「あの、今は何年の何月何日ですか?」
 犬の散歩中、駆けてきた少女からそんな声を掛けられた。
「令和八年八月二日十三時十五分だよ」
 言いながら僕は周囲を見回す。
「カメラはないです……ドッキリじゃないので」
「あ、そう」
 彼女も不審な言動の自覚はあるらしく、気恥ずかしげに眉を顰める。
「すみません、水、もらえませんか? それからあの……できれば調べたいことがあって、スマホか何か貸していただけると」
「結構図々しいんですね未来人は」
「み、未来人って……そんなこと、あるわけないじゃないですか!」
「冗談ですよ」
 僕の言葉に少女は顔を赤らめる。
「図々しくてすみません。頼れる先がなくて」
 彼女はぺこぺこと頭を下げる。
「いいですよ。未来人さんは随分お困りのようですから」
 僕はその場で踵を返し、犬のリードを引く。
「ただ、今は手ぶらでして。僕のアパートでよければ」
「あ、はい……ありがとうございます」
 彼女はまた頭を下げる。
 僕は前を向いて作り笑いを消し、足を早める。
 ここまでは順調だ。未来人・木下美優、彼女は文明革新を齎す『エキゾチック物質による八次元空間跳躍の論文』の完成を止めるために、五十年後の未来からやってきたのだ。
 彼女の来訪初日である八月二日の間に信頼を勝ち取るためには、十三時十五分にここで犬の散歩をする必要がある。
 犬を連れていないと声を掛けられないパターンが発生し、こちらから声を掛けた場合は不審がられてしまう。
 彼女から早々に事情を明かしてもらうためにもアパートへ連れ込む必要があり、犬の散歩中というのは都合がいい。
 僕はこの令和八年八月の一ヵ月を何度も経験している。いわゆるタイムリープという奴だ。
 この街にある時雨坂神社の神様が関係しているようだが、そんなことはどうだっていい。
 木下美優の敵対組織の人間もこの令和八年へと訪れており、彼らが乗っ取ったカルト宗教団体が八月三十一日に病院でテロ騒動を起こし、そこに巻き込まれた僕の恋人が命を落とすことになる。
 彼女は寝たきり状態であり、家族の説得も必要なため、病院を移すことは難しい。容態も悪く、強引に連れ出せばそれが原因で命を落とす。
 僕は連中と交渉して木下美優を引き渡し、このテロ騒動を防ぐ。
 彼女は命を落とすことになるが、元々未来人同士の抗争、巻き込まれただけの現代の僕達には何ら関係のない話だ。
 目の前で人が死ぬのにも、誰かを裏切るのも、僕にはこれまでのタイムリープの中で、とっくに慣れてしまっていた。
「すみません、色々と頼ってしまって」
「いえいえ、面白いこととか変なこと、僕は大好きですから。ワクワクしています」
 嘘だよ。僕はただ、平穏を享受したいだけなんだ。お前らなんて、大っ嫌いだ。
「あの……変なことを言うんですけれど、私、なんだかあなたとは、長い付き合いになりそうな気がします」
 木下美優がそんなことを口走る。この言葉は初めてだった。意表を突かれて沈黙したものの、すぐに彼女を振り返って笑みを浮かべた。
「ええ、なんだか僕もそんな気がしますよ」
 僕にとって千五十三回目の、令和八年の八月が始まった。

〜〜〜

 ――始まったか。
 私は全く別の時間軸、いわゆる並行世界からやってきた存在である。我々の世界はこの分岐世界よりも遥かに進んだ文明を有している。
 私はこの世界では存在できないため、こちらの住人の脳に対して電子思考同調を行うことで、疑似的に顕在している。
 出鱈目に結ばれた歪な時間軸を観測し、この空間縺れが私達の世界に悪影響を及ぼす可能性を危惧し、時間軸修繕のために政府機関の人間である私がこうして来訪することになった。
 そのためには超自然能力の全貌を明かすことでループの根幹を断ち、宗教団体のテロを防ぎつつ、例の論文を断つことでタイムパラドクスを解し、中心である彼と彼女をこのループ時間の間に抹殺する必要がある。
 私が来た以上、ここからはタイムスリップもタイムリープも許しはしない。
 私と、彼と、彼女は、既に出会ってしまった。私も登場人物の一人ではあるが、観測者として、この歪な絡み合った物語の終着点を見届けさせてもらうとしよう。
 私は骨格筋支柱突出物を左右に振りながら、レオロジー性高分子炭化水素の舗装道路の上を歩く。
 局所銀河群G2V型恒星の輻射に曝された高分子炭化水素が、私の肉球へと熱振動を伝えて感覚器官を過剰に刺激し、ストレスを与えてくる。
 それにしても、やれやれ、この世界の四足歩行の愛玩動物は、なんとも哀れなものだ。