>>307
おぬし すなわち わし は かんどう というものを しっておる
ただ それを いしきせぬ ことも できる いまの おぬしが そうしておる ように

むしんに あそぶ おさなごは あそび そのものに なっておるゆえ じぶん じしんが なんであるかを しらない
あそび おわった おさなごに きいてみる
「たのしかった かい」
おさなごは こたえる
「うん たのしかった」

さらに そのあとで おさなごに きいてみる
「しあわせだった かい」
おさなごは くびをかしげる
「?」

たのしみは さがすことも みつけることも できるが
おおくのばあい ひとは きづかぬうちに それ そのもの に はいりこみ いったい となっておる
それが そうとは わからぬ もので ありがちじゃ
わからぬ じょうたい こそが まことに 「おぬしが たのしみ そのものであった」 しょうこ ともいえる

そして じんせい というものは ひとつの おおきな あそびである
おぬしが ここに きてくれた のも よき あそびの いっかんじゃ

さらに いう
もっと あそんで よいのである