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高祖が統一したのち、諸王を慎重に扱った。周室は乱れても長らえ、秦室は乱れないが短かった。周秦を参考に、異姓の王をのぞき、同姓の王にかえ、藩塀とした。即位した翌年(高祖六年)から、政策が始まる。 長沙王と閩オウ王は南方で、漢室に無害だから放置した。ほか6王は同姓にかえた。 高祖六年から末年まで、放置と制度については、変革がない。『史記』諸侯年表の序文にあり、『漢書』諸侯王表の序文もおなじ。 ほかと異なるのは、斉国だ。斉地はもとは漢室の直轄だった。斉王の劉肥は、諸王のなかでもっとも皇帝に近いから、斉王に封じられた。 『史記』斉王世家で、主父偃は天子にいう。「臨菑は長安より大きい。天子の親しい子弟を封じろ」と。高祖は、庶長子の劉肥を封じ、曹参を相とした。漢相の蕭何が死ぬと、曹参がついだ。このように斉国は、長安とともに東西を支える要地だ。西周が魯相を封じたのと同じ。 同姓王には、ひろい封地をあたえず、数郡のみ。しかも国境を胡越に接する。形勢は、もとの異姓王とおなじ。 『漢書』百官表、『続百官志』にあるように、諸王は直接統治した。公卿より以下、百官のかまえは漢室とおなじ。漢室のみ丞相があるが、ほかの御史大夫より以下は、漢室と国王はおなじ。行政の権限は、とてもおもい。『史記』平準書、劉ビ伝によると、財政と経済の権限も、諸王が全てもつ。中央政府が取れない。 諸王が世代をへると、血筋が漢室からはなれ、異姓王とおなじ弊害がでる。『漢書』賈誼伝で、賈誼がいさめる。文帝や景帝の時代のとき、諸王の権限と財政をけずった。封地をけずり、形勢をおさえ、政権をうばい、財政をかぎった。 漢室が秦代のつよい中央集権をついだが、政治情勢がちがうので、封建と合わせねばならなかった。諸王がつよく、漢の郡の長官に功臣がおおく、どちらも中央集権をさまたげた。御史に郡を監察させる制度は、機能しない。漢代のうち、もっとも分権の色彩がつよい。 景帝と文帝のとき、御史や丞相史を、郡国に巡察させるようになった。景帝と武帝のとき、諸侯王の権力をけずり、諸国の行政を、漢室の郡と同じにした。あわせて、監察の政策をつよめ、ついに丞相史の監察を制度化し、刺史の監察制度ができた。山沢塩鉄の利益を、少府がおさえた。地方政府の財源をちぢめた。中央集権がすすんだ。 刺史の制度を始めたとき、もとは詔の6条をたてまつり、督察した。監察と行政は混ざりやすい。刺史は中央の威勢をつかい、郡国の長官をおどし、行政に干渉した。 刺史の権限がつよまり、刺史の地方官化がすすみ、軍国より1級上の地方官となった。牧伯の制である。天下は13州に分けられ、州牧は1州の軍事、民政、刑罰、財政をにぎった。中央集権のための刺史が、かえって地方分権した。権限は、ただ州牧がもち、守相にない。 光武の建武十八年、州牧をやめて刺史とした。奏事は計吏がやった。ただ軍民の諸権をまとめた。ゆえに前漢の旧名にもどした。しかし武帝が初めて設置した刺史より、権限が大きかった。いちど前漢の牧伯をへたから、ただの監察官には戻れない。 刺史の強さから、何が言えるか。中央集権から見ると、刺史は中央の使臣であり、武帝の時代よりも権限がつよい。中央から郡国への統制は、武帝の時代よりキツい。言い換えると、中央集権がつよまった。ぎゃくに地方分権から見ると、刺史は行政の権限をにぎる。高級な地方官である。土地はひろく、権限はおもく、分権のようなもの。 テレビ「CM多すぎて死にました」YouTube「CM多すぎて死にました」ネット「広告多すぎて死にました」 後漢の中期以後、刺史の権限はつよまった。守相は刺史をおそれた。黄巾の乱にて、州牧をもどした。州牧の権力は、前漢末より強大だ。守相を臣下や官僚として、地方分権した。 全祖望は、秦代の郡県を考察した。内史の治める京畿と、始皇二十六年の36郡に、九原、南海、桂林、象郡、閩中をくわえて41郡。県と道の数はわからないが、全祖望が推測した。内史は40県前後ある。 戦国時代に、郡は10余県をまとめた。『漢書』高祖紀、『史記』周勃世家から、北辺8郡は1郡あたり16.5県。8郡は秦代から変更なし。秦漢でだいたい同じと考えられる。北辺は防御の必要性から、とくに郡がおおい。内地は、1郡あたり25県ぐらい。ゆえに秦代は、約1000県であろう。 県と道は、最小の行政単位である。県と道の下に「郷」「亭」「里」「聚」の制度がある。ほぼ漢代と同じだ。後述する。 『漢書』地理志はいう。三輔をのぞくと、全国を80郡+20王国にわけた。郡国が並立した。これは前漢末年の制度だ。つまり武帝以後の制度だ。前漢初、諸侯王国は大きくないが、数郡を統べた。大国は、5、6郡を統べた。『漢書』地理志によると、高帝は秦代の36郡のほかに、26郡をおいた。河内、汝南、江夏、魏郡、常山、渤海、平原、泰山、東莱、豫章など。あらたな26郡の3分の2以上は、諸侯王国の域内にあった。王国は、域内の郡に守尉をおき、漢室のように統治した。 景帝と武帝のとき、諸国をけずった。大国でも、10余県をもつのみ。元帝の初元三年、ついに「諸侯の相を、郡守の下位とする」と決まった。武帝以後、王国は郡をまとめず、じかに県を統べた。ほぼ断言できる。後漢は武帝より以後の制度をふまえた。 テレビ「CM多すぎて死にました」
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ネット「広告多すぎて死にました」 漢代は秦より、辺境に郡を新設した。『漢書』地理志はいう。開拓により、高祖が26、文帝と景帝が各6、武帝が28、昭帝が1、合計で103郡を増やしたと。 秦漢の郡は合理的な基準でおかれた。南方の諸郡、巴郡、蜀郡、漢中、テン中、長沙、豫章、廬江、会稽、南海、閩中は、みな地形の1区画だ。天然の境界による。 選挙カー効果あるとか研究で言っても
実際に聞いた人みんな落選してるような 漢代の郡は、等級の上下があった。畿内の太守は九卿と同列だ。 列郡にも上下があった。戸数による等級である。長安に近い三河、12万戸をこす「大郡」は、太守の秩禄がたかい。上郡や西河は戸数がすくない。 『後漢書』黄香伝で、尚書令から東郡太守にうつるのを望まず、「近郡」を望んだ。尚書令から東郡太守は、昇進でない。後漢初年、近郡の太守から三公をえらんだ。だから黄香は近郡を望んだのだ。 第五倫伝で、わざわざ蜀郡太守になったので、司空になれた。蜀郡は戸数がおおいが、遠いので等級が低い。 『漢書』宣帝紀に「内郡国から、文学の高第な人を選挙せよ」とあり、韋昭が注釈する。「中国が内郡、辺境で夷狄がでるのが外郡」と。北辺を「外郡」というのは、陳亀伝にある。「太守」という地位は同じでも、名誉は同じでない。 郡と国の上下関係は、漢代に変化した。前漢初、王国は4、5郡をあわせ、漢室にならんだ。孔光伝はいう。「宣帝のとき、諸侯王の相は、郡守の上である」と。宣帝のとき、国は郡より上位だった。元帝紀で、国が郡の下になった。 『漢書』は一郡の副官たる、都尉、塩官、鉄官らの治所を「絶大な多数」明記する。だが太守の治所を明記しない。王国の治所も1つ記すだけ。 『漢書』百官表はいう。列侯のはむ県を「国」という。皇太后、皇后、公主がはむ県を「邑」という。蛮夷がいる県を「道」というと。名称はちがうが、行政では「県」にまとめて扱う。 1万戸を境界にして、長官の名称と秩禄がちがう。呉郡、豫章、巴郡、蜀郡など、長江流域では土地が荒れ、蛮族が弱く、職務がヒマなので、戸数が多くても「小県の制」が適用された。北辺は、羌胡が強く、忙しいので、戸数が少なくても「大県の制」がとられた。「県令」「県長」の区別は、戸数だけで決まらない。職務の大変さでも決まる。 三国の呉蜀が統治したのは、県が格下でヒマな地域だけ。 県令は黄蓋が平定した尋陽県の県令と、朱然がなった山陰県の県令くらいしか出てきません。 功臣。張耳と陳余をつり、韓信、曹参、周勃、樊噲、呂氏など。光武は127人。中略し、霊帝が24人、献帝が137人。 王子。『漢書』王子侯表を見よ。光武は50人、中略し、霊帝が2人、献帝が2人。 郷侯、都郷侯、亭侯、都亭侯は、もとの県から分割して国をたてる。 朱儁伝で、都亭侯に封じられ、すすんで西ク侯となる。 西羌伝で、馬賢は安亭侯となり、すすんで都郷侯となる。 このスレッドは1000を超えました。
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