「泣き虫」というタイトルが付けられた一枚の写真がある。それはシンプルなアクリルのフォトフレームに入れられ、父の位牌の横に並んで置かれている。被写体は小学一年生のわたし、撮ったのは亡くなった父だ。この写真は、ある雑誌の写真コンテストで準グランプリを受賞した。
 「泣き虫」は、わたしの小学校入学式で撮られたものだ。すっきりと晴れた明るい陽射しに桜の花びらがほどよく舞っていて、いかにも入学式という雰囲気を盛り上げている。そんな晴れがましい舞台で、あろうことか、わたしはカメラを睨んでものすごく泣いていた。
 選評によれば「今では珍しいフィルムによる応募。入学式での少女の清々しいまでの泣きっぷりが素晴らしい」「彼女はこれから始まる学校生活への不安に耐えられなかったのだろう。そんな貴重な一瞬を写真に収めることのできた幸運は家族の特権であろう」「グランプリに男の子、準グランプリに女の子という結果。今年は子どもの当たり年だ」ということらしい。
 しかし、真実は少し違う。わたしは怖かったのだ。構えたカメラの後ろに覗く辛そうに歪んだ父の顔が、とても生きている人のようには見えなくて、わたしは湧き上がる恐怖を抑えることができなかったのだ。子どもではあったが、父の体調が思わしくないことは、わたしにもわかっていた。学校が夏休みになる前に父は亡くなった。繰り返しめくられた「泣き虫」の掲載誌はぼろぼろになって今でも写真の横に立てかけられている。

◆◇◆◇

 「泣き虫」はもうすぐ結婚する。彼との出会いは宛先の書かれた一封の封筒だった。中身はフィルムで、父のカメラバッグの奥に見つかった。大学への進学が決まり、寮に入ることになって使えるものを探して家中をひっくり返している時だった。
 母はしばらく記憶の底を探るように宛名や差出人を眺めたり、明かりに透かして中身を確認していたが、やがて諦めたように「開けてみようか」と呟いた。
「それはどうかな。パパがその宛名の人に送ったものなんだからちゃんと届けたほうがいいよ」
「だって、十年以上前の話よ。今更送っても何のことかわかんなくて相手も困るでしょ」
「大切な写真かもしれないじゃない。届いたら嬉しいよきっと」
「じゃあんた届けてよ。大学が始まるまで暇なんでしょ」
「ええっ、なんでわたし? パパの関係なんだからママの役目でしょ」
「あたしはね、仕事があんの。あんたの学費だって稼がなきゃならないんだから遊んでる暇ないのよ」

 結局、わたしは父の遺した忘れ物を届けるために、いつもよりちょっとだけお洒落をして知らない街にいた。封筒の宛先は廃業した商店といった風情の五階建の建物で、築年数はそれなりの経っていそうな外観だった。
 インターホンがなかったので、入り口の大きなガラスドアを押してそろそろと中に入った。遅い昼食なのだろうか、インスタントラーメンの匂いがする。奥に向かって「こんにちは」と声を掛けた。
 現れた背の高い青年を見て、あれっと思った。デジャヴという言葉が浮かぶ。青年もわたしを見て何かを感じたようにあれっという顔のまま、二人の時間が止まった。
 気まずい沈黙を破って、わたしは手短に訪問の理由を告げて封筒を渡した。青年はどうしたものかと迷うように、何度か封筒を表や裏にひっくり返して眺めていたが、唐突に「開けていいですか」と聞いた。わたしはちょっと驚いて「えっ」と間抜けな声を出してしまった。
「宛先は父ですが、実は今どこにいるかわからないんです。ひょっとしたら中に手掛かりがあるかもしれないし」
 時を待つように長いあいだ父のカメラバッグで保管されていたものが、いきなりこんな玄関先で開封されることになるとは想定外だった。
「わかりました。もうお渡ししちゃたし、お任せします」とわたしが言い終わる前に、青年は封筒を真ん中あたりでびりびりと裂き始めた。無造作と言っていいようなその手つきに、胸のあたりが微かにざわついた。
 破られたところから、三十五ミリフィルムが二本、足元に転がり落ちた。それを見た途端、なんとなくも遠くでやもやとしたものが、はっきりと目の前に現れて同時に「あっ」と声をあげた。
 わたしたちはフィルムから目をあげると、改めてお互いの顔をまじまじと見つめた。「グランプリ」とわたしが言うと「泣き虫」と青年が応えた。