走行ルートが奇妙だった列車
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急行さんべ
山陰本線経由と美祢線経由を切り離して再び連結する変わったルートだった >>99
黒野の構造上ではそのような折り返しできなかったはず >>40
無理に東大宮に回送しなくても、池袋電車区で折り返し整備すればよかった気がする >>104 池袋運輸区に汚物処理や特急列車の座席カバー交換等の機能あるのか?
そのような機能を東大宮に集中させているのでは? >>92
「東側の区間客が見込めない時間帯」なんて事実上ないから実際は単なる間引き&入庫 >>103へ補足
到着の可否
谷汲→黒野3
本揖斐→黒野1←忠節
黒野2←忠節
出発の可否
本揖斐←黒野1→忠節
谷汲,本揖斐←黒野2→忠節
谷汲←黒野3→忠節 明智駅は
到着
八百津→明智1←新可児
八百津→明智2←新可児
御嵩→明智3
出発
八百津←明智1→新可児
八百津,御嵩←明智2
御嵩←明智3→新可児
だったと思う 西鹿児島発都城・西鹿児島行
西鹿児島ー隼人ー栗野(分割)ー吉松−小林ー都城(こちらはよくあったパターン)
↳薩摩大口ー宮之城ー川内ー西鹿児島
西鹿児島40分後に出る川内経由の薩摩大口行より宮之城(行き違い)までは先着
もっとも国鉄バスのほうが速いが
門司港発直方行
門司港ー黒崎ー直方ー原田ー博多ー福間ー黒崎(以下2回目)ー直方
原田と2回目の黒崎で列番変更、中間、筑前垣生、筑前植木は2回とも停車 九州横断特急
人吉まで行ってた頃に全区間乗り通した人は滅多にいなかったはず
結局系統分離してる 昭和57年
千葉県内⇔東京の急行(わかしお・さざなみ・しおさい・あやめ・すいごう)
東京→千葉 一部の両国発を除いて東京(地下)発
千葉→東京 東京(地下)行き,両国行きに加えて新宿行きが有る
当時は新宿駅から東京駅へどのように移動していたのか謎めいていたと思う >>27
2年以上前の書き込みにレスするのも何だが
一番多いのは函館-札幌の相互間の乗客なんで 磐越東線で
郡山発→夏井行
なんてのがあった。小野新町行でもなく平行(当時)でもなく
中途半端な行先。
しかも片道のみ。 いつ頃の話か分からないと調べようはないんだが
小野新町で折り返せない事情が何かあったのかもしれん
仙山線だと愛子の折り返しキャパシティの関係で
陸前白沢まで非営業で回送して折り返す便があるが
そういうのが客扱いしてたとかでないかな? 919D 石見益田発 伊田行き
益田1549→長門市→仙崎→長門市→厚狭→門司→(短絡線で折尾駅の脇通過)→直方→伊田2157
918D 小倉発小郡行き
小倉1015→門司→厚狭→長門市→石見益田→山口→小郡1802 犬山経由新岐阜ゆき
奇妙ではないが新一宮経由が存在するのになぜ迂回? 犬山線列車と各務原線列車が通しで走ってるに過ぎない 犬山経由岐阜行きは消えたな
各務原線が運行系統分離された >>1
「必要だからそうした」ってこと自体は
昔の人も今の人も変わらない
現代は一般的でなくなった運用概念も介在する
もともと列車1本が長距離運用主体の時代
↓2つのソレを繋げたら都合良くね?
↓始終点や経路だけみればヘンな列車の完成
現代の交通インフラ(長距離)は
空路の台頭〜高速バスの隆盛で
「点←→点」移動が主体になっていて
利用側もその視点になってる。
昔の、変な始終着駅や変な経路の長距離列車だって
それらを全区間乗る人が大半だったわけではない
簡単に説明すれば道路の国道なんかと同じ
各人が任意の区間を利用するが
道としては長距離の始終点がある
全区間通じて利用する人は居るには居れど
大半や主流というわけではない >>91
法界院は岡山大学に近いから、その通学生のため 昔の急行みまさか3号月田行は 大阪発12:30 月田着16:51
折り返し月田発16:57 津山着17:54の普通列車
他の「みまさか」は中国勝山か新見発着(新見発着は津山まであるいは津山から普通列車)
折り返し普通列車になるための運用上の都合で1本だけ月田行き
現在この時間に近い普通列車は新見 16:54発 月田 17:37発 津山 18:32着
月田発16:57ということは、下校学生向けだろうが、当時農業高校か林業高校でもあったのだろうか
南岩国は通学輸送(高水高校)
現在地へ移転してきたのは1954年だから
おそらく間違いない >>98
>名鉄w
>何があってもおかしくないわ
今なら、名鉄一宮発神宮前行
ただし名古屋本線ではなく、尾西線の森上、津島から津島線を経由して
須ケ口から準急 名鉄名古屋から普通
遠回りして種別変更も2度 >>114>>115の夏井行
通学需要があったと予想 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています