【おおぞら】キハ80系を語るスレ 3D【かもめ】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
京都→長崎を走った80系「かもめ」は、3D時代が長かった。 >>472
80系は国鉄分割民営化当時であと数年の寿命で、85系の新車投入計画が既にあったから、
シートは最小限の改良で、当時快速で主力だった117系に合わせたのでは?
あの転換クロスも、当時国鉄のマイナスイメージから脱却の意味合いがあった。
快速みえはキハ28も入っていた。 リゾートライナーがキハ58併結で運転してたのはエンジンの老朽化が原因というデマがあるが車重が重くてキハ82一般車と同一スジで走れなかったため
せめて1エンジン車はカミンズエンジンを250PSにデチューンして換装しても良かったはず 北海道のキハ80系。これはイラスト入りになる直前だな。
https://youtu.be/kKfRhN9VeRs >>476
パワー/ウェイトレシオではキハ80系よりもキハ58系のほうが勝ってるんだよね JRマークを付けたキハ81が見たかった
70年代に全廃されてる
キハ82は少数が北海道と東海に承継された >>477
更に勝っているのがキハ55系
中央西線の急行はキハ55からキハ58になって、所要時間が延びたという
>>478
Mm比(2エンジン車と1エンジン車の割合)が同一の場合、ってことでしょ
紀勢線「南紀」の最晩年、キハ80系でMm比が1:1になって所要時間がかなり延びた
急行並みかそれ以下じゃなかったかな 更に一部は機関換装と足回り強化による最高速度110km/h化で追い打ちをかけていたな…怪速みえ >>483
キハ80系
・・・・117系並の転換クロスシート
快速みえ機関換装車及び急行かすが
・・・・新幹線から転用の簡易リクライニング 転換クロスだと背面テーブルが無くなる
意味不明な改造してたとか異常
登場時の185系並みのアコモに低下してる 1M2mで走行した事例はないな
キハ181系は3両で走った事がある >>485
185系登場から5年しか経ってない時代の話だからな JR北海道はリクライニング化したとか正反対の改造してる
しかし一般車両はJR北海道が先に廃車になってる
東海のやつはナゴヤ球場正門前駅の輸送で95年まで生き延びた >>489
キハ80系については、美濃太田所属は少なくとも特急運用時代はなかった。 キハ58はキハ28を適当に混ぜないと冷房できないんだったかな。 東海のキハ82系のJRマークはオレンジのと白の二通りが居たね >>488
北海道のキハ80系のリクライニング化は、定期列車運用がすべてなくなって、
臨時運用に入れる際に改造したんもの。
定期運用の際のアコモ改良は、茶色の壁・茶色のモケットの回転シートというもの。 東海はキロ80が承継されてるが北海道は民営化時点で定期運用が無くなってて波動用で普通車とキシのみだった
キシを承継した理由が謎
1両がトマサホに改造されたが残り2両は放置プレイだった >>496
フラノエクスプレスか、他のリゾート気動車に連結する計画があったのでは?
北海道は他に583系も、何も手を加えず廃車したし。 仮にもし北海道でキロが承継されたとしてもジョイフルトレインしか使い道が無くて放置プレイだっただろうな
波動用と割り切ってモノクラスになってた >>497
北海道のサシ581は客車に改造する計画があったとか言われてるが冷房装置がパンタグラフ折り畳み高さまで突出してるので入線可能線区が限定される >>496
80系は回路をキシまたはキロで、クロスさせるので、キシも残しておいたのでは。
言い方も正確ではないとは思うが。 >>500
先頭車を両渡りにすることでモノクラス可能にしてる キハ82の機器室を通り抜けた人いる?音とかどうだったかな。 キハ82の写真見ると乗務員ドアの窓を開けっ放しで走行してること多いな ラジエーターが収まらなくて苦肉の策で床上に置いてたな
キハ181・183初期も同様
完全に床下に収めて客室化したのはキハ183Nから JR東海車は晩年2M2mで走行する事が多く出力でキハ58・65に劣ってたな
挙句の果てには快速みえに下剋上される有様
一般車では1M2mがシステム上可能な最小構成だがこれで走った事例を聞いた事が無く非常に遅くなる >>497
台車だけ、クリスタルエクスプレストマム&サホロのキサロハ182になった。 あすかの場合運転系統的に失敗だったが
へいわの場合は電化までの中継ぎだから黒歴史じゃないでしょ >>510
運転系統、時間帯もそうだしあすかが走る時間帯に関西線内でかすがが並行して走ってたからそりゃ人気もないよな
もう1往復名古屋を朝方発車する列車を設定して天王寺や湊町に行ってたら名阪間需要を取り込めてた気がする >>511
80系にちりんと共通運用で回していた。
にちりん全面電車化で廃止。
つばさが181系気動車時代に存在したあおばと同じようなもので、失敗とは言えない。 >>513
確かににちりんの間合いだけど、えびの1往復を格上げしたものの、変速機が高速向けだから肥薩線の勾配はキツく、高い金払わせてるのに所要時間はそれほど上がらなかったはずだから個人的には失敗と思ってる。
当時は全国各地で特急格上げが進む中、廃止後に同区間は急行のみとなるってことは、試験的に間合いで特急化したものの需要があまり望めなかったってことでもあるだろうし。
逆に需要があったとしたら国鉄お得意の全国転配をしてでも格上げによる増収を図ろうとするのでは? >>514
博多〜都城・宮崎では、にちりんより距離や所用時間の点があっただろう。
矢岳越えの遅さは、八代〜宮崎の特定特急券で利用促進したし。
そのせいか利用はそれなりにあった。
200キロ以上を特定特急区間にして、特急を安売りが失敗だったと言えばそれまでだが、紀州東海岸を行く特急南紀も、遅さは似たような感じだったし。 >>512
近鉄に勝てないでしょ
その近鉄も名阪甲特急が乗客減少で2両で走ってた時代 1975年2月 特急おおよど 博多−宮崎 下り6時間21分 上り6時間8分
1975年2月 特急にちりん 博多−宮崎 下り6時間27分、6時間32分 上り6時間21分、6時間30分
にちりんは、所要時間の短いほうが電車、長いほうが気動車 >>517
日豊本線の単線区間が長いのもあって、485系も80系気動車も大して所要時間が変わらなかったな。
その当時存在した、485系電車化して1年足らずで廃止になった特急「日向」も、
所要時間は80系気動車時代と差がなかったと言われている。
1ヶ月後に新幹線博多開業してエル特急になった「にちりん」も、大差ない所要時間だった? 1975年4月 特急にちりん 博多−宮崎
下り6時間35分、6時間48分、6時間42分、6時間37分、6時間37分
上り6時間31分、6時間38分、6時間35分、6時間31分、6時間36分 こういうの見ると、昭和30年代って、ものすごいスピードで技術が進歩してたんだなって 三岐鉄道にもかつてキハ81、キハ82という形式があって、しかも関西本線に乗り入れてたらしい
国鉄のキハ81やキハ82と交差することはあったのかな? >>522 戦後、アメリカから入ってきた溶接や生産管理等の先進技術が普及したことが原因。エンジン含め、基本的な技術は戦前から戦時中にかけて開発されていた。ただ、当時は物資不足と生産技術が貧弱だったため、量産できなかった。
ステンレス車にしても、米国で戦前に開発されている。 >>521
そちらは電車特急だがいしかりも「いしかりがっかり」と呼ばれてたな
やはり「かり」で終わる愛称は不幸ばっかりだな 81系の「はつかりがっかり」ばかりが取り沙汰されるが、82系の「瀕死の白鳥」の事も偶には思い出して下され >>527
北陸本線が柳ヶ瀬経由だったころの旧線でキハ80系「白鳥」が車両故障を起こして、
C57に牽引されたとか >>528
北陸トンネルが翌年6月に開通したから、杉津峠越えの白鳥は1年足らずだったな 80系のはつかりとか白鳥っていうと、経路が災害等でダメになった時に
はつかりは花輪線~奥羽本線~五能線経由、白鳥は高山本線経由で運転したこともあるんだよね
特急の重要性とか災害時対応のマニュアルの違いとか
今とは色々事情が異なるのは分かってるつもりだけど、それでも凄いことしてたんだなと思う >>530
その他、キハ80系の「白鳥」は五能線や小浜線・舞鶴線・山陰本線経由で迂回運転されたこともあった >>531
気動車ならではの、線路があればどこでも迂回できる機動力だけど、そんな迂回運転すると、実質夜行列車にならなかった? >>527
「瀕死の」ははつかりも「瀕死のはつかり」と取り上げたメディアもあったよ ヘッドマークが絵入りになった時でも、まだ少数走っていましたね
北海、北斗、オホーツク、おおぞら、おおとり
それぞれ1往復だけでしたが、撮ることは出来ました
美しい印象ばかりです キハ81の開発にあたって、たしか前頭部(ボンネット先端から運転台後部あたりまで)の、ひとのアタマ2個分くらいの大きさの塗装済みのモックアップのモノクロ写真をなにかで見た記憶があるんですが、当該モックアップの写真が掲載されている文献もしくはサイトを御存知のかたはいらっしゃいませんか
いま探しているんですが、なにで見たのかが思い出せなくて >>530 災害による緊急時とはいえ、行き当たりばったりで事前テストもなく五能線などのローカル線走らせたのだろうか。自重、全高等、キハ55とあまり変わらないから、入線可能と判断されてたのだろうか。 >>536 自己レス、Wikiでキハ80とキハ55の寸法比較してみたが、ほとんど変わらない。
全高でキハ80の方が2p高いだけ。高運転台、裾絞りの外観に捉われていた。 当時はそのへん結構雑だったのかもしれない
キハ10系の銚子電鉄乗り入れ運用にキハ20入れたら観音駅で車体がホームこすって
以降直通やめたなんて話もあったりするし…… >>535
自分も見た記憶がありいろいろ探してみたら鉄道ファンNo.180(1976年4月号)の
「ディーゼル特急"はつかり"の登場」という記事にモックアップのモノクロ写真が
載っていたが、これかな?
>>536
昔の国鉄は迂回ダイヤを常に用意していたそうで、はつかりや白鳥の話じゃないが
石北線過去スレにおおぞらの池北線ルート、おおとりの名寄線ルート等の迂回ダイヤを
駅で見せてもらった人の書き込みがあったな。(なんとも羨ましい・・・)
入線テストがあったかは知らないが、行き当たりばったりではなかったようだ。 祖父が学生の頃、まだ急行だった『日本海』で北海道に向かう際、
秋田の手前くらいでなんらかの災害が発生して奥羽線が不通となり五能線経由に臨時変更
但し五能線の規格、五能線に入れる機関車の牽引力、カーブの関係などで『日本海』の編成から半分くらいの客車が減じられたと言っていた
80系『白鳥』五能線経由の様に、気動車特急がローカル線経由に変更になった場合、同じ様に減車されたりする場合もあっただろうか?
10両編成くらいだったらキロ・キシの他とキハ80の4両くらいを抜き取るとか 8620やDF50だったら日本海の通常編成で問題ないと思うけどな >>540
客車と違ってキハ80系の中間車抜き差しでの減車は無さそうかなぁ。
減車するなら基本7両のみで行く感じだったんじゃない? ありがとうございます!
いくら探してもなかなか見つからなくて困っておりました
こだま形のような前頭形状からキハ81のあのデザインに至るきっかけについてちょっと考えてみたくなり、必死に探し回っておりました
御回答、感謝申し上げます!! >>539 さん
追記、ナンバーの書き忘れ、たいへん失礼いたしました
深謝 白鳥の五能線迂回は1963年と1966年の2回
1963年の時はそもそも青森白鳥は6両編成、1966年の時ははくたか分離後で新潟折返し編成のあった時代で10両
これだったらそのまま五能線に入れるでしょ 五能線の各駅交換長は一部駅で160mがあるけどだいたい240m以上
だから、10両編成までならほとんどそのまま入れる
交換長を越える編成を通過させる場合、
交換長を越える編成は機外停止させて、先に交換する有効長内の列車を駅へ進入させて停車させ、その後で交換長を越える編成が駅進入→出発 南紀で晩年のキハ82系を扱っていた名古屋工場の検修のインタビューやルポの載った当時の雑誌ないかな?今ならイカロス辺りが取材してそう。 故障が連続したからってしんぶんにまで叩かれるなんて不運だな >>550
当時としては20系客車、151系こだま型に続き、期待が大きかったのだろう。
それらを踏まえて改良したキハ82が、故障が少なかったのも結果的に収穫だった。 >>545-546
編成が逆になってしまうが、青森のデルタ線でも使って直したか? >>552
復路を同じ経路で走れば、編成の向きは元通りになって尾久に戻れんでは? すまん、はつかりではなく白鳥の話だったか
だとしてもやはり、同じ経路で戻れば、車庫に戻る時の編成の向きは元通りだが ピク10月号で予定されている特集『思い出のキハ80系』が楽しみだ
前回の特集(2003年8月号)に載っていたキロ後位のジャンパ栓受移動と
キシの電力負荷分担の解説は非常に興味深く楽しめた
前回の特集から(単独では)いつのまにか20年、この先ますます取り上げられることが
少なくなるだろうし、この機会に可能な限り濃い内容で発売してほしいな 公式やamazonでは売り切りだったが地元の書店に行ったら複数冊が棚にあったので買った
>>551
82の方も「瀕死の白鳥」と新聞には叩かれた様だが 80系が走っていたころの特別急行は
字の通りそうそう乗れるものではなかったのでは。 同じ80系を名乗る湘南電車の方も初期は故障多発で『遭難電車』と揶揄されてた おおぞらは3本とも出自が違うとか書いてあったが
今のおおぞらも昔からの3本に加え狩勝つの帯広以東の格上げしたタイプ2本と臨時まりもの定期化したタイプと出自がばらばら
最後まで283を使っていたのが臨時まりも格上げ便と昔からの3往復のうち2往復
おおぞらの中でも格式に差があるのかな >>463
おおとりの間合いで使用していた
札幌を夕方にでる急行大雪の格上げ
札幌発着の急行大雪はノーマルタイプ
釧路延長タイプ
紋別、はぼろを併結タイプがあり、置き換えやすいノーマル→釧路→紋別、はぼろ併結の順に格上げしていった 80系と183系混在の時代に、キシ80目当てで乗り鉄旅行に行ったが、おおぞら は真っ先に183系化されてたので一度も乗らなかった。今から思えば、絶対に営業されてたに違いないビュフェもどき、見ておけば良かった! キハ82後位の両渡り化改造が国鉄時代から行われていたことは知っていたが、それが昭和41(1966)年度と古くから
しかも北海道だけで行われていたことは今回初めて知った てっきり道外でも改造されていたものと思っていた
昭和46(1971)年から電車化までの「白鳥」のキハ82+キハ80の客用ドアが向き合う付属編成は、キハ82後位に元々
備えられていたジャンパ栓受移動の機能を使って連結していたんだな 名古屋~富山経由~金沢を走った急行加越が、80系の特急ひだに変わったのが昭和43年なので
20年以上も居座っていたのがすごい。 >>565
『ひだ』は奥羽本線電化で余ったキハ80系、同期の『しなの』は新製の新型キハ181系
(しかも食堂車付き)
しかし『ひだ』のほうが故障も少なく安定していた。 燃料タンクが大きく航続距離的に2000km位走れたとか凄いな
最近の軽快気動車だとどっかで給油しないと大阪~青森とかの超長距離は走れないはず >>567
まあ使用する列車に適応するように設計しているからね あと流石に2,000kmは無理だよ
キハ80系の燃料タンクって550Lしかなかったし 夏季のみ延長運転していた函館〜網走間の「北海」に通しで乗ってみたかった 網走延長運転時の「北海」はいろいろ特徴がある面白い列車だったな
延長運転期間中は札サウ受持ちの「オホーツク」と組み合わせた運用だったので、通常は組み込まれない
キハ82 900が編成に入っていたり、「北海」は山線経由のため函ハコ編成と札サウ編成の向きは逆になるので、
「北海」も「オホーツク」も毎日上下で編成の向きが違っていた
1974年頃までは10両編成のまま網走まで運転されたが(「オホーツク」も「北海」延長運転期間は10両)、
1975年頃から旭川で付属編成を切り離して7両で石北線に入るようになり、基本編成が札サウ持ちの時は
函館−旭川間で号車番号が函館方から@ABIH…DC号車となっていた(@〜B号車の付属編成は函ハコ持ち)
(1980年の55-10改正で道内特急の号車番号は札幌方から@AB号車の順、「オホーツク」も@〜F号車の7両に変更されたが、
1981年夏季延長運転時の札サウ基本編成時の号車番号は未確認<(_ _)> 想像だが函館方からIHG@A…EF号車かな?)
1981年まで夏季の「北海」網走延長運転は行われたが、直後の56-10改正で「北海」は函館−札幌間に短縮、
札幌−網走間は「オホーツク3・2号」(札サウ受持ち、特急なのにサボがツートンでガッカリ…)として定期化された ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています