【チャイナ・パニック2】海棠的故事
2055年
舞台は中国のとある海辺の小さな町
主人公は李 玉金(リー・ユージン)15歳
ユージンの妹、李 椿(チュン)14歳
ユージンの義兄、ケ 狼牙(ダン・ランヤァ)19歳
リレー小説「中国大恐慌」
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/mitemite/1542744080/
チャイナ・パニック
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/mitemite/1547956954/ ケホケホと咳き込んだ後、椿の口からユージンの声が言った。
「あっ、ラン兄ィ! 今夜、ヒコーキ……」
「ああ……」ランは約束を思い出した。「そん時、またこっち来い」
「飛行機がどうしたの?」椿が首を傾げる。
「ん。その……飛行機飛ばすゲームな。ユゥと昨日やってて……」
「あたしもやりたい」
「いや。それは……ムリ」
「なんで? あたしアクションゲーム好きだよ。やりたい」
「その……男しかやっちゃダメなやつ」
「何それ。飛飛機(飛行機を飛ばす)んでしょ?」
「いや。打飛機(オナニー)」とユージンが呟いた。
「飛行機を……やる……? って、あ!」
「さ! 泳ぐぞー!」
そう叫ぶように言うと、ランは上着を投げ捨て、飛行機が滑走路へ突っ込むように崖の上から飛んだ。 椿は続いて飛び込まなかった。崖の上に体育座りをして、ランが泳ぐのを眺めた。その身体が寒くないよう、ユージンが金色の鎧を着せて守っている。
空にはさっきからメイファンにムササビに変えられたチェンナが、ドローンのようにくるくると飛び回っている。
ユージンが椿の口を動かした。
「椿もズーチー・モー・ズーチー(女性のオナニーのこと)ぐらい覚えてよ」
ランとの初体験に触発され、女の身体の快感のことにも興味津々になっていた。
椿が何も答えないので、ユージンは聞いた。
「ぼく、うざい?」
「うざい」椿は即答した。
「出て行こうか?」
「うざいけど、いないとなんかおかしかった」
「え?」
「ユゥ兄ィがいてくれないと、自分が半分なくなったっていうか」
誉められたわけでもないのにユージンは嬉しくなった。
「ぼくは椿の一部だもんね」
「うん。ユゥ兄ィ、必要」
「二人揃ってユゥチュン(愚蠢=まぬけ)だもんね」
「うるさい」
「椿、さっき体操着着たまま海に飛び込もうとしたよね」
「もう、本当うるさい」
「出て行こうか?」
「やだ」 「椿、ラン兄ィと結婚する?」唐突にユージンが聞いた。
「は?」
「日本に一緒について行って」
椿は黙り込んだ。
「ラン兄ィのこと好きでしょ? 一人の男として」
「……」
「ぼく、お前らが結婚してくれたら嬉しいなぁ」
「ユゥ兄ィのほうでしょ」
「ん?」
「ラン兄ィのこと好きなのは」
「ぼく、男だけど?」
「身体がないのにどこで男だってわかるの?」
「チンコはないけど、男だもん」
「チンコないのに、どこが男なの?」
「男だもん!」
「パパとママがそう決めたから?」
「男だもん!」
「女の子より男が好きなのに?」
ユージンは言葉に詰まった。 波が少し高かった。
ランは泳ぎながら、荒れはじめそうだなと気づいていた。
崖の上に目をやると、上空をブンブン飛ぶチェンナらしき黒い点が目に入った。
椿はしゃがみ込んでユージンと話をしているようだ。
椿が飛び込んで来そうにないので引き返そうとした時、目の端に何か赤いものが映った。
見ると、魚漁の仕掛け網に赤いイルカがひっかかり、ぐったりしている。
「まぬけだなぁ、お前」
ランはそう呟くと、なぜか椿を見るような気持ちがしてクスッと笑った。
「待ってろよ」 近づくと赤いイルカは怯えた目をして逃げようとした。動くと絡んでいる網がさらに締まり、イルカは苦痛に顔をしかめる。
「じっとしてろ」
ランは絡まった網をほどこうとする。しかし固くイルカの身体に食い込んでしまっている。
「あ、そうだ」
ランはサザエがいたら採って帰ろうと水着にナイフを仕込んでいた。鞘からそれを抜き出し、網を切りにかかる。
「叱られるかな……構うもんか」
しかし網は予想外に固く、ナイフでもびくともしない。
「お前が抜けられないわけだな」
そう話しかける相手のイルカは、さっきからランのすることを驚いたような顔で大人しく見守っていた。
ランはナイフに透明の『気』を込めた。
「これでも切れなかったらメイファンちゃんを呼ぶよ」
そう言いながらナイフを引くと、今度は網は紙のように簡単に切れた。 「さ、行けよ」
赤いイルカは自由になると、ランから慌てて逃げるように泳ぎ出した。
「もうまぬけな捕まり方するんじゃないぞ」
ランはその赤い影を優しく笑いながら見送った。
ふと気がつくと、崖の上から椿とユージンが何か叫んでいる。
沖のほうを見ると、大きな渦潮がこちらめがけて近づいて来ていた。
すぐにランは急いで泳ぎはじめる。
七歳の時からこの海で泳いで来た。
荒れそうだと思った後には大抵、渦潮がやって来ることなどよく知っていたはずだった。 「ラン兄ィ!」椿は声を限りに叫んだ。
「ラン兄ィ! 急げ!」ユージンもその後に続いて叫ぶ。「バカ! さっきから何べんも知らせてんのに!」
ユージンと椿の眼下でランは速いクロールでこちらへ戻って来ていた。しかし沖まで出過ぎていた。
渦潮の速度は明らかだった。ランよりも速かった。
まるで竜巻のように、それはランを飲み込むと、海中へひきずり込んだ。 事態に気づいてメイファンも空から降りて来た。
その目の前で、椿が崖から身を乗り出し、震える声で呟いた。
「ユゥ兄ィ……」そして崖を蹴った。「守って」
「おい!」とメイファンが止める間もなくユージンとともに椿は海へ飛び込んだ。
ユージンは何も言わなかった。ただ椿と気持ちは同じだった。
崖を蹴って飛んだのが椿なのか自分なのかわからないほどだった。
「任せろ、椿」ただ心の中で呟いた。「ピンチになったらきっとぼくの力が目覚めるから」 メイファンはチェンナの小さな身体でとぼとぼと崖の端まで歩き、下を見た。
椿の身体が速い流れに振り回され、渦潮の中心へ引きずり込まれ、すぐに海中に見えなくなった。
「あ〜あ」メイファンが呟く。「ま、チェンナさえ無事ならいいか」
チェンナはあまりのことに声を失っている。
「私まで飛び込んで、チェンナにもしものことがあったら大変だ。帰ろ、帰ろ」
渦潮は眼前で岩礁に突き当たり、方向を変えると東のほうへ去って行く。
「あ」チェンナがようやく声を出した。「あかーい」
「あ?」メイファンもそれに気づく。
暗い色を浮かべていた海が、どんどんと赤くなって来る。
血の色のようではなく、子供の好きそうなポップな赤が、すぐに海面を埋め尽くすと、凄まじい飛沫を上げてそれは海の中から飛び上がった。
景色を覆い隠すほどに巨大な赤いイルカのようなものが全身を現し、天地を揺るがす哀しげな声を放った。 「どああああ!?」
「あかーい! あかーーーい!!」
目を最大に見開き、最大音量で叫ぶ二人の声も巨大イルカの声にかき消された。
「と……飛んでやがる」
その巨体が明らかに浮遊していた。約10秒、それは何かを訴えるようにメイファンをまっすぐに見つめる。
そして身を翻すと、天に轟く波音を立てて海中へ帰って行った。 しばらくメイファンは声を失い、立ち尽くしていた。
「あかーい、あかかったー」チェンナが震える声で繰り返す。
「3人死のうが4人死のうが一緒か」メイファンが楽しそうに笑う。「チェンナ、行くぞ」
「うん、いく!」
「海の底にあるのは竜宮城か、はたまた海獣の巣か」
メイファンはチェンナの足で崖を蹴り、飛んだ。
「知らんが面白そうなことだけは確かだな」
チェンナの身体は黒い小さな潜水艦に変わり、海の中へと突入した。 【主な登場人物まとめ】
・ユージン(李 玉金)……15歳。身体を持たない『気』だけの存在として生まれる。
普段は妹の椿の身体の中に住んでおり、椿と身体の支配権を交代することが出来る。
明るい性格だがダメ人間。それでいて自分は超天才だと信じている。
・椿(リー・チュン)……14歳の中学生。登校拒否でずっと家にいる。
普通の子だが、自分はダメ人間であると決めつけている。
帰りを心待ちにしていた義兄ランが日本から帰って来、うかれ中。
・ラン(ケ 狼牙)……19歳。日本で格闘家デビューし、連戦連勝を重ね、そのアイドル性からスターとなる。
細身で格闘家とは思えないほど穏やかで優しく、謙虚。
リウ・パイロンとメイファンが殺したケ 美鈴の子。四歳の時にハオが引き取った。
・メイファン(ラン・メイファン)……54歳だが子供のように好奇心旺盛。ララの妹。ユージン達の叔母。
ひとつの身体に姉のララと一緒に住んでいる。元凄腕の殺し屋。ユージンを調教したがっている。
黒い『気』を操り、自分の身体も含め何でも武器に作り替えてしまえる。
ランの母親を15年前に殺した。現在、ララに命じられ、ボディーガードとしてチェンナの身体の中に入っている。
・チェンナ(劉 千【口那】)……メイの娘。ララの大事な大事な孫娘。四歳。意外に強い。
・ハオ(李 青豪)……67歳。ユージン達の父。元散打王。
自由な性格で椿の登校拒否を容認している。大怪我をしてもすぐに治る特異体質。
基本的にダメ人間だが愛する者のためには超人的な力を発揮し、四人の子を育てた。長女メイを特別溺愛している。
・ララ(ラン・ラーラァ)……58歳だが見た目は35歳。ユージン達の母。
息子のユージンと同じく身体を持たない『気』だけの存在。妹のメイファンと身体を共有している。凄腕の医者でもある。
椿の登校拒否に頭を悩ませている。
・メイ(リー・メイメイ)……前スレ主人公。33歳。李家長女。結婚して北京に住んでいる。
医師であり太極拳チャンピオン。講演会に父と出席するため帰って来た。旦那はリウ・パイロンの息子ヘイロン。 椿は目を開けた。
見慣れた自分のベッドの上だった。
窓からは緑色の陽射しが差し込んでいる。
扉を開けて入って来た母が、いつも通りの優しい微笑みを浮かべ、言った。
「お帰り、椿。人間の世界はどうだった?」
そしてベッドの脇のテーブルに果実を乗せた皿を置く。
果実は青や紫や緑の色をぷるぷると震えた。
「聞いていた通りだった」椿はそう言うと、目をこすった。「汚くて、恐ろしくて、そして哀しい世界……」
「これであなたも大人の仲間入りね」母は嬉しそうに言う。「明日には成人式を開いてくださるそうよ」
「でも……」椿は自分の話を続けた。「罠にかかった私を助けてくれた、優しい人間にも出会ったわ」
「そんな人間もいるだろうね」母は落ち着いた声で言った。「その人間はお前を助けてからどうしたんだい?」
「死んだわ。渦潮に飲まれて」椿は赤いおかっぱの髪に手を埋めて、俯いた。「海底で看取ったの」 「そうかい。それは残念なことをしたね」母は少しだけ悲しそうな顔をした。「でもそれが自然の掟だよ」
「わたし……あの人間を助けたい」
「椿?」
「あの人の笑顔、優しかったもの」
「気持ちはわかるが、無理を言うんじゃないよ」
「生き返らせる方法は、ないの? だってわたし達は人間の生をも司る……」
「椿!」母は厳しい声で叱った。「自然の流れに逆らってはいけない。そんなことをしては必ず世界に歪みが生じるよ」
椿はわかったという風に素直に頷いた。
「さ、悲しいことは忘れて、今日はゆっくりしなさい。あなたはハナカイドウを任される神になるのよ」
そう言うと母は部屋を出て行った。
「神じゃない。わたし達は……」椿は一人、呟いた。「でも……あるんだ。自然の流れに逆らう、方法が……」 椿は外へ出た。
長い回廊を降りると、いつもの町だった。
火水木土金を司る仙人や神の使者達が平和に生活している。
豚の顔をした仙人が話しかけて来た。
「おぉ、椿。成人おめでとう」
「まだよ。明日なの」
「人間界への儀式は済ませたんだろう?」
「えぇ。無事に」
そこへ少し離れたところから鹿の角を生やしたおばさんが話しかけて来た。
「あ! ちょっとちょっと椿ちゃん! おじいさんにこれを持って行ってくれないかい?」
「ちょうどよかったわ」椿はにっこりと笑った。「おじいちゃんの家に行く所だったの」 高いクスノキを登って行くと、天辺に近い枝の上に小屋があった。
「椿か」
まだそこへ辿り着かないうちに空から威厳ある老人の声がした。
「うん、おじいちゃん」
「待ってろ。迎えをやる」
上のほうからシュルシュルと音を立てて白い蔦が降りて来る。椿はそれに掴まると、エレベーターに乗ったように上へ昇った。
部屋に入ると、背の高い白い髭に包まれた老人が椿を見て優しく微笑んだ。
「どうした。困ったことが起きたのか。お前はいつも困ったことがあると私の所へ来る」
部屋の床中に木の根のように張り巡らされた祖父の髭を踏まないように、気をつけながら椿は歩いた。
「うん、おじいちゃん。助けてほしいの」
「お前をか? 椿。見たところどこも悪そうではないが」
「おじいちゃんの医術で死んだ人間を生き返らせることは出来る?」 「死んだ者を生き返らせることは不可能だな」と、老人は言った。「それは自然の中にないことだ」
「そうだよね」椿は項垂れた。
「だが」と、老人は続けた。「我々の国には死者の魂を司る者もいる」
「魂?」
「その者に頼めば、あるいは」
「魂って、何?」
「人間の国で死んだ者は皆、魚に姿を変えてこの世界にいるのだ」
「魚?」
「魂には形がない。ゆえに魚の形を借りてこの世に送られて来る」
「じゃあ、あの人の魂には会えるのね?」
「ああ」
「どこへ行けば会えるの?」
「会ってどうするつもりだね?」
「わからない」椿はまた俯いた。「でも、助けられるものなら、助けたい。あの人は、死んではいけない人なの」
「それはお前が勝手に決めたことだ」
椿はさらに俯き、床を這っている老人の白髭に目を落とした。
「……と、皆は言うだろう」
はっとして椿は顔を上げる。老人は白い髭の奥で微笑んでいた。
「お前が正しいと思うことなら、しなさい。それを皆がおかしいと思うのなら、皆のほうが間違っているのだ」
椿は老人を真剣な眼差しで見つめ、ありがとうと言った。
「霊婆(リンポー)を訪ねなさい」老人は地図を渡した。「船に乗り、『気』の海を渡るのだ」 深夜、椿は音を殺して家を出ると、急いで回廊を下り、石畳の道を駆け出した。
自分は自然の掟を破ろうとしている。誰かに見つかれば、総出で止められるに決まっている。
高い窓際に腰掛け、鉢植えの紅葉の葉を紅くする練習をしていた少年がそれを見ていた。
「おい、椿」少年が大声を投げる。「こんな夜中にどこ行くんだ?」
椿は立ち止まり、頭上の少年を睨んだまま暫く立ち止まっていた。
しかし何も言わずに前を向くと、そのまままた駆け出して行った。 祖父に貰った地図の通り、森を抜け、丘を越えると港があった。
ぼんやりと大きな行灯の白い光が見えて来る。
さまざまな色の靄のような『気』の海の上に一艘の小舟が止まっており、気味の悪い船頭が待っていた。
椿が舟に乗ると、船頭は何も言わずに舟を漕ぎ出す。
『気』の海から神獣が長い身体を現し、虹をかけるように舟の上を通って行った。
やがて舟は岸に着いた。
椿はたどたどしくジャンプして岸へ渡る。
靄が深くかかり、霊の匂いがする。
歩き出すとすぐに見えはじめた大きな寺の中へ椿は入って行った。 「珍しいな、客人とは」
椿の姿を見る前から低く粘っこい声が響いて来た。
「霊婆?」
椿は急ぎ足でその広い部屋に入った。
部屋の中では四人が卓に腰掛け、麻雀をしていた。
大きな身体に大きな顔、一つ目の描かれた布で目を隠した性別不明の老人が四人。そのうち背中を向けていた一人が振り向いた。
「ちょうど百年暇していたとこだよ」
「あなたが霊婆?」
「そうだ」
「会いたい人間の魂がいるの」
「魂なんて一杯ありすぎて、どれがどれだかわからないよ?」
「今日、ここへ来たばかりなの」
「今日死んだ人間だって、相当ある」
「見れば……会えば、わかるわ! ……きっと」
「フン」霊婆は馬鹿にするように笑うと、立ち上がった。「ならば案内しようね」
霊婆が立ち上がると、麻雀卓に座っていた他の3人の霊婆が煙を吹いた。そしてネコの姿に戻ると、威嚇する声を上げて散って行った。 部屋の天井はとても広いのに足の踏み場は狭かった。
部屋の四隅を何重にも並べられた棚が塞ぎ、そこに夥しいほどの小さなガラス容器が並んでいた。
それぞれに水が張られ、その中には小さな赤い魚が泳いでいる。
どれもこれもがまったく同じ形をした赤い魚だった。
「今日、来たのは……」霊婆はのしのしと歩き、案内した。「ここからあそこまでの8,392匹だね」
椿はその数字に一瞬びっくりしたが、気を取り直して霊婆に聞く。
「今日のお昼、それより後に来た魂は、わかる?」
「大体あのへんからではないかなぁ」
「人間は死んだらすぐにここへ来るの?」
「知らんの。多少の時間差はあるじゃろが……」
椿は霊婆が「あのへん」と言った辺りから探し出す。
どれもこれもまったく同じ赤い魚だった。 291匹目の魚の前で目が止まった。
その赤い魚は優しい目をして笑っていた。
頭に柔らかい癖毛のような盛り上がりがあった。
何よりその魚を見た時、頭の中で知らない少女の叫び声が聞こえたのだった。
『ラン兄ィ!』
「この子」
椿はそのガラス容器を指差した。
「見つけたのかい?」
暇をもて余していた霊婆は嬉しそうに後ろから近づいて来た。
「わたし、この子……貰ってもいい?」
「育つよ?」霊婆は言った。「ここにいればずっとこのままだ。でも、ここから出せば育ちはじめる」
「人間に戻してあげたいの」椿は正直に相談した。「出来る?」
「そうだね」霊婆は答えた。「大きく育てれば……自然の摂理にないほどまで大きく育てれば、転生する」
「本当に!?」
「ああ」霊婆は楽しそうに言った。「その代わり……」
「その代わり?」
「ああ、いや。やめとこう。それは持って行くがいい。ただ、その代わり、お代は頂くよ?」
「何を出せばいい?」
「お前の寿命を半分貰おうか。持って行くかい?」
「いいわ」椿は即答した。
「そうかい」霊婆はヒヒヒと笑うと、椿の頭に長い爪を当て、魂を半分引き抜いた。 椿はガラス容器に布で蓋をし、大切に抱えて同じ道を戻った。
深夜の誰もが寝静まった道を静かに駆けて行くその姿を、高い窓から少年が見ていた。
誰にも見られないように部屋に戻ると、枕元に容器を置いた。
その中で赤い魚は、少し怖がっているような、驚いているような顔をしている。
「あなたに名前をつけよう」椿は笑顔で魚と向き合いながら、言った。「他の赤い魚と区別するためよ」
本当はぴったりの名前を考えてあった。「鯤(クン)」と呼びたかった。しかし頭の中で見知らぬ少女の声が叫んだ名前が引っ掛かっていた。
「ラン」椿は嬉しそうに笑った。「あなたの名前、ランにしよう」 1月に稽留流産しました。 今回再び妊娠したんですが、どうもネットで調べた数値より胎芽が
小さい気がします。 4w5dでGS=1.9mm、5w3dでGS=7.3mmだったんですが、 6w5dで初めて胎芽が
確認できて、CRL=3.1mmでした。流産した前回に似た数値です。 両家にとっても初孫になりますし、
一度流産を経験しているので少々不安になりすぎているのかもしれません。もしよければ皆さんの
妊娠週数とCRL、或いはGS分かりましたら教えてください。 よろしくお願いいたします。 椿は目を開けた。
どこかわからない暗い森の中だった。
柔らかい腐葉土の上に仰向けに倒れていた。
不安にさせる獣の声などは今のところ聞こえては来ない。
「ユゥ兄ィ?」
自分の中に声をかけるが、返事はなかった。
気を失っているだけなら気配でわかる。しかしユージンの僅かな体重すら感じない。
「ユゥ兄ィ!?」
何度呼びかけても返事はない。存在を感じない。
ユージンは約束通り、椿を守って、しかし死んでしまったのかもしれない。
あるいはショックで口から飛び出しただけかもしれないが、それでも身体がなくなれば数分で窒息してしまう。
二人の兄を同時に失い、黒いおかっぱの髪に手を埋めて、椿は嗚咽した。
しかしすぐに顔を上げると、立ち上がる。
「探さなきゃ」
暗い森の中を、二人の兄の名を呼びながら、椿は歩き出した。
「ユゥ兄ィ!」
その声が木に跳ね返り、森の中に響いた。
「ラン兄ィ!」 「待て」誰かがヒロアキを呼び止めた。
振り返ると水龍の頭をした青い仙人が立っている。
水龍「お前、人間だな? なぜここにいる?」
ヒロアキ「え〜? エヘヘ……」
水龍「どうやってここへ来たのだ?」
ヒロアキ「あの〜……死んだら転生しちゃってぇ……それで」
水龍「人間がこんな所にいてはならない。お前は自然の摂理を侵している」
ヒロアキ「そうなんですか〜? ハハハ……」
水龍「人間の世界へ返すしかないな。一度殺して、お前を魚にする」
ヒロアキ「え? 殺……」
水龍は問答無用でヒロアキを噛み殺した。一噛みでヒロアキは粉々になる。
粉々になったヒロアキに手をかざし、『気』を集めると、水龍の手の中に赤い魚が生まれた。
水龍「さぁ人間の世界へ帰るがよい。ただしお前はもう、死ぬまで魚のままだ」
ヒロアキだった赤い魚は知性をなくした目をして空中を泳ぎ、天からの風に吸い込まれるように人間界へ帰って行った。
「む」水龍は感覚を澄ます。「他にも人間が紛れ込んでいる気配がする」 椿は森の中をあてもなくさ迷い歩いた。
足の裏を細かいトゲのような葉が容赦なく傷つけた。
やがて目の前が開けると、大きなクスノキが見えた。
椿はそこまで歩き、声を出す気力もなくクスノキの幹に凭れかかる。すると天から優しい声が聞こえて来た。
「そなた、どうした? 傷だらけではないか」
椿は声の聞こえたほうを仰ぐと、不思議がることもなく答えた。
「お兄ちゃん達がいなくなったの」
「不憫な」老人らしきその声は、情け深い色を湛えて言った。「喉が乾いたろう。薬も塗ってあげよう。上がっておいで」
上のほうから白い蔓がシュルシュルと音を立てて降りて来た。 椿が蔓に掴まると、蔓は身体に優しく巻きつき、まるでエレベーターに乗るように上へと運んでくれた。
怖がる余力も、驚く余力もなく、椿は運ばれるがままにクスノキの天辺へと上がって行った。 天辺に近い枝の上に木の小屋があり、椿は扉の前に椿を立たせると、扉の下へと消えた。
椿は扉をノックする。
すると中からさっきより近くで老人の声がした。
「構わんよ。遠慮なく、お入り」
扉を開けるとまるで昔映画で見た清代の診療所だった。
分厚く古めかしい医学書が本棚に重々しく並び、卓の上には豪華な陶磁器が置かれ、円形の窓には近世風の装飾が施されている。
しかし整然と片付いたそれらに反して、床はまるで森の地面のように土や葉っぱが散らかり放題だった。
その部屋の中心にまるで根を張るように、白い髭で顔の覆われた、背の高い老人がいた。
「なんと……お前は」老人は椿を見ると、穏やかな口調で言った。「人間なのか」
「おじいさんは……」椿は疲れ果てた声で言った。「神様?」 老人は可笑しそうに細い身体を揺らして笑うと、言った。
「まぁ、こっちへ来なさい」
椿はフラフラと歩き出す。すぐに地面に張り巡らされた白い根のようなものに躓いて前にすっ転んでしまった。
「あぁ」老人が済まなさそうに言う。「気をつけなさい。儂(わし)の白髭が部屋中に根を張っている」
椿は顔を擦りむいた。しかし既に傷だらけの顔に傷が増えただけである。
老人はギリギリと軋むような音を立てて歩いて来ると、椿の手を取り、床に座らせた。
「森の中を何時間も歩いたな? あそこは生身を切り刻む茨が一杯だ。どれ、足の裏を見せてみなさい」
椿は座ったまま、老人の顔に向けないよう気をつけながら足の裏を見せる。
「おお……」
老人は何も言わず、絹の衣服の懐から薬を取り出すと、椿の足裏に塗った。
「あ」椿は思わず声を出した。「痛みが……引いて行くわ」
椿には何の香りかわからなかったが、部屋にはショウノウの香りが立ち込めていた。
薬臭く、決していい香りとは言えなかったが、椿はその香りに心まで癒される気持ちだった。
「そなた、兄を探していると言ったな?」老人は聞いた。「兄者達も人間なのか?」
「うん」椿は無表情に答えた。「もちろんでしょ」
「そうか」
老人はそれ以上何も言わなかったが、その顔には哀れみの色が浮かんでいた。 「さぁ、これを飲みなさい」
そう言って老人は温かい湯気を立てる湯呑みを差し出した。
椿は何も言わず、何も疑わずにそれを受け取った。
「それを飲むと心が落ち着く。傷も癒える」
椿は躊躇うことなくその液体を飲んだ。
「忘れてしまったほうがよいことも忘れてしまえる」
「美味しい」椿は少し微笑んだ。「喉乾いてたから、何でも美味しい」
「お前の名を聞いておこう」
「椿(チュン)よ」
「椿か、いい名だ」老人は頷いた。「春を司るにはふさわしい」 「おじいさんの名前は?」今度は椿が質問した。
「儂に名はない」老人は答えた。「強いて言うならばクスノキだ」
「仙人なの?」
「儂らを呼び現す言葉はない」老人は言った。「ここには様々な者が住む。それだけだよ」
「人間ではないのね?」
「いや、儂らも一応は人間だ」
「白いお髭が床に根を張る人間なんていないわ」
「人間に深く関わっている」老人は言葉を選び、説明しようとしたが、諦めたように言った。「人間と神の間にあるもの、と言っておこう」
「ここに人間がいるのはおかしなことなのね?」
椿がそう言うと、老人は明らかに動揺し、白い髭を忙しなく撫ではじめた。そして、言った。
「自然なことではない」
「そうなんだ」椿は少し首を傾げて言った。
「しかし、そなたからは」老人はまるで今思い付いたようなことを言い出した。「ハナカイドウの匂いがする」
「ハナカイドウって……」椿は現代の言葉に置き換えた。「ベゴニアね」
「桃色に近い赤色の、春に可憐な花を咲かせるハナカイドウの匂いがする」老人は繰り返した。「そなたは人間だが、儂らに近いのかも知れぬ」
老人が言い終えた時、椿は眠っていた。
「薬が効いたようだな」 「そなたの兄らは間違いなく生きてはおらん」老人は言った。「ここへ来てしまった人間は命を取られ、魚に転生させられ、人間界へ戻される」
座ったまま眠る椿の黒い髪に老人は細い指で触れ、そこに『気』を込めた。
「そなたの記憶を消す。もう二度と記憶が戻ることはない。人間だった頃のことはすべて忘れておしまい」
眠る椿の目から一筋涙が零れ落ちた。
「そなたを儂ら海底に住むものの仲間として迎え入れよう。儂の娘に養女とするよう申しつける」
老人の指から注がれる『気』の流れが途絶えると、椿の髪はハナカイドウの花のように赤くなっていた。 メイファンは潜水艦チェンナ號に乗って渦潮に呑まれた3人を探していた、というより面白そうな赤い大魚を追っていた。
「どこ行ったんだ、アイツら」
「ブーン、ブーン」チェンナが潜水艦らしさを擬音で演出する。
「小癪なランの『気』はともかく、ユージンのピッカピカで目立ちまくりの『気』さえ感じんとは……」
「ブゥーン、ブーン」
「どうでもいいがチェンナ、潜水艦はそんな音はしない」
もうかなり潜っていた。自分の住んでいる海の底がこんなに深いとは知らなかった。
暗い海底の砂の中から、まるでワープして来たように一匹の赤い魚が現れた。
「ム?」メイファンはヒロアキの出現を見逃さなかった。「あの魚、どこから出て来た?」 ユージンは目を開けた。
見知らぬ森の中だった。
「ここはどこ?」
目覚めるなり心細くなり、ユージンは弱々しい声で呟いた。
「ぼくは誰?」
「いきなり人の口から入って来といてそれかよ」
同じ口で誰かが喋った。乱暴そうな男の声だ。
「だだだだどなた?」
「お前こそ誰だ」と男の声は言った。
「ぼぼ、ぼくは……」
「名前は?」
「ユージン」
「どっから来た?」
「あ……」
「なんだよ」
「覚えてない……」
「なんだそりゃ」
「ぼくは誰?」
「さっき名前言ったじゃねーか」
「名前しか覚えてない」
「そんなのアリかよ」
声の主は豪快に笑った。 「あなたはだ……どなた?」
「俺か? 俺はズーロー。火を司るズーロン様の弟子だ」
「ズーロー……」
「ユージンだったか? お前、変わってんな。空気でも司ってんのか?」
「空気?」
「形のない生き物なんて初めて見たぜ」
「形?」
ユージンは自分の身体を見た。逞しい男の胸筋が橙色の衣服からはだけて見えた。
「おい、勝手に俺の首動かすんじゃねぇ」
「すすすすいません」
「まぁ、いい。お前、俺が昼寝してたらいきなり口に飛び込んで来たんだぜ?」
「かかか勝手にすいません」
「虫かと思って吐き出そうとしたら、なんか俺の口が勝手に喋り出すじゃねぇか」
「なな何て言ってました?」
「なんか『守る』とか『なんとか兄ィ』とか『超天才』とか言ってたぜ?」
「な、何のことだろう……」
「最初、人間臭ぇから人間かと思ったが」
「え」
「お前みたいな人間いるわけねぇもんな、ハハハハ」
「ハァ……」
実際、自分は何なんだろうとユージンは思った。 「まぁ、いい。とりあえずお前、出ろ」
「は?」
「いつまで俺ん中いるつもりだ? 出てけよ」
「ハァ……」
「悪ィけど昼寝の邪魔だ。俺、1日22時間は昼寝しねーと眠くて活動できねんだわ」
「あ、共感」
「何?」
「大物こそよく眠るんですよね」
「あ?」
「セコセコせず、どっしりといつも寝ている奴こそ、本当の実力者なんですよ」
「てめぇ……」
「え」
「よくわかってんじゃねぇか!」 たちまち意気投合したズーローはユージンに一生自分の中にいてもいいと許可を出した。
「さぁ、ふんじゃ一緒に死ぬまで寝るぞ」
「寝よう」
同意しながらもユージンは心が落ち着かなかった。
自分が何を忘れているのかもわからない。しかし早く探し出さないといけない何かがあるような気がして仕方がなかった。
「ユージン」ズーローが言った。「お前、いくつだ」
「15です」歳はなぜか覚えていた。
「15?」ズーローはぴくりと目を開けた。「それじゃウチの弟と同い年だ」
「弟がいるんですか」
「あぁ、血は繋がってねぇけどな」ズーローは再び気持ち良さそうに目を閉じた。「チョウっていうんだ。また後で紹介するよ」
そう言うとズーローはすぐに寝息を立てはじめた。
ユージンは落ち着かず、なかなか一緒に寝つけなかった。
そう言えばズーローって人、どんな顔をしてるんだろうと思いはじめた。
さっき見えた逞しい胸は、やたら焦げたような赤い色をしていた。 5階まで石の階段を昇った。
この世界ではかなり高いほうの建物だ。現代風に言えばアパートという赴きだった。
「ここだぜ」と言うとズーローは、布を垂らしただけで扉のないその一室に入って行った。
「ウチの家族を紹介するわ」
そう言われてユージンは「はい」と返事し、愛想笑いをした。
「ばあちゃん」
ズーローが指差すとやたら色の青い老婆が振り向いた。
「なんだい? ズーロー」
「ばあちゃん紹介するぜ。新しい家族のユージンだ」
老婆は濁った黄色い目で不思議そうにまばたきすると、ズーローの背後を確認した。
何も見えないし、誰もいないので首を傾げて言った。
「誰のことだえ?」
ズーローはワハハと大笑いすると、奥の部屋へ歩き出した。
「チョウ! 兄ちゃん帰ったぞ」 奥の部屋にはベッドが一つ置かれ、あとは所狭しと紅葉の若木の鉢植えが占領していた。
真っ赤に紅葉した若木もあれば、緑のままのも、枯れてカサカサになったものもある。
通りを見下ろせる大きな窓があり、窓辺に座っていた背の低い、髪の白い少年が振り向いた。
「あれ? 兄ちゃん、何か身体ん中、入ってるぜ?」と開口一番チョウは言った。
顔も幼ければ声も少し幼い感じの子で、ユージンは親しみやすそうに思った。
「ユージンだ」とズーローは言った。
「ユージン?」とチョウは首をひねった。
「よ、よろしく」とユージンが言った。
「よろ〜」とチョウは普通に言った。
兄の口から少年の声が出たことにも身体のない生き物がいることにも不思議がっていないようだった。 「チョウは幼い時に両親を失くしてな」ズーローは言った。「ウチのばあちゃんが引き取ったんだ」
ユージンはただ相槌を打ちながら聞いた。
「お前も今日からウチの家族だ、ユージン。同い年どうしチョウと仲良くな」
「あ、ハイ」
「ちーす」チョウがテキトーに挨拶した。
「ところでユージン」ズーローが少し改まった口調で言った。「お前は俺が1日22時間寝ることを初めて褒めてくれたヤツだ」
「そうなんですか」
「皆『だらしない』だの『怠け者』だの言ってちっとも理解してくれん。弟のチョウでさえもだ」
「だって兄ちゃん修行する気ねーだろ」
「しかしだ、ユージン」チョウの言葉は無視してズーローは言った。「てめぇ、嘘つきやがったな?」
「え」
「てめぇ、俺と一緒にちっとも寝なかったじゃねーか」
「あ、あの。何かが気がかりで……」
「お陰で気が散ってちっとも眠れなかったんだよ。腹立つわ。だからてめぇ、やっぱり出てけ」
「は?」
「チョウん中入れ」
「ええ?」
「わー面白そう」チョウはあまり面白くもなさそうに言った。「いいぜ。俺ん中入れよ」 ユージンはかしこまりすぎるあまり、ズーローの口から勢いよく飛び出せず、ぽてっと床に落ちた。
金色のうんこにも見えないこともない雲のようにフワフワしたユージンを見て、ズーローが言った。
「なんだお前、形あるじゃねーか」
チョウは何も言わず、表情も変えずに見守っている。
ユージンはすぐに苦しくなった。呼吸が出来ず、全身の『気』の流れが止まってしまった。
チョウの口まで飛ぼうにも力が入らない。
口がないので苦しみの言葉を発することも出来ない。
無音でのたうち回るユージンをチョウは手でつまむと、大きな口を開けて飲み込んだ。 「た、助かった」チョウの口からユージンの声が出た。「ありがとう」
「どーいたしまして」チョウはテキトーに言った。
「じゃ、俺寝るわ」そう言うとズーローは立ち上がった。「お前ら仲良くな」
「兄ちゃん、頑張れよな」そう言ってチョウは兄を見送った。 ユージンと二人きりになると、チョウはいきなり元気に明るく喋り出した。
「なぁ、俺のことはチョウでいいけど、ユージンて呼びにくいな。何て呼んだらいい?」
「あ。じゃあ、『ユゥ』で」
「ユゥか。わかった。ところでユゥ、お前、糞まっずいのな。うんこ飲み込んだ気がしたぜ。のどごしも最悪」
「えー……ひどい」
チョウは楽しそうに笑った。
ユージンは部屋を占領する小さな鉢植えの山を見た。そして、聞く。
「紅葉集めが趣味なの?」
するとチョウは明らかにムッとして、怒ったような声で言った。
「俺は修行中なんだ。秋を司るものになるんだぜ」
「秋を?」
「見てろよ」
チョウはそう言うと、緑色の紅葉の植えられたのを一つ取った。
そして集中すると、チョウの身体から橙色の『気』が放出される。
手を近づけると、紅葉は急激に紅葉し、慌ててチョウが手を離した時にはカサカサに干からびて床に散った。
「あー、またやっちまった」
それを見ていてユージンはまた違和感に襲われた。
この人達、ぼくとは違う生き物のような気がする。
そう言えばさっきチョウに入った時ちらりと見えたズーローの顔も、赤い鬼のように恐ろしく、角があった。 「ユージンは何が出来るんだ?」チョウが聞いた。
「え」
「その色を見た感じ通りか? 金を司るものになるのか?」
「ぼく……記憶がないんだ」
「そうなのか?」
「うん。なんか……すごいことが出来た気はするんだけど」
「慌てず思い出せよ」チョウは穏やかに言った。
「でも……」
「ん?」
「誰かを探してた気がするんだ。急がなきゃいけないような気がするんだ」
「そうなのか」
「うん」
「じゃ、どうする?」
「えっ?」
チョウは鉢植えをまた一つ取ると、それに手を当てながら言った。
「慌てたってしょーがねーだろ? 心を落ち着けて待ってろ。そうすればあっちのほうからやって来てくれる。そんなもんさ」
鉢植えの紅葉は今度は最も鮮やかな色で留まり、あかるい赤と金色を並べて笑った。 【主な登場人物まとめ】
・ユージン(李 玉金)……15歳。身体を持たない『気』だけの存在として生まれる。金色の『気』の使い手だが、特に何も出来ない。
普段は妹の椿の身体の中に住んでおり、椿と身体の支配権を交代することが出来る。
明るい性格だがダメ人間。それでいて自分は超天才だと信じている。
妹とともに渦潮に呑まれ、海底世界へやって来た。記憶のほとんどを失くしてしまっている。
・椿(リー・チュン)……14歳の中学生。登校拒否でずっと家にいる。
普通の子だが、自分はダメ人間であると決めつけている。
帰りを心待ちにしていた義兄ランが日本から帰って来、うかれていたが、義兄が渦潮に呑まれたのを助けようと海に飛び込み、自分も呑まれる。
海底世界へ落ち、クスノキの老人に助けられ、人間の記憶をすべて消される。
・ラン(ケ 狼牙)……19歳。日本で格闘家デビューし、連戦連勝を重ね、そのアイドル性からスターとなる。
細身で格闘家とは思えないほど穏やかで優しく、謙虚。透明の『気』の使い手。
リウ・パイロンとメイファンが殺したケ 美鈴の子。四歳の時にハオが引き取った。
赤いイルカを助けた後、渦潮に呑まれて絶命する。
・メイファン(ラン・メイファン)……54歳だが子供のように好奇心旺盛。ララの妹。ユージン達の叔母。
ひとつの身体に姉のララと一緒に住んでいる。元凄腕の殺し屋。黒い『気』の使い手。ユージンを調教したがっている。
黒い『気』を操り、自分の身体も含め何でも武器に作り替えてしまえる。
ランの母親を15年前に殺した。現在、ララに命じられ、ボディーガードとしてチェンナの身体の中に入っている。
渦潮に呑まれた3人の甥っ子を探して、というより赤い巨大魚を追って海底へ潜った。
・チェンナ(劉 千【口那】)……メイの娘。ララの大事な大事な孫娘。四歳。意外に強い。
メイファンに身体を潜水艦に変えられ、喜んでいる。
・チャン……ユージンが海底世界で出会った同い年の少年。秋を司る能力を持っている。橙色の『気』を使う。
・ズーロー……チャンの義兄。寝るために生きている。火を司る修行中。
・クスノキの老人……森をさまよっていた椿が出会った白い長い髭の老人。医術と薬草を司る。
海底世界に迷い込んだ人間は殺され、赤い魚に転生させられることから椿をかばい、海底世界の住人に仕立てた。 「あ、チョウ」
街を歩いていると、幼い頃からお世話になっているフォンおばさんに声をかけられた。
食料を調達に来ていたチョウは、野菜を選ぶ難しそうな顔をやめて、人懐っこい笑顔を浮かべた。
「やー、フォンおばさんも買い物かい?」
「ちょっと紹介するよ」
そう言うフォンおばさんの後ろから、髪の赤い女の子が現れた。
「こないだウチの娘に引き取った椿って子だ。まだ友達もいないから、仲良くしてやってくれるかい?」
椿はぺこりと頭を下げると、凛々しい目でチョウを見つめ、挨拶をした。
「椿よ。よろしくね、チョウ」
ユージンはその娘を見た時、チョウの心臓が激しい勢いで絞めつけられるのを感じた。 部屋に帰ったチョウはいつものようにモミジの葉を紅くする練習を始めたが、心ここにあらずだった。
鉢植えを手に取り、手を当て『気』を込めるが、何も起こらない。
「あー、集中できねー」
「どうしたの?」ユージンが聞く。「ずっと顔の筋肉笑ってるけど……」
「笑ってねーよ」チョウは幸せそうにニコニコしながら言った。「なぁユゥ、椿ちゃんて可愛いよな」
「そう?」ユージンは答えた。「ぼくはなんかうるさそうな子だなって思った」
「あー、お前はチンコついてないからな。女の子の魅力とかわかんねーわな」
「え」ユージンはどこかで同じようなことを言われたような気がした。
椿ちゃん、椿ちゃん、と譫言のように呟きながら、チョウの練習は絶不調を極めた。
「『気』が乱れまくり」ユージンが突っ込んだ。
「いいだろ、こんな日もあるさ」チョウはそう答えるとまた呪文のようにチュンチャン、チュンチャン、と呟き出す。 「あの子に恋しちゃったの?」
チョウはそのユージンの言葉にかぶせて別のことを言い出した。
「あー! なんか椿ちゃんと繋がり出来ねーかなー!」
「繋がりって?」
「たとえば……そうだユゥ! お前、誰かを探してるって言ってたよな?」
「あぁ……うん」
「それ、もしかして椿ちゃんなんじゃないか? お前もあの子も最近出現した新顔だし」
ユージンは黙って考え込んだ。続けてチョウが言う。
「なぁ、お前、記憶なくしてるだけで、椿ちゃんが実はお前が探してる人、たとえば、生き別れのお前の妹とか。ほら、思い出せ」
「それはない」ユージンは即答した。
「なんで言い切れんだよ? 記憶ないくせに」
「だって」ユージンは言った。「あんな赤い髪、ぼく嫌いだもん」 毎日椿に会いたいというチョウの願いはしかし、すぐに叶えられた。
チョウが毎朝参加している川での染め物に、次の朝から椿もレギュラーで加わることになったのである。
そんなことは聞かされていなかったチョウは眠そうな顔つきで布を川の流れにさらしていた。
「おはよう、チョウ」
名前を呼ばれて振り向くと、赤いおかっぱの少女の微笑みが朝日より眩しく輝いていた。
思わずチョウは水音を派手に立てて身を起こした。が、顔は笑っていなかった。
「おー、昨日会ったな。えーと……名前何だったっけ」
「椿よ」
「あー、そだそだ」
「今日から染め物に参加するの。教えて?」
「おう、いいぜ。来なよ」
椿は清代風の赤い無地の旗袍(チーパオ、いわゆるチャイナドレス)の上だけに、黒いスカートを穿いていた。
長いスカートを捲り上げると上のほうで結び、川に入って来る。
「そんなチャラチャラした格好じゃ仕事になんないぜ」チョウは目をそむけながらぶっきらぼうに言った。
「どんな格好がよかったのかな」
「え? えーと……いや、別に、それでいいわ」
そう言い終えたチョウの口でユージンが思いきり吹き出した。 「何笑ってるの?」椿の表情が険しくなった。「失礼な人ね」
「あ、いや。今の俺じゃない!」チョウは慌てて立ち上がり、弁解した。「ほら、見えない? 俺ん中に金ピカの奴がいるだろ?」
「何言ってるの?」椿はさらに機嫌を悪くした。「そんな変なものいるわけないでしょ」
「あ、見えないのか」チョウはそこでうっかり椿の生足をモロに見てしまい、挙動不審になった。
それで思わず悪口のようなことを言ってしまった。
「『樹の一族』の養女にしちゃ大したことないんだな」
椿はチョウに暫く憎らしそうな目を向けると、背中を向けた。
「も、いい。別の誰かに教えて貰うから」
「待てよ」
向こうへ行きかける椿の腕をチョウは思わず掴んだ。
「何よ」椿はその手を振り払おうとする。
「俺に教わるよう言われたんだろ?」チョウは手を離さなかった。「俺、こう見えて責任感強ぇーんだ。任されたからには意地でも教える」 チョウは大きな白い布を綺麗に伸ばして広げ、投げ放つように川にさらして見せた。
まるで魔法のようにそれは川面に広がると、朝陽を浴びて瞬く間に橙色に変わって行く。
その神秘的ともいえる光景を見て、椿の機嫌は一瞬にして直ってしまった。
「どうだ、簡単なもんだろ? やってみて」
「うん」
椿は頷くと、麻の敷物の上に積まれた白い布の一枚を手に取り、構えると、チョウに聞いた。
「ばっと広げるのね?」
「そう。一気に、ばっと」
椿は勢いをつけてばっと布を広げたが、広げたつもりが棒のように一直線になってしまい、川面に落ちた時には皺くちゃだった。
布は橙色に染まりはじめるが、ムラのある失敗作になってしまった。
「笑う?」椿は泣きそうな顔で言った。
「笑わない」チョウは真面目な顔で答えた。「最初はそんなもん」
続けて椿はもう一枚白い布を取ると、さっきよりも勢いをつけて川へ投げ放った。
布は椿の手を離れ、雲のように飛んで行き、しかしそんなに遠くないところに落ちた。
言葉を失ってぽかんと口を開けている椿にチョウは優しく笑いながら言った。
「力、入りすぎ」 朝陽はもう既に高くなっていた。
チョウは根気強く指導し、椿は諦めることなく初歩の染め物を練習していた。
もう30枚もの白い布が無駄になっていた。
「ちゃんと『気』を込めてるか?」チョウが真剣な口調で指導する。「もっと力は抜いて、布全体に『気』を行き渡らせんの」
「込めてるもん」椿は泣きそうな顔で言った。「気力全開でばっと広げてるもん」
「うーんなんでうまく行かねーんだ」チョウは頭をかきむしった。「こんなことぐらい出来るだろ? 『力』のない人間じゃあるまいし」
「『こんなことぐらい』って言ったわね?」椿がむくれる。「バカにしないで」
「ねぇ、チョウ」ユージンが小声で囁いた。「後ろからさ、手取り足取りで教えてあげたら?」
「で、出来るか!」
「出来るわよ!」
椿は怒ったように叫ぶと、仕切り直した。息を整え、心を落ち着ける。
「……おじいちゃん、力を貸して」
そう呟くと、椿は初めて薄紅色の『気』に包まれた。
それを白い布に行き渡らせる。布は生き物のように前のほうへ伸びると、そのまま皺一つなく川面に着いた。
「あ」
「わっ」
「出来たー!」
思わずチョウは椿に抱きつきに行った。
寸前で気づいて手を引っ込めかけたチョウに椿のほうから抱きついた。
「ありがとう、チョウ!」
「あ、あぁ……」 「うー」
部屋に帰ったチョウは修行もせずにベッドに伏せ、病気のように唸っていた。
「痛い。胸が痛い」
チョウはそう言うものの、ユージンはちっともチョウの身体の痛みなど感じず、不思議がった。
強いて言えば胸に甘酸っぱい締めつけを感じるが、痛いというよりは何だか気持ちいいぐらいだ。
「そんなに痛いもんなの?」ユージンは思わず聞いた。「恋の病って」
「そんなんじゃねー。そんなんじゃねーよ。うー」 次の朝、チョウが川へ行くとまだ誰も来ていなかった。
「いくら何でも早すぎたか」
身体の中でユージンもまだすやすやと寝ている。
暫くそのへんの草で遊んでいると、皆が集まって来た。
そわそわしていると少し遠くから椿がやって来るのが見えたので、慌てて背中を向けて支度を始める。
「おはよう」
後ろから椿に声をかけられ、ようやくチョウは振り向いた。
「お、おう」
今日も椿は赤い無地の旗袍だが、膝上まで丈のあるワンピースのものを着ていた。
チョウはそれを褒めもせず、せかせかと仕事の手を動かしながら、言った。
「悪ィ。名前、何だったっけな」
「椿よ」
「あー、そだそだ。チュン、チュンね」
「覚えた?」
「あぁ、今、覚えた」 「出来るか?」
「もう大丈夫よ」
そう言うと椿は白い布を取り、皺一つなく広げると、川面にさらして見せた。
「へぇ。物覚えいいな」チョウは初めて椿のことを褒めた。「努力家なんだな」
「エヘヘ」
「もう一人で……大丈夫……かな」
チョウが少し残念そうに言うと、椿は首を横に振った。
「まだこれ一つ出来るようになっただけよ。もっと沢山教えてね、チョウ」
「そ、そうか」チョウは思わず顔が笑ってしまった。「俺、教えるの好きだし、頑張る娘もす」
チョウは慌てて言葉を切って自分の口を押さえた。
聞いていなかったのか、椿は黙々と染め物を続けていた。 昨日染めた布を台に掛けて小屋の中に干してあったものが乾いていた。
皆でそれを取り込み、畳んで牛の背中の籠に乗せると、解散となった。
「じゃ、俺、牛に乗ってくから」
「うん。じゃ、またね。チョウ」
「またな、椿」
椿は背を向け、逆方向へと一人で歩いて行った。
「家、同じ方向だったらよかったのにね」ユージンが言う。
「バーカ」
チョウは明るい笑顔でそう答えながら、何度も後ろを振り返った。 いよいよチョウは修行が手につかなくなってしまった。
帰るとベッドに寝転び、ため息ばかり吐いている。
「チョウ」ユージンが言った。「ヒコーキとかしないの?」
「何だって?」チョウはため息まじりに言った。
「打飛機(飛行機をやる=オナニーの隠語)だよ、知らないの?」
「飛行機って、人間の世界の乗り物だろ? 神の領域を侵すあの、汚いやつ。それを……どうするって?」
「いや、手で、こうやって……」
ユージンはそう言うとチョウの手を動かし、股間に持って行った。
「勝手に俺の身体動かすな!」
「あ……はい」
予想外なほどの剣幕でチョウに怒鳴られ、ユージンは思わず萎縮してしまった。
「なんだよ。手淫のことか? 知ってるよ。知ってるけどやらねー。そんなことしてる暇があったら他にやることあるし……」
「修行、してないくせに……」
「とにかく」チョウはごまかすように言った。「勝手に俺の身体動かすな。あと、椿の前では絶対に喋るなよ?」
「とにかく、椿の下着姿、想像してみようよ」
「ハァ!? お前……」
「あいつ下着、絶対地味だよ。あれは絶対綿とか着けてる。フリフリのついた麻のとか、セクシーな絹のとかはつけないタイプ」
「意味わかんねーけど、お前……」
「よっ!」と言ってそこへ兄のズーローが入って来た。
今まで怒っていたチョウは兄を見ると、たちまち力が抜け、口数が少なくなった。 ズーローは冷やかすように言った。
「聞いたぜ、チョウ。お前、彼女出来たんだって?」
「は?」チョウはテキトーに答えた。「ねーよ」
「なぁユージン、どんな女だ?」
「え」ユージンは答に困った。
「はぐらかせ」とチョウが小声で囁いた。骨を伝ってユージンにはよく聞こえた。
「さ、さぁ……。いないと思う」
「なんだ? つまんねぇ」
ズーローはそう言うとせっかちな動きでさっさと部屋から出て行った。
ズーローが出て行くと、ユージンは済まなさそうに言った。
「ごめん。変な答になっちやった」
「別にいいよ」
暫く二人とも沈黙した。いつもは何時間でも黙っていられるのだが、ユージンはなんだかこの沈黙に耐えられなかった。
「チョウさ、お兄さん来るといつも無口になるっていうか……態度変わるよね?」
「あー……そうかも」
「なんで?」
「あいつ、ゲスだし。何より怠け者だろ? やる気のない奴とは会話したくねーんだ。やる気のなさがうつりそうで」
「え」
ユージンは自分がズーローの1日22時間睡眠を褒めたことに思い当たり、言葉を詰まらせた。
暫くまた二人とも黙った。
ふいにチョウが口を開く。
「ユージン」
「はい」
「お前、きくらげ臭いな」
「は!?」
「いや……何でもない」そう言うとチョウはまたベッドにごろんと寝転んだ。「変なこと言った。悪ィ」
「本当だよ〜」
ユージンは意味がわからず、笑うしかなかった。 次の朝も同じようだった。
朝から川へ出掛け、女達に混じって染め物に従事する。
ユージンは段々と同じ毎日の繰り返しが退屈になって来ていた。
しかしチョウは違うようで、修行そっちのけで染め物に張り切っていた。
「チョウ」椿が話しかけて来た。
「おう」チョウは仕事から目を話さず、ぶっきらぼうに返事をする。
「おこわでおにぎり作って来たんだけど、終わったら一緒に食べない?」
「えっ!」チョウは思わず顔を上げた。
「食べようよ」
そう言いながら穏やかに微笑む椿の顔が朝陽に照らされていた。
「お、おう。腹減るからな」そう言いながらチョウは顔を背けた。
「じゃ、仕事終わらせちゃうね」
そう言って椿が向こうへ行ってもチョウはずっと顔を背けていた。
「誰にも見せられない顔してるもんね」ユージンが言った。 仕事が終わり、他の女達は帰って行った。
杭に牛を繋いで待たせ、チョウと椿は川辺の岩に並んで腰かけた。
「いっぱい作って来たから。好きなだけどうぞ」
そう言って椿が二人の間に竹の葉の包みを置いた。紐を解くと、中から可愛いサイズの茶色いおにぎりが12個、顔を出した。
チョウは無言でひとつ手に取ると、米粒の隅々まで確かめるようにじっと見た。
「へんなもの入ってないわよ」
椿が言うと同時にチョウは楽しくなさそうな顔で勢いよくおにぎりを頬張った。
「うめぇ!」食べた瞬間に声が出た。
「よかった」椿が嬉しそうに笑う。
「これ本当にお前が作ったの? フォンおばさんじゃねーの?」
「それぐらいおいしいってことだね」椿は口に手を当てて笑った。
「この味……知ってる気がする」ユージンが言った。
「え?」
「なんか……懐かしい味」
「そうなの?」椿が首を傾げる。
「喋るな」チョウは横を向いて小声で言った。「追い出すぞ」 「お茶も持って来たの」
椿はそう言うと竹筒の水筒を出した。
チョウはそれを無造作に掴むと、口をつけて飲んだ。
「あっ」椿が慌てたように小声で叫んだ。
「ん?」
「お椀あったのに……」
「何だよ。いいだろ、別に」
暫く二人は黙々とおにぎりを食べた。チョウはおにぎりを食べてはお茶を飲み、椿はおにぎりばかり食べていた。
黄色と白の蝶が並んで目の前を通って行った。
やがて椿が言った。
「お母さんがチョウにお礼言っとけって」
「え。何で?」
「チョウのお陰で椿の才能が開花したって」
「は? 染め物の練習でか?」
「うん。あれから本当にあたし、何かに目覚めて。何もないところに樹を生めるようになったし」
「お。それは凄いな」チョウは目を見開いた。「そんなの俺、出来ねーよ」
「だからこれ、お礼のつもりで作って来たの」
「あ」チョウはおにぎりを見つめた。
「いっぱい食べてね」
「そうなんだ……」チョウは少しうなだれた。 椿が弾むような声で鼻歌を歌いはじめた。チョウは暫くそれを黙って聞いていた。
「いい歌だな。何て歌?」
すると椿はびっくりするような顔をチョウに向け、言った。
「知らない」
「知らない……って……」
「無意識に歌ってた」
「聞いたことない変わった歌だったぜ。お前の故郷の歌?」
「あたし……」
椿が何か言いかけた時、チョウの口が勝手に歌い出した。
先程椿が歌ったのとまったく同じ旋律だった。
「もう覚えたの?」椿が目を丸くする。
「あ、ああ。俺、記憶力いいからな」チョウはしどろもどろになりながら言った。「とりあえずほら、おにぎり食えよ。お前さっきから全然食ってないじゃん」
「喉、乾くから……」
そう言われてチョウはようやく気づいた。
「あ! 悪ィ、俺、口つけちゃったもんな……。川の水でも飲……染め物で汚れちまってるか」
「ま、いっか」
そう言うと椿は竹筒を取り、口をつけて飲んだ。
チョウは声が止まり、心臓も止まり、時間も止まったように、椿の口の動きと喉の動き、赤い髪が風にそよぐのと閉じた瞼の中で瞳が動くのを見ていた。 「じゃ、お疲れ様でした」
椿は徒歩で西へ、チョウは牛を連れて東へ向き、二人は背中を向け合った。
朝陽はもう二人の背よりも高く昇り、それぞれの一日が始まろうとしていた。
「あ、あのさ」チョウが振り向いた。
椿はまだ散歩ほど歩いたところにいて、チョウの声に振り向いた。
「今日、おにぎりありがとな」
「いいわよ。お礼だもの」
「いっつも仕事のあと、おなか空くよなーって思ってたんだよな」
「フフ」
「辛いんだよなー、家に帰るまで、腹ペコでさ」
「毎日作って来よっか?」
「本当!?」
「うん。いいよ」
「あー、助かるー。いや、腹減るからなー」
「じゃ、また明日ね」
「おう。気ィつけて帰れよ」
椿はくるりと背を向けると、荷物を入れた風呂敷を背負って歩き出した。
チョウはなかなか歩き出さなかった。椿が途中で振り向くんじゃないかと思うと目が離せなかった。
椿の姿が遠く見えなくなっても、暫くそこで牛と一緒に突っ立っていた。
ユージンは何も言わなかった。なぜ自分が椿と同じ歌を知っているのか、そのことばかり考えていた。 ベッドの上で布団を抱いて悶えながらチョウが言った。
「好きだ! 好きだ好きだ好きだ椿!」
ユージンはそれを黙って聞いていた。
「あぁ……」チョウは動きを止め、呟いた。「俺、あいつのためなら死ねるぜ」
「チョウ」ユージンが口を開いた。「あの娘はチョウのことは好きにならない」
「は!?」
「あの娘には……チョウがそう思うように、この人のためなら死んでもいいって思ってる別の人がいる」
「お前……」チョウはむっくりと起き上がった。「あいつの何だってんだよ?」
「ぼくは……椿の……」
「何か思い出したのか?」
「わからないけど……」
「じゃあテメーが何であいつのこと知ってるかのようなこと言うんだ」
「それだけはわかるんだ」
「わかるだと?」
「それに、椿は、本当はチョウが嫌うようなやる気のない子で……」
「何だとテメー! あれだけ頑張ってるあいつのことをそんな風に言うのは許さねー!」
「絶対、結ばれないんだ。チョウと椿は」
「出て行け!」
チョウは勢いよく立ち上がると、台所へ向かってズンズン歩き出した。
「おや、チョウ。どうした?」
台所仕事をしていたおばあちゃんが振り向いた。
チョウはおばあちゃんに思い切り接吻すると、ユージンを吐き出した。 「この、きくらげ臭い、金ピカのうんこ野郎が」
チョウはおばあちゃんに向かって吐き捨てるようにそう言うと、自分の部屋へ戻って行った。 人間関係がかなりギクシャクしたのであからさまには公表できなかったが、
私のピアノリサイタルを行ったのだよ、昨日 金萬福「かたたくよー!(戦うよー!)」
ジャイアン「ぬう?」
金萬福「かたたくよー!(戦うよー!)」
ジャイアン「やんのか!?」 なぜあんなことを言ってしまったのだろう、ユージンは落ち込んだ。
椿の歌った歌、自分も知っていたその歌のことばかり考えていたら、自然に口から出てしまった。
チョウに嫌われるのは自分でも意外なほどにショックだった。
「身体が重いよ……」ユージンはおばあちゃんの口でそう言った。「ぼく、まだ15歳なのに……」
チョウの身体は特段住み心地がいいとは思っていなかった。むしろいつもそわそわしてしまって落ち着かなかった。
しかしこうやって外に出されてみると、好きな場所だったことがしみじみとわかる。
「何言ってんだえ? あたしゃ……」
おばあちゃんはそう呟くと、やりかけだった大根の皮剥きを再開した。 次の朝、チョウはおばあちゃんに挨拶もせずに、染め物仕事に川へと出掛けて行った。
ユージンは迷った。
おばあちゃんを操作して後をつけて行こうかと思った。
しかしおばあちゃんの身体はあまりにも重く、動きもしんどくて歩くのが大変だった。
「あら、マオマオ。また来たのねぇ」とおばあちゃんがふいに言った。
見ると、扉のない家の玄関から茶色い猫が入り込んで来ている。
おばあちゃんは猫を抱き上げると、笑顔で話しかけた。
「孫に相手にされなくて寂しいばあちゃんのこと、気にしてくれるのはお前だけだねぇ。さ、今日もごはんを食べてお行き」
これだ! ユージンは猫がニャーと口を開けて鳴くタイミングを見計らっておばあちゃんの口から飛び移った。
「出来た! あ、喋れるんだ」
ユージンは猫の口でそう言い、おばあちゃんは小さい悲鳴を上げながら猫を投げつけるように離した。 ユージンは猫の身体で町を駆けた。
身体を勝手に動かすと怒るチョウと違い、自由だった。
行きたいほうへ行き、好きなように町中を探険してみることも出来る。
しかし今は川へ行くことしか考えられなかった。
なぜかチョウと椿から目を離してはいけないという気がして、いつもの染め物現場へと急いだ。
いつもチョウの歩みに任せているので迷った。見覚えのある店や大樹や丘を辿って走っていると、ようやくいつもの川辺の燦めきが見えて来た。 「えー!」
猫の耳は遠くの声もよく拾った。まだ二人の姿が見えていないうちから椿のその声は聞き取れた。
「チョウって年上だったの?」
ユージンが叢を分けて進むと、岩に座って並んでいるチョウと椿が見えて来た。昨日とまったく同じおにぎりを食べているようだ。
「ひでぇな」チョウが言った。「お前14だろ? ってことは俺のこと13歳ぐらいだと思ってたのか?」
「12歳ぐらいかと……」
チョウの心が傷つく音が聞こえたような気がした。
ユージンは安心した。チョウが子供だと思われていたことがなぜか嬉しかった。
「ひでーよ……」チョウは予め椿がお椀に入れていたらしきお茶をぐびっと飲んだ。「対象だとすら思われてなかったのかよ」
「対象って?」椿はきょとんとした顔をした。 実際、外から改めて見るチョウは背が低く、喋り方も甘ったるく、年齢よりも幼く見える。
しかしユージンは、努力家で将来をしっかり見据えているチョウのことを知っている。
それだけで椿に対して優越感を覚えた。
椿が手を伸ばし、チョウの白い髪を触ったのが見えた。
「背もあたしと同じくらいだし」
チョウは何も答えず、すねたようにおにぎりを齧った。
やがて話題が変わる。チョウが椿の故郷のことを聞いたのだ。
「あたし、記憶がないの」と椿が打ち明けた。
自分と同じか、とユージンは少し驚きながら思った。
「慌てんなよ」と、チョウが自分に言ってくれたのと同じことを言い出した。「慌てず待ってれば、そのうち何かの拍子に思い出す、そんなもんさ」
ユージンは胸のあたりが気持ち悪くなった。猫が何か悪いものを食べたせいかとも思った。
しかし同時に猫の爪を最大に伸ばして椿に飛びかかり、その顔を傷だらけにしてやりたいという衝動にも駆られていた。 話題はさらに変わる。
椿が自分は記憶がないせいか、皆が当然知っているようなことでも知らないことがあると言い、
数日前、森でこの世界に迷い込んで来た人間が発見されたという噂話と合わせ、人間の話になっていた。
「人間って、どんなものなの?」椿がチョウに聞く。
「俺、まだ成人してないから、よくは知らない」
「成人の儀で人間の世界を自分の目で見て来る試練があるんだよね?」
「あぁ。だから見たわけじゃないからよくは知らない。けど、聞いた話じゃ俺らと大して違わないなしいぜ」
「何が違うの?」
「うーん。俺らみたいに『足るを知る』みたいなところがないとかかな。だから神通力が使えないんだってさ」
「足るを知る?」
「うん。俺らはさ、自然から恩恵を受けて、それ以上は望まないだろ? その代わり自然から『司る力』を貰ってる」
「うん」
「ところが人間は際限がないんだって。だからむしろ自然からしっぺ返しを食らってるんだって」
「ふーん」 「見た目もあたし達と違わないの?」椿がさらに人間のことを聞いた。
「いや、俺らみたいに角があったり羽根が生えてたり、髪が炎だったりするのはいないらしいよ」
椿は真面目な顔をして耳を傾けた。チョウが続けて喋る。
「ただ、俺や椿は、人間とほぼ同じ見た目みたいだぜ」
「あたし達って人間に似てるのね」
「あぁ」
「じゃあ、あたし達と人間は見分けがつかないのかな」
「いや、簡単につくよ」
「どうやって見分けるの?」
「人間はね」チョウはおにぎりを平らげると、はっきりと言った。「匂いが『きくらげ』に似てるんだ」 「きくらげってどんな匂い?」椿は驚いたように聞いた。「むしろ匂い、ないんじゃない?」
「俺もよく知らなかったんだけどさ」チョウは言った。「最近わかるようになった」
「どんな匂いなの?」
「穴が空いてるんだ、匂いに」
「穴?」
「うん。本来あるはずの自然な匂いが、むしろないんだ」
「ふーん?」
「だから、すぐわかる。不自然なんだ」
「どうして最近になってわかるようになったの?」
「身近にきくらげ臭い奴がいてさ」
「それって……人間?」
「あぁ」
「うそ!」
「本当」 「退治しないの?」と椿は怯えたような目で言った。
「カタワなんだ」チョウは答えた。「だから何も出来ねーよ」
「森で見つかった人間、退治されたって聞いたよ?」
「人間を退治する必要があるのは、この世界の秩序を崩してめちゃくちゃにしてしまうからなんだって」
「でしょ?」椿は攻めるような目をして言った。「……だから」
「でも、人間がこの世界にいるだけでは、それだけでは何も起こらない」
「そうなの?」
「人間が恐ろしいのは、際限なく自然を変えて行こうとするからなんだ」
「変える?」
「うん。自分の欲望のままに、自然をねじ曲げてしまう。それが怖いんだって」
椿は黙り込んだ。
「だから」チョウは言った。「カタワだったら何も出来ない。自由じゃない人間は、無害」 「もしピンピン動ける人間を見つけたら、俺が退治してやるよ」
「退治するって、どうやるの?」
「殺すんだ」チョウは穏やかな笑顔で言った。「この世界で死んだ人間はその場で赤い魚になって、人間の世界に帰って行く。可哀想じゃない話だろ?」
「じゃあ、もし……」椿は言った。「あたしが人間だったら、どうする?」
「は!?」チョウは思わず大きな声を出した。
「あたし、記憶がないもの」椿は少し怯えたような顔をして、言った。「本当ほこの世界に迷い込んだ人間かもしれないよ?」
「そんなだったらとっくに匂いでわかっとるわ!」チョウは笑い飛ばすつもりで言い、すぐに考え込んだ。
身近にいるきくらげ臭い奴が最近、邪魔をしていたことに考えが及ぶ。
もし他にきくらげ臭い奴がいても、そいつの匂いが邪魔をして、気づかなかったということはあるかもしれない。
それに、これは椿の匂いを至近距離で嗅いでもいい機会でもあった。
「どれどれ」チョウは椿に顔を近づけた。「確かめてやんよ」
椿は嫌がる素振り一つなく、目を閉じるとチョウが近づくに任せた。
チョウは椿の赤い髪に鼻をつける勢いでその香りを嗅いだ。
ユージンは遠くから見ていた、チョウの表情が急変するその様を。 ユージンは走った。
走って、走って、走り続けた。
家に帰り、扉のない玄関を潜ると、おばあちゃんはベッドで昼寝をしていた。
ちょうど大口を開けて寝ていたので、そこへ飛び込んだ。
猫は自由になると、逃げるように外へ出て行った。
暫くするとチョウが帰って来た。 チョウは何も言わずに台所の前を素通りすると、自分の部屋へ行き、ベッドに倒れ込んだ。
絹さやの筋取りをしているおばあちゃんの足が勝手に歩き出し、チョウの部屋の入り口で止まった。
「チョウ」
ユージンがおばあちゃんの口を動かし声をかけると、チョウは魂が抜けきったような顔を上げた。
「昨日はごめん」ユージンは言った。「なんであんなこと言ったか、自分でもわからない」
チョウがにかっと笑った。
「こっち来るか? ユゥ」
ユージンはそう言われ、飛び上がるぐらい嬉しかった。 チョウが近くに寄って来て、おばあちゃんを食べる勢いで大口を開けた。
ユージンが飛び移っても、おばあちゃんは呆然として入口に立っていた。そしてややあって言った。
「なんなの?」
「なんでもないよ」チョウが背中を向ける。
「きくらげ臭いけど」
「あっち行ってよ。邪魔だよ、ばあちゃん」
ぶつぶつと呟きながらおばあちゃんが台所へ帰って行くと、チョウの口からユージンの声が出た。
「チョウ。おばあちゃんのこと、もっと構ってあげなよ。孫に相手にされないって寂しがってるよ」
「え。そうなのか?」チョウは驚いた声を出した。「……そっか。考えたら飯の時ぐらいしか会話してないもんな。わかった、後で肩でも揉んでやるよ」
「ところで」ユージンが言った。「ぼくって、人間なの?」 「ごめん」ユージンは素直に白状した。「今朝、猫に入ってチョウと椿の会話、盗み聞きしてたんだ」
「そうなのかよ!」チョウは怒ろうとして、すぐに穏やかな声で言った。「ま、考えたらいつも盗み聞きされてるようなもんか」
「ごめん。チョウのプライバシー、ないようなもんだよね」
「いいって。『お前は俺の一部』って考えるようにしてるから」
そう言われてユージンは嬉しくなった。しかしすぐに落ち込んだ声を出す。
「で、ぼく、人間なの?」
「そうだろ。きくらげ臭いもん。ヒコーキとか人間臭ぇことよく言うし」
「カタワだからって同情してるの?」
「そんなんじゃねーよ」チョウは何も隠さない口調で言った。「お前のこと嫌いじゃねーだけだ」
「本当!?」
「あぁ」
「嫌いじゃないってことは、好きなの?」
「はぁ?」
「好きなんだよね?」
「何だよ気持ち悪ィーな。あぁ、好きだよ」
「それは愛なの?」
「は、はぁ? 普通に好きだよ。愛じゃねーよ」
「ごめん。ぼく、うざい?」
「暇潰しにはなるわな」
「ところで」ユージンは聞いた。「椿はどんな匂いしたの?」 チョウは何か暫く考えるような顔をした。眉間に皺を寄せ、深い懊悩を漂わせる。
突然、枕を強く抱き締め、苦しみはじめた。
「ど、どうしたの?」ユージンがオロオロする。
「ああああ」チョウの口から震える声が漏れる。
「チョウ?」
チョウの身体から急に力が抜け、枕に顎を乗せてベッドに体重を預けきった。その顔は鼻の下が伸び、だらしなく笑っていた。
「びっくりしたよ。女の子があんなにいい匂いするなんて、思ってもなかった」 チョウは町へ出た。
町はいつも通り適度な活気に満ちあふれていた。
角のあるものやヒレのあるもの、動物の顔をしたものなどが買い物をしたり、ぶらぶら歩きをしたりしている。
「チョウ、ばあちゃんは元気かい?」
「チョウ、この間は屋根の修理ありがとな。また困ったことあったら頼む」
道行く人によく声をかけられた。チョウは結構人気者のようだ。
「ぼく、大丈夫かな」とユージンが言った。
「何が?」とチョウが聞いた。
「きくらげ臭いんでしょ? 匂いでバレないかな」
「俺の中にいりゃ大丈夫。俺の橙色の『気』がお前を隠してるよ」 数日前、森で発見された人間を仙人が退治した話が一昨日あたりからようやく民衆の間に伝わり、町はその噂で持ちきりだった。
「赤松子(チーソンズ)の所の弟子の水竜(シュイロン)が退治したらしいよ」
「おぉ、怖い」
「仙人さまさまだな」
「発見が遅れてたら、世界に異変が起きてたかもしれないよ」
「もし俺達が人間を見つけたらどうしよう?」
「仙人の所へ差し出すしかないよ」
「俺達じゃ何も出来ん」
「そもそも人間だってわかるのかね、見つけても? 俺達ごときに?」
「きくらげ臭いらしいよ」
「きくらげってどんな匂いだ?」 「大騒ぎだね」
「あぁ」
「ぼくも、バレたら……?」
「大丈夫だって」
「チョウは」ユージンは聞いた。「仙人なの?」
「たまご」
「おい、チョウ」
後ろから誰かに呼び止められ、チョウは身体を固くした。
振り返ると、いかにも強そうな戦士といった感じの男が手招きをしている。その髪の毛は赤と青の混じった燃え盛る炎で出来ていた。
「祝融(ズーロン)師匠」チョウは畏まりながらその男のほうへ歩んだ。「久しぶり」
「お前、最近修行をサボっているな?」祝融はチョウに厳しい目を向けた。
ユージンはチョウの橙色の『気』が急激に強くなるのを感じた。自分を隠そうとしているのだ。
「『気』を強くして見せたって駄目だ。俺にはお前の怠けぶりが透けて見えるぞ」
祝融はそう言ったが、中にいるユージンは透けて見えていないようだった。
「ごめんなさい」チョウは素直に認めた。「秋を司るものになれるよう、頑張ります」
「あぁ、頑張れ。お前には期待しているんだ」
なんて強そうな仙人だ、とユージンはチョウの背中のほうに隠れながらまじまじと見た。
そしてこんな強そうなのを見たらあの人が大喜びするぞ、とふいに思ったが、次にはあの人って誰だっけと忘れてしまった。 「兄ちゃんは火を司るものを継げますか?」チョウは祝融に聞いた。
祝融はため息を吐き、答えた。
「ズーロー(祝熱)には期待していない。私の後を継げるとしたら、正直今のところお前しかおらん」
「え! でも、俺は、秋を司る……」
「秋も五行においては火に属するのだ。火を司れば、同時に秋を司ることも可能。お前、私の後を継がんか」
「はい!」チョウは大喜びで即答した。「俺、頑張ります!」
「うむ。期待しているぞ」
祝融は逞しい手でチョウの白い髪を撫でた。
「うん?」
そして何かに気づいたように笑顔をしまうと、辺りを見回す。
「何か……きくらげ臭いな。私は町の警備に戻る」
そう言うと勇ましい背中を残して去って行った。
「俺、頑張らなきゃ……」チョウが喜びに震えながら言った。「帰って修行だ!」
ユージンも喜ばしかった。町へ出れば椿に会えるかもと期待して出て来たチョウのことを、正直面白く思っていなかった。
椿に魂を抜かれたチョウよりも、頑張って修行をするチョウのほうがユージンは好きだった。 しかし次の朝、チョウはいつも通り、修行以上に張り切って川での染め物に出掛けた。
「修行のほうを頑張るんじゃなかったの?」ユージンは不満そうに言った。
「わかってねーな。修行頑張るためにも椿には会わなきゃいけねーだろ」
しかしその朝、椿は来なかった。
その朝だけではなかった。
それから椿は朝の染め物に来なくなってしまった。
他の女達に聞いても誰も知らなかった。
チョウの前から椿は消えてしまった。 【主な登場人物まとめ】
人間
・ユージン(李 玉金)……15歳。身体を持たない『気』だけの存在として生まれる。金色の『気』の使い手だが、特に何も出来ない。
明るい性格だがダメ人間。それでいて自分は超天才だと信じている。
人間界にいた頃は妹の椿の身体の中に住んでおり、椿と身体の支配権を交代することが出来た。
妹とともに渦潮に呑まれ、海底世界へやって来た。記憶のほとんどを失くしてしまっている。
現在は海底世界で知り合ったチョウの中に住んでいる。
・椿(リー・チュン)……14歳の中学生。普通の子だが、自分はダメ人間であると決めつけており、人間界にいた時は登校拒否に陥っていた。
帰りを心待ちにしていた義兄ランが日本から帰って来、うかれていたが、義兄が渦潮に呑まれたのを助けようと海に飛び込み、自分も呑まれる。
海底世界へ落ち、クスノキの老人に助けられ、人間の記憶をすべて消される。
今では自分を海底世界の住人だと思っており、『樹の一族』の一員として薄紅色の『気』が使え、黒かったおかっぱの髪も赤くなっている。
・ラン(ケ 狼牙)……19歳。日本で格闘家デビューし、連戦連勝を重ね、そのアイドル性からスターとなる。
細身で格闘家とは思えないほど穏やかで優しく、謙虚。透明の『気』の使い手。
リウ・パイロンとメイファンが殺したケ 美鈴の子。四歳の時にハオが引き取った。
赤いイルカを助けた後、渦潮に呑まれて絶命する。
・メイファン(ラン・メイファン)……54歳だが子供のように好奇心旺盛。ララの妹。ユージン達の叔母。
ひとつの身体に姉のララと一緒に住んでいる。元凄腕の殺し屋。ユージンを調教したがっている。
黒い『気』を操り、自分の身体も含め何でも武器に作り替えてしまえる。
ランの母親を15年前に殺した。現在、ララに命じられ、ボディーガードとしてチェンナの身体の中に入っている。
渦潮に呑まれた3人の甥っ子を探して、というより赤い巨大魚を追って海底へ潜った。
・チェンナ(劉 千【口那】)……メイの娘。ララの大事な大事な孫娘。四歳。意外に強い。
メイファンに身体を潜水艦に変えられ、喜んでいる。
海底世界の住人
・チョウ……ユージンが海底世界で出会った同い年の少年。秋を司る能力を持っている。橙色の『気』を使う。
言葉遣いが粗野で、歳より幼く見えるが、根は意外なほどに真面目。それゆえ不真面目な兄のことが許せない。
椿に恋してしまい、修行が手につかなくなっていたが、師匠の祝融に励まされ、再び修行を開始する。
ユージンを人間だと知りつつ自分の身体の中に住むことを許している。
・ズーロー(祝熱)……チョウの義兄。寝るために生きている。火を司る修行中だが、やる気はない。
・おばあちゃん……両親を失くした幼いチョウを引き取り育てた。
・クスノキの老人……森をさまよっていた椿が出会った白い長い髭の老人。医術と薬草を司る。
海底世界に迷い込んだ人間は殺され、赤い魚に転生させられることから椿をかばい、海底世界の住人に仕立てた。
・祝融(ズーロン)……火を司る仙人であり、戦士。チョウとズーローの師匠。髪の毛が炎で出来ている。 「ねぇ……チョウ」
「……んー?」
「修行、しようよ」
「どー……でも……いいよ」
チョウはベッドに身を埋めた。
「頑張るって言ったじゃん、祝融先生に」
「頑張る意味がわからねー……」
ユージンは暫く黙った。言うことはあったが、言いたくなかった。しかし仕方なく言った。
「椿に会いたいんなら、椿の家は知ってるんでしょ?」
「あー……フォンおばさんには昔、世話になったからなー……」
「じゃあ、会いに行けば?」
「いやー、『何しに来たの?』って不思議がられらぁ……」
「偶然装って……」
「全然反対方向なのに偶然行く理由もねー……」
この世界には学校もなかった。子供達は皆、それぞれの親や師匠に物を教わって育つ。
「じゃあ」ユージンははっきり言った。「偶然がない限り、椿には一生会わないんだね?」
チョウは何も言わず、ただ洟をすすった。 「慌てたって仕方ないんだもんね?」
「……」
「待ってれば、あっちからやって来てくれる。そんなもんなんだもんね?」
「ちくしょォーー!!」
チョウはいきなり叫ぶと、飛ぶように起き上がった。そして泣き声でまくし立てた。
「なんで何も言わずにいなくなんのよ!? 悲しいじゃんかよ? 何があったか知んねーけど、俺って椿にとってその程度の存在だったのかよ!?」
ユージンは何も言わなかった。ただ心の底で『そうなんじゃない?』と思っていた。 いてもたってもいられず、チョウは町へ出た。
用事なんて別になかった。
「町に出てどうするの?」ユージンが聞いた。
「ばったり会うしかねーだろ」
「ばったり会ってどうすんの?」
「今何してるかぐらい聞けるだろうがよ」
「町ってここしかないの?」
チョウは少し黙ってから、言った。
「『樹』の屋敷からは……反対側にもっと近い町がある。俺がそこ歩いてたら不自然なくらいの遠くに……」
「じゃあ」ユージンは呆れた声を出した。「ほぼ無理じゃん」
「黙れ! 誰かに聞いたら椿が今何してるか聞けるかもしんねーだろ」
そう言いながら、チョウはただひたすら歩いた、誰にも話しかけず。
たまに誰かから話しかけられても椿の話を持ち出さなかった。
「なんで聞かないの?」ユージンがとうとう聞いた。
「ふ、不自然だろ」チョウは口を尖らせて言った。「ま、まるで俺が椿のこと好きみたいでさ」 いつの間にかチョウは町を抜け、森を抜け、隣の町まで来てしまっていた。
「ここって……」
「あぁ」
「チョウがここ歩いてたら不自然なくらいの遠くのほうの町?」
「来ちまった」
道行く知らない顔のもの達が「あれ、どこの子だっけ」という風にチョウのことを横目で見ているような気がした。
別に恥ずかしいことではないのにチョウは早足になった。
誰にも話しかけず、ただひたすらに歩いて行くと、山のように大きな建造物がやがて見えて来た。
長い木の回廊に囲まれ、遠く真ん中のほうに大木が聳え、太い枝が点々と木造の建物を乗せている。
「あれって……」
「あぁ」チョウは恥ずかしそうに言った。「『樹の一族』の……椿の家だよ」 チョウは一段ずつ、木の長い回廊を上った。
「何これめんどくさい」ユージンが言った。「いちいち出入りするたびにここ通るの?」
「そうさ、何も不自然じゃない」チョウはユージンの聞いたこととはまったく別のことを答えた。「突然何も言わずに染め物に来なくなったんだ。どうしたのかと思って来てもおかしくねぇだろ」
「これだけの距離じゃなければ、ね」
「うるせー。俺は決めた。椿に会う」
前方の扉が突然開いた。チョウは飛び上がると泥棒のようにこっそり隠れた。
太ったおばさんが姿を現し、藁袋を手に回廊を降りて来る。
チョウは脇の茂みに身を隠し、おばさんが通り過ぎて行くとほっと息を吐いて立ち上がった。
「聞けよ」ユージンが突っ込んだ。
「るせー」チョウは顔を赤くした。
「まるで不審者じゃん」
「るせー」
「ぼく、代わろうか?」
「は?」
「身体の支配権を交代しよう。チョウに任せてたら日が暮れる。ぼくが聞いてあげるよ」
「ダメだ!」チョウは厳しく言った。「人間であるお前を自由に動けるようにはさせられねー」 そう言うとチョウは走り出した。物凄い勢いで回廊を、降りて行く。
「どうしたの?」ユージンは呆れて聞いた。
「帰る!」
チョウは町を抜け、森を抜け、また町を抜けると自分の家へ帰って行った。 ため息を吐きながらチョウが扉のない玄関を潜ろうとすると、隣の家から赤い髪の女の子が出て来た。
「あら?」椿はチョウに気がつき、声を出した。「チョウ?」
チョウはのけ反って飛び退くと、声も出せずに椿の顔を見た。 「なななんで……」としかチョウは言えずに固まってしまった。
「引っ越して来たの」椿は涼しい目をして微笑んだ。「隣がチョウの家だったなんて、偶然ね」
「偶然にも程がある!」ユージンが叫んだ。
「そ、そうね」チョウの口から怒ったような声が出たので椿は少し引いた。
「なんで……」チョウが言った。「なんで黙っていなくなるんだよ!」
椿は意味がわからなかったようで暫くぽかんとしていたが、やがて気がついたように言った。
「あ。ごめん。友達だもんね」