昔あった短絡線・連絡線
間々田から水戸線方面とか、かつて小田急と井の頭線を結んでいた連絡線とか
異業者間の渡り線も可とします 山陽本線の岡山駅から博多側にちょっと行った所に、
瀬戸大橋線との間を結ぶ短絡線があって、デルタを形成していた。
線路は跡形もないが、土地や建物の配置に特徴が残されていて、
いかにも「昔ここに線路があった」と語っているようである。 菊名で横浜線と東横線の連絡線。東急の新車をC58が牽引してきた。 富山駅の北陸本線〜富山地鉄の連絡線
大阪〜立山・宇奈月温泉間のサンダーバードが乗り入れていたが、需要減や車両故障の多発などがあり廃止になった。
このせいなのか、北陸新幹線の黒部宇奈月温泉という駅名は敗れた夢再びを感じる。 橋本
南海高野線と和歌山線とはレールがつながっていて、国鉄〜南海直通貨車受け渡しが
行われていた。
河内長野
戦時中の一時期、近鉄長野線と南海高野線はレールがつながっていた >>12
繋がってるけど
あれ相当長い間使ってないよね? 貝塚駅
南海本線と水間鉄道との連絡線があったが、現在は撤去されている 馬橋の流鉄とJRの間も昔貨物やってたから
一応繋がってる。
実際使用しないので荒廃してるけど、
流鉄がJR東から変電所借りてるかなんかの関係で饋電接続はしてるそうな。 >>16
片乗り入れだから、天浜線からJRに支払う線路使用料(?)が馬鹿にならんのでしょ。 吉野口
近鉄吉野線とJR和歌山線との連絡線は撤去されたが、分岐器跡は残っている >>19
偶にそういうおかしなこという人がいるけどさ
天浜線の車両だとしてもJRの区間はあくまでJRの列車だよ
乗客はJRの運賃払うわけだし
JRが車両使用料払うんだよ 天王寺駅
阪和線ホームと大阪環状線、関西線との連絡線があり、天王寺発着の
夜行「はやたま」号や12系客車による急行臨時「きのくに」の回送列車が、
この連絡線を経由して、阪和線ホームに発着していた 阪急正雀工場と東海道本線との連絡線
阪急電鉄の新車は東海道本線経由で吹田操車場まで甲種回送後、
この連絡線経由で正雀工場に搬入されていた 西武池袋や小田急新宿にも国鉄との貨物受け渡し用渡り線があったのではなかったっけ。
西武池袋は今の特急ホームになっている辺り。 西武池袋や小田急新宿にも国鉄との貨物受け渡し用渡り線があったのではなかったっけ。
西武池袋は今の特急ホームになっている辺り。 東武では思いつく所で池袋、亀戸、大宮、柏に国鉄との連絡線があった。野田の醤油を積んだ貨車が柏経由で各地に運ばれたわけで >>26
小田急は新宿での貨物受け渡しはなかったと思うが。 阪急阪神の今津
暴走事故をきっかけに連絡線を切り離してしまった 藤並駅
有田鉄道が紀勢本線湯浅までの乗り入れ列車を廃止後、紀勢本線と繋がっていたレールは分断された。
のち有田鉄道も廃止された 阪和線鳳電車区に隣接していた東急車輌大阪製作所への引き込み線
同製作所が鉄道車両を製作していた頃は、海外向け車両や南海6000系なども
この引き込み線を経由して阪和線に入り、甲種回送されていた 金谷駅
国鉄時代、構内に大井川鐵道との渡り線があって国鉄〜大井川鐵道直通の113系の
臨時快速や「サロンエクスプレス東京」も大井川鐵道に入線した 竜華から関西本線経由天王寺
複雑な入れ替えをしながら連絡線の勾配を押し上げ阪和線へ 鳥羽
近鉄志摩線が狭軌だった頃、国鉄参宮線とレールが繋がっていて、
近鉄鳥羽線が鳥羽まで開通するまで、志摩線ホームは国鉄ホーム側にあった 基本的に元国鉄の3セクは現役のJR線と線路がつながってるんだっけ? 上総中野
小湊鉄道といすみ鉄道のレールは直接繋がっていないが、構内の側線で両社のレールは繋がっている 淀川電車区のところで片町線と大阪環状線がつながっていた 大曽根は名鉄瀬戸線が高架になって昔日の面影なし…
それはともかく、
大正時代の名古屋の地図を見ると今の金山付近はデルタ線になっていたようだ
(東海道線熱田 ⇔ 中央西線千種方面の線がある) >>42
五井の連絡線が撤去された今、小湊に只見線のキハ40を搬入するにあたって、
千葉貨物駅から上総山田駅までトラックで陸送という力業(ちからわざ)に出た。
「いすみ鉄道経由ならレールがつながってたんじゃないの?」と考えたが、
上総中野の側線は長年使ってなくて強度の問題があったのかもしれないな。 山陽本線和気駅
片上鉄道と山陽本線のレールが繋がっていて、片上鉄道直通のJR貨物の貨車やコンテナ車の
受け渡しが行われていた 香椎線と勝田線は宇美で繋がってない代わりに別のところに連絡線があったはず >>37
龍華の機関車が関西線を経由して天王寺で入換するってこと >>48
勝田線は酒殿-志免-旅石間の香椎線貨物支線と志免駅構内で繋がってたね 昔は自由が丘で東横線と大井町線がつながってたんでしたっけ? 地上駅だった頃の京阪三条
京阪本線と京津線はレールが繋がっていたがのちに車止めが設置された >>50
その貨物線と併せて、吉塚⇔香椎⇔酒殿⇔志免⇔吉塚で大デルタを形成しており
それを使って、特急「かもめ」用客車の方転が1957年6月まで行われていた。
博多付近に他に適当なデルタ線が無かったからだが、展望車の連結も無いのに
スハ44系の座席が一方向き固定だったことによって生じた、全行程1時間45分の
面倒な作業も、「かもめ」の三等車をナハ11に置き換えることで終了。
「かもめ」は急行並の固定クロス三等車使用の『遜色特急』に成り下がったが
上記の大掛かりな方転の手間を考えると、やむを得なかった。 >>53 スハ44、何で転換式ないし回転式クロスに取り換えなかったんだろう?
戦前、京阪600や1000が転換式クロスを導入し、1949年には小田急1910がこの座席でデビューしているんだが、モケットが厚い座席には向かないのか? 関西線の柏原駅。近鉄道明寺線と繋がってた
現2番線の湊町方に側線があって、近鉄の凸型電機が牽いてきた貨車をそこへ入換てた
関西線非電化時代にも、現2番線は近鉄用に架線が張られてた 東海道線が桜木町(当時横浜)でスイッチバックして保土ヶ谷に向かっていた頃の線路跡に住んでたことがある 地上時代の福井駅
北陸本線と京福電鉄との連絡線があり、国鉄〜京福直通貨車の受け渡しが行われていた 地上時代言うか地上駅舎時代南海羽衣駅
南海本線と高師浜線との連絡線があり、高師浜にまだ海水浴場があったころは、難波から直通急行ありました(S37年まで 高架化される前の山陰本線出雲市駅
構内には一畑電鉄の電鉄出雲市駅があり、一畑電鉄と山陰本線のレールが繋がっていた 紀勢本線御坊駅
紀州鉄道と紀勢本線との渡り線があったが、現在はない >>46
半年前に見たら、
ホントに一応繋がってるけど
廃線みたいな状態だったよ >>63 神宮前から新名古屋を通る名鉄の東西連絡線ができたのは1944年だよ。 あざーす!しかし名鉄もよく線路用地を確保できたものだ 今の名鉄名古屋は地下でも地下鉄と近鉄に挟まれて拡張の余地がないんだっけか
なので長年3面2線でやりくりしてきた
今後は南に少し移動して2面4線へ拡張させる模様 国が鉄道貨物をつぶすまでは、ほとんどの狭軌民鉄は国鉄とどこかでつながってた。 >>70
間々田〜小田林ね。
ほとんど小山駅の構内って言ってもいいくらいの所にあったね。 >>76
乗り換えの為に留萠ダッシュをあの跨線橋でやった思い出 >>80
外房貨物が大網〜土気の勾配を避けるために使っていたね。 >>80
塩尻と似たような経緯で生まれた短絡線ってことか
知ってたら先週行った時に廃線跡探索出来たのに惜しいことをした… >>87
魚津駅を栗橋みたいに改造できないのかね?
結構乗り換え客多かったし、
地鉄と三セクを直通出来れば県内の交通再編やりやすくなると思うが。