懐かしの広域運用
>>99に同意
近鉄の奥深さは距離感よりも様々な出自の車が一堂に会しているカオスぶりなところ
養老線では大鉄・伊勢電・吉野・養老・三交からの引継車が組成したり交換したりしていた時代があったようだ >>93 >>94
播州赤穂で瀬戸内色を見掛けた事があるし、
岡山→和気で2ドアのセキN編成に乗った
記憶があるわ。
わいも辛うじて国鉄を知ってる世代やけど、
あの頃はあまり運用に関心はなかった。
運用も凄かったと思うが転属も凄かったような。
地元、阪和線で短期間だけ走った
「485系くろしお」には盛アオの表記が残ってた。 大分の415系も、大分から小倉の日豊本線区間だけでなく、門司港、下関、博多、さらに先の熊本や、佐賀や佐世保まで広範囲の運用をしていたな 根室本線が来春で分断決定
かつての所要時間日本一はとうとう正式に再開不能になってしまった 全盛期の373系
今は飯田線と身延線と送り込みだけになってしまった >>105
災害後放置されていたから、多分そのまま廃止だろうとは思っていたけど、
日高本線同様になってしまったね。 >>103
本州側では小郡とか宇部新川までの運用もあったな 根室本線は当初は復旧させると明言してた
東鹿越まで復旧させてから急に態度が変わった 広島(しおじ)新大阪/大阪(雷鳥)富山(夜行臨時はくたか)上野(定期はくたか)金沢 東海道線の荷物列車に釧クシのマニが連結しているのを見たことがある。 新前橋(現:ぐんま)の211系
「湘南新宿ライン」発足当初は静岡寄りは小田原・逗子から、北関東寄りは
黒磯や現在も運用中の横川・桐生方面までかなりの広範囲で営業運用あった。
今思えば、これは現在のE231/E233系の沼津・伊東〜北関東スルー運転の
前身だよな。 九州が本拠の車両が何の因果か東北を走っていたんだねえ >>117
>>4の話だね。
当時の国鉄は労使紛争が酷かったから、平和だった早岐区に14系を配置した
ってのが真相だったはずだ >>113
上野駅で大ムコ野車両はレアだった。
一度行先表示器が故障してしまったようで「しおじ下関」の表示を見たのが懐かしく思い出される。 >>119
そりゃあなた、現場で車両を動かしてるのは組合員ですから 14系新造の頃だと、順法闘争やらスト権ストなど労使関係最悪の時代だしな
組合サマサマ く うき読めない
み んなのお荷物
あ んな組合
い ってよし 九州の組合、衰退の一途の運炭路線も抱えていたからか
特に激しかったみたいですね(松田さんの私の履歴書に載っていました)
そんな中でも門ハイは平和だったのですね 50.3頃気動車急行
新潟・・・新潟、秋田、盛岡、小牛田、水戸、長野
大阪・・・宮原 福知山 豊岡 米子 浜田 長野 美濃太田
京都・・・向日町 宮原 福知山 豊岡? 鳥取 米子 敦賀 長野 美濃太田 名古屋
(天鉄の車も入っていたかもしれん)
間違い、抜け落ちがあったらすまん >>128
大阪駅乗り入れDC急行に岡山、鳥取を追加
50.3当時、車体の汚さでは1,2位を競っていたのが岡オカと米トリの両区 新潟キハ58は急行越後で大阪に乗り入れていたな
1978年10月改正で特急格上げ
お役御免となった車両は普通列車に転用された >>130
それ長野車
急行越後、S46に昼行「ちくま」が「しなの」に格上げされる以前は「多分」新潟持ちだったが、
それ以降は長野+付属2両は宮原
長野(夜行ちくま)大阪(越後・ゆのくに)新潟・能登半島(越後・ゆのくに)大阪(夜行ちくま)長野
の順で運用
S53(1978).10、越後が特急格上げでちくまは客車化 広域運用の最大の欠点は災害等でダイヤが乱れたときに
運用調整が困難になること
新潟に乗り入れた急行あさひも2往復中のうちの1つは盛岡持ちということが
趣味誌にあった
車両キロ調整という理由もあるかもしれない
1980年代以降は取りやめることが多くなったようだ 災害はいつ起きるか分からないからね
止めて正解だね >>132
盛岡持ちのあさひは盛岡から三陸海岸沿いを回って仙台までいっていたからなあ
(当時の名古屋局で運用表を書き写させてもらったので覚えている)
仙台の滞在時間も大してなかったと思う
米坂線など、冬期遅延しやすそうな線区を通るのに、結構綱渡りしているなと感心した
名古屋局に新潟の運用表があったのは、赤倉が新潟から来ていたから参考資料?的にあったとのこと
当時書き写したものはどこかにあると思うが・・・