少年が背後に現れる前から少女は気がついていた。ここは森で一番の古い大樹の太い枝の上である。
 大人もケモノも簡単には登れない高さで、地上を狙えるなら子供でも安全に狩りが出来る場所だ。
 まるで矛盾する難度を持つ、一振りの枝に、稀有なふたりが居た。
 枝の端に座ったまま少女が振り向く。少年がにこやかに迎える。
 誰もが警戒を解きたくなる、ほがらかな笑顔だった。
 盲目の少女に向けている事を考えると、これもまた矛盾だろうか。
「こんにちは」
 誰かも分からない少年に少女が挨拶を向ける。
 耳聾である少年に向けている事を考えると、これもやはり矛盾だろうか。耳の聞こえない少年が目の見えない少女に近づいていく。
 少女は少年の接近を聴き、その鼓動の推移から何の警戒も不要であることを識る。
 完全に初対面でありながら、説明もなくお互いのことを察した。
 少年は少女の隣まで来ると、そのまま枝に腰を降ろし足をぶらつかせて座る。
 少女も同じ方角に顔を向け、再び静かに風を味わう。
 この森では長年ふたつの大きな部族が対立していたが、今日は和睦が結ばれる記念すべき日だった。
 互いの族長の子供同士の婚姻が結ばれ、びとつの家族となるのだ。
 だが、この決定に納得していないのが2人いた。当事者の2人である。
「キミが私の旦那様なのかな」
 少年からの返事はない。耳のきこえない彼には言葉を発するという選択肢がない。
 ただ少女に綺麗な目を向ける。
「あの広場ではなくここに居るってことは、キミも不服なんだよね」
 大人同士の取り決めで手を取り合う事を望まれたふたり。
「よかった」
 少女の柔らかな言葉に、周囲の音が止まる。
「私の旦那様が、家族ごっこより決着を望んでくれて」
 無関係な虫たちですら身動きを封じられる殺気が、少女を中心に球状に広がる。
 視力を代償に、その人生は聴力を鍛え上げた。
 他者の命を決定できる程に微細な音も逃さない。
 その少女の耳に、少年の鼓動は平時を刻む。
 言葉を代償に、少年が鍛え上げたものは直感だった。
 ――少し先の未来を観るが如く。
 向けられた殺気は本物だった。
 少女の優しさに少年は面白くなる。
「どうして笑ってるの!」
 少女が立ち上がる。
 すると、足元が崩れた。
「あ」
 普段ならありえないミスに、少女がバランスを崩す。
 宙を掻く手。
 隣に座っていたから少年の伸ばした手が届いた。
 少年はただ、よく判らない人との結婚に納得がいっていないだけだった。
 だから大気に残る人の気配を目で追ってここまで来た。
 しかしここから先は、その目をもってしても予測できなかった。
 少年の手と少女の手が触れ合ったとき、少女は色を視て、少年は世界を聴いた。
 手は固く結ばれていた。
 見た目よりも力強く、ぶら下がる少女を少年が引き上げる。
 枝の上に戻ってなお、ふたりの手は結ばれていた。
 顔を見合す。
 ふたりの目が合っている。
 少女が呟く。
「嘘でしょ……」
 初めて見た人間の姿だった。
「ぅ……ぁ……」
 少年もまた世界に呼応し、初めて発声を試みる。
 大人達の判断は概ね正しかった。
 この子達の世代まで争いが続いたとき、恐らく生き残るのはこの2人だけだったろう。
 争いの歴史が互いの部族に魔物を宿したと判断し、このたびの和睦となったのだ。
 想定外だったのは、この二人が本当に心から愛し合う可能性。
 切欠はささいなこと。
 互いの不足を補えるかもしれない、そんな希望。
 少年と少女は共に生きる可能性に、初めて予感を覚えるのだった。