「あの若い絵師さん、最近来いひんね」
空になった銚子を運びながら、居酒屋の女将が呟いた。

彩華の席は隅のほうで、店の中央では常連客らしき連中が酒を飲んでいる。

「流石に、食い詰めてもうたんやないやろか」
厨の奥で旦那が、憐れみを含ませて答える。

「訳わからん模様の絵ばっかし描いとった、ゆう話やから。そんな絵、誰も買わんやに」
「へえ、絵を見たん?」
「ちらっとな。なんや、引き攣れたような線が、紙いっぱいに丸くのたくってて。
何が描いてあるかさっぱり分からん。ありゃ、気が触れてるのかも知らん」
旦那は声をひそめて言ったが、彩華の耳はそれを捉えていた。



勘定を済ませると、女将が彩華を眺めて言った。

「坊や、そんな時分から傾奇者の真似なんてしとると、ろくな大人になれへんよ」
「……気をつけるよ」
「早う、お母ちゃんとこに帰り」
そんな声を背中で聞きながら、店を出た。



辺りはもう、ほとんど夜暗に沈んでいた。民家の格子から漏れる灯りが、僅かに道を照らしている。
四間ほど歩いた所で、神社の鳥居が目に入った。

と、そこで足を止める。
鳥居の向こうに、人の影を見たのだ。


先刻の男児のようだ。

「こんな時分にあの子、何を?」
彩華は暗紅色の瞳を見開いて、闇を凝視する。
遠目は利くが、いかんせん暗すぎる。

そうするうち、人影がさっと視界から消えた。

怪訝に思って、鳥居をくぐろうとする。

しかし、そこで足を止めた。
何がどうとは言い表せないが、なんとなく、気が進まない。
この鳥居の向こう側へ行くことを、何かが躊躇わせた。

――なんだろう、この感じ……?

境内の中は、周りに鬱蒼と茂る杜のせいで、ほとんど漆黒の闇である。
しばし逡巡した後、

――知ったことじゃない。

彩華は男児を探すことを諦め、自らの今夜の寝床を探すことに意識を向けた。


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