この世界は仮想現実だから願いは叶います
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学士(医学)(東京大学)
博士(医学)(東北大学)
博士(政策研究)(千葉商科大学)
博士(不動産学)(明海大学) 着目したいのは「不癲」の方です。利口ぶって軽率な行動に出るな、と。 曰く、雇われ人根性では、決して「仮痴不癲」ができるわけがなく、経営者の目線になって初めて、割り切ってバカの振りをできるんだそうだ。 それはそうに違いないが、「尊敬の欲求」を捨ててまで、会社で実現したいことがない人はどうするんだろ。むしろそっちが問題のような気がする 上屋抽梯(やねにのぼらせ、はしごをはずす)
補給、後援、退路を断て
諸葛亮が劉gにハメられた話が、あまりに有名です。しかし、もったいぶる賢人から意見を引き出すだけの、セコい計略ではない。 「たまたまエレベータで乗り合わせた社長に、30秒でアイディアを伝えて、採用&抜擢をされる」
というのが、ビジネス書が喧伝する成功パタンだ。 小さな利益で敵を釣り出して、敵の退路を断つ。もしくは、味方をわざと死地に置いて、奮戦させる。そういう教えだそうだ。 雇われ人は、会社がわざとぼくらの退路を断とうとしていたら、さっさと逃げ出したいものです。『孫子』が言うから間違いないが、死地にいれば死戦せざるを得ない。命が惜しいから、昇給ゼロでも頑張るでしょう。そんなのはイヤだから、ちゃんと片手で梯子を守っておかないと。 樹上開花(きのうえに、はなをさかす)
相手をだまして、自軍を派手に見せかけろ
楽毅に掃討された斉が、田単によって復活したときの作戦。火牛を使って、敵を圧倒した。
花が咲くはずもない樹に、花を咲かす。強くもない兵力を、強く見せかける。典型的な「相手に間違えさせる」計略です。 東京都の氷河期採用を申し込みをしていなくて受けられなかった たった今、東京大学理科三類に首席で合格できる能力を手に入れても今更いらない。 たった今、東京大学理科三類に首席で合格できる能力を手に入れても今更虚しいだけだ。 反客為主(かえって、かくがしゅになる)
受動から主導へ、入れ替われ
袁紹が韓馥から、冀州を乗っ取った。これが本が示す例。 本は乗っ取る順序を紹介してる。曰く、まず客となる、隙を狙う、隙を活かす、主人に代わる、地位を安定させる、のだそうだ。 弱者の戦略と言うと、ランチェスターを思い出します。今回はテーマではないので扱いませんが、三十六計との共通点は、強者が強みを発揮できないようにすることだろうね。 婚活している人って頭がおかしくて知的障害があるとしか思えない。 美人計(びじんのけい)
美女や金品で、闘志を奪え
解説不要ですね。本は貂蝉を紹介してます。 つらいときくるしいときにささえになってくれたひとならかんしゃするだろうが
そんなひとはいなかった 注意したいのは、敗戦の計に収録されているということ。力関係が対等以上なら、やらないに越したことがない、という女性擁護の発想、、ではないよな。でも傷つく人は増やすべきでなく、、微妙だから解釈が難しい。 【2chまとめ】大阪で普通に子育て 30代なら月45万6000円 【面白いスレ】 空城計(くうじょうのけい)
手薄なことを隠さず、逆に敵に警戒させる
諸葛亮が撤退するとき、司馬懿にやったこと。 「無中生有」は敵と対決しているときに使い、「空城計」は不利なときに使う。状況に違いがあります。
「無中生有」が成功すると大勝で、失敗しても舌打ちすれば済む。「空城計」が成功すると命からがら逃げられ、失敗すると全滅だ。 反間計(はんかんのけい)
敵のスパイを買収&利用して、自軍のために利用する 苦肉計(くにくのけい)
わが身を傷つけて、敵をだませ
古典の解題にある。
「人は自分のことを傷つけるわけがないから、敵に信じ込ませられる」
という前提が、この計略を支えているらしい。 走為上(にげるを、じょうさくとなす)
優勢なままに退却するのは、負けではない 小難しい議論をする人を皮肉り、思慮の浅い人がゲラゲラ笑いながら、逃げ出すのではない。万全を尽くして、計算高く一時的に領土を譲ることを、この計略は教えています。 “君に届け”に出てくる登場人物みたいに優しすぎるわ トヨタ「65年前の恨みは忘れない!住友は絶対に許さない!」 スレの中で「逆恨み」だとか「恨の文化」とか言っていた奴らが
困っているときに突き放しただけじゃなくて追い打ちまでかけてきた
奴らを許せるような友愛の人なんだろうな 今は亡き血族への恩も恨みも忘れないのは日本人ならではと思いますが。こういう時に手の平くるくる回すからネト右と言われるんじゃないの? 住友がひと時代前は収益性よかったのはパチ屋に融資して儲けていた。 クズです。 地方で宦官派といえそうなのは宦官に贈り物をして地位を得た孟他(孟達の父親)程度の例しかない こいつの意思とは関係なく、脳がシャットアウトしてるのよ 霊帝は黄巾の乱で黄巾に通じた官吏と百姓を1000人誅 普通の人間なら一生、精神病院で廃人として過ごすレベルの事を これ粛清の規模としてはかなり大きいですよ。例えば、梁冀に連座して死刑になった高官は数十人、免職になった者は300人です。 漢王三年、酈食其が「戦国六国の子孫をたてよ」という。漢王五年、劉邦が即位したのち、諸侯の王国が7つになった。韓王信、張耳、鯨布、韓信、彭越、臧荼と廬綰、呉ゼイである。閩オウ王の亡諸(越王勾践の子孫)は、劉邦に任じられていないから、漢室の史官は諸侯に数えない。ともあれ、合計8国があった。 8王の特徴は何か。全土に国土があって、漢王より広い。みな異姓で、韓信のほかは漢王の直属でない。故地に封じられ、張耳のほかは独立した軍隊をもち、百官をもつ。 項羽は盟約で主従関係をつくったが、じつは対等な王国である。漢王は秦代の制度をつぎ、変更はすくない。ただし漢王は、秦代の地方統治と同じにできず、封建制度にもどった。 少子化対策は、子供を育てなくていいと、政府が育てるからとやれば数は増える。
弊害を無視すれば。 高祖が統一したのち、諸王を慎重に扱った。周室は乱れても長らえ、秦室は乱れないが短かった。周秦を参考に、異姓の王をのぞき、同姓の王にかえ、藩塀とした。即位した翌年(高祖六年)から、政策が始まる。 長沙王と閩オウ王は南方で、漢室に無害だから放置した。ほか6王は同姓にかえた。 高祖六年から末年まで、放置と制度については、変革がない。『史記』諸侯年表の序文にあり、『漢書』諸侯王表の序文もおなじ。 ほかと異なるのは、斉国だ。斉地はもとは漢室の直轄だった。斉王の劉肥は、諸王のなかでもっとも皇帝に近いから、斉王に封じられた。 『史記』斉王世家で、主父偃は天子にいう。「臨菑は長安より大きい。天子の親しい子弟を封じろ」と。高祖は、庶長子の劉肥を封じ、曹参を相とした。漢相の蕭何が死ぬと、曹参がついだ。このように斉国は、長安とともに東西を支える要地だ。西周が魯相を封じたのと同じ。 同姓王には、ひろい封地をあたえず、数郡のみ。しかも国境を胡越に接する。形勢は、もとの異姓王とおなじ。 『漢書』百官表、『続百官志』にあるように、諸王は直接統治した。公卿より以下、百官のかまえは漢室とおなじ。漢室のみ丞相があるが、ほかの御史大夫より以下は、漢室と国王はおなじ。行政の権限は、とてもおもい。『史記』平準書、劉ビ伝によると、財政と経済の権限も、諸王が全てもつ。中央政府が取れない。 諸王が世代をへると、血筋が漢室からはなれ、異姓王とおなじ弊害がでる。『漢書』賈誼伝で、賈誼がいさめる。文帝や景帝の時代のとき、諸王の権限と財政をけずった。封地をけずり、形勢をおさえ、政権をうばい、財政をかぎった。 漢室が秦代のつよい中央集権をついだが、政治情勢がちがうので、封建と合わせねばならなかった。諸王がつよく、漢の郡の長官に功臣がおおく、どちらも中央集権をさまたげた。御史に郡を監察させる制度は、機能しない。漢代のうち、もっとも分権の色彩がつよい。 景帝と文帝のとき、御史や丞相史を、郡国に巡察させるようになった。景帝と武帝のとき、諸侯王の権力をけずり、諸国の行政を、漢室の郡と同じにした。あわせて、監察の政策をつよめ、ついに丞相史の監察を制度化し、刺史の監察制度ができた。山沢塩鉄の利益を、少府がおさえた。地方政府の財源をちぢめた。中央集権がすすんだ。 刺史の制度を始めたとき、もとは詔の6条をたてまつり、督察した。監察と行政は混ざりやすい。刺史は中央の威勢をつかい、郡国の長官をおどし、行政に干渉した。 刺史の権限がつよまり、刺史の地方官化がすすみ、軍国より1級上の地方官となった。牧伯の制である。天下は13州に分けられ、州牧は1州の軍事、民政、刑罰、財政をにぎった。中央集権のための刺史が、かえって地方分権した。権限は、ただ州牧がもち、守相にない。 光武の建武十八年、州牧をやめて刺史とした。奏事は計吏がやった。ただ軍民の諸権をまとめた。ゆえに前漢の旧名にもどした。しかし武帝が初めて設置した刺史より、権限が大きかった。いちど前漢の牧伯をへたから、ただの監察官には戻れない。 刺史の強さから、何が言えるか。中央集権から見ると、刺史は中央の使臣であり、武帝の時代よりも権限がつよい。中央から郡国への統制は、武帝の時代よりキツい。言い換えると、中央集権がつよまった。ぎゃくに地方分権から見ると、刺史は行政の権限をにぎる。高級な地方官である。土地はひろく、権限はおもく、分権のようなもの。 テレビ「CM多すぎて死にました」YouTube「CM多すぎて死にました」ネット「広告多すぎて死にました」 後漢の中期以後、刺史の権限はつよまった。守相は刺史をおそれた。黄巾の乱にて、州牧をもどした。州牧の権力は、前漢末より強大だ。守相を臣下や官僚として、地方分権した。 全祖望は、秦代の郡県を考察した。内史の治める京畿と、始皇二十六年の36郡に、九原、南海、桂林、象郡、閩中をくわえて41郡。県と道の数はわからないが、全祖望が推測した。内史は40県前後ある。 戦国時代に、郡は10余県をまとめた。『漢書』高祖紀、『史記』周勃世家から、北辺8郡は1郡あたり16.5県。8郡は秦代から変更なし。秦漢でだいたい同じと考えられる。北辺は防御の必要性から、とくに郡がおおい。内地は、1郡あたり25県ぐらい。ゆえに秦代は、約1000県であろう。 県と道は、最小の行政単位である。県と道の下に「郷」「亭」「里」「聚」の制度がある。ほぼ漢代と同じだ。後述する。 『漢書』地理志はいう。三輔をのぞくと、全国を80郡+20王国にわけた。郡国が並立した。これは前漢末年の制度だ。つまり武帝以後の制度だ。前漢初、諸侯王国は大きくないが、数郡を統べた。大国は、5、6郡を統べた。『漢書』地理志によると、高帝は秦代の36郡のほかに、26郡をおいた。河内、汝南、江夏、魏郡、常山、渤海、平原、泰山、東莱、豫章など。あらたな26郡の3分の2以上は、諸侯王国の域内にあった。王国は、域内の郡に守尉をおき、漢室のように統治した。 景帝と武帝のとき、諸国をけずった。大国でも、10余県をもつのみ。元帝の初元三年、ついに「諸侯の相を、郡守の下位とする」と決まった。武帝以後、王国は郡をまとめず、じかに県を統べた。ほぼ断言できる。後漢は武帝より以後の制度をふまえた。 テレビ「CM多すぎて死にました」
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ネット「広告多すぎて死にました」 漢代は秦より、辺境に郡を新設した。『漢書』地理志はいう。開拓により、高祖が26、文帝と景帝が各6、武帝が28、昭帝が1、合計で103郡を増やしたと。 秦漢の郡は合理的な基準でおかれた。南方の諸郡、巴郡、蜀郡、漢中、テン中、長沙、豫章、廬江、会稽、南海、閩中は、みな地形の1区画だ。天然の境界による。 選挙カー効果あるとか研究で言っても
実際に聞いた人みんな落選してるような 漢代の郡は、等級の上下があった。畿内の太守は九卿と同列だ。 列郡にも上下があった。戸数による等級である。長安に近い三河、12万戸をこす「大郡」は、太守の秩禄がたかい。上郡や西河は戸数がすくない。 『後漢書』黄香伝で、尚書令から東郡太守にうつるのを望まず、「近郡」を望んだ。尚書令から東郡太守は、昇進でない。後漢初年、近郡の太守から三公をえらんだ。だから黄香は近郡を望んだのだ。 第五倫伝で、わざわざ蜀郡太守になったので、司空になれた。蜀郡は戸数がおおいが、遠いので等級が低い。 『漢書』宣帝紀に「内郡国から、文学の高第な人を選挙せよ」とあり、韋昭が注釈する。「中国が内郡、辺境で夷狄がでるのが外郡」と。北辺を「外郡」というのは、陳亀伝にある。「太守」という地位は同じでも、名誉は同じでない。 郡と国の上下関係は、漢代に変化した。前漢初、王国は4、5郡をあわせ、漢室にならんだ。孔光伝はいう。「宣帝のとき、諸侯王の相は、郡守の上である」と。宣帝のとき、国は郡より上位だった。元帝紀で、国が郡の下になった。 『漢書』は一郡の副官たる、都尉、塩官、鉄官らの治所を「絶大な多数」明記する。だが太守の治所を明記しない。王国の治所も1つ記すだけ。 『漢書』百官表はいう。列侯のはむ県を「国」という。皇太后、皇后、公主がはむ県を「邑」という。蛮夷がいる県を「道」というと。名称はちがうが、行政では「県」にまとめて扱う。 1万戸を境界にして、長官の名称と秩禄がちがう。呉郡、豫章、巴郡、蜀郡など、長江流域では土地が荒れ、蛮族が弱く、職務がヒマなので、戸数が多くても「小県の制」が適用された。北辺は、羌胡が強く、忙しいので、戸数が少なくても「大県の制」がとられた。「県令」「県長」の区別は、戸数だけで決まらない。職務の大変さでも決まる。 三国の呉蜀が統治したのは、県が格下でヒマな地域だけ。 県令は黄蓋が平定した尋陽県の県令と、朱然がなった山陰県の県令くらいしか出てきません。 功臣。張耳と陳余をつり、韓信、曹参、周勃、樊噲、呂氏など。光武は127人。中略し、霊帝が24人、献帝が137人。 王子。『漢書』王子侯表を見よ。光武は50人、中略し、霊帝が2人、献帝が2人。 郷侯、都郷侯、亭侯、都亭侯は、もとの県から分割して国をたてる。 朱儁伝で、都亭侯に封じられ、すすんで西ク侯となる。 西羌伝で、馬賢は安亭侯となり、すすんで都郷侯となる。 レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。