仙人洞窟 [無断転載禁止]©2ch.net
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金魚鉢の中で暴れてるだけの悪霊には、
永遠にわからない話なのよ。 三天王社でググってみれば、
わかるかもしれませんね。
秦氏と八咫烏
どちらがなにをコピーしたとか。 みぬって水のことよ。
ヘブライ語でmnの音韻は水を表すから。
上は雲のことなじゃないかな。
雲出○天王とも言われていたのではないかと推測。 訂正
ことなじゃないかな
○ことなんじゃないかな
この神社のことは前から知ってましたよ。 『豊後国風土記』に記載されている土蜘蛛の名称
打猴(うちさる)、頸猴(うなさる)、八田(やた)、國摩侶(くにまろ)、青、白、小竹鹿奥(しのかおさ)、小竹鹿臣(しのかおみ)
−Wiki より−
『豊後国風土記』とは、現在の九州 O 県の風土記。 織田信長の本名は八田信長らしいです。
うちと織田家の家紋が同じなのも肯けます。
五瓜に梅花、猿田彦神社の紋です。 八田(ハタ、ヤタ)から、
信長を秦氏の末裔とする説も強い説得力を持っています。 参考資料
http://www.genbu.net/data/ise/azaka2_title.htm?print=on
『倭姫命世記』などによると、
安佐賀の山の嶺に荒ぶる神がおり、宇治の五十鈴の川上の宮へ行くことが出来なかった。
中略
荒ぶる神である伊豆速布留神を祀ったのが当社の起源。
中略
この伊豆速布留神が当社の祭神・猿田毘古大神のことであるという。
元々猿田彦は、宇治の五十鈴川の川上で祀られていたのではないのですか? アサカのこの荒ぶる神は、神官家に二度「平定」されているのですよ。
一度は上記のとおり、倭姫を伊勢に案内した大若子によって。
もう一度は、大若子の祖先の天日別命によって。
自分たちが征伐した神は、元々自分たちの神様でした、って言ってるわけ。 逆に言えば、
アサカの三天王に相当する氏族は、
上古からすでにこの地域にいたのではないかということです。 >>861
打猴(うちさる)、頸猴(うなさる)、八田(やた)、國摩侶(くにまろ)と
青、白、小竹鹿奥(しのかおさ)、小竹鹿臣(しのかおみ)は異なる地域の土蜘蛛です。
で、八田はそのままとして、
打猴(うちさる)、頸猴(うなさる)という名は何か連想させる。
國摩侶(くにまろ)はeleven (el-even)かしら(>>826)。 青、白は、青和幣と白和幣。
スサノオの剣の表象です。
小竹は、女性を首長とする土蜘蛛で、
スサノオを警護しています。
こうたまんを護るひろみのようなものです。
小竹の読みは「しの」(sin、shin)です。 hata、yata、shin
これらの音韻は、被征服民の氏族名として、
神代、あるいはそれ以前から存在していたのではないですか? こうしてみると、
土蜘蛛のコードとスサノオ(猿田彦)のコードとはほぼ等価であることがわかると思います。 だから、
人格神というのは、1 個人を指すのではなくて、複数の氏族のコングロマリットみたいなものよ。 https://mao.5ch.net/test/read.cgi/occult/1495709514/273-275
278本当にあった怖い名無し@無断転載は禁止2017/06/19(月) 22:51:04.12ID:wbB68Xq/0
再訂正
○レイラインはもう少しだけ北にずれてます
>スサノオのラインです。 >>865
阿射加神社(小阿坂) 北緯 34°35′27″
阿射加神社(大阿坂) 北緯 34°35′54″ 阿坂城 北緯 34°35′37
枳城(からたちじょう) 北緯 34° 35′ 12″
高城城(たかじょうじょう) 北緯 34° 35′ 59″
阿坂城は、阿佐鹿悪神(あさかのあらぶるかみ)、伊豆速布留神(いつはやふるのかみ)がいたとされる阿佐加之弥子(阿坂の峰)に立つ城。
阿射加神社は元々、この桝形山の山頂にあった。枳城と高城城は阿坂城の出城。三位一体の城になっている。 敏太神社(みぬた神社) 北緯 34°35′ 9″
当家旧宅 北緯 34°35′ 47″ 往古のアサカは今の三重県松阪市全体を含むくらいの広い地域を指したのではないかと考えます。
ただし、正確に言うと、当家は現在の阿坂ではなく、阿坂から数キロメートル東へ離れた海寄りの集落にある。
旧宅は某城跡の敷地の半分くらいを占めていた(明治初期の時点)。 >>882
>某城跡
某城 = 舟木城
ただし、ここでの舟木は弟筋なので違う苗字を名乗っているし、
正式な城の名称も舟木城ではありません。 伊勢の太陽の道として知られる北緯 34 度 32 分線の
東端は伊勢の斎宮、
西端は淡路島の舟木石神神社、伊勢久留麻神社。
久留麻は日車のことでしょうか。
>>883
ただし、舟木さんは近くに住んでますよ、もちろん。 阿佐鹿の悪神が暴れていた時代と伊勢の斎宮では、どちらが古いでしょう。
もちろん、阿坂城という城を建てたのは同族ではなく、よそから来た人たちですよ。
この時代、当該の地域には○笑系の武士団が多く流入していた模様。
阿坂城のある場所には元々、阿射加神社があったという話をしています。 上げ
旧伊勢街道は、この舟木城を迂回するように回り込んでいる。 >>656
遺構はは前述のように大きく古墳時代と中世に分かれる。
以上のことから上ノ庄北出遺跡周辺に遅くとも古墳時代後期には小集落の存在が伺え、
何らかの事情により小集落が廃絶し、その後次に人の生活痕跡が見られるのは平安時代末期から鎌倉時代前半と考えられる。
出典: 三重県埋蔵文化財センター『上ノ庄北出遺跡発掘調査報告』
上ノ庄北出は大阿坂町、小阿坂町、美濃田町に隣接する地域。 古くからある氏族名というのは、
まず音韻があって、それに漢字を当てはめたものなのよ。
なので、漢字で書かれた苗字を見ても今一つ意味が伴わない。
これに対して、漢字を読んで字の如く意味がわかる名前は、
漢字伝来以降に作られたものだということがわかる。
例えば、山の王と呼ばれた人がいたとして、
その苗字が「山王」だとしたら、当然それは、
「山」とか「王」という漢字が使われるようになってから、自分で付けたものだとわかるわけ。 自慢じゃありませんけど、
うちはわかっている限りでも数百年前から、
集ストに狙われて不可解なまでの苦難に遇い続けてきた側ですから。
舟木さんだってそう。
偽物の為政者が本物に特典や恩恵を与えると思う?
偽物 → 偽物 特典を付与
偽物 → 本物 集ストによる虐待
こういう図式になるに決まってるじゃない。 だからぁ、
官職の官って何よ、
勝てば官軍っていう言葉知らない?
正式って、どこの国の誰の何に則って正式なのよ?
外国人の作った国で、
正式な官職につけてよかったわね。 葱キュウ(おばさん)のやってることは、
外国のマナーに則って正式なのかもしれないけど、
古代から日本にいる者にとっては非常識なのよ。 ヘブライ語で
"ish" は man(人)
"esh" は fire(火)、flame(炎)、light source(光源)という意味。
これはわりと知られてますよね。
一方、ヘブライ語と同じくセム語に属するアラビア語では、
"nar" "nur" は fire(火)、light(光)、flame(炎)。
さらに、ヒンズー語では、Nar means person or human being("nar" は「人」または「人間」の意味)。
仏教伝来後のコピーでしょう。 あれ、
NARA って漢字で書いてもよくなったのかな。
*NAR*ね。 The same type also occurs on a well-known baiser de paix
of which the specimen in the Plaquette Room of the British
Museum is illustrated here (fig. 5 , 89 by 66 mm.). Christ is repre-
sented in profile to 1., with cruciferous nimbus ; at the sides of the
head, the letters 1 ? N R ? 1 ; above, the Holy Spirit between Sun
and Moon. Molinier dates ごめん、稲荷の起源もたぶんうち(と舟木さん)。
稲荷は
1NR1
ジューイッシュの間に光(または火)が入ってる。 人(火と)と人(火と)の間に火がはさまって
1NR1 >879−880
奈良石上神宮 北緯34度35分52秒 >>879−880
奈良石上神宮 北緯34度35分52秒
有名な北緯34度32分はあまり意味ないのよ。 伊勢 国造(いせ の くにのみやつこ/いせこくぞう)は、伊勢国・伊賀国・志摩国を支配した国造。本姓は中臣氏。
祖先[編集]
天日別命または天日鷲命(両者には同神説と別神説がある)。(中略)
神武天皇東征の際、伊勢津彦を追って伊勢国を平定し、
その娘の弥豆佐々良比売命を娶って彦国見賀岐建与束命(伊勢神宮外宮摂社・度会国御神社の祭神)を生ませたという。
−Wiki『伊勢国造』より−
祭神は、大国玉命(おおくにたまのみこと)と弥豆佐佐良比賣命(みずささらひめのみこと)の2柱[2]。 。
両神とも鎮座地の度会地方の地主の神である。
神武天皇の代に天日別命(あめのひわけのみこと)が伊勢平定のために訪れ、
両神が持っていた弓をかけて橋を作って出迎えたという。
−WWiki『度会大国玉比賣神社』より− Wiki のこれらの項目には歴然たる矛盾がある。
『伊勢国造』
> 神武天皇東征の際、伊勢津彦を追って伊勢国を平定し、
> その娘の弥豆佐々良比売命を娶って彦国見賀岐建与束命
(伊勢神宮外宮摂社・度会国御神社の祭神)を生ませたという。
『度会大国玉比賣神社』
> 祭神は、大国玉命(おおくにたまのみこと)と弥豆佐佐良比賣命(みずささらひめのみこと)の2柱。
> 両神とも鎮座地の度会地方の地主の神である。
度会大国玉比賣神社というのは、伊勢神宮の神官家の祖神を祀る神社。
その祭神である弥豆佐佐良比賣命(みずささらひめ)について、
『伊勢国造』の項目では、伊勢を追われた伊勢津彦(大国玉命)の娘となっている一方、
『度会大国玉比賣神社』の項目では大国玉命(伊勢津彦)と弥豆佐佐良比賣命(みずささらひめ)の二神とも
鎮座地である度会地方(伊勢神宮のあるところ、南伊勢)の地主神であるとされている。 天日別命または天日鷲命は天村雲命(あめのむらくものみこと)の子孫であり、
神官家の祖先です。
伊勢津彦は、神官家の祖神に「平定」された北伊勢の神。
弥豆佐佐良比賣命(みずささらひめのみこと)はその娘です。 伊勢津彦 = 伊豆速布留命(いつはやふるのみこと) >>250
> あめむらくも ひとみづわけて(天叢雲火と水分けて)
>いそのさかな まほいせにしす(磯の魚モーセ伊勢に死す) 倭姫命(やまとひめのみこと)のパパ、垂仁天皇とは誰だったのでしょう? みずささらは、
いつはやふるの子を宿したまま、囚われの女となりました。 みづささらは子を産み、その家系の祖となりました。
皆さまが今ご覧になっているこの世界です。 祭神は、大国玉命(おおくにたまのみこと)と弥豆佐佐良比賣命(みずささらひめのみこと )の2柱。
両神とも鎮座地の度会地方の地主の神である。
神武天皇の代に天日別命( あめのひわけのみこと)が伊勢平定のために訪れ、
両神が持っていた弓をかけて橋を 作って出迎えたという。
>天日別命( あめのひわけのみこと)が伊勢平定のために訪れ
天日別命はどこを平定に訪れたのでしょうか。
北伊勢、いしごおりですよね。
両神とも鎮座地の度会地方の地主の神であるのなら、
なぜ持っていた弓で橋を作って出迎えなくてはならないのでしょう。 この二神について記述する文章は、
たいてい前後がつながっていない。
天日別は北伊勢を平定後、
故郷の度会地方の地主神の娘を娶ったともされていますが、
天日別自身は度会地方の地主神ではなかったのですか?
度会地方には地主神が別に存在したのですか?
複数の地主神がいたのであれば、北伊勢を攻める際には連合軍を組むべきであって、
地元で橋を作って出迎えている場合ではないのでは。 わたしが不思議なのは、
ちょっと調べればわかるだけでもこれだけ多くの矛盾があるのに、
それらに目を向ける人が千数百年もの間いなかったという事実。
この国の歴史学者や神道学者は何をやっていたのだろう。 >>754-755
松ヶ島城 北緯 34°36′ 20″ >>910-911
これ結局、神と悪魔は同じものという、ありきたりな結論に皆さまを導くものではありませんのよ。 伊勢神宮にはキリストが祀られていると噂されてれる理由がおわかりになりましたでしょ。 土蛛と云ふ名こそ負へれ、実には人種にて、其の人種の始めは、
伊邪那岐、伊耶那美二神の産み給へるなれバ、此の土雲などハ、
其の産み給へる人種の始祖どもの長存せる者等にも有るべし
−平田篤胤『古史伝二七五』より−
平田篤胤のこの部分は本当だと思いますよ。
土蜘蛛は伊邪那岐、伊耶那美が産んだ人種(ひとくさ)であり、
その人種(ひとくさ)の始祖が長く存しているものである。
>>861、>>869 の氏族は太古から日本にいる先住民なのです。 >>203-204
>>896-897
1 と 1 の間の NR は、青と白の中の赤、水中の火。
青い空に白い雲、そして太陽、または、海を走る火球。 >>882-883
城跡の敷地(当家旧宅の敷地)には城内社だったと思われる稲荷社がある。
現在では地域共同体のものになっているこの稲荷社、
かつてはこれに関する何らかのイベント、お祭りなどの際は、
地域の世話を含めて祭祀の一切を当家が引き受けていた。
元々当家私有の邸内社だったから当然なんだけど、これは昭和の中頃まで続いた。 >>883
>ここでの舟木は弟筋なので
長男家の城は、阿坂の少し北、嬉野堀之内というところにある。
雲出川の支流を引き込んで L 字型の堀をしつらえていた。
天然の川で堀を作るのは、舟木城に共通のコンセプト。
ちなみに、嬉野という地名は、阿坂山の悪神が鎮められことを倭姫命が喜び、
「あな嬉し」と言ったことに由来するという。 この嬉野堀之内の辺りには、堀之内の他に、
豊地(とよち)、宇気郷(うけさと)といった興味深い地名があった。
町村合併により、これらの地名は今は字(あざ)名としてさえ残っておらず、
わずかに市立豊地小学校という校名があるのみ。 嬉野は阿坂山から見て 1 里(約 4 q)ほど北の地域。
一帯には堀之内、豊地、宇気郷などの村があった。 堀之内城の近くには豊地神社というのがあって、
ここにも伊豆速振命(いつはやふるのみこと)が祀られている。 伊勢神宮の豊宇気毘売神の
「豊」と「宇気」がここにあるわけです。 東大寺文書(『平安遺文』)には、
伊勢の舟木が東大寺の荘園に寄進または地代を納めたことが記録されている。
『船木弟虫』;伊勢ノ船来直(船木直。船木−伊勢国朝明郡舟木明神祠官。西脇−同郡耳利神社祠官)、船木臣、
船木宿祢(舟木、堀内−伊勢国一志郡人。乙部、中村−伊勢人)
(平安遺文 古文書編 第一巻)
「舟木、堀内−伊勢国一志郡人。乙部、中村−伊勢人」の部分で、
中村−伊勢人とあるのが舟木の弟筋です(>>883)。
古文書編第一巻の年代は「自延暦2年(783)至康保5年(968)」とあるので、
遅くとも 8 〜 10 世紀ころには、舟木氏は一志郡堀之内に拠点を定めていたことになる。
なお、「船木−伊勢国朝明郡舟木明神祠官」については、一志郡の舟木とは別系統である蓋然性が高いと考えますが、
これについては話が長く、ややこしくなるので保留にします。 【浄霊】こうやって解決したよ☆体験談【成仏】
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/occult/1513517078/l50
>>46横レスで失礼致します。
HPとかありましたらぜひお願い致します。
又、46様ご本人様でなくても、この方お薦めだという方でもいらっしゃいましたら
宜しくお願い致します!! >>924-925
宇気郷というのは、明治の町村合併で新しく作られた地名でした。
その由来はこの周辺に宇気比神社が多く分布したことによるとあるので、
(三重県神社庁教化委員会のホームページより)
本来の地名は「宇気比」のようです。 「阿佐加の悪神」の滅亡を見て、
倭姫命が「嬉しいのう」と言ったことにちなむ地名は後からのもので、
この一帯にはおそらく「豊地」「豊田」「宇気比(うけひ)」といった地名が元々あった。
往古から舟木氏の拠点があったのものと考えられます。 并新羅國征時,大田田命、神田田命,伐取己所領山岑樹,而造船三艘。
本造舩者,乘 皇后并大神臣八腹。次中腹赤造舩者,乘日御子等。
次末造舩,御子等并大田田命、 神田田命,共乘渡征。即有大幸,祈?天神地祇在驗。大幸還上賜。
其御舩,令奉齋祀 武?宿禰一,志麻社、靜火社、伊達社,此三前神也。
即大田田命子神田田命子神背都 比古命。此神者,天賣移乃命兒富止比女乃命娶生兒。
先者,伊P川比古乃命。此神者 ,伊P玉移比古女乃命娶坐,此伊西國舩木在。
−『住吉大社神代記』より−
神功皇后の三韓征伐の際、舟木氏が船を造って皇后を乗せた条(くだり)です。
後半を抄訳すると、
大田田命の子である神田田命の子、神背都比古命が天賣移乃命兒富止比女乃命を娶って産んだのが、
伊P川比古乃命で、この人は神であり、伊P玉移比古女乃命を娶って伊西(伊勢)の国舩木に坐す。
となります。
伊P川比古乃命は「いせつひこのみこと」と読みます。 一方、『倭姫命世記』では、
大田命の子孫である宇○○公氏が猿田彦の裔であるとされています。
大田命と「いせつひこ」、そして猿田彦には強い関連性がある。
しかるに、舟木氏の活動拠点の痕跡は南伊勢にはなく、宇○○公氏の痕跡は中伊勢〜北伊勢にはありません。
また、宇○○公氏が造船に関与した形跡は南伊勢にもありません。 一方、京都の丹後国にも竹野郡船木郷があり、
この地では豊宇賀能賣命(とようかのひめ)という神が、天女伝説の天女として祀られている。
豊宇賀能賣神は、外宮の豊受大神と同一神とされる。
豊受大神、豊受比売命、豊宇賀能賣神は、舟木氏と関連性が見られる。 しかるに、、
広大な土地を領有し、活発に活動する舟木氏および出口氏は、
中伊勢、一志郡にしかいないように思える。 伊勢津彦=伊豆速振命=猿田彦と強く関係すると思われる舟木氏は、
神功皇后の三韓征伐に際し、船を提供してサポートした側です。
猿田彦と呼ばれる氏族集団が外国人を母胎にしたものであれば、これはあり得ないでしょう。 >>936
土地の私有制なんてよいものではないし、
こんなことに価値を置いてるわけではないのだけど。
ただ、英国では今でも国土は全部女王陛下のものなのよね。
国王が国土をすべて領有するというのは、とりもなおさず、
土地はすべて神のものであり、王が神に代わって所有するということで、
普通の私有財産制ではない。
古代はそうだったのだと思います。 >>882
> 旧宅は某城跡の敷地の半分くらいを占めていた(明治初期の時点)。
旧宅の敷地は城跡の敷地全体の北半分を占めていた。
建物を建てるときは普通南を開けて北側に建てることを考えると、
城を廃城にした際、当家は城の建物にそのまま住んでいたのだと思う。
と言うか、城の跡地全体が元々は当家の所有だったと言われている。
城の敷地はすべて当家の所有であり、城の建物に住んでいたのも当家であることから、
実質的な城主は当家だったと考えてよいかもしれない。 >>882
> 旧宅は某城跡の敷地の半分くらいを占めていた(明治初期の時点)。
旧宅の敷地は城の敷地全体の北半分を占めていた。
建物は普通南を開けて北側に建てることを考えれば、
当家は城の建物にそのまま住んでいたものと思われる。
さらに残りの南半分も元は当家の所有であったと伝わっており、
実質的な城主は当家だったと考えてもよいかもしれない。 「乙部○○」の○村さん(>>928)と
『住吉大社神代記』に出てくる○田さん(>>932)、
そして舟木さんは、三氏かたまって城の北側に住んでいらしたそうです。
乙部○○の○村さんが舟木氏の弟筋で、城の本当の城主ね。
>>939 を書いておいて、こんなことを言うのは何なのですが、
城の跡地だけでなく、村落全体のほぼ半分が当家のものであり、
あとの半分を上記の三氏が分け合って所有していたというのが本当みたい。 >>923
弟筋の城があった海寄りの村落は豊地の辺りとも関わりをもっていた。
主立った家が共同名義で持つ寄合地が豊地近辺にあり、皆で管理していたらしい。
海寄りの村落は舟木の長男家の一族郎党、または家臣団で構成されており、
廃城になった堀之内城の跡地を共同で所有して管理していた蓋然性が高い。
この寄合地とは別に、
当家は 1 家で嬉野に広大な山林を保有していたが、
これは先祖代々持っていたものか後から買ったものか、詳細は今となってはわからない。 舟木氏の祖先とされる○田さん、
弟筋の○村さん、そして舟木さんが、かたまって住んでいた事実は貴重な資料なので、
書き残しておきますね。 >>922
旧伊勢街道から 100 メートルほど入ったところにあるこの稲荷、
江戸時代にはお伊勢参りのついでに道を曲がってまでお参りする人が引きも切らず、
当家の前は押すな押すなの賑わいだったという。
街道には、この稲荷を示すための道標まであり、
「左 いせみち、右 ○○いなり」と書かれていたらしいのだけど、
この石の道標は、戦時中の東南海地震で倒れて川に落ち、
さらに、それを大阪の業者がトラックで持ち去るという出来事が起きている。
これについても詳細は今となってはわからない。 阿坂とこの海寄りの集落の中間には、牛を飼う人たちの集落がある。
なので、
うちは、いわゆる、その同和稲荷の元祖ですよ、多分。 雲出川の南側、嬉野に保有していた当家の山林は山というよりは低い丘陵地帯で、
背の低い竹つまり笹がびっしりと生い茂っており手入れが大変だったらしい。
笹は燃やすと発する熱量が高いので燃料に向いており、
昔の製鉄には不可欠だったらしい。 江戸時代後期に建てられた旧宅は、
明治維新のとき近くに移築され、
昭和初期まで、その場所にあったそうだけど、
上段の間を設けた堅固な造りだったそうです。
上段の間とは、
床の間を大きくしたような座敷で、殿様が家臣に謁見する場所。 松阪市天白遺跡
http://www.matsusaka-kanko.com/information/information/tenpakuiseki/
(松阪市観光協会のホームページ)
堀内、豊地の西南に隣接する嬉野天白では、
たけごおり丹生鉱山の朱砂(辰砂、丹)が付着した縄文土器が数多く発掘されている。
同様に丹生の朱が付いた土器や石器が発掘されているのが、度会郡の森添遺跡。
嬉野天白と度会森添は、丹生の朱砂を巡って何らかの交流があったのではないか。
交流はやがて小競り合いへと展開したことは十分考えられる。 この森添遺跡の近くに、
久具都比賣神社(くぐつひめじんじゃ)という神社がある。
祭神は久具都比女命(くぐつひめのみこと)と
久具都比古命(くぐつひこのみこと)の二神。
ペアの神様である。 久具都比賣神社(くぐつひめじんじゃ)は、伊勢神宮皇大神宮(内宮)の摂社。倭姫命が 定めた神社である。
−WWiki より−
くぐつ【傀儡】とは
1 歌などに合わせて舞わせる操り人形。でく。か いらい。
2 平安時代以降、1を操ったりして各地を漂泊した芸人。
3 《傀儡回しの女たちが売春もしたところから 》舞妓や遊女。遊び女 (め) 。傀儡女 (くぐつめ) 。
(goo国語辞書より) この二神は嬉野天白近辺のペア神を揶揄したものともとれないことはありません。
一方、傀儡(くぐつ)信仰は、
秦氏と南伊勢との関わりを知る上で重要なファクターかもしれません。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。