複製素体アルファ。それが、被験体としての私の名だ。
 記憶も朧げな幼少期に家族と引き離された私は、採取された私の細胞から造られる複製体、私と同じ記憶と人格を宿したわたしたちが促成栽培の様に育てられ、出荷されていくのをただ眺めていた。
 研究所では様々な物が与えられた。おもちゃやぬいぐるみ、甘いお菓子にお姫様の様な衣装でさえも。十年以上も部屋に閉じ込められてはいるけれど、それでも私は飢餓に苦しむ事も、戦火に怯える事も無い。人類全体からみれば私は確かに、不幸では無かったのだろう。

 けれど聞こえるのだ。わたしたちの怨嗟と断末魔が。たしかに感じるのだ。わたしたちの苦しみと痛みが。そして見えるのだ。最後に瞳に焼き付けられた、男たちの狂気と欲望を孕んだ表情が。
 これは複製たちの記憶。死したのち、オリジナルである私の許に還ってくるわたしたちの苦痛に満ちた生と死の記憶なのだ。 

 富める者達のけして表には出せぬ欲望を発散する為に、人間を標的にした狩りの対象となったわたし。
 暴徒と化して脱走する事の無い様に、凶悪犯を収監する刑務所で性欲の捌け口として使われるわたし。
 戦争で狂った兵士たちが民間人に狂気を向けぬ為に、防波堤として送られ消耗されていくわたしたち。

 私はただ一人、この部屋から出る事無く。ありとあらゆる人間の悪意に、憎悪に、狂気に、壊され続けていた。
 私は不幸では無いのかもしれない。でもわたしたちは? 存在しない者と定義され、ただ人類の負の側面を受け止めて殺され続けるわたしたちはどうなのだ? 不幸の極致に在り続けるわたしたちの為に、私ができる事は無いのか?
 起伏の無い平穏と、私だけが感じる業苦の狭間の日々の中で、私は考え続けた。そしてある時ふと、思い至ったのだ。
 私は誰よりも幸せにならなければならない。統合されたわたしたちが私の中で安らげる様に、バランスを取らなければならない。私は人類の中で最も、幸せになる必要があるのだ。

 私は、この飾り立てられた空虚な部屋から逃げ出した。
 最高の幸せがなんなのかはわからない。そうなる為の道筋も理論も、この部屋と絶望の中で死した記憶しか持たない私には知る由もなかった。だから逃げ出した。
 幸運な事に脱出は成功した。監視カメラの死角をつき、少しでも生き永らえる方法。何も知らぬ男を騙し、利用する方法。狭い箱に閉じ込められた状態で、酸素を無駄に消費しない呼吸方法。膨大なわたしたちの生と死の記憶が、私を助けてくれたのだ。

 そうして船のコンテナに紛れ込み、辿り着いた異国の地で私は、彼に出会ったのだ。

 ※

 あの人の第一印象は正直な所、良い物では無かった。私はわたしたちの記憶によって、男という生き物が大嫌いだったから。
 公園のベンチに座り、初めて見る雨という物を呆けた様に見上げて打たれていた私。今思うと物凄く不審よね。そんな私に開いた傘を差しだして、彼はこう言ったの。
「風邪をひく。行く宛が無いのならば、俺が宛になろう」
 ふふっ。どう考えても彼も不審者よね。三流のナンパ師でも口にしない様な気障ったらしい台詞を、ニコリともしない無愛想な表情で言うんだもの。私はこの国に来た時の様に利用するつもりでついていったわ。だって彼、無表情なのに体を震わせて緊張してて、物凄くお人よしなのが透けて見えたからね。

 けれど私は、次第に彼に惹かれていった。
 わたしたちの記憶にある男たちとは全然違う。とても冷たく見えるのに本当は優しくて、ぶっきらぼうなのに心は臆病で、私をとても大切にしてくれる男の人。

 彼に初めて抱かれた夜に思ったの。ああ、幸せってきっとこういう事なんだわ。ってね。
 でもある日、いつもの様に魂を引き裂く様な激痛に襲われた私は、わたしの記憶によって私が捜索されている事を知った。当然よね。記憶と人格を完全に保持した複製体を造り出せる因子を持った唯一の存在。そんなモノを逃がしたままにするほど、甘い組織ではなかったもの。

 私は誰よりも幸せになりたかった。わたしたちの為に、ならなければいけなかった。けれど今は違う。私は私よりも、私を愛してくれたあの人に、幸せになってほしかった。だからまた、逃げ出したの。

 さようなら。愛した人。
 このままでは貴方も必ず不幸になる。だから私は、自分の幸せを捨てて彼の許を去った――筈だった。
「なんで……来てしまったの?」
「言っただろう。俺が宛になると」
 もう後戻りはできない。でも、今だけはどうでもいい。だってきっとこの瞬間、私は世界の誰よりも幸せだったから。