101系と103系の違いを回想しろ
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中央線(特に快速)には101系の初期車が結構多かったので、103系と比べて見た目がボロかったのが印象に残っている。
103系は新製投入されたのが多かったし、転入組も冷房改造時に更新してたので結構きれいだった。
今から思えば、もっと101系を堪能すべきだったと後悔しているが、子供心には103系の方が当時は輝いていた。 当時、101系のモーター音は静かなのに、103系のモーター音は煩いのは、なぜなのか理解できなかった。 小学2年生だったとき、親からお小遣いもらって初めての乗り鉄にでかけた
北朝霞〜南浦和〜大宮〜春日部〜南越谷〜北朝霞のルートで
行きの武蔵野線には、当時新車で入りたての103系がやってきた。
新車に乗れるなんてラッキーと思いながら上記ルートで乗り継ぎ、
南越谷でやってきた車両もまた新車の103系。
行きに乗った列車が西船橋まで往復して戻ってきただけなんだが、幼いオレは
そんなこと気付かず新車にまた乗れたと喜んだ。
今思えば101-1000をもっと堪能しておくべきだったと思うが、小遣い乏しい
小学生時代のうちに101-1000はほぼ撤退していたからなぁ。 >>2 70年代末の中央線、
101系:ほとんど非冷房、試験的に冷房改造したのが1編成位あったような。103系:全て冷房
あと網棚の網が布か金属か、方向幕があるかないか。 >>6
小学生なら新し物好きで当然だよ。
「僕は下駄電が良いです...」という、渋好みの児童はいないと思う(笑)
大宮〜春日部〜新越谷のルートでは、東武の下駄電・72系?7200系?が走ってたでしょ!!! >>7
中央快速の103系はサハが750番代という編成が多かったので車内に入るとサハだけ異様にボロいというのがあるね
特に1980年以降入った非ATC高運編成はそれが顕著だったと思う >>8
野田線初乗車だったが、3000系と3070(3050の見間違いか?)が混結していて
形式違うのにつないで平気なの?って不思議に思った。
伊勢崎線の記憶が全くないのは、来た電車が東上線と同じ8000系かカステラだったんだろう。 武蔵野線が開業した当初の鉄道ファン誌の投書欄に、こんな投書があった。
『駅間距離の長い武蔵野線で、ギア比の低い101系では速度が落ちやすく、
力行時間が長くなるため電気を食い過ぎてしまう。
よって、横須賀線から113系を転用すべきだ...』というものだった。
投書の主、現在は80歳前後の御仁だと推察しますが...
後年103系になったことをどう考えておられるのか、聞いてみたいものです(笑) 103系には101系やモハ72からの改造車があるけど、101系には他系列からの改造車はない。 えっ、「前面の窓の大きさが違う」が最初に出ると思ってたのに… >>16
行先表示器の大きさが違うのに幕を流用したため両脇に隙間が出来ていた、
101-1000から103に置き換えが始まったときの武蔵野線
103のほうが大きかったってことだよな 103系には海外に渡った仲間がいる。101系は秩父鉄道に行った仲間がいる。 子供の頃はオレンジと黄色が101系、緑と水色が103系だと思ってた 101系は座席がガタガタで空いてる車内でも30分乗るのは地獄の苦痛だった。
背もたれがベッタンコに凹み、上端の横フレームが突き出てるため、
パイプ椅子に腰かけてるようだった。
それから見れば103系の座席は、初期型であってもまだよかった。
後期型は逆に座り心地が良すぎて、
ふんぞり返って通路に足を突き出すバカが多発した。 101系はドアの閉まり方がスローにならずバーンと閉まる 貫通幌が101系だけ旧型国電と同じだった
車体にV字型の吊りフックがある
パンタも初期型はPS13だったりとか旧型国電の名残があちこちにあった >>21
ガラガラ...バターン♪
という、ギロチン扉は迫力満点だった...
あれ見たら、絶対に挟まれたくない、とビビッた客は大勢いたはず。 103系は高速域で床下からブオーという轟音が聴こえたな
モーターか抵抗器の冷却用ブロアか? >>25
抵抗器の発熱を空冷するブロワーだった。
そのブロワー上の扉から乗り降りする女のスカートが風圧で勢いよく捲れて、
映画の"マリリンモンロー状態"になる事がよくあった!!!
一度被害に逢った女は、その扉を利用しなくなったものだ。 台車の揺れ心地は101系の方が柔らかくて好きだった ブロワーがMGと繋がってたとか異端な構造だったな
冗長性に難ありで当然ブロワーが故障すると車内が停電する
その後の形式で分離されたが冷房化後もそのままだったみたい(冷房用と照明用が別々である) 側面方向幕は103系後期の車両だけではなかったかなぁ?
500番台とか1000番台...????
初期の一般形にはなかったと記憶してる。 103系は、冷改時に側面方向幕を付けている。
JR化後の簡易冷房車では取り付けていない車両があったけど。 >>33
103系でも基本形は1本でした。
改造により2本や3本が出来た...。
高窓車は当初から2本。
2本は「運転席窓」と「中央窓」です。
「右側窓」は手動式だったはず? >>19
首都圏に限って言えば、70年代初頭まではそれで正しかった。
崩れだしたのは、京浜東北線に助っ人101系が入ってから。
そのうちオレンジと黄色の103系も混ざってきて、70年代中後期が一番ごちゃごちゃしてて楽しかったな。 車両不足の国鉄時代はなんでもありの混成が、そこかしこでみられました。
京浜東北に103系が走り始めた当時は、「7連」で短かったのを覚えてる。
72系はみな10連だったのに....。 >>19
それの延長で、丸と縦が103、横が101みたいな覚え方した事あったな >>38
尾灯内ばめは初期の101系だけで、36年頃以降は外ばめ式
更に後年内ばめから外ばめに改造されたものも居る 全面窓中央に
「冷房車」の札が有るのが101系
あ
山手の103系にも有ったかな? 山手線にたった一本しかなかった冷房車に乗り遅れた時の悔しさは、
忘れることが出来ない。
あれは恵比寿駅だった....orz モーター音の違いと足回りの硬さが一番の違いだと感じた。
テールライトがどうのこうのとは、
リアルに103/101系を知ってる者の回答ではないような気がする。 総武線の黄色の電車に冷房車が無いのは101系だから。
黄色の電車に103系を入れてほしい。そうすれば冷房車がある。
と小学生の頃は思ってた。 >>10
3000と3050はその種車時代(32と54)から併結可能
一方3070(←5000←53/58)とは元々制動系に互換性がないので不可
ちなみに53時代は57と併結可能だった
80年代当時、野田線の主力は3000で不足分を3050で補っていた状態
検査の都合上、暫定的に8000や78など20m車が配置されてたこともあった
3070は異端車だったので栃木ローカルに専念
七光台:3000、3050(一部)
館林:3050
新栃木:3070 >>43
101系冷房改造車が当初中央快速線限定だったのは、京王への対抗もあったんだろうな。
東京圏の国鉄と競合する路線で当時通勤冷房車を入れていたのが京王だけだったし。
70年代後期になって中央総武各停にもごく一部だが101系の追加冷房改造が出たけど。 >>45
国鉄を取材した当時の新聞報道では、京王線への対抗措置だ...と明言してました。 当時の国鉄でも並走する私鉄へのライバル心はあった。
顕著なのは京急だった。
鶴見付近で東海道・横須賀線と並走することがあれば、
「追い抜け!!!」と運転士に指導していたのは、事実。
中央快速の冷房投入も京王への対抗心だったことは事実。 101系の方が関東では最近まで現役だった
移籍先でだが 101系と103系の違い
ドアが閉まるとき
プシュッって言うのが103系 金枠ドアの車両があるのが103系
Hゴムドアの車両しかないのが101系 地下鉄対応として、1000番台・1500番台という派生形式があったのが103系
101系にはなかった....はずだが、武蔵野線はどうだったか?????? 101系といえば王寺駅で冠水し、廃車間近の関東組が急遽派遣されたこと。
103系も広域転配していたけどあれだけ短期に大量に長距離移動はなかったんじゃないかな。 そういえば、何で関西の103は先頭車だけ初期車が多かったのか
関西の中間車では初期車は少ない >>54
首都圏ATC化で発生した大量の低窓クハ103だわな 昭和55年頃の武蔵野線は野趣寂寞と言っても
いい、本当にここは関東だろうか?どんな電車
が来るのかと言う独特の寂しい雰囲気があった。そこに都会の電車の101系などが来るんだから不思議な違和感があった。と言っても、
新製間もないピカピカの山手線ATC高運転台
103系と違ってドア内側とか手摺の付け根部分が塗装だったり、高速走行中ドアがガンガン言ったり、古臭くて垢抜けない都落ち風情だった。でも実は駅間の長い武蔵野線では
モーターがヒュンヒュンとスムーズに音立てて
快走していて、常磐線快速の103の爆音とは一線画す考があった。 >>52
長いトンネルさえなければ72系が入っていたであろう路線だ。
結局仙石線に入ったアコモ車を、武蔵野線の電車として入れるって考えもあったそうな。
西国分寺〜新秋津のトンネル対策として、結局は101系をA基準化改造した
101-1000が武蔵野線に入った。101でも初期車を選んで改造した。
その後103の新製車が1編成入り、>>56みたいな転属車で103系化され
8連化時に205の新製編成が入ったが、その205も全部廃車になったので
今の武蔵野線は中古率100%。武蔵野線開業時と同じだよ・・・ >>57
101-1000があったな!!
その頃の72系は "景品東北線" くらいじゃなかったかな? 東京の主要路線の72系は、
複々線化時に快速を103系8両で置き換えて大失敗した常磐線快速に
慌てて再投入された編成が最後かと。 常磐線の快速は103系より101系の方が向いてたんじゃないかという気もする。 国鉄主要路線の最後は国鉄解体の3年前まで
生き残ってた我が大東武7300系7800系では
ないか‼
とか言ったりして 国鉄主要路線の最後の72系は国鉄解体の
3年前まで生き残ってた我が大東武7300系
7800系ではないか
とか言ったりして 東武の「釣り掛け板張り電車」には萌えるものがあった。
北千住〜竹の塚間がまだ複々線化されてなかった頃の話だが...。
5050系には裏切られたが、釣り掛け好きには密かな悦楽感があった。
101系の車体に釣り掛け台車を履いた車両ってあったよな!?!?
何処だったか忘れたけど....(/ω\)
身延線の113系ではない!! >>64
鶴見線になかった?
車体は101系で足回りは旧型国電 >>65
ごめん!!
記憶にないです(陳謝)
101系が走ってたのは知ってますが...
レス感謝です、ありがとう♪
( ^^) _旦~~新茶どぞ >>52 57 64
72系の車体載せ替えは1972年のモハ72970。後に鶴見線に流れ着いた車
武蔵野線の開業は1973年4月。数を揃えるには工程的に無理があったのかも。
しかし現実には中央快速に103系冷房車を入れるためだったと思われ。
その年の台風で転用するはずだった72系が大量に水没・廃車となり、急遽改造されたのが
仙石線のモハ72971〜。その後のことは皆さんご存知の通り。 101系にはパンタの部分だけ低屋根の車両(800番台)があるが103系にはない。
中央東線高尾以西の狭小トンネルを通過できるようにしたわけだが、これで富士急乗り入れを行っている。
103系で狭小トンネル対応車造らなかったのは、101系置換えの201系で対応すればよいと考えていたからか? それと103は定期運転の地方私鉄乗り入れがない。101にしても富士急乗り入れだけだが。 高尾以遠はムコ限定で、800はムコ配置
その101を201で置き換えた訳だから
103系が絡む余地がない ニワトリが先か卵が先か
後継を103系にしたいけど技術的な事情が
あって低屋根車作らんかったか、そもそも
もふ201の世代になってて最初から103系は
後継候補に上がらんかったか
秋茄子はムコに食わすな。ちげぇだろ嫁に
食わすなだろ。 >>71 201で狭小トンネルに対応できるパンタを装備したのが84年頃というから、技術的な事情なんでは。201の方が103に比べ屋根が平べったくなってるし、そこに改良型パンタを付けることによって狭小トンネルに対応できた。
103で201並みに屋根を平べったくできなかったのは、冷房装置やその配管を付けるために屋根内のスペースを縮小するのが難しかったからか? >>72 訂正。201が103に比べ屋根の高さが小さいわけではなく、屋根のカーブが緩くなっているので平べったくみえるようだな。屋根内のスペースの違いではなく、折り畳み高さが低いパンタが80年代に実用化できたのが原因か? 103系にPS23つけた方が高尾以西の山岳区間で出力的にも熱容量的にも有利だったのに 中央線(快速)はどういうわけなのか103系電車の方が先に置き換えられ101系電車の方が後まで残ってたな
201系電車の需給バランスか理由は >>60氏の言わっしゃるように停車駅間の
長いとこでぶっ飛ばすような使い方では
101系の方が向いていた、からかなあ?
常磐線は快速も緩行も103では失敗だった
かと。緩行は地上区間はよかばってんが、
千代田線区間の、特に駅間の長い北千住
町屋西日暮里間は爆走中爆音がトンネルの
壁に反射して怖いくらいだった。ある雪の日
学校が積雪を懸念して午前で休校になり、
雪の中帰宅中、西日暮里町屋間で103系
1000番台のいつもの爆走中ついに爆音が
爆発して床下からドカーンと火花が出た。
後ろにいたおばちゃんがひぃぃぃぃと悲鳴
あげたと思ったら、またドカーンと言って、
おばちゃんまた悲鳴あげると同時にオレの
背中のシャツを鷲掴みに。。思わず振り向いたら小さい声でおばちゃん「ごめんなさい。。」 おばちゃんも女やのう、可愛いもんだ。
そのあと電車は町屋で運転打ち切り。
オレは都電に乗換えて日比谷線三ノ輪経由で
帰宅した。 101系はオールMじゃ無いと
高速域も103系に及ばないよ
>>76
同じ6M4Tの場合
高速域の加速は103の方が良いから >>75
中央快速の103系は特快の冷房化の為に必要最小限しか入らなかった感じがする モーターの出力を比較すると
101系8M2T≒103系6M4T
らしい
中央快速への101系投入に際して、当初国鉄では「10M」という構想を立てたが
出力過多と電気食いすぎ、という理由から非力を承知の6M4Tにした...
中央快速線であれば勾配も少ないからという理由であった 中央線の冷房化
ウラ→ミツへ ケトのATC化の為に103系転属が有り
201系までの繋ぎだったが
一両たりとも、塗り替えないと入れなかった
あの頃、ケトにも、中間にウグイス色が有ったりしてた時代
赤羽線に至っては、カナリアとウグイス、どっちが本当なの?
一つだけ、特快運用が有ったが
たしか・・・59Aだったかな 101系にMT54をつけることはできなかったのかな 豊田に103系高運の非ATC新車が入って、M車に乗って走り出した途端
何だこの変な音はと思った
後年はこの音がデフォになったけど >>81
貧乏JR西の救世主と言える、半世紀使用も可能な頑丈馬鹿設計の103に対して、20年程度の使用しか想定していない101だったからな 101の
甲府行き
木更津行き
カナリア色に快速看板
ガラベン付き
前樋付き
Ps13付き
昔の写真見ると、偉くバラエティーに飛んだ車両だった事
実車見た事ないが
辛うじてks4b付きの車両に乗った事は有る >>85
関西線にあったやつだな。
あれは元101系のクハを改造して103系に編入したやつ。 関東生まれ育ちの俺が2001年に大阪環状線に
乗ったら103系初期型で、手摺支持棒?とかが
塗装の古臭い感じで、かつての武蔵野線101系の都落ち感思い出した。ってか101系はおろか、103系でさえ随分記憶に遠くて都市中心部
に103が走っているのが不思議なタイムスリップ感があった。 東京育ちが大阪旅行すれば「外国感満載」だよ♪
90年代の大阪駅なんか、当時の韓国・ソウル駅に外観や構内の雰囲気もうり二つだった。
改札係員には東京弁(標準語)が通じず、ハングル(韓国語)で話しかけなきゃダメだった(笑) 1970年代に仙石線で旅行すれば「外国感満載」だよ♪
70年代後半の国鉄仙石線なんか、103系の車体に吊り掛けモーターのとんでもない電車爆走したから。
でそんなインチキばったもんニセ103系電車なのに地元の女の子は皆新車と信じて疑わなかったから(笑) https://xxup.org/reY1J.mp3
モハ103
常磐線快速程じゃないけど、結構飛ばす飛ばす サハ100のパンタ台付近のバリエーションの多さ
パンタ台、踏み板共にあり、片方のみ、両方なし、
パンタ台の一部だけ残存、さらには両方なしの車両もグロベン追加、グロベンなし、グロベンの位置がズレている車両などもあった
中にはパンタ台にグロベンというトンデモ車両もあった ところで301系
103系と同じはずなのに、なんであれだけ走行音違うんだ、空気バネって事でか?
当然、抵抗器の音は無いけど >>95
103-1200とは同じ走行音になると思うんだが。
それとも違うというのなら、アルミ車体で少し軽い分だけ
モーターの負荷が軽いのが走行音に影響したと言えそう >>96
103-1000/1200は普通の103と同じ
301はクーラー積んで重くなっても音変わらなかったから、何かパーツが違うのかも 1980年にわが国鉄大東武鉄道に旅行すれば
すべからく外国感満載でござる。大国鉄181
系系1700系DRCけごんきぬ、157系系1800系
りょうもう、165系系6000系快速急行だいや、
103系系8000系、63系直系7300形、63系傍系
7800系、そしてなんちゃって山手線103系な
72系系5000系と多士済済でござる。 >>95
301系。痴情区間では静かだったぞ。
トンネル内だから煩かっただけ。
中野〜三鷹間で乗ったことがあったが、103系中央快速より静かだった。
仮に103系一般型が高鉄区間を走っていたら騒音で苦情が出ていたかもしれない。
101〜103系時代の「四谷トンネル」はひどかった。
誤字訂正
×痴情区間
〇地上区間 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています