宮川へ行けと命じられたのは、つい先月のことである。
 飛騨の山がよく見え、城下からはしばし離れた、山川の美しいたたらばの町であった。

 時は天保九年。
 陸奥国や出羽国では大飢饉により多くの死者が出ていると聞いたが、宮川はそんな世の動きなど知らぬ顔といったところである。
「ご不満でございますか」
 山を見遣り、腰に携えた刀の鞘を撫でていれば、背中越しに声をかけられる。
 振り返れば、この村の巫女を名乗る妙齢の女が微笑んでいた。
「否。主君の命に不服を覚えることはない」
「では、もし貴方様に主君がいなければ如何でしょう」
 グッと息を呑み、視線を山へと戻す。
「……この町に、俺が斬るべき鬼はいない」
 この世には、鬼が蔓延る。人間の吐き出す鬱々とした魔が鬼となり、人型を為して命を喰らう。帝が言うには、人が背負うべき業でもあると。
 しかし、宮川には鬼に襲われた嘆きどころか、現れたという記録もない。
 当然である。鬼は砂鉄を嫌い、特に宮川のようなたたらばには決して寄り付かない。
 巫女は数歩足を進め、俺の一歩手前に出る。長い黒髪と白い肌が太陽に照らされ、細い体の儚さの中に、神々しさを覚えた。
 魔の寄り付かぬ場所でしか産まれぬ、聖なる者。彼女の存在こそが、この宮川が安全である証明に他ならない。
 巫女は少しの間押し黙り、小さな声で語りだす。
「……人の世は、もう何百年と同じことを繰り返しております」
「左様。鬼には敗北もしないが、勝ち切ることもない」
 人がいる限り、鬼は生まれてくる。変わらぬ世こそが美しき。善は悪に勝るとはいうが、どちらが悪であるのか分からなくなることもしばしであった。
「巫女が何たるかはご存じでしょうか」
「ああ。鬼が唯一食えぬ存在であり、触れた人の魔を浄化する力がある」
「そうです。私は、巫女こそが鬼を絶やす武器なのではないかと考えております」
 目を見開く。巫女とは何度か会ったことがあるが、その誰もが守られることへ重きを置く。
 それが、戦いへの意欲。ましてや、己を武器などという女には出会った試しがない。
「意気上々。しかし案ぜよ。俺達には刀がある」
「貴方様の家系は、辿れば大宮仕であったとお聞きしております。志の高さはそれ故でしょうか?」
「昔の話だ。責務を全うできなかったことで任を解かれた。情けで現藩主の祖先が拾ってくれていなければ、ただの浮浪者であっただろう」
 家系図こそ己の恥だとさえ思っていた。巫女はクスリと笑い、髪を耳にかける。
「本題に戻りましょう。私が藩主様にお願い申し上げたのです。貴方様に会いたいと」
「なぜ」
「世とは、理があるから拮抗しているのです。世を変えたいのならば、理を壊すしかありません」
 巫女はこちらに向かい合い、胸に手を当てた。
「もしも」
 やけに高ぶった声色は、耳によく届く。
「今日まで続く巫女信仰が。いえ、巫女こそが、鬼を生む原因であるとしたら?」
「にわかには信じられんな」
「鬼は巫女に敵わないのです。ではなぜ、誰も巫女が鬼の支配者であると述べないのでしょうか」
 咄嗟の返事が出ず、言葉に詰まる。
 似たような話には覚えがあったからだ。平安の時代、帝に恋をした巫女がいたという。
 帝の死を受け入れられなかった巫女は気が狂い、ついには「帝の子を授かった」と訴える。いざ産まれてきたのは、人の子ではなかった。これが、鬼が生まれた始まりだと言われている。
「鬼の始祖巫女の話には、続きがあるのです」
 双子であった、と巫女は語る。一人は鬼であり、もう一人は女児であった。
「その話のどこを信用しろと?」
「するもしないも貴方様次第でございます」
 馬鹿らしい、とその場を立ち去ろうとした時だった。
「女児は忌み子として、すぐに寺に出されました。……私が、その忌み子の末裔であり」
「過度な想像は体に障るぞ」
「巫女こそが鬼の元凶であると唯一気づいたのが、当時巫女守を担っていた貴方様の祖先であったとしたら?」
 喉元に刃を当てられたかの如く、体が硬直する。
「真実を訴えるより早く、貴方の祖先は存在を消された。共に無き者として扱われた同士……互いが握る真実を合わせなければ、世の理は動かないでしょう」
 可能性、という言葉があるとするならば。
 自分でも否定したくなるような考えが、脳裏をよぎった。
「どうですか。鬼狩り様。二人で、世の理を壊しに参りませんか」