旧形国電総合スレッド008
鉄道院~JRの「旧性能電車」全般について思い出でも知識でも、老いも若きも語り合いましょう。
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前スレ
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/jnr/1256973466/【思い出スレ】旧形国電総合スレッド007【統合】 武蔵岩井のクモハ40単行を知っている世代
東京競馬場前のクモハ40単行を知っている世代
青梅五日市線の立川よりの増結クモハ40を知っている世代
小野田線本山支線のクモハ40単行を知っている世代
飯田線のクモハ61の現役を知っている世代
これ以降は職用でしたかね?それを知っている世代の方が多数派でしょう
本日RP青梅五日市線特集を見て記載しました 五日市線の武蔵岩井支線の電車運行は、
おいらが小学校にあがる一年前に終わっちゃったんだな・・・
だからギリ知ることができなかったのが、残念っちゃ残念ではある。
多摩地域に生まれ育った者としては。
(ちなみに岩井支線の旅客営業廃止と、青梅線の氷川駅が奥多摩駅に改称したのは同年同日だったらしい)
だけどまぁ、青梅線で何度もクモハ40には乗ったからね、それで十分だ・・・
あのころは今ほど情報なかったから、クモハ40が職用で使われているってことさえ、
あまり知られてはいなかったんじゃないかなぁ
おいらも長じて高校生になってはじめて、豊田電車区と駅の間で職員輸送で動いてるってのを
知ったくらいだったからね ガキの頃の青梅線の氷川行の乗車記憶が、ありますね
青梅で一番後ろが切り離し、クモハ40切り離しでしょう
青梅より先のため、4両目に乗車していたようです 飯田線でクモハ52
一両ごとに細かなスタイルの違いがありそれを探す楽しみ
正面窓のワイパーの根元部分が広くなったぶんガラス窓が小さくなった変わり種の追っ掛けだった <<前スレ999
新京阪デイが阪急京都線で生涯第一線だったみたいに活躍したかもしれないし
本線高野線とも異なる、「阪和戦後型」が発展したかもしれない クモハ20、クハ25のように、標準車並みの番号が付与
その通りに感じます >>12
別の意味でも阪和は別格
223系、225系で統一された現在の阪和線は雑多な電車の巣窟時代からすると隔世の感がある。 若干スレ違いだが、70系戦災客車には被災した戦前型旧国が多数編入されていて面白い。
遍歴も興味深いのが多くて、例えば昭和9年製のクハ55114(元クロハ59021)は昭和20年7月7日に西明石で空襲被災した後、
オハ7113→スユニ7253→スエ7196と変遷したが、戦後は鹿児島と釧路で撮影された画像が残っているという誠に数奇な運命。 客車改造気動車はあるが、客車改造電車ってあったっけ?戦前製の旧国にあったかな?
電車改造客車なら色々あるが。 オハ32を台枠だけ使った琴電のクハ960?とか
戦前に客車から改造した阪急の支線用車両とか、
国鉄に客車から電車になったのが居るのかは判らない >>12
阪和線の電車って、買収されたとき、当時の省線電車より性能よかったんじゃやなかったかな
南海とスピード競争してたらしいから、そりゃそうだなって気はする。
それなりに両数もまとまってて、車齢も若い、だから1グループを形成できたんだろうね。 おれ、元青梅線沿線民なんだけどもさ、
ED16つながりで、なんか阪和線って親しみを感じてしまう・・・ DC→ECは1937年(昭和12年)製造の流線形気動車キハ43000の中間車キサハ43500は1950年にサハに改造されて飯田線
で使用された、とか相鉄の前身の神中鉄道の気動車が日立電鉄や神戸電鉄の電車になったとかは聞いたことがありますね。
EC→DCも私鉄ではいくつか事例があり、キハ08の様にPC→DCもありますが、PC→ECになった話は聞いたことはない
ですね。。。 >>20
近鉄内部線や北勢線で機関車+客車だったものを固定化して
モ-サ(-サ)-クとしたのが今も走っている ただし先頭車だけ後で新車のモ270や260に交換された >>20
キサハ43500はサハ6400になり、さらに再度気動車に戻りキサハ04301になった。
PCのEC化は、確かにほとんど例が無いように思うが、計画されていたものはあった。
例えば相模鉄道ホ1とか、オハ11は電車化前提だった。
国鉄で計画案としてあったのは、オハ35のサハ153化。仮に完成していたら、ものすごいゲテモノに >>23
>オハ35のサハ153
それ、昔のピク(153系特集?)で読んだ覚えがある
コスト削減のために最低限の改造だけ施してほぼ客車のまま投入するつもりだったとか
もし実現していたらさすがに車体は新造していそう >>24
同じソースだと思う
車体を新製するなら、サハは比較的安いので台車ごと新製したほうがいいだろうね。
なので車体は基本的にそのままではと思うけど、電車列車は比較的高速だから、
おそらくは自動ドアにはしただろう。台枠などの構造から、デッキに外吊りドアにするしかなかった?
>>25
たぶんアレを広窓にして、キクハ45みたいなドアが付いて湘南色とw 古新聞を片付けてて、こないだの9/1あたりの新聞で、関東大震災に関する記事があって
(ことしは関東大震災から100年だからってんで、記事多めだった)
その中に、無蓋貨車にのって避難する東京市民ていう写真があって
その写真には当時まだデハっていってたころの院電がうつってた。
ダブルルーフの、デハいくつなのかわからんけど、それが何両もつながってる様子、
あまりみたことなかったので新鮮だった 戦前型にあったウインドシル部の横幕はもう1本も残ってないのかな・・・?
大宮、名古屋、京都の博物館にも現物も記述も無い。。。
現物見つかればオークションでは相当な価格になるだろうな。。。 戦前型にあったウインドシル部の横幕はもう1本も残ってないのかな・・・?
大宮、名古屋、京都の博物館にも現物も記述も無い。。。
現物見つかればオークションでは相当な価格になるだろうな。。。 旧国の客ドアは103系の様にプシュ音があってから閉まるのではなく、音もなくいきなり閉まり始めて閉まる直前に加速してドン
すごい勢いで閉まる。
挟まったら痛そうだった。
半自動ドアは重くて容易に開けられなかった。。。 西武401系と701系
近江(前者のみ)と山岐で走っている。 戦前型旧国は貫通ドアも錆の粉が抵抗になって開けるの大変だった 半自動ドアの糞重さは経験した者でないと語れない
開けるのに四苦八苦してると後ろに人が居て恥ずかしかった >>0035
あのころは今みたいにドア横に開閉のボタンなんか無くて人力開閉でしたからね。
そもそも半自動ドアそのものに慣れていなくて、駅に着いてドアが開くのを待っていても開かなくて変だな、と思ったら
後ろからおっさんが俺を突き飛ばすようにしてドアを開けて降りて行ったっけ。。。
ヲタのくせに適切に動けなくて恥ずかしかったり、申し訳なかったり。。。 仙石線の72系は片扉はそうでもなかったけど、アコ改、あれはひどかった。取っ手も凹んでるタイプで力が入らないし
子供が開けるのは一苦労
十何年か経ってそれが川越線にきたんだけど、信じられないくらいスムーズになってた >>37
それでもあのごつい取っ手で開けるのはキハ35系時代より退化した部分だったな みなさん分かりますよぉ~
俺の場合は後ろで女子高生2人組に小声で「ダサッ」と言われて
どうにか開けるのに成功してから改札までダッシュで逃げたよ
本当に恥ずかしかった 確かに客車の手動ドア開けるのは楽でした。
が、閉めるのは、あの床にあったストッパー次第で固くて閉じ難い、閉めようとしても動かすのに力がいるやつもありましたね。。。 電車の自動ドアが普及するまではすべて手動だったわけだが
昔の人がドアの開け閉めに苦労した話を聞かないということは
昔の電車のドアは軽かったということでしょうか 明治大正はオープンデッキ
つまりドアがない
冬は寒かっただろうな 路面電車はともかく郊外電車でオープンデッキなんかあったのか >>49
甲武鉄道や山手線の電車か当時の車両だとオープンデッキだが前面窓はついてるな 鉄ピクNo.721、2002年9月号「特集 戦前製旧型国電17m鋼製車」のP26に沢柳御大が1957年に松本駅で撮影のモハ12000が載っているが
、この車両側面ウィンド上部に蓋をしたような箇所が片側で4か所も見受けられる。
一か所は戦前に使われていた横幕を塞いだ後として、あと3か所が判らない。
仮に2か所は「山手」の表示板が付いたままでそれを塗りつぶしたもの?(12000が山手線に居たかどうかは不明)としても
当時の「山手」の表示板のサイズより明らかに大きい。
どなたかこの謎解明してください。。。。 20年前くらいに質問してたら回答ついたかもね
趣味サイトとか見てても案外鬼籍に入った人多い
そしてそれはどんどん続いてる。仕方ないけど
機関士経験者で写真載せてた人とか皆サイト消えたし 中央のドアの両脇のは12001にも同じ物が残ってるね
パンタ寄りの方が戦前の幕の跡で、もう片方は札差しみたいになってたとモデル8の資料集に書いてあった
ドア間の中央にある残り2つの方はピクのすぐ下に載ってる12017にも同じ寸法のものがあるよね
P25のモハ11210の写真だと「山手」の表示板が隣に並んでるからそれじゃないのは確か
P14の38014についてるのも同じっぽいね
他にも同じ物がついてる写真は結構あるけどサボとかを差して使ってるのは1枚もないんだよなこれ
完全に憶測になるけど実は通風器とかかも? >>56
55です。実は俺も調べてて、当該車両ではないのだが
「1937年、34016の中央ドア幕部左右にヨロイ通風器を設置する改造・・」
ということだから、俺も通風器の痕跡かな?とは思った 参考になるかと思ってリニア館のクモハ12041(1927年(昭和2年)製造の元モハ30131)の写真を見てみたが、同車の中央ドア
両脇は綺麗に修正され何もなく、痕跡すら分からなかった。。。
>>56-57
なるほど通風器ですか、あり得ますね。。。
30系ってオリジナルはガーランドベンチでしたっけ・・・?
それの換気能力が弱かった、とか・・・? 俺は旧型国電の末期を知る年代だが、当時の国鉄は運転士室の遮光幕を終日閉め切っている時代で、ただでさえ暗い車内が余計に暗く感じたものだ。
旧型国電の最後の貴重な日々が国鉄、正確には国労側の都合で俺的には嫌な思い出になっている。 >>59
同世代の旧型電車でも京急や東急はガラス面積の広い乗務員室窓をしかも幕開けで
全然雰囲気が違ったね >>59
運転士は動労じゃないか?
国労とは別の組合員だよ、歴史認識を改めないと そういうことじゃなくて、幕が閉まっていたのが嫌だったのさ。
正確じゃないにせよ つまりただ想像で語って嫌って言ってるだけってことだな 運転士が全員動労だったわけじゃねぇだろ
決めつけてどうする >>63
それ、おまいさん自身じゃね?
国鉄時代をリアルで知ってる奴(俺もだが)だったら
労使方面のことは皆ほぼ知ってるよ? 電車の細部みたいに、例えば国労の人はバッジを見れば識別できる。他労組も同様、ワッペン
なども。また、○○電車区は××労が大半を占めている、など傾向もある。 まああの国鉄の遮光幕終日使用の時代にいい思い出持ってる奴はいないよ。
山手線では小学生の頃はかぶりつきやってたのが中学の頃はできなかった。
大学の後半になってまた少し見れるようになったが。高校の頃が旧型国電の最後の頃だったな。 背後から自分の仕事を見られるのは良い感じがしまい
そういえば運転士の髪型って、後伸ばし多かったけど、今少ないみたい 基本的に最後尾に乗ればそれなりに楽しめた
101系は窓も低くてガキに優しかった 遮光幕問題はいろいろあったからなぁ。
南武線で幕の間から見たのは、週刊誌を運転台のコンソールに載せて読ながら、
足はあぐらかいて座っている運転士の姿。あれじゃ警笛のペダルも踏めないな。
一方支線のクモハ11形では、遮光幕が開いていて前が見えた。 旧型国電時代の仙石線で添乗の運転士がパイプ椅子持ち込んで運転室内で喫煙。外から覗き込んだら睨み返してきた。
車掌側も遮光幕閉めてたよ。すごい時代だったなと思う。 国電の運転中として、運転席でパン食べている画像を見たことがある。(どなたか探してみませんか。) でも、運転席直後で かぶりつきをしていたら、中に招き入れられて運転士と話をしながら楽しませてもらったことも何度かある。昭和の御代の40年代。もちろん旧型国電。
歳がバレますが。 電車はないけど、DD51の運転台やEF60の運転台は入れて貰ったな
60の時は空ノッチも入れさせてくれた。末期でも伊那松島では庫内にいた合の子を見せてって言ったら
いれてくれたし
確かに集団での労組は批判の対象だったし、個人でも態度の悪い職員もいたけど、そればかりではないからな
子供だったからかも知れんが嫌な思いしたことないな
カーテン閉められたくらいで嫌な思い出しかないとか、いい思い出がないのが憐れ 機関区に撮影しに行ったら、帰りに駅まで機関車に乗せてってもらったとか、撮影するのに位置をずらしてくれたなんて話も聞きます。
機関区で撮影するのも、いきなり行ってノートに住所氏名を書いて、「気ィつけな!」で終わり。
いずれも蒸気の時代。 >>77
あんたポジティヴでいいな。いい人生だったんだろうな。 >>72
72系最終版とモハ90(101系初期)とはメカ的な部分はさておき
室内のつくりが似てるからな >>80
国鉄がストで荒れていた時でも機関区を訪れたら親切にしてもらったという思い出話は結構あるようだ