異民族がつくった中華文化_人民中国
http://www.peoplechina.com.cn/zhuanti/2009-12/16/content_235136.htm



夏・殷・周について孟子は「舜は東夷の人である」と主張し、司馬遷も「禹が西羌地域から興った」と指摘している。また、「商人は中原に侵入し夏族の人民を奴隷のように扱った」とあり、孟子は「(周の開国者)文王は、…西夷の人なり」と指摘している。周はもとは中国以西か北西にいた遊牧部族で、渭水の流域に移り住んで定着し農業をするようになった。周は後に「商」に代わって「中華」の支配者になる。

孔子も荀子も孟子も、「夷狄に暮らせば、夷狄の慣習に基づいて行動する」「楚に居て楚であり、越に居て越であり、夏に居て夏である。これは天性にあらざるものであり、長い間の慣習によるものである」「陳良は楚の生まれである。周公・仲尼の道を悦び、北に来て中国に学んだ」と、いずれも人間の生活慣習と文化様式は先天的なものではなく、後天的な学習を通じて「華」になる、つまり異民族でも中華文化が身につくと考えていたという。


北京に行ったことのある人は、ほとんど万里の長城を見る。北京で見る長城は、全体のほんの一部である。東端の遼寧省虎山から西端の甘粛省嘉峪関まで総延長は8851.8キロメートルといわれる。万里の長城は異民族に備えるだけではなく戦国七雄の国境間にもつくられていた。始皇帝は中国を統一した後に中国の領域内にある長城を取り壊し、北につくられた長城をつなげたが、その東端は朝鮮半島にまで及んだ。