夜行列車総合スレ★21
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日本の夜行列車も2020年8月現在で定期運転しているのはサンライズ「出雲」・「瀬戸」だけになり、
臨時列車で何とか走っていた「ムーンライトながら」もコロナ禍の影響でこの夏には設定されず、
これらもいつまで運行が継続されるか不透明な状況で今後が気になります。
その一方で「ななつ星」「四季島」「瑞風」「カシオペアクルーズ」「カシオペア紀行」
「WEST EXPRESS 銀河」など、豪華な客室を売りにする寝台列車は従来の夜行列車とは全く趣向が異なる、
ツアー方式クルーズトレインへの業態転換が特徴ですが、これらもコロナ禍で今後が不透明になっています。
当スレでは、もはや輸送列車としては絶滅寸前となった夜行列車全般について、
過去の列車の思い出話を中心に語ることで雑談などをします。
辛うじて現役である列車やクルーズトレインは、鉄道路線・車両板の個別スレでお願い致します。
※個別スレへのリンクは>>2以降で
前スレ(夜行列車総合スレ★20@鉄道懐かし板)
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/jnr/1597111164/
鉄道総合板の夜行列車総合スレ(★14)はこちら
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/train/1517052329/ 中央東線の夜行普通は甲府と上諏訪で運転調整
甲府は乗務員交代と優等列車退避、上諏訪は朝の通勤通学対応など
それなりの理由があった 中央東線の夜行普通、上諏訪行きだった時に何度か乗った
甲府での長時間停車の時に駅前のコンビニに行ったりした 中央東線の普通夜行441M 長野行きも停車が多かったな
甲府25分、日野春55分、小淵沢13分、茅野9分、上諏訪49分、塩尻4分、松本15分、羽尾(信)4分
新宿駅の入線時刻も早くて23:55発車なのに入線時刻が21:30と早く、何と2時間25分前の入線だった
数名の小グループで乗って早々に乾杯すると発車までに1次会が出来ちゃって発車前には酔っ払って
2BOXを2人ずつ足を伸ばして寝た想い出があるよ
当時の新宿駅は441Mも急行アルプス(臨時含む)も直接ホームに並べずアルプスの広場や通路に並ばされた
日野春55分停車は臨時アルプス(8401レ)の退避通過待ちで442Mの松本駅は60分停もあった 「やる気がない」「やれば出来る」
実は何も根拠を持ってないのに自説に無理やり説得力を持たせたい時に鉄ヲタが使ってくる言葉 >>298
集合場所に並ばすのはいいんだけど国鉄新宿駅員のホーム誘導が下手糞なんだよ アルプス広場で集団待機させとかないと、早くからホームを占領する輩が酒呑んでホームから転落したり喧嘩して危険な上に
ドア開放で我先になだれ込んで大騒ぎになるから予防策だった
で時間になると誘導されて粛々と順番守ってホームに向かう
昭和40年代後半まで?新宿だけでなく、上野や東京でも長距離列車ホームに向かう階段のとこには時間が来ると撤収できる鉄柵があって駅員が切符チェックしてた
検問すぎたら結局走って早い者勝ちなわけだが 1979年8月11日(土曜日)に急行八甲田の自由席に乗った時は並ぶのはホームの線路に面した乗車口案内ではなくて
号車毎にホームを長方形にみて行き止まりから尾久駅方面に並んで通常は所定の位置にぶら下ってる乗車案内が並ぶ位置の
先頭に引っ越して入線10分前くらいに駅員が所定の乗車位置(吊るしたワイヤーに「12・14」と表示ある箇所に
乗車位置目標の案内板をワイヤーに掛けていた。
1985年の改正で八甲田の発車時刻が2時間遅くなった改悪八甲田になった時は繁忙期の一番混雑する時でも線路に
面して所定乗車位置に並べるようになったと記憶するけど昔は急行ちくまなどもピーク時の自由席は大阪駅の
ホームではなく、待ち合わせ場所に並ばされたよ。 列車待ちではなくて1981年の一ヶ月前の指定券販売も東京駅で列作ってたけどね。指定券を一括で管理してるセンターがあるから東京駅だと取りやすい、という噂に従って。ただもうこの時点では電話回線通してマルスのオフコンに
オンラインで直接繋がっていてどこで買っても
変わらなかったんじゃなかろかと思う。有力なのはJTB割り当て分を使える企業だったろと思う。 今の状況を思うと、そこまで帰省や旅行が一大イベントだった時代は一体何だったんだとなりそう
事情が事情だとしても、その旅行や帰省自体が不要不急の行為として、表立ってできなくなるなんてねぇ >>305 はあ?高度経済成長期って盆暮れや家族の危篤以外で、平日に旅行に行くなら不要不急と言われ有休取るの白眼視されてた時代だぞ。
だから、盆暮れに集中する。 上越線の733Mは車内仮眠しずらくてシートピッチも狭い115系なのと籠原駅まで
帰宅ラッシュで車内が込み合うから積極的に利用はしたくなかったけど347M・375Mや
中央東線の441Mみたいに早く並ぶ必要がなくて小出駅で下車すれば只見線始発の
会津若松行きに接続したし、宮内駅で下車すれば旧客522列車の米原行きに乗れたので
何気に便利だった鈍行夜行列車。
長岡から新発田まで乗り継げば赤谷線に乗って当時の国鉄で唯一のスイッチバック
終着駅だった東赤谷駅へ行き、スイッチバックの終着駅を探索するのに便利だった。 JR東日本とJR東海は、東京〜大垣駅間で運行していた臨時快速「ムーンライトながら」について、昨春をもって運行を終了したと発表した。「お客様の行動様式の変化により列車の使命が薄れてきたこと」や、車両の老朽化に伴うものとしている。
「ムーンライトながら」は、東京〜大垣駅間で運行されていた通称「大垣夜行」を前身として、1996年から同区間で運行を開始。373系や183系、189系といった特急車両などが使用されていた。2009年からは臨時化され、近年は185系を使用して年末年始や夏休みシーズンなどに運行されていた。新型コロナウイルスの影響もあり、2020年3月以降は設定がなく、同年3月29日の上り列車の運行が最後となった。 明確な最終運転もなく列車設定自体が正式に終了とは、ある意味見事な終わり方だ
>>306-307
その盆暮れでの帰省・旅行までも白眼視される時代になってしまったのか、と言うのが
時代の流れの1つなんだなぁってことで
卒業旅行も今後数年は「何それ?」となりそうで お客様の行動様式の変化で使命が薄れた
ワロタwつまり本来乗るべき若者18歳の若者ではなくおっさんジジイフラフラの18乞食ムーンライトながらなんか最早JR的必要ないはっきり言ってるじゃんw
https://11.teacup.com/keiichi/bbs/smartphone?M=JU&JUR=https%3A%2F%2Fwww.jreast.co.jp%2Fpress%2F2020%2F20210122_ho01.pdf 6ページ見ろww 18切符でしか利用されない列車に存続させる意味はないわな
貧民は格安高速バスに流れてくれたんで万々歳だろ >>312
乞食お爺ちゃんはリンクすらまともに貼れないのな このスレが新スレに移行する時には、テンプレを修正しないといけなくなったか(ながら正式廃止) そうえいば快速「ムーンライトながら」って品川→東京間の近距離区間を除けば1回も乗らないで終ってしまった
大垣夜行は153系と夏は非冷房になる155系で組成されてた347M/344Mや後の345M/340Mに大垣夜行末期の
375M/372Mに乗ったけど375M/372Mは静岡駅の深夜駅弁ホーム販売を終えてからは殆ど乗っていないに均しい
大垣夜行はグリーン車2両が連結されてるのが最大の魅力だったけど「ムーンライトながら」にグリーン車が2両
連結されていれば定期列車時代は乗ったかも知れない オレも大垣夜行は数回乗ったがムーンライトは一回も乗らずに終わった。つうか自由席がないので敬遠した。 ながらは要らないから銀河が欲しい
ダブルデッカー3列シートのドリーム号乗ったけど、狭いし動けないし振動すごいしで2度と乗らないと思った “春”の臨時列車の運転計画について
https://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000040932.pdf
・臨時の快速「ムーンライトながら」につきましては、お客さまの行動様式の変化により列車の
使命が薄れてきたことに加え、使用している車両の老朽化に伴い、運転を終了いたします。
お客さま=乗り鉄とおっさんとじいさん
行動様式=ただフラフラとしているだけ
列車の使命=おっさん爺遊び場ではない
こう意訳して読むべきなんだろうな合掌 そういえば
新潟夜行や長野夜行までありながら
仙台夜行はなかったね
なんでだろう? >>322 考えられる原因
1 80年代後半〜90年代前半、東北自動車道に比べ関越自動車道が渋滞区間が多く、都心からのアクセスに時間がかかり夜行バスの定時運行に支障があった。関越の方が首都高への直通ルート開通が遅れたこと、そして冬季の土日など藤岡IC付近から練馬まで渋滞というのがざらに発生していた。上信越自動車道が軽井沢まで伸びたのも90年代になってから。
2 新潟方面だと佐渡に行く観光客や新潟県北部まで行く旅客の需要がある。新潟から先、村上までは新幹線ないからこの辺りに行くのに新幹線始発より早く着ける。しかし、仙台方面だと一関辺りまで走らせるにしても新幹線が並行しているから、夜行のメリットが少ない。 >>323
485はその頃特急専用じゃなかったっけ
?富山〜糸魚川快速とか例外はあったが >>326 ムーンライトえちごが登場した85〜87年当時、455系、457系といった交直流急行用車両に、えちご同様の改造ができる予備があったかどうかが問題だな。
最初のえちごのように、14系客車で走らせる方法もあるのだろうが、定期列車とする需要があったのかどうか。この頃も、GW等の多客期には客車による臨時夜行急行ばんだい会津若松行きが走ってたが。 >>328 あ、そうか。ムーンライトのことが話題になってるから勘違いしてしまった。まあ、どうでもいいけど。 >>322
仙台行きの夜行は「急行まつしま」や急行「あずま」(福島〜仙台普通列車)とか
あったけど455系の上野発、座席夜行でシーズンオフの平日はいつも空いていた
東北新幹線が走れば客は流れるし、普通・快速の夜行でも距離的には中途半端だった
のだと思う >>322
寝台急行新星は、チェックインサービス2130から仙台で休めた。座席はむしろ福島電車夜行のあずま。福島から普通列車。 >>327
1989年の夏に、上野−会津若松の臨時急行『ひばら』というのに乗った事がある。
客車は12系で、郡山−会津若松間は快速。
郡山までは『ざおう』と併結だった。
これも懐かしい思い出 長距離普通列車というと
東海道347(345)M
中央441M
上越 長岡夜行
東北 123レ
って感じが強い 新幹線で2時間程度の距離に夜行があってもねぇ。
夜行バスは寝づらくて疲れるという意見をよく目にするが、未明の4時や5時から各駅停車になってざわつく列車はそれ以上に寝にくいんじゃないかと思う。 1980年代中頃くらいまでばんだい55号・ざおう55号という臨時もあった
郡山駅でばんだい55号のみ転線して1番線に入ってED77につけかえてた >>333
長距離普通列車だとからまつ(小樽21:16→9:30釧路「札幌・滝川経由」を忘れないで 2002年の8月のねぶた祭りの時に、臨時の夜行特急『青森ねぶた』号に乗った。
フレッシュひたちの車両で、青森発佐貫行きだった。
なぜ佐貫という中途半端なところが終点だったんだろうね? >>337
可能な限り利用客を見込めるまで南下して、長時間停留できる中線があって
勝田の車庫まで所定時間までに戻れる適当な駅が佐貫だったんじゃ 確かに、「仙台七夕号」(列車名はうろ覚え)や「相馬馬追号」とかも佐貫発着だった。それも上野からは始発でも間に合わない時刻発。上野からなら新幹線で行けって話だけども。 >>339
それでしょ
取手以南は上野まででて新幹線でいけるというか行けよということかも
藤代の立場がないが 土浦発の「ひたちふるさと」という急行客車列車もあった。 民営化直後の東北常磐スジは、上野と東北を結ぶ座席夜行急行が定期と臨時が入り乱れて毎日バンバン走ってて、それらが全て
仙台で客扱いしてたんだから、上野〜仙台の夜行なんてわざわざ設定するわけがない >民営化直後の上野と東北を結ぶ座席夜行急行
八甲田 十和田 おいらせ など
1990年9月1日以降は 津軽 おが あきた なども仙台経由 >>330
東北新幹線開業前は、夜行いわてや、十和田1往復も上野〜仙台は有効時間帯に入ったし、
新星もあったので、繁忙期はともかく通常期は供給過多だったのはある。
夜行まつしまはそのせいもあって、季節列車で設定されてた。 >>342、343
85年3月改正後、上野発下りの定期列車で仙台に早朝に到着する座席夜行列車って急行八甲田だけでしょ。仙台から盛岡以北に向かう客の需要もあったのだろうが。
仙台以北、盛岡まで新幹線が並行しているのが、仙台早朝到着の座席夜行快速列車が設定されなかった最大の原因だろうけど。上野でなく新宿始発として交直流急行車両の改造車を投入するとしても、定期運行化するほどの需要は見込めなかったわけだ。 十和田5号は上野23:20→仙台6:12だから首都圏から仙台への夜行列車として使えた >>345
1986年3月改正の急行八甲田は上野21:14発→仙台3:06着
とうてい朝や早朝とは言えない深夜から未明の到着なので利用しずらい時間帯 上り八甲田の自由席だと最繁忙期以外は仙台からでも余裕で座れたぞ
そして仙台駅を初めとする東北本線の主要駅の待合室は夜行列車の乗客のために終日利用できたし言うほど不便でもなかった
当時仙台から夜行急行の自由席を頻繁に使ってた身として、少なくとも仙台発着は単独列車として仕立てるほどの需要はなかったと断言出来る >>348
仙台の場合腐っても旧帝大の東北大学があるので仙台一高とか相当な優等生でも首都圏に出ずに東北大学はあるだろうね
新潟と比べると確かに高速バスはおろか高速バスがなかった頃のいわゆる急行も途中分割併合なしの佐渡よねやまに対し郡山または福島で連結が基本だった急行まつしまもだが要するに新潟程仙台から首都圏必ずしも進学でないのが大きいな
そしてそれは今の高速バスもまたしかり >>322
47.3まで常磐経由の仙台夜行はあったんだよな
43.10での143レから大垣夜行、50.3での425レが441Mみたいなことにならなかったのは
特段、この2列車みたいに必要とする人がいなかったんだろう
長岡夜行も客レの短距離、電車化だけとこっちは昼行もあったし、荷や郵便も繋いでた
から41レみたいな感じで残ってたんだろうね >>348
1980年前半までの平・郡山・福島・仙台はホームの待合室が24時間開放されてて冬には暖房も確保されていた。
八甲田1往復に津軽2往復、十和田が3往復が走っていたし、定期のまつしま・いわて・ざおうが走ってる時代は
選択肢が充分あって、さらに時間帯も早いのから遅いのまで走っていたから本当に便利だったよ >>352 待合室の硬い椅子に座って朝まで何時間も待つのか?煙草ふかしているのが隣にいたりして。
557の肉まんの匂いが立ち込めるのが嫌だという今日日の鉄オタが我慢できるかな? 車内だって煙草、酒、さきいか、氷下魚、足の臭いじゃんか。 タバコとかも問題化され出した当初は賛否両論みたいな感じだったんだし車内や待合室の飲食も既に賛否両論になってる以上十年後にはかなり厳しくなっててもおかしくないよな 客が鉄道ダイヤの都合に合わせて長時間待たなくてはならないのを多様性と言うのかなあ? 昔の話において実際に途中駅から使っていた人の実感に何の根拠も示さずに疑問符を付ける奇特な方がいるようですね
誰も使ってない言葉がどこからか聞こえる方でもあるようですが
【レス抽出】
対象スレ:夜行列車総合スレ★21
キーワード:多様性
357 名前:回想774列車[] 投稿日:2021/01/24(日) 18:23:19.95 ID:rtIuvYCz
客が鉄道ダイヤの都合に合わせて長時間待たなくてはならないのを多様性と言うのかなあ? >>357
ローカル列車は福米間など、まだまだそんな箇所は多いだろう。 >>352
北海道や東北の暖房付きホーム待合室は冬には天国だったよ
東北ワイド周遊券エリアでも他に米沢駅、山形駅などの駅でも世話になったよ
十和田3往復、津軽2往復、八甲田1往復意外にも多数の座席夜行列車が
走って他におが、鳥海、出羽、いわて、ざおう、ばんだい、あずま、松島などの
自由席連結の夜行急行が多数深夜から未明に走っていたので待合室を終夜
開放している駅も多かった
>>354
奥羽線福米(板谷峠)の旧型客車撮影で学生時代に福島駅のホーム待合室で10泊
くらい宿泊してるけど座れる椅子があれば御の字だよ 当時は自分も1日に煙草2箱は
吸っていたし557とかいう聞いた事ない肉まん(551蓬莱は知ってるけど)の臭い
くらい全然余裕だった 当時学生だったし、野宿に近い駅寝とかも経験してるから
ホームの待合室なら天国 >>354
暖房の効いた待合室で長椅子占拠して足を伸ばして寝れたら天国だったな
今日日の鉄オタには耐えられないやろね 今は駅寝なんてしてたら不審者として通報案件だな
土合みたく閉鎖したところもあるし 確かに昔はホーム待合室で寝泊まりは普通にありだったな
駅員も何も言わなかったし
大きな駅だと深夜でも駅そばが開いてた
個別のプラ椅子じゃない木造の長椅子だから横に伸びて寝れたので
特に大柄な自分は夜行列車の2席占領できない椅子寝よりも楽だった
車中泊は移動距離稼げるので意味はあるが 若い時に駅寝できたと言ってる連中も高齢化したら耐えられないんだろうなあ。
人口高齢化で長時間の移動を避ける利用者が増えたのも、夜行列車衰退の一因。 昔の待合室を天国だったと思わない非鉄オタの方々が多数いるから、深夜到着し朝まで待合室という移動を避ける人が増えたってわけで。 >>365
駅寝って高校生や大学生時代まででしょ?自分も学生時代はよく駅寝したよ
自分は22歳に就職してから一切駅寝の類から手を引いてホテルや宿に泊まったけど
駅寝のスピリットは心に潜んでいたので機会があればチャレンジしてみたかった。
しかし結婚し子供が出来て勤務先でも職制ランクがあがると世間に後ろめたい様な
事が出来なくなったのは事実。
今の高齢者定義では20〜64歳を現役世代、65〜74歳を前期高齢者、75歳以上を
後期高齢者(WHO定義でも65歳以上)なので昨年還暦と定年退職を迎えた61歳の
自分は高齢者には入らないみたいだがもし許せるのなら'77〜'82年くらいまでの
状況下ならチャレンジしてみたいけど8.11事件以降の駅寝なら興味ないよ。 駅寝じゃないけど1981年に大学生グループが東京駅で大垣夜行の席取りでシートをホームに
広げてトランプしてる写真がある。当時、鉄道ファンの本の写真だけが鉄道写真ではないのではないか?と思って、あさかぜの出発ホームの見送りの人達の様子とかもスナップしてみたのだが、出来てみると何か退屈だし周りも何でこんなの撮ってるんだ?などと言うしで結局、いつもの七三構図的な写真に戻って行った。
しかし、今になってみれば当時の問題意識は正しかったと思う。もっとスナップ撮っときゃ良かったって。 >>367 8.11事件って何?
9.11ならわかるが 特にバブル以降学生がお金持ちになったし逆に90年代は航空運賃自由化、長距離バスの台頭、2010年以降は航空LCCの出現などでそんなだう大学生の景色は無くなった、というか社会がやたらうるさくなってホームでシートなど許さない雰囲気になった。…けれど当時がそんな事もあった。 とか、服装の野暮ったさwとか、今見ると面白い。 ってか今の時代でも皆がマスクつけてる姿とか後に残る記録とかあるはずなんだけどね。駅撮りで人が入るとかで怒号の応酬になってるのってアホくさい。むしろ怒鳴りあったり、駅員が怒ってるシーンとかの方が面白いよ。73構図の写真は誰かが撮ってるから 訂正:8.11→9.11 2001年9月11日に起きた米国同時多発テロ事件
>>362
暖房の効いた待合室で長椅子占拠でよく世話になったのが函館駅の青函連絡船
函館桟橋待合室の3人用の長いすはよく世話になったよ。1982年くらいまでは
有人駅も無人駅も長いすがある駅が多かったから混雑する座席夜行に座って移動
するより楽だった。
>>354
駅寝の臭いので困るのは浮浪者の臭いと不完全燃焼の石油ストーブの臭い以外は
何とか我慢できるレベルだよ。 >>368
ホームでのスナップ写真なら上野駅地平ホームでの旧型客車夜行と
東北から来た御老人(特に老婆)とのショットが良かった
自分も撮り鉄だけどシチサン写真は1984年くらいのEF58撮影で
卒業してその後は風景写真ばかり撮影している
1985年からポジ(リバーサルフィルム)を使って撮影を始めたのと
車での移動が中心になって駅には近寄らなくなったからスナップ
撮影はやめて走行撮影を俯瞰や風景入れて撮るスタイルになった 貧乏学生だと宿に泊まる金がないし、金があっても夜行列車泊か駅寝で済ませていた
極力駅寝は避けたいけど例えば前の日に興浜南線〜宗谷バス〜興浜北線〜天北線と乗り継いで
翌日は羽幌線の始発を幌延駅から乗るには宿に泊まれない学生には幌延駅で駅寝のみ
南稚内駅に近い銭湯で風呂入って急行利尻に乗って幌延駅で下りて駅寝するのは仲間がいないと
初めてはすごい不安だけど寒さや恐怖心と戦い、強靭な心と根性が形成されたと思っている >>371
主要駅の待合室は冷暖房完備、ドアありで快適な分、古事記がよくおったからな
長野五輪前年に長野駅に古事記がおったが、同類だと思って鉄に寄って来るんだよなw >>374
そうは言うけども 昭和50年ぐらいまでは普通だったと思うよ 俺も学生の時は、九州周遊券使って、宿泊場所は
ホテル金星
ホテル日南
ホテルかいもん
ホテルながさき
ホテルさくら
+ユース4泊
で、14日間旅したぞ ある意味周遊券の思い出とも絡むよなぁ、夜行列車の思い出って一定世代以上は
個人的には、周遊券は滑り込みセーフで1度だけ(1997年)しか使えなかったけど >>373
深夜に幌延駅に着いて始発の羽幌線乗るには宿取るだけ無駄だと思う。
一旦札幌に出て下り利尻なら幌延から始発の羽幌線に乗れたけど
道東から道北を乗り潰しで攻めてる鉄道ファンにとって札幌まで戻るのが
時間の無駄であり、楽するために手間をかけるのは軟弱とさえ言われた。
ユースホステルは安くていい施設だけど70年代は21時以降の到着と
朝早い出発は無理だと言われて始発から終電近くまで動いていた。
>>377
20日間有効の北海道ワイド周遊券で22日間旅したのが最高記録かな。
有効期限が切れる20日目を網走〜札幌を急行大雪5号で旅して21日目の夜は
札幌から夜行急行すずらん4号で函館に出て青函連絡船で青森に出て
22日目の夜は青森から上り急行津軽1号で上野へ。
旅客営業規則第155条(継続乗車船)という制度を利用して途中下車
しなければ出発駅まで戻れる制度を合法悪用した乗り方。
夜行列車連続座席宿泊7連泊や8連泊はザラだったし、夜行列車折り返しも
やったけど寝不足で昼間はつらかった。 >>379
ユースは門限に異常に厳しいのはごく一部で
事情を説明すればだいたい赦してくれた
白滝や大沼公園にはお世話になった
なかにはミーティングや食事含めルールが全てみたいなとこもあったが
そういうとこはパスした >>379
そんな場合は急行礼文利用で旭川に出て下り利尻を捕えるか、
上り利尻から下り利尻の夜行折返しをする猛者のいた。
上手く折返し駅で起きられるかと、座席の確保が問題だったけど。
北海道の国鉄線は本数少なかったけど、夜行列車との深夜・未明の接続の良さが多かった。 >>379
継続乗車船という制度で周遊券の有効期限を合法的に水増しするやり方は当時のコアな鉄道ファンの間では
知られていたけど私は同じ様なコースで青森駅から大阪行きの急行きたぐへ乗りましたが大阪市内の駅で改札を
出ようとすると改札係員から有効期限が切れてると言われ継続乗車船ですけどって罵って言ってやりました
埒があかなかったら制度担当者を呼ぶ心積もりはあったけどアホ駅員軟弱ですな
>>381
夜行列車折り返し(キックターン)は始発駅から乗れば席の心配はないけど深夜下車する時に寝ちゃって
乗り過ごしたり、戻る夜行列車は終点まで寝れたけど席の心配などあるし、どうしても寝不足になるから
昼間のローカル線で景色のよい場所で居眠りしてしまうから問題なんだよね
自分は大学時代に7月から8月20日までバイトで旅費を貯めてから8月下旬から9月にかけての空いてる時期を
見計らって旅したので夜行列車折り返しはよくしたけど札幌に向かう夜行列車に乗ってすれ違う駅から
稚内・網走・釧路方面の夜行列車で戻るパターンが多かった
利尻、大雪、からまつ、すずらん、43レ・44レの5系統が中心で急行狩勝は自由席の連結がなく、その後に
自由席が1両連結されたけど1両ではお話にならないので、からまつばかり使ってた お爺ちゃん達の武勇伝
>罵って言ってやりました
昔からヲタってこうなんだよな。そりゃ車掌に中指たてられますわ 今の言葉で言う乗り鉄、自分には素質がないんだなと改めて感じる。田舎が福岡で北九州ワイド周遊券をいつも使ってたけどいつもあまり活用出来ずに期限切れたなあという感じ。確か16500円だったかな。一度親戚の家に行ったらずっと行きっぱなし。夏が多いから、暑くていちいち出掛けない。最長は20日間、今思えばよくも図々しくと思うんだが、よくも泊めてくれたと感謝。一度鹿児島まで足伸ばす為に九州ワイド買って有明で往復した時は有効に使ったなと思う。。都内との行き来は、まずあさかぜだった。臨時20系に乗ろうと思えば乗れたけど、やっぱ70センチだよなと結局乗らずじまいだったのはちょっと後悔してる。免許取ってからは車で山陰経由でユースホステル3泊しながら、これは実に贅沢な旅だった。で、疲れた帰りはオーシャン東九フェリー。フェリーがある限り夜行の情緒は失われないぞ。 お爺ちゃん達の武勇伝
>罵って言ってやりました
鉄ヲタかつ頑固ジジイ救いようねえなw
コロナでちゃっちゃと死んだらいいのに 周遊券切符残したいから自宅最寄り駅は通学定期で降りてた いい歳になって「罵った」を自慢げに書き込むとか終わってる
若い時に言ってしまってすみませんでしたならわかるけどな 還暦過ぎ定年後いい歳になって「罵った」を自慢げに書き込むとか終わってる
若い時に言ってしまってすみませんでしたならわかるけどこのじいさんは(苦笑)
こんなじいさんがモンスタークレーマーいわゆる老害ジジイ思うと鳥肌が立つわ >>385
自分は福岡市生まれだけど大学から就職まで東京住まいで
お盆休暇と年末年始の帰省は"あさかぜ1.4号"の利用が
多かったけどのちにカートレインが走ると家族4人揃っての
帰省に変わったよ
カートレインの運転が終ると東京港フェリーターミナルから
新門司港までオーシャン東九フェリーを利用した事もあった
東京港発は夕方に出港するので東京湾内の夜景や京浜工業
地帯の夜景を見ることができて実に素晴らしかったけど
当時は個室やレストランのある船もあって新門司まで2泊3日
を要したけどカジュアルフェリーに統一されてしまった
台風でも来ない限りはあまり揺れないフェリーだったけど
展望風呂で寛いだり船旅は鉄道とは違う楽しさを演出して
くれてすっかり嵌って北海道方面のフェリーまで乗る始末
ただし冬場の日本海航路は揺れるから冬場は遠慮したい 誰も食いついて来ない長文の思い出話はブログでやってくれる? 禾重の取り巻きもよく駅員とかと揉めてたな。
真夜中に一人一人起こして検札にきた車掌に新聞紙投げつけたり。
ただ、そのころの駅員は横柄なのも多かったのは確か。ある程度自己主張しないと、勝手に不正乗車と決めつけてくるのも普通にいたし。 種自身が車販が回ってこなければ「車販が来ない」と文句を言い
寝てるときに車販が来たら「人が寝てるのに来るなうるさいだろ」と堂々と雑誌に書いちゃうジジイだからな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています