昔あった短絡線・連絡線
間々田から水戸線方面とか、かつて小田急と井の頭線を結んでいた連絡線とか
異業者間の渡り線も可とします 山陽本線の岡山駅から博多側にちょっと行った所に、
瀬戸大橋線との間を結ぶ短絡線があって、デルタを形成していた。
線路は跡形もないが、土地や建物の配置に特徴が残されていて、
いかにも「昔ここに線路があった」と語っているようである。 菊名で横浜線と東横線の連絡線。東急の新車をC58が牽引してきた。 富山駅の北陸本線〜富山地鉄の連絡線
大阪〜立山・宇奈月温泉間のサンダーバードが乗り入れていたが、需要減や車両故障の多発などがあり廃止になった。
このせいなのか、北陸新幹線の黒部宇奈月温泉という駅名は敗れた夢再びを感じる。 橋本
南海高野線と和歌山線とはレールがつながっていて、国鉄〜南海直通貨車受け渡しが
行われていた。
河内長野
戦時中の一時期、近鉄長野線と南海高野線はレールがつながっていた >>12
繋がってるけど
あれ相当長い間使ってないよね? 貝塚駅
南海本線と水間鉄道との連絡線があったが、現在は撤去されている 馬橋の流鉄とJRの間も昔貨物やってたから
一応繋がってる。
実際使用しないので荒廃してるけど、
流鉄がJR東から変電所借りてるかなんかの関係で饋電接続はしてるそうな。 >>16
片乗り入れだから、天浜線からJRに支払う線路使用料(?)が馬鹿にならんのでしょ。 吉野口
近鉄吉野線とJR和歌山線との連絡線は撤去されたが、分岐器跡は残っている >>19
偶にそういうおかしなこという人がいるけどさ
天浜線の車両だとしてもJRの区間はあくまでJRの列車だよ
乗客はJRの運賃払うわけだし
JRが車両使用料払うんだよ 天王寺駅
阪和線ホームと大阪環状線、関西線との連絡線があり、天王寺発着の
夜行「はやたま」号や12系客車による急行臨時「きのくに」の回送列車が、
この連絡線を経由して、阪和線ホームに発着していた 阪急正雀工場と東海道本線との連絡線
阪急電鉄の新車は東海道本線経由で吹田操車場まで甲種回送後、
この連絡線経由で正雀工場に搬入されていた 西武池袋や小田急新宿にも国鉄との貨物受け渡し用渡り線があったのではなかったっけ。
西武池袋は今の特急ホームになっている辺り。 西武池袋や小田急新宿にも国鉄との貨物受け渡し用渡り線があったのではなかったっけ。
西武池袋は今の特急ホームになっている辺り。 東武では思いつく所で池袋、亀戸、大宮、柏に国鉄との連絡線があった。野田の醤油を積んだ貨車が柏経由で各地に運ばれたわけで >>26
小田急は新宿での貨物受け渡しはなかったと思うが。 阪急阪神の今津
暴走事故をきっかけに連絡線を切り離してしまった 藤並駅
有田鉄道が紀勢本線湯浅までの乗り入れ列車を廃止後、紀勢本線と繋がっていたレールは分断された。
のち有田鉄道も廃止された 阪和線鳳電車区に隣接していた東急車輌大阪製作所への引き込み線
同製作所が鉄道車両を製作していた頃は、海外向け車両や南海6000系なども
この引き込み線を経由して阪和線に入り、甲種回送されていた 金谷駅
国鉄時代、構内に大井川鐵道との渡り線があって国鉄〜大井川鐵道直通の113系の
臨時快速や「サロンエクスプレス東京」も大井川鐵道に入線した 竜華から関西本線経由天王寺
複雑な入れ替えをしながら連絡線の勾配を押し上げ阪和線へ 鳥羽
近鉄志摩線が狭軌だった頃、国鉄参宮線とレールが繋がっていて、
近鉄鳥羽線が鳥羽まで開通するまで、志摩線ホームは国鉄ホーム側にあった 基本的に元国鉄の3セクは現役のJR線と線路がつながってるんだっけ? 上総中野
小湊鉄道といすみ鉄道のレールは直接繋がっていないが、構内の側線で両社のレールは繋がっている 淀川電車区のところで片町線と大阪環状線がつながっていた 大曽根は名鉄瀬戸線が高架になって昔日の面影なし…
それはともかく、
大正時代の名古屋の地図を見ると今の金山付近はデルタ線になっていたようだ
(東海道線熱田 ⇔ 中央西線千種方面の線がある) >>42
五井の連絡線が撤去された今、小湊に只見線のキハ40を搬入するにあたって、
千葉貨物駅から上総山田駅までトラックで陸送という力業(ちからわざ)に出た。
「いすみ鉄道経由ならレールがつながってたんじゃないの?」と考えたが、
上総中野の側線は長年使ってなくて強度の問題があったのかもしれないな。 山陽本線和気駅
片上鉄道と山陽本線のレールが繋がっていて、片上鉄道直通のJR貨物の貨車やコンテナ車の
受け渡しが行われていた 香椎線と勝田線は宇美で繋がってない代わりに別のところに連絡線があったはず >>37
龍華の機関車が関西線を経由して天王寺で入換するってこと >>48
勝田線は酒殿-志免-旅石間の香椎線貨物支線と志免駅構内で繋がってたね 昔は自由が丘で東横線と大井町線がつながってたんでしたっけ? 地上駅だった頃の京阪三条
京阪本線と京津線はレールが繋がっていたがのちに車止めが設置された >>50
その貨物線と併せて、吉塚⇔香椎⇔酒殿⇔志免⇔吉塚で大デルタを形成しており
それを使って、特急「かもめ」用客車の方転が1957年6月まで行われていた。
博多付近に他に適当なデルタ線が無かったからだが、展望車の連結も無いのに
スハ44系の座席が一方向き固定だったことによって生じた、全行程1時間45分の
面倒な作業も、「かもめ」の三等車をナハ11に置き換えることで終了。
「かもめ」は急行並の固定クロス三等車使用の『遜色特急』に成り下がったが
上記の大掛かりな方転の手間を考えると、やむを得なかった。 >>53 スハ44、何で転換式ないし回転式クロスに取り換えなかったんだろう?
戦前、京阪600や1000が転換式クロスを導入し、1949年には小田急1910がこの座席でデビューしているんだが、モケットが厚い座席には向かないのか? 関西線の柏原駅。近鉄道明寺線と繋がってた
現2番線の湊町方に側線があって、近鉄の凸型電機が牽いてきた貨車をそこへ入換てた
関西線非電化時代にも、現2番線は近鉄用に架線が張られてた 東海道線が桜木町(当時横浜)でスイッチバックして保土ヶ谷に向かっていた頃の線路跡に住んでたことがある 地上時代の福井駅
北陸本線と京福電鉄との連絡線があり、国鉄〜京福直通貨車の受け渡しが行われていた 地上時代言うか地上駅舎時代南海羽衣駅
南海本線と高師浜線との連絡線があり、高師浜にまだ海水浴場があったころは、難波から直通急行ありました(S37年まで 高架化される前の山陰本線出雲市駅
構内には一畑電鉄の電鉄出雲市駅があり、一畑電鉄と山陰本線のレールが繋がっていた 紀勢本線御坊駅
紀州鉄道と紀勢本線との渡り線があったが、現在はない >>46
半年前に見たら、
ホントに一応繋がってるけど
廃線みたいな状態だったよ >>63 神宮前から新名古屋を通る名鉄の東西連絡線ができたのは1944年だよ。 あざーす!しかし名鉄もよく線路用地を確保できたものだ 今の名鉄名古屋は地下でも地下鉄と近鉄に挟まれて拡張の余地がないんだっけか
なので長年3面2線でやりくりしてきた
今後は南に少し移動して2面4線へ拡張させる模様 国が鉄道貨物をつぶすまでは、ほとんどの狭軌民鉄は国鉄とどこかでつながってた。 >>70
間々田〜小田林ね。
ほとんど小山駅の構内って言ってもいいくらいの所にあったね。 >>76
乗り換えの為に留萠ダッシュをあの跨線橋でやった思い出 >>80
外房貨物が大網〜土気の勾配を避けるために使っていたね。 >>80
塩尻と似たような経緯で生まれた短絡線ってことか
知ってたら先週行った時に廃線跡探索出来たのに惜しいことをした… >>87
魚津駅を栗橋みたいに改造できないのかね?
結構乗り換え客多かったし、
地鉄と三セクを直通出来れば県内の交通再編やりやすくなると思うが。 塩釜線が残っていれば小規模改良,デッドセクションの設置で電車運転の仙石線乗り入れができたと思う。
現状は気動車なので. >>85
田端操経由のスイッチバックで行けなくなったの? >>90
あれは貨物の授受線だな。
本線的な機能は無い。配線図を見る限り。 短絡線といやあ、
Nゲージでループ線とか組んで、ショートさせなかった? ただのループじゃ反転せえへんやろチッチキチー
リバース線だろ? 近鉄大阪線と名古屋線とを結ぶ短絡線
河合高岡のすぐ東から分岐して久居の南で合流するルートが実現していたら名阪特急の歴史が変わっていたかも ( ´゚д゚`)アチャー変換ミスった
河合高岡×
川合高岡○ たかだか1キロ節約できる程度で新幹線にどう対抗できるのか と、言う判断で実現しなかったんだよ
スピードアップなんてそうそう簡単にできるものではない 名鉄神宮前と国鉄熱田の間にももっぱら貨物用とはいえ連絡線あったな。末期は熱田イオンのちょっと手前に見える中京倉庫にワムが出入りしてたのを覚えてる
日車の本社工場出場の車両は名鉄の構内抜けないと国鉄の線路に入れなかったし
キハ8000を夜行臨時急行として貸し出す際の受け渡しにも使ってたようだし 常磐線から横浜方面をスルー運転できるように池袋〜田端が建設されたと聞いているが、
機回しは必要としなかったんでしょうね >>106
これが生きてれば、常磐新宿ライン出来てたかもな。
今頃、E231緑電とE531の青電とE657が新宿に乗り入れてて、新宿発仙台行きのひたちとか新宿発勝田行きのときわとか走ってたかも。 青森のデルタ線なら消えようがないが
>>110
馬鹿の一つ覚え >>107
田端操車場が出来た頃にはスルーなんて不可能な配線だったようだが。 JR化から間もない頃に、池袋発着の常磐線列車が臨時列車として
運行されたことがあるけど、あれはどうしてたの? 田端操折り返しじゃね?
レアな体験だということで
RMで乗車記を読んだ希ガス 各位
ありがとうございます。
お返事が遅くなり大変申し訳ございません。
21世紀に入ってからも167系で常磐線〜横須賀線への
「ホリデー快速」が運転されていました。
詳しくは下記のwikiの「ホリデー快速ときわ鎌倉」の項目をご覧ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89_(%E5%88%97%E8%BB%8A)
元々、常磐線と山手線を直結していたトンネルは
大昔に埋め立てられて存在しないようです。 wikiのアドレスは括弧の部分も含めコピペしてご覧ください。 ホリデー快速ときわ鎌倉
何回か乗りました(ただし全部取手行)
田端操車場で10分ほど停止でスイッチバック
8両中指定席が3両程度あり(利用は全部自由席)
新宿からの利用が機会が多かったですが、新宿発ではいつも全員座って少し空きあり
立客がいたのは、鎌倉→横浜
新宿→池袋、など含めて、短距離利用が少なくない
たまたま来たから利用した人の方が結構多いように感じました
常磐線の北千住などでも同じで、なんだこれ?乗っていいの?
という顔をした乗客が結構多かったと思いました
土日だけ1往復でよいから、復活希望しております(無理かも) >>117
同じようにバーディひたちっていう列車も一時期有った。
651系で新宿から水戸だったかな。 各位
ありがとうございます。
一昨日の夜、フジ系で放送された林先生の番組で山手線の歴史を扱って
いましたが、池袋〜田端の建設の経緯に付いても言及されていました。
公式の動画。1時間00分ちょうどからわずかの間ですが・・・
https://fod.fujitv.co.jp/title/2745/2745810037/
配信期間:〜2022年12月21日 20時00分 >>117
>たまたま来たから利用した人の方が結構多いように感じました
>常磐線の北千住などでも同じで、なんだこれ?乗っていいの?
>という顔をした乗客が結構多かったと思いました
ほかの臨時列車でも同じような傾向はあろうかと思います。
>>118
検索してみましたが、ゴルフ関連の列車だったようですね。 >>115
そんなトンネルは存在しない。
冷蔵庫に騙されたのか? 少し前に1963年頃の小田急を走る東急7000系の動画を観たが、短絡線あったのかな?
小田急と東急の接点って中央林間しか思いつかないが、この頃はまだ開通してなたあはずだし、そもそも線路が繋がってなさそう ご指摘ありがとうございます。
まず私は川島氏の書物は見ておりません。また常磐線と山手線との接続に関しては、
大昔のことだからか、検索しても確固たる写真や資料もほぼ出て来ません。
両線を接続するのに「敢えて機回しが必要となるルートを構築する」のは自然ではありません。
よって「機回しを必要としないルート」になっていたのでは(?)という考えに至りました。
「乗りものニュース」では
https://trafficnews.jp/post/92556/2
>1903(明治36)年には田端〜池袋間の鉄道も日本鉄道の手により開業し、
>田端駅が赤羽〜品川間の鉄道に直結。横浜方面から途中で方向転換する
>ことなく常磐炭田に向かう石炭輸送ルートが構築されました。
あくまでこの情報によれば、方向転換=機関車では機回しすることなく、
横浜方面〜常磐炭田が結ばれていたことになります。
情報などございましたら、よろしくお願いします。 上の方で出ているもので写真があるものとして・・・
代田連絡線(現在で言うところの小田急小田原線と京王井の頭線を接続)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/91/Daita_bypass.jpg
杭瀬連絡線(阪神本線と国道線を接続。国道線は1975年に廃線)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/5e/19660613_Hanshin_Kuise_Renrakusen.jpg
両線は甲子園でも接続されていました。
現在で言うところの東急と小田急の線路が直接的に接続されたことはないと
思われます。東急7000系の搬入ルートは分かりかねますが、過去に東急と国鉄は
菊名で、小田急と国鉄は新宿、登戸、厚木、小田原で線路がつながっていました。
このことから国鉄経由が順当と考えられますが、トラックでの輸送も考えられます。 井の頭線に国鉄車が入線したことがあるらしいですが、どうやって入線したのでしょうか、?
渋谷か吉祥寺に渡り線があったのでしょうか? >>125
大東急時代に代田連絡線というのをが小田原線との間に作った
国鉄車というのはEB10型電気機関車だと思う
戦後直ぐ動力車が足りなくなって付随車をプッシュプルで引く計画で試運転したけど
車両限界に引っかかって断念したらしい 井の頭線と他路線の接続は歴史を通じて代田連絡線だけのようですね。
わずか7年で使用が終了してしまったようです。
上で触れている山手線と常磐線の話ですが、検索すると「道灌山トンネル」
「埋め立てられた」などの言葉が含まれるページに行き着きます。
しかし、両者がトンネルを介して結ばれていたという確証は得ていません。
もしかしたら今で言うところの京浜東北線を横断する形だったのかもしれません。
形態は不明であるものの、機回しをせずに常磐線〜横浜方面を結べることを主眼に
池袋〜田端間は建設されたと思われます。機回しが必要な構造であれば、赤羽経由
でも良いと思われます。ただし赤羽経由だと大塚経由よりも5キロほど長くなります。 小田原線と井の頭線を結んだ代田連絡線はRMのトワイライトゾ〜ンで特集されたことがある
何号か忘れてしまって覚えてる範囲のことしか書けないが突貫で造ったそうである日突然家の前に線路ができていて驚いた話とかEB10が通過する写真とかが出ていた >>126
というか重量制限だな。
重過ぎてな。
橋梁か道床か知らんが井の頭線の道床が柔らかかったのは事実。 >>127
道灌山トンネルは大正14年の客貨分離時に貨物専用になって、
昭和3年に中里トンネル経由になったので廃止。
敗戦後に瓦礫の捨て場として埋め立てられた。
常磐線と直結するためのトンネルではなく、
山手線の本線のトンネルだった。
山手線と常磐線は田端操車場整備前なら直通してたかもしれないが、
配線図とか無いからわからん。
ただ、田端操車場が出来た段階では山手線の貨物線は
日暮里方に入った後、
スイッチバックして東北本線の本線と平面交差して
田端操車場の本体に入る配線になっていた。
中里トンネル経由になっても平面交差は解消されず、
京浜東北線が出来て、旅客線が尾久経由になって解決。 ウィキペディアの南武線の項目を見ると、かつては武蔵小杉でも
国鉄と東急の線路が接続されていたようです。
いずれも過去形のものですが、
西武と国鉄は池袋と国分寺で、
相鉄と国鉄は西横浜(保土ヶ谷)で、
東武と国鉄はほとんどの接続駅において線路が接続されていました。
(越生や小川町は不詳です)
廃線となっている東武日光軌道線、大谷線、熊谷線、矢板線も国鉄と
線路が接続されていたと聞いております。 >>40などでも既出ですが、名古屋では名鉄と1067mm時代の近鉄名古屋線が接続され、
近鉄の列車が名鉄名古屋本線〜小坂井支線〜国鉄飯田線まで乗り入れていますね。
ウィキペディア「豊橋鉄道田口線」のアドレスをweb archiveに入れると、
田口鉄道(豊橋鉄道田口線)まで近鉄の車両が乗り入れたという記述もあります。
現在のページにないということは、事実ではなかったのかもしれません。 国鉄は長野では長野電鉄と、松本では松本電鉄(アルピコ交通)と接続されていましたが、
前者は長電の地下化で、後者も時期は不明ですが線路が切られたようです。国鉄の長電乗り
入れは屋代線が思い浮かびますが、こちらは路線ごと消えました。JRもしなの鉄道に。
金谷での東海道本線と大井川鐵道の連絡線も切られています。
かつては113系やサロンエクスプレス東京も乗り入れています。
国鉄・JRから経営分離された鉄道も、日常的な列車の行き来がないところを中心に
線路が切られていますね。貴生川もあの事故後、切られてしまったようです。 Wikipediaの古い記述はウェブアーカイブに頼らなくてもページ右上の「履歴」タブから辿れるよ
丁寧に見ていけば消された理由が要約欄あたりに書いてあるかもしれない ありがとうございます。
「近鉄電車は乗り入れていないので、誤内容を削除」と書かれていました。 >>139
飯能市が東飯能に全て集約する事を決めれば良いわけだが、
そうなると既存の飯能駅を放棄することになるからなあ。 東飯能はかつてはJRと西武の共同使用駅でしたね。スレの趣旨からは逸れますが、
昔は国鉄・JRと私鉄の共同使用駅も多かったです。不正乗車の問題や、JRと私鉄で
カードを相互利用するようになると、直通運転の境界駅など、やむを得ない箇所を
除いて連絡改札口が設置されたり(ICだけの場合も)、駅が分離されたりします。 1067mmの「鉄道」であれば、ほぼすべて国鉄・JRと直接的または間接的に線路が
接続されていたと思われますが、日立電鉄は国鉄・JRとの接続はなかったと思います。 >>144
もともと近鉄京都線は今の場所を走ってたのが、相互乗り入れするためにレールを京阪丹波橋駅につなげて共同駅になった
その後の乗り入れ中止で近鉄が旧線に戻ったけど、旧線跡を残してたからすんなり元通りに戻せたという事情もある 近鉄京都線は丹波橋で京阪線と接続、京阪線は三条で京津線と接続、
京津線は東山三条で京都市電と接続、京都市電は元田中で京福電鉄
(当該路線は現在の叡山電鉄)と接続していましたね。
これらの接続はすべて消えてしまいました。 国鉄隅田川駅と営団日比谷線千住検車区の間にも連絡線があったようですね 今年も飯能の短絡線用地でやるようです。
3月2日㊏(雨でも)今年もやります!
「はんのーとマルシェ2024」
https://han-note.com/event/marche2024.html 1067ミリ軌間で国鉄との連絡がない地方私鉄ってありますか? トデンは軌道法準拠の路線だから
150さんが聞いた意図とはちがうかもね >>150 線路がつながっていないということであれば、関東鉄道竜ケ崎線。佐貫駅から常磐線への連絡線は廃止されている。 東武東上本線と国鉄が池袋近辺で繋がっていた
横浜から連絡線を通って上板橋から分岐していた啓志線に直通する運行を行ったことがあるらしい
小田急小田原線と中央緩行線が新宿駅構内で繋がっていた
こちらは荷電専用だったとか 書き込みが増えて嬉しいです。
東武東上線系と国鉄との接続に関しては、Wikipediaの
赤羽線、川越線、川越駅の項目にも詳しい記載がありますね。
関東鉄道とJRは、現在では下館のみ線路が接続されているはずですが、
以前は取手でも接続があり、関鉄〜国鉄常磐線を直通する列車も存在しました。 東武〜国鉄の連絡線というと、越生と小川町にもあったはず。
というのは、7300系更新時に、八高線経由での回送を考慮していたようなので。
坂戸方面から来て、越生〜小川町を機関車牽引で八高線を通り、小川町から東上本線に入るような運用を考えていたらしい。
東武というと、東上本線からの海水浴臨時列車もあった。
こちらは川越線(川越〜大宮)を蒸気機関車牽引で走り、大宮から野田線を船橋まで走るというもの。
川越と大宮で線路が繋がっていたから可能だった。 >>157
> というのは、7300系更新時に、八高線経由での回送を考慮していたようなので。
> 坂戸方面から来て、越生〜小川町を機関車牽引で八高線を通り、小川町から東上本線に入るような運用を考えていたらしい。
何でこんな無駄なことすんの? 越生や小川町でも国鉄と東武の接続はあったのですね。
地べたで国鉄と1067mmの別鉄道の線路が寄り添い、かつ共同使用駅という場合は、
ほとんどの場合、元々は線路の接続があったと考える方が自然だと思います。越生は
2019年で改札は分離されましたが、今もJRと東武の線路やホームは並行して立地して
いますし、番線の数字も連続しています。 川越の話でありますが、西武新宿線と国鉄川越線を結ぶ「川越線連絡線」も存在しました。
検索すれば、地図も含めて出てきます。
国鉄と東武の接続に付いて、佐野に関しては不明です。
ここも線路の並びやかつて共同使用駅だったことを考えれば、線路の接続があった確率は高いと思います。
検索中にヒットしたYahoo!知恵袋にリンクしておきます。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11277029776 >>160
古い航空写真を見ると、繋がっていそうな雰囲気はありますよ。
色々探してみたら、以下のサイトに配線図がありました。
ttp://senrohaisenzu.cocolog-nifty.com/blog/2019/09/post-a8e51e.html 大変ありがとうございます。
東武と国鉄は(殆ど)すべての接続駅で線路が繋がっていたと考えられますね。
武蔵野線との接続はありませんが・・・
場所が変わりますが、一畑電車と国鉄の線路が(電鉄)出雲市で
接続されていた話が、会社のHPで説明されています。
https://www.ichibata.co.jp/railway/operate/stations/05.html 菊名駅付近、東横線上り線とハマ線下り線の間にあった連絡線。 菊名の連絡線は1966年に撤去されており、知識としては知っていますが、
現物は見たことがないですね。菊名駅も東急管理の共同使用駅だったのが、
連絡改札口が設置されて各々が自社の区画を管理するようになり、さらに
今では連絡改札口もなくなり、完全に別の駅になったかと思います。 国鉄と(かつて)近鉄の1067mm(だった)路線との接続駅としては、
柏原、吉野口、伊賀上野、桑名、大垣、部田、鳥羽の各駅がありましたが、
それらすべての駅で線路の接続はなくなっていますね。
部田というのは1961年に廃線になった伊勢線の駅で、実質的には名古屋線
および国鉄津駅の一角にあり、ここで国鉄と貨車のやり取りがあったそうです。
津の1つ名古屋よりの江戸橋〜伊勢中川は元々は標準軌で、1938年に
一旦1067mm化され、1959年に再び標準軌に戻されます。
津駅そのものでは1067mm時代の近鉄名古屋線と国鉄との接続はなかった
のではと思われます。前述のようにこの区間の近鉄が1067mmだったのは
21年しかなかったことも、そう推測する理由の一つです。
参照
okunokun.ikora.tv/e1421384.html >>151
>>152
土佐電鉄も昔は繋がっていた。
鉄道の安芸線という路線があって、後免駅で国鉄と線路が繋がっていた。
隣の後免町駅では、軌道線と安芸線の線路が繋がっていた。
今は線路が切れている上信電鉄・大井川鉄道も線路は繋がっていて、国鉄直通の列車が走っていた。
80系が下仁田・113系が千頭まで乗り入れたことがある。 千頭駅と113系です
c5557.kiteki.jp/html/ooigawa1979-8-4..htm
四国の話ですが、伊予鉄道は国鉄・JRとの接続はなかったのではと思われます。
今後の話としてはあるようなのですが・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B1%B1%E9%A7%85_(%E6%84%9B%E5%AA%9B%E7%9C%8C)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E8%A1%A3%E5%B1%B1%E9%A7%85
上手くリンクできていない場合は、コピペしてご覧下さい。 四国の話が出ている序でに思い出しましたが、淡路島にあった淡路交通は、
北海道・本州・四国・九州・沖縄本島および人工島を除くと、日本の島の
中で完結する唯一の公式な旅客用鉄道だったことになりますね。
1067mmの「鉄道」で国鉄・JRと直接的にも間接的にも線路が繋がって
いなかった数少ない例かと思います。 下高井戸で東急世田谷線と京王線が繋がっていたのは既出? 初めてですかね。自分は下高井戸で線路が繋がっていたことを知りませんでした。
第二次世界大戦中とのことですので、当時は同一会社の路線同士ということです。
関東大震災の後、横浜市電の車両不足を補うために、京王の車両がいずれも1372mmの
東京市電と京浜を経由して回送されたらしいです。ただしその当時、京王と東京市電は
線路が繋がっていなかったようです。京浜と横浜市電(生麦)はどうだったのか不詳です。 玉川電鉄と東京市電は渋谷で接続されていましたが、
京王〜玉川〜市電が同時代に接続されていたというのはなさそうです。
他で1372mmの異なる事業者同士の接続は、東京市電と京浜くらいではないですかね。
京王も京成も市電直通を考慮して1372mmにしていたけど、接続されていなかったようです。 >>173
> 玉川電鉄
何故会社名路線名を改変するのかw ありがとうございます。
玉川線と書くと、場合によっては玉川電気鉄道全体と解釈されるかも知れませんし、
一方で渋谷から出ていた玉川線だけと解釈されるかも知れません。
(小田急線と書くと小田原線だけとも、小田急全線とも解釈可能なのと同じです)
玉川電気鉄道でもいいかと思いましたが、ウィキでは同社の略称として
「玉川電鉄」も書かれていたので、そちらを使用しました。でも「玉川電鉄」で検索しても、
ほどんど「玉川電気鉄道」「玉電」の字面が出て来ますので、それらを使う方が賢明ですね。
京王と世田谷線が接続されていた時代は、第二次世界大戦中なので
東急京王線〜東急下高井戸線となり、
玉川線と市電が接続されていた時代は昭和12年よりも前なので
玉川電気鉄道玉川線〜東京市電になると思われます。
間違いなどありましたらお知らせくださいませ。