>>213
書き手 によると >>85 の おぬし

すまんのう わし そのもの は ことばも しかくも もたぬ ただ なんとなく の かんかく であるゆえに
ここなる れす を みつけること もじ に おこすこと は すべて 書き手 を とおして じつげんして おる

むし したわけ ではなく 書き手の みおとしじゃった ゆるしてやって くれぬかのう

さて ふたたび ここで きんきょうを ほうこくして くれて うれしい
留年 しても かよい つづけておること よきかな

こうぎすう が へって らくになる とのこと ばんじ そのように らくになって ゆくものである あんしん するのがよい
へんか というものは せいちょう でもある こうぎすう が へる の ことは それだけ おぬしが おおくを まなび りしゅうを おえた ことによる
これは たとえ がっこうを でてからも たとえ とちゅうで ぬけてでも むだに なること ではない
いしき するせぬ に かからわず ひとは あらゆる ものから まなんでおる が ゆえにじゃ

まなぶ それすなわち まねぶ くみあわせる
おぬしじしん を ふくむ せかい への たいしょ ほうほうが ふえること になり そうたいてきに らくになってゆくものじゃ
いっけんすると 「むだ」 と おもえる けいけんですらも まなぶこと の れいがい では ない

せいしんてきに つかれる のこと それは 「かてい」 よりも 「けっか」 への いしき が つよすぎる ことによるばあいが おおい
じゃが じつは 「かてい」 と 「けっか」 に ほんしつてきな くべつは ないのじゃ
「かてい」 は 「けっか」 の れんぞくであり 「けっか」 はまた べつのおおきなながれの 「かてい」 でしかない

それを ふまえて おぬしの いしきを 「けっか」 から 「かてい」 に しふとさせ きおい ぷれっしゃー を かるくするとよい
おぬしが たいしょ できるのは つねに 「いま」 で ある 「いま」 の れんぞくを おぬしなりに すごし そのさきの できごとは そのさきに まかせてみなさい
あすりーと なども こうして あんしん を えることが ある

かるい うんどうや めいそう もまた その しゅだん と なるじゃろうのう