人の認識なんて、不確かにしか物事を理解できないに尽きるかな? 言葉一つとっても多様な解釈が生まれてしまうからね
新約聖書の言葉、始めに言葉ありき… 言葉という道具を用いなければ、物事の深さを知るという認識すら出来ないからね… その意味合いを忘れない事は大切かな?

だからオカルトという言葉も、科学という言葉も、ちゃんと定義を定めてこそ、より深い理解認識に繋がるのだと思います
まあ、オカルトというアナログ解釈を、デジタル解釈(細分化)したものが科学でしかないのだけどねw 科学はオカルトの片鱗だね

言語空間という言葉、それは言葉という道具を用いイメージすると、言葉を触媒とした、言葉の分類学的な、物事の多様性という認識の広がりが生まれる…
つまり人々の使用する言葉をコントロールすれば、人の思考認識を有る程度コントロールできてしまうのは否めない… そこは倫理次第だけどね

この様に人という存在は、意外と自分の事すら理解できていないものなんですよ? 完全成る自分という証明なんて誰にも出来やしない… 自分らしさは多少は言えるけどね
大切なのは探求という、心が望んで止まないそれを、見つけ出して一生懸命進むこと… 完全成る証明なんて、二の次で良いのかとw それじゃ駄目ぇ〜? ww