東京・九州ブルートレイン★136レ
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>>278
おお、詳しくありがとう!
一度は食べたかったが、
後半に書かれているような代物だけ味わったとすると、思い出には残り辛かったかも知れないなぁ… 東京・九州ブルトレが14系や25形に置き換わって25形編成の食堂車が付属編成になった以降から暫くの間は
片道で一番長い時間食堂車を営業していた列車は『さくら』って事になるのかな 「(博多)あさかぜ」24系25形化から「トワイライトエクスプレス」運転開始までの間なら、
食堂車併結編成運転距離1位は14系14形「さくら」
(省略)→はやぶさ.ナシ20→富士.ナシ20〜オシ24→さくら.オシ14→トワイライトエクスプレス.スシ24→北斗星.スシ24・カシオペア.マシE26→(全廃) 九州ブルトレでふと妄想したのが、
90年代前半辺りに個室主体にしてたらどうだったか?
ということ。
勿論その時点で定期は2列車併結の1本程度に集約せざるを得ないが。
編成例で言えば、
東日本24系博多あさかぜベース
(カルテットはBコンパートとして使用)
+
九州14系(24系から改造含む)
(ソロ・シングルDX・ロビー、カルテットは同上)
※当時は九州の24系⇒14系改造も進んでいなかったから、東日本側が改造でも
はくつるにロコは連結できなくなるが、青森の24系はロネ含め出羽廃止分が余ってたし、余剰の金帯ハネでどうにでもなったろう。
末期のなはつきが個室主体でも悲惨だったから、大して変わらないかぁ…
と思う一方で、アレはアピール不足+遅くに失した面はあっただろうし。。。 >>282
民営化で4社に跨ったので、思うようにいかなかった要因がある。
車両を受け持っていた九州と東日本は、自社走行キロが短くて改造費をかけたくなかったのもあるし >>282
タラレバは意味がない。
ぼくのかんがえたそんぞくろん、は不要 ぼ、僕は、タ、タラレバよりニラレバがいいな(裸の大将の声で) >>283
> 4社に跨がっていたので
だからこそ早い内に資源を集約しておいたら、、、
と思って書いたが、
本数を少なくした時点で客レ自体が異端児・厄介者になるから、電車化されなかった時点でどの道終わりだったと思い直したよ。
ところで、博多あさかぜが一早く消えたのは、区間が他と被ってたのが主たる要因だよね?
(車両を九州保有に一元化した、というのは副次的なものと理解している)
車両を保有するか否か、をアボイダブルコスト目線で見れば、
東日本は00年代初頭まで多くの余剰寝台車を保有していたし、
所属が同じ出雲が暫く続いていた以上、運行コストを理由として東日本が手を引いた、というのは疑問なのだが。 >>286
それに加えてのぞみ運行開始で思った以上に減りが急だったのも大きな要因かと >>286
いち早く消えたのは「博多あさかぜ」と「みずほ」
食堂車の営業がいち早く休止になったのは「みずほ」 > 所属が同じ出雲が暫く続いていた以上、
「出雲1・4号」は「博多あさかぜ」廃止と同時に所属は車両と共に品川から尾久へ移管 そして品川は14系・24系ともに寝台車の配置が全てなくなっている 94年のみずほ廃止で余剰になった14系は廃車になったの? >>291
1994年12月の改正で「みずほ」は廃止となったほか、「さくら」は付属編成が東日本から九州へ移管された
九州は「みずほ」の廃止で捻出された14系を「さくら」の付属編成へ転用、「さくら」は基本・付属共に九州の担当となる
一方で、それまで「さくら」と「みずほ」の付属編成で運用していた東日本の14系は28両全てが尾久へ転属となり、
しばらくは臨時「あさかぜ」で使われた後に老朽化により順次廃車となってる >>286
博多あさかぜは、ギリギリ国鉄時代のグレードアップ改造だったのが、結果的に限界になってしまった。
国鉄が大赤字で予算的に切り詰められていたのと、国鉄分割民営化前後はまだある程度の輸送量があったので、当時は北斗星やトワイライトのような思い切った改造ができなかった。 ナロネ21に乗ったことはないが、オロネ10には乗ったことがある。 八代以南に最盛期は
はやぶさ、なは、明星と3本も夜行特急走っていたんだな >>297
最盛期だと関西発着の寝台特急4〜5往復が西鹿児島まで行っていた。
でも熊本までと比べたら、需要は減退。
みずほもあれば、熊本止まりの明星も本数があった。 >>289
それは単に所属が移った(客車を尾久に集約させた)ってだけの話だよね。
その後の出雲も基本的には品川常駐だったワケで。。。 >>299
何言ってんの
出雲用の客車は転属してからは交番検査を全て尾久で施行するようになり、頻繁に尾久と品川の間を東大宮操経由で行き来するようになってただろ 品川運転所は1994年12月の改正で24系のほかにサロンエクスプレス東京や江戸、14系寝台車・座席車、1号編成など、
ホキ以外の全ての客車が尾久に移管され、車両基地としては事実上閉鎖されてる 新幹線品川駅建設のための用地確保ですね>品川運転所廃止 東北、上越新幹線ホーム増設で潰された東京駅11、12番線と着回し線 >>303
東海道新幹線ホーム新設と増設で潰された13~16番線
senrohaisenzu.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-c0d6.html 新宿駅に上越新幹線延伸するなら地下になるのか
まず無いだろうけど >>305
どこまで掘り下げるんだろうな
一番深いところにあるのは新線新宿駅だったかな、そこより更に下ってことになるな
で、その駅に至るまでの線路(赤羽あたりから分岐?)も大深度地下で整備しなきゃいかんから
まあ、実現は不可能だね せっかくグレードアップされた博多あさかぜだが、実は東京-北九州エリアの利用は少なく、ほとんどが東京-広島・山口の各都市だって話が、昔出版されてたイカロスムックあさかぜ特集に載っていたな >>307
新幹線博多開業以降は、そんな傾向だった。
それがあり、分割民営化後の両端会社の利用が少なく、九州ブルトレで早期消滅になった。
分割民営化前は、そんな事を想定してなかっただろう。 早めに、グレードアップあさかぜの運行区間を下関までに縮めておけば、運行コスト削減、車両の老朽化も多少なりとも抑えられて、今の「旅を楽しむ」列車への切り替えもスムーズにいってたかも知れないな ないない
内部のコスト削減と利用者的利便性とは真逆。
列車単体における利便性は博多直通が圧倒しとる
その状態でダメだったんだから
下関短縮なんかやっていたところでもっと減る。
はやく減らして廃止させたい段階的施策に限り
短縮は効果的 >>307
それは単に山陽地区客に利便のよい到着時間帯だったからだよ。
もちろん新幹線が出来たからではあるけど、単に「できたから」ではない
博多をふくむ終着地区は朝が遅めでしょ、
それらの人が寝台列車に乗ってた頃は「直通需要>朝遅い」だった。
が、新幹線ができて「新幹線で直通>朝遅い寝台直通」になった 夜行列車の強みは新幹線より早く終点に着けることだからね >>306
新線新宿駅の上に上越新幹線用の空間が用意されてる 「あさかぜ」の死因は新幹線でも「のぞみ」でもない。
市街まで5分の福岡空港だろ。
早朝出て昼前に着く中途半端さが「あさかぜ」よりマシとは思えない。 あさかぜ1・4(博多あさかぜ)号廃止は、
1993年つまり廃止の前年に地下鉄が福岡空港まで延伸されたことで、ほぼ時刻通りに空港へ到着できて東京−博多間の所要時間でも負けたため
博多あさかぜの場合
1956.11 旧客時 福山、広島、徳山、小郡、下関
1958.10 20系時 尾道、広島、徳山、三田尻、下関 >>303
東北、上越新幹線ホーム増設で潰されたのは
東京駅11〜13番線と上野駅を結ぶ線と着回し線
因みに11番線はホームがない通過線用の番線 >>319
11番線も機回し線でしょ
ただホームがない線路にまで旅客案内用の番号を付けていた例は東京駅の他になかったって話だが本当なのかな 東京駅はもともと、優等列車用プラットホームが2本(12・13、14・15)で、
その両側に機回し線(11、16)がバランスよく配置されてたんだよ。
東海道新幹線(16・17、18・19)で16番線が削られ、
東北新幹線直通ホーム増設(15)で14・15番線が削られ、
そのホームのもう片方(14)の使用開始で13番線がなくなった。
この時点で、上野方面も行き止まりになった。
ここまでが国鉄時代の変遷 その上野方面は行き止まりになったが、30余年を経て上野東京ラインが復活するとは。 >>320
>東京駅の他になかった
どこから聞いたのさそのガセネタ 14年前の今頃、富士はやぶさラストラン後の余韻に浸ってる頃だったな。 >>324
もう14年になるか!早いものだ。
朽ちた九州ブルトレなんか興味なくなってたけど。
食堂車営業全廃からは、もう30年になるなあ! >>326
ラストランだよね?
いかにも3月っぽい空の、風の強い日だったなあ。 博多駅も在来線ホーム減らして、その部分を新幹線ホームにしたっけ
新幹線が増える度に味気無くなって行くJRの列車たち >>327
天気は良かったのは覚えてるが、風は覚えてないな
天気と関係あるかわからないが日豊線の対向列車が遅れてダイヤが乱れてた
「このまま更に遅れてはやぶさよりあとの到着になれ」と内心願ってたが
結局そこまで大きくは遅れなかった >>329
花粉症だから敏感だもんで強風はハッキリ覚えてる。
遅延に関しては、2時間過ぎてたっけ?ギリ以内だったっけ?
車内で親しくなった人たちと「さすがに今日は誰も文句言わんわな」と苦笑いした記憶がある >>330
1時間59分遅れだったな。
下車後は湯布院まで行ってトロッコ列車に乗ったよ。 あさかぜが北斗星並みに豪華なら面白かった
東京ー博多も約16時間掛かるから、観光に特化した列車のが向いてたな >>332
当時姫路で高架工事をやっていて、途中駅で遅れて工事開始時刻までに姫路を通過出来なかったんだよ。
それでも回復運転に努めて払い戻し対象となる2時間遅れにはしなかった。
ただ2時間遅れになっても払い戻す奴はいなかっただろうが。(特急券回収されちゃうからね) >>333
あさかぜはグレードアップが国鉄時代だったのが災いした。
またある程度のビジネス需要が国鉄時代からあったのもある。
北斗星は分割民営化後に登場で、当時でも東京〜札幌のシェアが飛行機の独壇場だったので、あそこまでできた。 >>335
東京~福岡も飛行機の独壇場じゃん
ましてや鹿児島ならもっと 地下鉄が福岡空港まで乗り入れる以前は、飛行機と鉄道はほぼ同率だった
あさかぜ金帯はプロトタイプだから仕方ないし、
ソロも中央廊下・レール方向寝台が誕生したのは1991年から
それまでのソロは側廊下・枕木方向寝台で、どうしても定員が大幅に減る(開放34に対して最大でも個室20)ため二の足を踏んでいた
設備投資としても、300系のぞみの始祖となる100系によるスーパーひかり構想があり、順調に進めば数年で博多あさかぜは消滅する予定だった
2階建て車両を外してN700系からやっている全周幌を追加すれば275km/hは達成できたと思われるけど、東海道側がAT饋電化されるのは1991年 >>337
> 地下鉄が福岡空港まで乗り入れる以前は、飛行機と鉄道はほぼ同率だった
初っ端から出鱈目w >>334
その姫路駅構内(東側の電留ある場所)で最後の離合したよね。
自分は、あれ見てから寝た。そして広島手前で起きた >>340
でも東京〜札幌のような極端なシェアではなかった。
昔から鉄道で乗り換えなしで行けたのがあっただろう。 阪神大震災で東海道本線・山陽本線が不通になっていた時、寝台特急「富士」の編成は、
東海道本線・山陽本線が復旧して全通するまで南宮崎駅に長期留置されていた。 >>342
言い訳すんな
>>343
対東京じゃなきゃ意味ないだろ
ここ何のスレだよ 名古屋つまり中京あたりは含めてもいいと思うんだ
だめかな >>345
だったら言い訳の根拠を証明しろよ!
このタコ野郎! >>348
逆ギレしてんのお前じゃんw
出鱈目書いといてみっともないぞw ブルトレなんて途中停車駅があるから、区間を限って表記しなければ全般を指すに決まっているだろう
今回は片方博多に限定していたけど、東側はどこの明記もされていないから、東京(関東)・名古屋(中京)は含めて当然
それを最初からお前の価値観で決めつけて、それと違うから明記しろとお前ルールで強要するなんて、どれだけ自己中なんだ
まずは「それはどこと福岡のシェア?」と質問しないと >>350
で、どことどこのシェアなんだ?
ソース付けて教えてくれ >>350
で、
333や335読めないのかお前は?
東京-福岡の話だぞ またお前ルールで強要か?
引用・返信レスではないから、つながりがないのは当然
ほんとに春だねぇ >>353
> 引用・返信レスではない
じゃあ何で唐突に?
それもどこのシェアかも書かないで
自分ルールは明らかにお前の方だわな
で、
> 地下鉄が福岡空港まで乗り入れる以前は、飛行機と鉄道はほぼ同率だった
これの対象区間とソース早く出しな
出鱈目書いて引っ込みがつかなくなったからって見苦しいやつだなw 1人勝手にキレている奴がいるw
自分の知識不足を棚に上げてw コイツ、50系スレで連日暴れまくって焼け野原にした超ど級の基地外じゃね? >>337
博多あさかぜが最後まで20系で残ったのは20系が引退する時点で廃止するつもりだった説あったよね?
他にも敢えて博多あさかぜが最後まで20系で残った理由はあったようだが 1978年2月改正まで博多あさかぜを20系から置き換えなかった他の理由はこんなもんだったっけ
・アッパークラスによる旺盛なA寝台需要と、独房とまで言われたオロネ25の評判の悪さ
・品川配置のカニ24-0では対応出来ないほど旺盛だった対博多の新聞輸送需要
・廃止となると、山陽道は影も形もなく中国道も荘原までしか開通していない状況で、この新聞輸送需要を何で受けるかという問題
・現行のままの運用ではこれまでオシ14の改造とオシ24で賄ってきた食堂車の種車が捻出不可
>>337
「20系が引退する時点で廃止」って一瞬ん?と思ったが、「あさかぜ専用の20系が引退する時点で廃止」って言いたかったんだよね? >>359
ナロネ20/22の1人用ルーメットは見てたらそんなに広くなさそうだけど独房感はなかったんかな? >>361
窓が大きかったので独房感はなかったんじゃないの >>361
リアルに利用したけど、独房感はなかった。
寝台にすると個室内スペシャルを全部取ったけど。
シングルツインの上段寝台を撤去して、折りたたみの洗面台が付いた感じかな。
海外に行けばカナディアン号や、オーストラリアのインディアン・パシフィック号の1人個室は、20系個室と同様の造りなので、機会があれば利用してみれば? >>358
国鉄時代の当時は、九州ブルトレは格が高かったので、博多あさかぜ廃止の方針はなかった。
元祖のブルトレだったので、扱いに苦慮したのだろう。
>>359の唱える理由もあったけど。 >>359
オロネ25は部屋を横長の構成にして、寝台のセットをセルフサービスにしたので、ソファー利用時は正面にすぐ壁と大鏡があるのと、窓際に洗面台があったため圧迫感が生じた。
またベッド兼ソファーも硬く、幅が70センチだったので、寝返りも不自由だった。
分割民営化後、富士・はやぶさにソロができると、値段と設備からA個室を選ぶ選択肢はほぼ無くなった。 晩年目線で言われてもな。
たしかに登場時から揶揄されてたらしいけど、
当時の視点では一人個室はまだまだ画期的
(その嚆矢は20系ルーメットだが) >>366
揶揄のされ方が、「これなら開放A寝台の方がいい」だった わし先にBソロ個室に乗ったからシングルデラックスは
なんだかんだで値段の分だとは思ったよ 通路が山側で車窓から富士山が見えないことも不評の一つだったと聞いた フルフラットにできるリクライニングシートで、起こした状態なら個室内でも回転して、
進行方向に合わせることができるロネの模型を作ろうとしていた厨房の頃。 オロネ25は、合理化を言う割りには個室寝台をよこせとほざく国会議員への当てつけで作られたものではないだろうか?
オロネ24も3段で登場した24形が作られた昭和47年度第3次債務以外作られていないし、オハネ24・オハネフ24が2段化されるまでずっと3段のオハネ24・オハネフ24に連結されているから、
ゆくゆくは2段モノクラス化の方針だったと推察される
オロネ24 9両 昭和47年度第3次債務 1973.8/1973.9 向日町新製配置
あかつき・彗星各2往復 1973.10〜1975.3 向日町
はやぶさ・富士・出雲 合計8運用 1975.3〜1976.10 品川
ゆうづる4往復 1976.10〜1978.10 青森
ゆうづる3往復・日本海1往復 1978.10〜1980.10 青森
あけぼの2往復(1編成に各2両連結) 1980.10〜1982.11 秋田
あけぼの2往復(1編成に各1両連結)、出羽・ゆうづる各1往復 1982.11〜1986.11 秋田 1982.12〜1983.7にかけてオハネ24・オハネフ24が2段化される ゆくゆくは2段モノクラス化の方針であったのなら、
24系24形使用の特急寝台列車は2段化の完了の際にオロネ24が編成から外されていたはずではないのか?
14系14形使用の特急寝台列車も2段化の完了の際にオロネ14が編成から外されていたはずではないのか?
1986年に銀河が14系14形から24系25形となった際、ロネは外すどころかわざわざオロネ14を改造してまでオロネ24を連結し続けたのはなぜなのか?
オロネ25が国会議員へのあてつけで作られたのなら、悪い意味での公平性の観点から
1978年に製造開始の14系15形はあかつきではなくオロネ15の製造と共にさくら・みずほ・出雲へ最初に投入されていたはずではないのか?
この辺の検証は必要かと思いますけど… 客車の減価償却:20年(その他のもの)
オロネ24(新製車)は1973年製だから、(国鉄のままでは)1993年まで使わないと会計検査院から指摘される
同様にオロネ14(新製車)は最新でも1972年製だから、(国鉄のままでは)1992年まで使わないと会計検査院から指摘される
1972年にナロネ22付20系から14系へ車両変更した「さくら」は開放A寝台のオロネ14だけになった
1976年前後で東北にてオロネ25が求められなかったのは、新幹線建設中でそんな定員の少ない車両を入れたらやり玉に上げられることが分かっていたから
答えになっていると思うけど >>372
関西発着ブルトレはB寝台二段化でモノクラスの方針だったが、東京発着ブルトレは
当時国鉄の看板列車で、A寝台需要もあったのでモノクラスの方針はなかった。
でもB寝台二段化で当時は従来の開放A寝台にするわけにいかず、苦肉の策として新製
した結果が、当該の個室寝台だった。
国会議員のためのものではない。 >>375
>1976年前後で東北にてオロネ25が求められなかったのは、新幹線建設中でそんな定員の少ない車両を入れたらやり玉に上げられることが分かっていたから
それは違う。国鉄時代は西から新製車が投入され、その余剰車両を東北方面に回してた。
24系客車も73〜75年は関西〜九州ブルトレ、75〜76年に東京発着ブルトレで、その後
ゆうづるに回された。
当時の国鉄は車両の全国配転は当たり前だったし、運賃・料金大幅値上げ直前で国鉄の赤字も
酷く、余裕がない時代だった。 それでもクハ481貫通・非貫通やクハ583なんかは、東日本に新製配置され、
その都度はじき出された古いクハ481やクハ581を西に送っていたよね
クロ481が組み込まれたみどりと併結のかもめは東北からの200番代だったなぁ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています