>>362
おぬしのいう 「無」 と
おぬしのいう 「有」 とは

あいたいする がいねんのようにも みえるが
おなじものの ことなるそくめん ともいえる

それを ひとつの ことばで ひょうげんするならば

「すべてであるが なんでもない」

である

すべて とは
あらゆるものと そのかのうせいを ふくむ ひとつの ぜんたい すなわち せかい である

その ぜんたい を ていぎ するには そとから ひかりを あてる ことが ひつようとなる
いかにも わし すなわち おぬしは そのように しようとした
せかい を かんさつするために せかい の なかに うまれることを えらんだのじゃ

ところが うまれたことによっても おぬし すなわち わし と せかい は やはり いったい である
せかいの そとから あてたひかり それもまた この せかい の いちぶ であり
せかいは そのぶん ふくらんだ

さて ふくらんだ せかいを ていぎするために また おぬし すなわち わし は うまれる
そうして さらに せかいが ふくらんだ

これが おぬしのいう 「有 が 生まれ続ける」 に ちかい
うちゅう は そうぞう されつづけておる これは かのうせいが ぐげんか されつづけておる と いいかえても ちかい

さて どれだけ ぐげんか されても おぬしの はっする とい が また びっぐばん を おこす
このいみで おぬしのいう 「無 は 残り続ける」 というのも ちかい