日本は天皇家の話ししかしないから
底辺の部落どもは何もしらないんだよ
そして、自分達も日本の天皇家の末裔だとか
勘違いする始末 もう、わかりきった天皇家の話は意味がない
部落の謎の解明こそ意味がある わかりきってませんわよ。
伊勢一志郡△△城の舟木氏が美濃の明智氏だなんて、
知られてませんでしょう。 三重県四日市市にも霞ヶ浦という地名がありますのね。
桜花(おうか)という名の特攻兵器を使った予科練訓練場は、
茨城県の霞ヶ浦にありましたのよ。 >>889
日本人はもっと色々ちゃんと調べて知るべきだと思うわ。 そんな事、誰が興味があるんだ?
ほとんどの日本人は自分の先祖の流れもしらないのに 苗字で先祖を辿ると
背後にいる先祖は朝鮮部落なのに
ほとんど天皇家に辿り着くんだよ
あり得ないだろう 部落地域の農民の出の苗字は
ほとんど天皇家と関係ない
出所でわかるけどね
今の天皇家も部落から嫁をもらってるんだよ 言い伝えとか残ってる地域は
ちゃんと侍の先祖が守ってるけど
ほとんどの農民の苗字は天皇家と関係ない
朝鮮から連れてこられた
部落地域が日本での本拠地なんだよ
だから地獄のふ暴力団もうじゃうじゃしている、 言い伝えとか残ってる地域は
ちゃんと侍の先祖が守ってるけど
ほとんどの農民の出の苗字は天皇家と関係ない
朝鮮から連れてこられた
部落地域が日本での本拠地なんだよ
だから地獄の部落の先祖の朝鮮暴力団がうじゃうじゃしているんだよ 部落の荒瀬一味は今度は裏をかく作戦みたい
中学生に恋しているロリコン荒瀬め
しまいには薩摩の龍神様から殺されるよ
わしの天皇家は天皇家の龍神様にとっては
大事な御所なんだよ 荒瀬一味は福岡のただの朝鮮部落
わしの御所は薩摩の大将の島津家の御所なんだよ
部落はヤクザだけど
島津家は天皇家の龍神様なんだよ
さっさと出ていけ まぁ、神社なんてそれ自体、全部同じ人たちが建てたものですから。
全国津々浦々にある神社はどれも、
同じ(サイドの)人たちが同じようなコンセプトに基づいて建てたものでしょう。
伊勢神宮も出雲大社も石上神宮も、
神社、という点では変わらないのですから。 当然、そこに祀られている祭神もそう。全部、現支配者側のものです。
わたしが話の起点にしている
一志ごおり阿射加神社の猿田彦や、多気ごおり佐那神社の天手力男にしたところが、
現天皇家側のマトリックスの中のものなわけです。 記紀に書かれている人物や事物について、
現今のマトリックスを否定する目的で、
現今のマトリックス中にある史料を使って論証をしても、本当の意味では無意味です。
記紀だけでなく現存のあらゆる古文書について、
一般的な意味での信頼性、信憑性を問うというよりも、
現今のマトリックスを否定する目的で、現今のマトリックス内にあるデータを使うというのが、
そもそもこちらの矛盾なのです。 記紀に書かれている猿田彦や天鈿女命、神功皇后について、
記紀の記述に基づいて新たな事実を見出そうとするのは無意味です。
下位のマトリックスの中で上位のマトリックス(メタマトリックス)を実証することは、
基本的には不可能だからです。
不可能というより、メタマトリックスにとってこの下位のマトリックスは意味がないのです。
幻想みたいなものだから。 ただし、幻想とはいえ、
人間にとっての現今のマトリックスと
上位のマトリックスであるメタマトリックスは同じ素材やものを使っている。
夢の中で、見る世界や肉体は、起きているときに見ている世界や肉体の写しですよね。
人や物の形や姿は夢の中と違うものではありませんよね。 ですので、こうした論証により今まで隠されていたものを見つけ出そうとする作業も、
たとえ現今のマトリックス内のものではあっても、まったく無意味かと言えばそうでもないと考えます。
記紀を精読しているわけではありませんが、
そこに書かれていることは全部が全部虚偽というわけでもなくて、
うっかり本当のことを書いてしまった部分や、矛盾の整合性をとり切れなくて事実が漏れている部分、
あるいは編者自身の良心の呵責で嘘がつけなかった部分もあったのかもしれない。
万葉集などには、作者や編者による真実の吐露が暗号として隠されているという説もあります。 例えば神社に関して、
神社なんてすべて同じ(サイドの)人たちが建てたものだとは言っても、
そこには何らかの真実の痕跡が残されている。
土地の先住民による古い祭祀の場に建っている神社と、
新しい人たちが自分たちの神を祀った神社の違いがあるとしたら何か。
例えばこうした模索からでも、
隠されたメタマトリックスが旧態のマトリックスを食い破って出てくる、
そのプロセスの端緒を開くきっかけといいましょうか、
いわゆる嚆矢(こうし)となり得る可能性を秘めているのではないかと考えています。 伊勢国朝明郡は現在の三重県四日市の一部とその周辺を含む地域を指します。
http://www.geocities.jp/engisiki/ise/bun/is081112-01.html
耳常神社
舟木直の祀る耳常神社は、舟木明神または春日明神と呼ばれていた。
475本当にあった怖い名無し2018/08/31(金) 14:28:48.27ID:gGLjX2AP0
朝明郡の舟木氏については後述します。 >>889
> 耳常神社
> 伊勢国 朝明郡鎮座 (合祀)耳利神社
> 三重県四日市市下之宮町319
> 【祭神】 神八井耳命 (配祀)建御雷之男神 斎主神 天児屋根命 姫神 神沼河耳尊 大山祇命
耳常神社の主祭神は神八井耳命。
神武天皇と伊須気余理比売命(いすけよりひめ)の間に生まれた長男で、船木氏の祖とされます。
配祀されている天児屋根命は天孫降臨の際の随伴神で、中臣氏の祖神。
このページ(http://www.genbu.net/saijin/koyane.htm)で天児屋根命 を祀る神社を見ると、
複数の春日大社系と思われる神社と、あと伊賀名張方面の神社が多く挙げられています。 春日氏について調べると、
「春日氏」は「ワニ氏」(和仁、和邇、和爾などとも)から派生した古代氏族とあります。
天児屋根命を祖神とする中臣氏は、「ワニ氏」(和仁、和邇、和爾)氏と関係していると考えられます。 >>921
朝明郡の舟木直が祀る耳常神社は、
春日明神とも呼ばれていたとあることから、
多気郡の相鹿上神社と同じく中臣和邇氏の系統であると考えられます。
ここからは、根拠のないスペキュレーションですが、
大化の改新の立役者、中臣鎌足は百済人の王仁と重ね合わされます。
中臣(大鹿嶋)≒王仁ワニ氏。
中臣和邇氏と上で書いた理由です。 多気郡の大鏡神社の宮司は船木氏ではありません。
(船木氏は近くの佐那神社で天手力男命を祀る)。
一方の朝明郡耳常神社の神官は舟木氏が務めている。
これは何を意味するかというと、
朝明郡の耳常神社の祭神は改竄されたものではないということです。
神八井耳を祀る舟木氏が正統な舟木氏であれば、
祭神の改竄を黙って見過ごすわけはないからです。
改竄だけでなく神八井耳と関係のない神の配祀も許さないでしょう。
つまり、この耳常神社は最初から、
主祭神を神八井耳とし、建御雷之男神や天児屋根命を配祀する神社として創建された神社であり、
宮司の舟木氏についても、
相鹿上神社と同じ中臣和邇氏の流れを汲む舟木氏が最初から神官として任命されていた可能性が高いと考えます。
(合祀されている耳利神社の祭神は応神天皇と菟上王なので、この際は論ずる必要はないでしょう)。
当然、多気郡の大鏡神社も、
最初から中臣和邇氏によって創建された神社であると思います。 最初から〜として創建された、の「最初から」というのは、
その地にいた古代氏族の祭祀の場の名残をとどめた色彩の強い神社ではなく、
比較的新参の人たちによって、所期の目的をもって建てられたという意味です。 その地で祭祀を行っていた、
あるいは祭祀すら行っていなかったかもしれない、
原初的な古代氏族の名残をとどめる神社ではないという意味です。 >>889
> ちなみに、相鹿上神社の神紋は雀口桜で、
> 鹿島神宮の近くに特高隊飛行場があり、
> その特高兵器が「桜花(おうか)」と呼ばれたことと無関係ではないと思います。
特攻兵器「大鹿」は、連合国軍によって「BAKA(馬鹿)」と呼ばれていたそうです。 勘のよい方なら、もう既に、
自分党とアースクエイクとの奇妙な関連についても、気付いておられるのではないでしょうか。 なんやアースクエイクって
自民党の化け物はよく遊んだわ
化け物党め >>889
> 天児屋根命 ≒ 中臣大鹿島 = 建御雷之男(鹿島神宮)
これのことでしてよ。 まぁ、自民党の政治家の中にも政治家がいるから
凄い力を持っている
わしはゼウス家の長男だ まぁ、自民党の政治家の中にもゼウス家がいるから
凄い力を持っている
わしはゼウス家の長男だ まぁ、独りよがりのわがままな天皇家だけじゃ
どうしようもないから
ゼウス家は自民党も育てたんだよ 育てたんだよ、じゃありませんわよ。
自分党に票を投じなかったら殺される国ですのよ。 そうか、わしは自民党の頭だけど
自民党に入れた事ないな
まぁ、福岡の部落地域だからしかたがない 部落政治家がどう思おうと構わんが
薩摩の島津家は本物なんだよ わしはゼウス家の宇宙船から
透明な四角箱に入ってコロコロ降りてきたから
この世の偽物はどうでもいいの
そうやって宇宙船から地球の霊界に発射されて
人間に宿るんだよ なにがねますだ
恥を知れ
偽物ども
おまえらはこの世の幻想だけだ おまえらは部落と同じて
生きる為に嘘をつく
それは嘘のこの世の世界でしか
生きられないただの幻想だからだ こいつらはただの幻想の魂だから
確かな物がないんだよ
だから何も分からない世界で
生きる為に嘘をついて藻掻いてるんだよ 関東にいるじいさん一味は
ただの神社の末裔で
宇宙船乗りの祖神はわしらなんだよ だから関東のじいさんが退位宣言する
ちょい前に
ゼウス家みんな
じいさんを宇宙船に迎えたんだよ
魂はただの神社の末裔なんだよ だから関東のじいさんが退位宣言する
ちょい前に
ゼウス家みんなで
じいさんを宇宙船に迎えたんだよ
魂はただの神社の末裔なんだよ 宇宙船乗りのわしらが
神話に出てくる
宇宙世界の王家で
地上はただの幻想の魂の神官だ だから地上はどんくりの背比べて
争っているだけ
宇宙船乗りの
宇宙世界の王家のゼウス家が
隕石一つ地球にぶつければ終わり
いつもやれるんだよ
地球の猿と戦うまでもない 喜岡城案内板(香川県高松市)の案内板には次のように書かれているそうです。
「鎌倉時代の末期、建武の中興の功臣舟木(高松)頼重が
讃岐守護職としてこの地に城をかまえていましたが、
建武二年(1335)十一月二十六日、足利尊氏の臣、細川定禅らの軍勢に攻められ、
老父一族十四人と郎党三十余人討死し、落城しました。
その後、ここ高松城にて高松庄を領した高松左馬助頼邑は、
天正十三年(1585)四月二十六日、
秀吉の四国征伐の一隊(宇喜多秀家ら七将の兵)約二万三千の攻撃をうけ、
手兵百余人と、香西氏派遣の唐人弾正、片山志摩の率いる兵、
合わせてわずか二百をもって勇敢に戦いましたが衆寡敵しがたく城兵ひとり残らず討死しました。
(出典: https://ameblo.jp/katana-bokudo/entry-12340550930.html) >>880
> 喜岡城は1335年(建武2年)に建武の新政で功をあげて
>讃岐守護となった舟木頼重(後に地名をとって高松頼重と> 名乗る)が築城するも、
>建武の新政で功をあげて
舟木頼重は、
後醍醐天皇の倒幕計画を(妻を通じて)六波羅探題に密告し、陰謀を露顕させた人。
この舟木氏系図(http://rekishkakeizu.seesaa.net/article/373162096.html)にも、
頼貞(隠岐孫二郎、土岐惣領)、弟頼重(号船木、以下略)とあるので、これは同一人物でしょう。
、: 正中の変(しょうちゅうの へん)は、
鎌倉時代後期の元亨4年9月(1324年10月)に起きた、
後醍醐天皇による討幕計画が事前に発覚し首謀者が処分された事件。
建武の新政(けんむのしんせい)は、
鎌倉幕府滅亡後の元弘3年/正慶2年(1333年)6月に
後醍醐天皇が「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したことにより成立した政権及びその新政策(「新政」)である。
建武の中興(けんむのちゅうこう)とも表現される。
(Wiki より) 正中の変で後醍醐天皇の倒幕計画を頓挫させ、
自害に追い込まれた舟木頼重親子が、
その 9 年後、同じ後醍醐天皇から建武の中興の功臣として讃岐高松を賜っている。
>後醍醐院の御宇、宣下を蒙って讃岐國高松庄に住し、諸郡を管領す。
(舟木氏系図 http://rekishkakeizu.seesaa.net/article/373267188.html) 喜岡城の高松頼重は、Wiki には生き延びたとあります。
しかし、頼重は生き延び、子孫の高松頼邑によって城は再建。
その後香西氏に属したが、1585年(天正13年)4月26日豊臣秀吉の長宗我部氏に対する四国攻めに際し、
宇喜多秀家を総大将とする約2万3千人に攻め込まれる。
対する頼邑側は長宗我部氏からの援兵を合わせてわずか200人の兵をもって戦うも敢え無く、
全員が討死し喜岡城は再び落城した。(Wiki「喜岡寺」の項より) >船木氏は美濃國本巣郡船木郷より起こる。
(舟木系図: http://rekishkakeizu.seesaa.net/article/373162096.html)
>花園院御宇、北條家執権の時、濃州、江州等において領知を賜い、且つ伊勢國守護職を命ぜられる。
>翌年文和元年、頼夏・別腹の子兵庫助頼尚を美濃國土岐に移して一族土岐家に属させる。
(舟木系図: http://rekishkakeizu.seesaa.net/article/373267188.html)
※文和元年は 1352 年
もともと美濃國本巣郡船木郷に起こり、
土岐氏の分流であったはずの舟木氏が、
花園院天皇の在世中(1308 〜 1318 年)に
美濃近江にあって領知を賜って伊勢國守護職を命ぜられ、
さらに、
頼夏の子、頼尚の代で、
美濃國土岐の土岐家に一族を属させた、とある。 一方この頃、讃岐高松では、
建武の中興の功臣舟木(高松)頼重が讃岐守護職として喜岡城を築くも(1335 年)、
同年攻め滅ぼされている。
高松頼重のその後の生死は不明だが、子孫は秀吉の時代まで生き延びたらしい。 で、>>873、>>884-885 のとおり、
>正平8年舟木頼夏(土岐一族)は子の頼尚を官軍につけさせた。頼尚は子とともに伊勢に入った。
(http://www.amigo2.ne.jp/~fuchisai/home/denki.htm)
ここから、伊勢一志郡の舟木氏の歴史が始まります。 明智家の祖とされる明智頼重が生まれるのは、これより少し後。
明智頼重(1342 〜 1423 年)
美濃国可児郡明智城主。美濃守護土岐頼貞の九男長山頼基の子。
土岐氏支流の明智氏の祖、あるいは二代目とされる。 ちなみに、
土岐光基(明智光基)は、平安時代末期に伊勢守を任じられてる。
平治元年(1159 年)己卯十二月十五日任伊勢守賜彼国
(出典は >>892 の文書) 天海僧正の出自が会津の舟木氏とされている件については、
秀吉の時代に松坂入りした蒲生氏郷の転封に伴い、
会津へついて行った舟木氏が会津藩の舟木氏の祖、というのが、
少なくも伊勢の武家としての舟木氏の公式見解のようです。
これについては、また機会を改めて。 だいじんぐうねぎ 太神宮權祢%x會光倫「号相鹿二郎大夫」は、
後に弟が生倫(なりとも)の名で出てくる。度会氏にして会賀四郎太夫とも云う。2巻養和元年十月廿日
(http://adumakagami.web.fc2.com/a-jinmei4t.htm) 養和元年(1181)十月小廿日癸亥。
昨日。太神宮權祢宜度會光倫〔号相鹿二郎大夫〕自本宮參着。
是爲致御祈?賜御願書也。
(http://adumakagami.web.fc2.com/aduma02a-10.html)
大神宮の大禰宜度會光倫(わたらひのみつとも、相鹿二郎大夫と号す)が、
源頼朝の戦勝祈願のために、
伊勢から遠路はるばる鎌倉まで出向いてくれたときのことが、
『吾妻鏡2巻』養和元年十月の段に載っている。
養和元年は 1181 年なので、頼朝が鎌倉幕府を開く前、
壇ノ浦の戦い(1185 年)よりもまだ前ですね。 一方前述の『伊勢市史』には、
頼朝が伊勢神宮に神領を寄進し、
その窓口として外宮権祢宜の相鹿光倫という人物を口入神主として、
祈祷や神官との折衝に当たらせたことが記されています。
(出自: http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/saiku/senwa/journal.asp?record=361)
頼朝は養和元年(1181)3月、
旧佐竹領であった世谷(常陸太田市)・大窪(日立市)・塩浜郷(日立市)を鹿島神宮に寄進し、
合わせて橘郷(小美玉市・行方市の一部)を寄進(所領安堵の一種)した。
この社領の寄進が鎌倉幕府と神宮との出会いの始まりである。
(出自 http://cs-kashima.jp/maibun/377.html『鹿嶋の歴史』より) >>962
> 頼朝は養和元年(1181)3月、
> 旧佐竹領であった世谷(常陸太田市)・大窪(日立市)・塩浜郷(日立市)を鹿島神宮に寄進し、
この佐竹氏は、鎌倉の八雲神社を建てた、
祇園山(シオンやま)に抱かれた大きな神社ですが、
佐竹氏を指しているのだと思います。
佐竹は砂竹、おそらくは砂金鉱山と関係していて、
頼朝はその莫大な利権を伊勢の神宮に譲渡することで、
天下を取らせてもらったのでしょうね。 第30代 敏達(びたつ)天皇
皇妃: 春日老女君、伊勢兎名子
【沼名倉太玉敷命】敏達天皇(古事記)
又娶伊勢大鹿首之女、小熊子郎女(中略)
又娶息長眞手王之女、比呂比賣命、生御子、次宇遲王。(中略)
又娶春日中若子之女、次春日王。
【沼名倉太玉敷命(ぬなくらおおたましきのみこと)】敏達天皇
また伊勢の大鹿(おおか)の首(おびと)の女、小熊子(おぐまこ)の郎女を娶りて生みし御子は、
(以上、出典: http://inoues.net/tenno/bitatsu.html) 早い話が、
大鹿の首(おおがのおびと)とは、「相(合)鹿」氏を名乗る度会氏であり、
春日氏 = 和邇氏とつながっているということです。 2ch の過去ログにも次のような書込みがあります。
【相鹿氏】【出口氏】【一志氏】などが挙げられています。
>度会氏『神名帳考証』には「鹽君、津連祖神」として、祖神としている。津連は菅野朝臣となった。
https://academy4.5ch.net/test/read.cgi/history2/1134868305/ のレス番 310 時に安佐賀荒悪神の為行を、
倭姫命は、
中臣大鹿嶋命・
伊勢大若子命・
忌部玉櫛命を遣して天皇に奏聞し、天皇詔す。
(http://nire.main.jp/rouman/sinwa/yamatohime.htm『倭姫命世記』より) いくつかの神社と伊勢の神宮とか結ぶと、
五芒星や六芒星が出来るという話があるじゃない。
日本海側京都の元伊勢内宮皇大神社と伊勢の斎宮を結ぶ線上に、
△△城はピッタリ重なってる。 元伊勢内宮皇大神社(京都府福知山市)
伊吹山(滋賀県米原市、岐阜県揖斐郡揖斐川町、不破郡関ケ原町)
伊弉諾神宮(兵庫県淡路市)
熊野本宮大社(和歌山県田辺市)
そして、伊勢神宮内宮
この 5 つの点を結ぶと五芒星ができるという話ね。
△△城を通っているなぁとは以前から思っていたのだけど、
今調べてみたら、
伊勢神宮内宮を斎宮にした場合、
元伊勢内宮皇大神社と斎宮(三重県明和町)を結ぶ線上に、
△△城はピッタリのっかっていることが分かりました。
ただし、
元伊勢内宮皇大神社と、
伊勢神宮内宮、または外宮とを結ぶ線では若干の誤差(数百メートル程度)があります。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。