【おおぞら】キハ80系を語るスレ 3D【かもめ】
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京都→長崎を走った80系「かもめ」は、3D時代が長かった。 >>200
マニ20の燃料タンクは700リットル×2個だが「あさかぜ」での運用実績で
1個でも十分そうなので、カニ21では1個に減らした。 >>201
電源車的に増量が減っても荷物車的には増えてるだけだろ >>201
1700リットルでは?
700リットルでは流石に持たんやろ…
片道1700リットル、往復して給油を前提に2個装備でマニが作られたけど、結局片道ごとに給油してたから1個装備になったと何かで見た気が…違ってたらゴメン。 マニ20 1700リットル2個
カニ21の最初期3両だけ 1700リットル1個 1,51,52のみ(のちに量産化改造)
↑ あさかぜ運用実績とあさかぜ運用のため。あさかぜで押し出されたマニ20は鹿児島(はやぶさ)運用へ回す計画だったものの・・・
カニ22(架線集電MG付) 1700リットル1個(予備車となった51だけ架線集電MGは積まれず車内に800リットルタンク2個増設で完成)
↑のちに架線集電MG撤去・燃料タンク増設車は増え(52,53が1965年に改造、1,2,3は1968年に改造して全て架線集電MGなし)
カニ21量産車 1700リットル2個
マヤ20 900リットル2個
改造マヤ20を除く20系電源車新製配置年
1958 マニ20 1,51,52
1959 カニ21 1,51,52
1960 カニ22 1,2,51,52
1963 カニ22 3,53
1964 カニ21 2,3,4,5,6
1965年以後カニ21だけ
以上スレチ ○○
「鉄道伝説」Vol.2のキハ181系の回に出てくるキハ82の落成写真、よく見ると凄い編成。
キハキシキシキシキハ
3両だからジャンパ栓の亘りも正しい向きになる。
ttp://pbs.twimg.com/media/EtOQj_gVgAMp-IE.jpg
ttp://twitter.com/TechnoTreasure/status/1356587398033932289
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) キハ81の高砂工場出場回送車は、工場で再塗装も行われて新車同様に美しくなっていたが、
「はつかり」で運転開始した当初のような華やかさは感じられなかったな。 >>207
向日町運転区1961.9.1新製配置の日車製
キハ82 8,40
キシ80 7-9 タブレット無くても、こだま顔にDMH17H-Gは収まらなかったと思う。 >>207
>3両だからジャンパ栓の亘りも正しい向きになる。
ならないだろう。キシの制御回路は2位->3位へ[/]の形で通っているから、
3両繋げても[/][/][/]の形にしかならない(方転しようが)。両端のキハは
繋がっても真ん中のキシが繋がらない。
鉄道誌に載ってる回路の略図を見れば繋がらないことがわかるが、もし、
写真の編成の回路が繋がっているなら何らかのからくりがあるはず。
80系の回路は謎があり、回路が繋がらないはずの編成の写真が雑誌やネットで
見られる(もちろん営業列車)。次回どこかの雑誌で80系を特集するときには
そのからくりを解明してくれないかなw 画像ではキシは1両だけ逆向きで組成されてますね
試運転だし制御回路の構成は細工ありでしょうな 百何十馬力のカランコロンエンジンでよく特急列車を走らせた。 キハとキシは繋がるよう連結されている
しかし、キシ同士はどれともつながらない
また、運転士が居ない(1961年10月改正時前でキハ80系を用いていたのは「はつかり」だけ。東海道本線の豊橋−米原間で気動車急行列車なし)
よって、メーカ日車豊川でキハ+キシ(キシは繋ぎ直してもう1両も)にて試運転した後、それらを繋いで機関車へ牽引されて向日町着
そして、2両だけエンジンを回して気動車区画へ入れた
と想像 >また、運転士が居ない
定期の気動車列車がなくてもさすがにそれはない
こういうのは指導担当とか特に指定された運転士が担当する カランコロンカランコロンカランコロンカランコロン、ドッ、ブォ〜〜〜〜〜〜ッ 北海道の三笠鉄道記念館に屋外展示されているキハ80系6両編成は、キロ80の連結位置が
キハ82の次位ではないなど、本来の編成とは編成順序が異なっているな 途中で引き通し反転は一時期ブームになってたが廃れたな
晩年はキハ82の連結面よりを両渡り化改造してキハ181系みたいな中間車の向きが全部揃った組成になった JR北海道のキハ80系は、キロ80やキシ80がすべて廃車となったため、モノクラスで
編成が組めるように回路が改造されたりされていたな 151系→181系はどういう訳かクハを両渡り化改造せず
クハ180が登場した一因 モノクラス編成は民営化以前に登場している。1970年夏に運転されたエルム51号。
1982年に廃車となったキハ82 1は両渡り化済みだし、キハ82後位の両渡り化も
国鉄時代に行われていたようだ。 キハ80系時代の特急「あさしお」は、6両編成に付属の3両を連結した9両編成だったが、
閑散期には8両編成で運転される事もあり、その時は中間にキハ82が入らない編成と
なっていたな。 というか境線あるんだから鉄ヲタはみんな知ってると思ってたわ
217見て分からんのなら理解できるけどな
223に聞いてるからな オルゴールが二種類あったな
苗穂の最終編成は
運転台がブラームス
車掌室が気動車汎用アルプス 車内放送オルゴールって受話器に付いてるゼンマイ式?それとも本体に付いてるの? >>214
本当に非力な、旧式なエンジンで、しかも極寒地やら勾配線区やら、さぞや保守に手を焼いただろう。51〜2年ごろ(183系登場前)の「電気車の科学」なる雑誌に、故障頻発の記事がよく載っていた >>230
もっと種類あるはず
あれこれ入り混じってたな
ブラームスの子守歌は20系客車と同じチャイムである >>234
80系のブラームスは20系客車のものとはメロディが違う。 KATOのHOゲージ・キハ82 900番台を買った。
模型で是非とも1両欲しかった車両だ。
実物では絶対に乗りたくない車両だったけどw グリーン車を普通車に改造したため、窓割とシートが一致していない。 クハ480やサハ481-1100?もそうだったっけ? >>239
クハ481-1100のことかな?
だとすると中間グリーン車→先頭普通車の改造だからキハ82 900番台と一緒のケースだね
クハ480はサハからの改造だろ? ほれ
https://dotup.org/uploda/dotup.org2399590.jpg
特急「くろしお」 名古屋―八田(近鉄烏森―八田)
1970年か1971年
珍車と再確認したのはスキャンしてから S45(1970).9.22に902(元キロ80 5)が鹿児島から和歌山へ転属されている 博多「まつかぜ」1・4号が米子発着に変更されてキハ181系に置き換え後、
向日町運転所で用途廃止となった「まつかぜ」用のキハ80系の一部が
名古屋第一機関区と函館運転所へ転属したが、これらの転属車の中にはキシ80も含まれていて、
函館運転所で状態の悪かったキシ80が向日町から転属してきたキシ80と
置き換えられて昭和61年11月の国鉄ダイヤ改正直前まで使用されていたな >>240
ひたちにサロ481の普通車格下げもなかった?
あと、九州にはボンクロの格下げ車。 キハ82 901-キハ80 901-キロ80-キハ82 902
狭窓編成w キハ82のヘッドライトの周りがグレーなのとクリームなのがあるんだが、どういった違いからなんだろう? >>247
それ前スレでも指摘してた人がいたけど
特に話が広がらないで終わってる ヘッドライトと標識灯の各レンズカバー枠のことか
あれ、国鉄時代はほぼ末期まで北海道とそれ以外は違う
北海道:鋼製で塗装あり。レンズ部径が本州のに比べて若干狭い
本州:たしかアルミで塗装なし
だから、本州と北海道を行き来したのは転入してから数か月間はカバーが転出前地区のものが付いていたりする
ほぼ使われなくなった標識灯側はもっとひどく、北海道→本州転配車は要検まで交換されないこともあった >>249
詳細にありがとうございます
北海道と本州で違いがあったのですね 気動車特急は非電化区間を主に走るから、思いがけない駅で蒸機と出逢ったり…
キハ80系の時代には、まだそんな楽しみがあった。 また単線区間を多く走ったから、思いがけない列車交換もあったな。 タブレット授受のシーンは電車特急にはない魅力ですね >>253
しかしそれもあって表定速度が伸びず、特急なのに50〜60キロ台が大半だった。 天下の東北本線も電化前は腕木信号機にタブレットだったからね。 山陰本線や宮津線などでも、信号機が自動信号化される前は、キハ80系特急「まつかぜ」や
「あさしお」などは駅での列車交換の時はタブレットを授受していたな キハ80やキハ181全盛期は交換駅でのタイムロスを改善する考え無かったよな
直線部やカーブでの高速化で手一杯だった
1線スルー化はJRになってから >>257 一線スルー化するには、CTCとスルー線に入っている列車がどちらの方向に向かうのか識別できる信号装置が必要なんでは?
もしくは数十キロに渡り特定方向に進む優等列車完全優先、というダイヤにするか。その優等列車が遅れても、反対方向に進む列車は各駅で待機。高密度運転だと列車識別装置なければ難しいんではないかなあ >>258
高山本線は100キロ走行可能な大型の両開き分岐器に変えたが緩和曲線が無くて大きく横揺れする
行き違いする普通列車がホームがコロコロ変わって旅客案内が混乱するのを回避したか? >>257
その1線スルーを急行時代にやってのけたのが四国の予讃線(松山より高松側だけだったと思う)
昭和34年から数年間で 長距離運行の特急かもめや白鳥とかで、編成中何両かガス欠とかあったのかな?
当時は弛み国鉄だったしw >>261 キハ80でそんな話、聞いたことがない。 主要駅には給水ホースと燃料給油設備くらいはあったはず 無給油で見込み走行距離2000km位のはず
その気になれば東京〜西鹿児島を無給油走行できる 実際「白鳥」は方向転換する新潟で給油いていたのでは?
「かもめ」も広島か、小倉で給油してたとか? キハ80のひたち・いなほ運用で秋田から新津廻り上野折り返しで平まで無給油で走っていたんだし・・ >>266
40-10以降は新潟経由になった
但し客乗せたまま給油してたか否かは知らん 客乗せたまま給油しないし、主要駅に給油設備なんかないだろ
ローカルじゃないんだから 停車時間考えたら燃料タンク一個づつ給油とか無理だからなあ
走行用エンジン24台分の燃料タンクに一斉に給油しないといけない
それでも5分じゃ到底無理 手持ちのRJによると、80系が無給油で走れる距離は1000〜1100kmで、
かもめは長崎、なはは鹿児島、おおぞらは釧路、おおとりは釧路と網走で
給油していたようだ。白鳥も途中で給油せず青森で給油だろうな。 そもそもディーゼル特急の開発過程で大阪-青森の特急は想定済みだろ?
だったらそれに合わせて燃料タンクの容量決めるわな >>269 米沢駅構内には気動車用給油設備があるが、ここは奥羽本線が標準軌化されたという特殊事情があるからなあ。 トワイライトEXPみたく長時間足止め食らったらどうなる?
走らなければ燃料の消費はわずかか >>274 そのような場合には、タンクローリーに来てもらって給油することもあるが。
高山本線が豪雨で寸断され、部分運行再開で高山駅にいた車両を走らせたときはこの方法で給油した。
2005年、盛岡で給油するのを忘れて釜石線内でキハ110がガス欠したときも同様。 >>270
F1のピット作業みたいに人海戦術になるよな
自動車と違って燃料タンクが巨大なので満タンにするのに異様に時間が掛かる 白鳥のような片道8時間以上の長距離走行ならともかく、片道5時間位の名古屋、金沢間ひだのようなそれほどの長距離でない運用でも、燃料タンク満タンにしてたのだろうか?
ひだの場合、金沢発の往復で名古屋に三時間いるから、この間に機関区で整備して給油できるだろうし。
満タンにすると車両が重くなり燃費低下するし、条件が許せば満タン避けるのではないかと思うのだが。 この列車は、特別急行白鳥、青森行きです。
すいません、ガス欠しました。
てへぺろ(・ω<) >>276
鉄道に携わる仕事しているけど、水タンクでも満タンにするのに時間がかかる。 水は駅でいれてたな。あのホースなんだろうと思ってた
どこにでもあったのにな、あのホース >>277
一度仕業表を見て「水」、「油」などの表記がどこに書いてあるか知ったほうがいいよ >>281
配置区などでは、省略していると思われる場合がある 昭和49〜53年頃の北斗下り1号・上り3号は札サウ持ちだったとは驚いた
…てっきりおおぞら(併結の釧路編成)・おおとりとの共通運用で函ハコ持ちだと思ってた オイルショックの時が大変だったのでは?
燃料代押し上げて経費が嵩んで赤字になってた?
鉄道車両は免税軽油なので自動車とは違い軽油引取税は課されない >>285
そういえば、当時オホーツクと同じ編成だったな >そういえば、当時オホーツクと同じ編成だったな
同じ札転の7両編成なのに北斗1-3号は1〜7号車、オホーツクは4〜10号車だったな。 >>286
〜では?キチガイ
流れを読まないから嫌い >>290
当時の札転の受持ちは基本編成のみで北斗2・2号、3・1号の基本編成も4〜10号車だったが、
函運持ちの1〜3号車を増結する2・2号、3・1号はともかく、1・3号と同じ所定7両の
オホーツクが4〜10号車だったのが不思議でしょうがなかった >>291
当時の北海道総局の方針で、函館の80系が不測の事態が起こった際に、
札幌の編成で「北斗」を仕立てるようにしたのでは? >>292
当時(47-3改正 1972年)北斗の基本編成が札幌に移管されたのは函館の収容能力が
限界に達したからで、それ自体は別にどうということはない
わからないのは、同じ札幌持ちの北斗1・3号(48-10改正で増発)とオホーツクが
どちらも7両編成なのに号車番号が異なったこと
53-10改正で北斗3・4号と5・2号(改正前の2・2号、3・1号)の基本編成はキハ1両減の
6両(4〜9号車)となり7両編成の北斗1・6号(改正前の1・3号)やオホーツクとは運用が
別になったと思われるがオホーツクは4〜10号車のままだった
オホーツクの号車番号が逆順ながら1〜7号車になったのは北斗が函館に再移管された
55-10改正だった
長くなってしまった どうでもいいかwこんな話 オホーツクは48(1973).10から前(遠軽側)に3両増結して、北見で切り離す予定だったらしい
でも、雪まみれかつ極寒の北見で連結できるかと北見側に蹴られた
で、オホーツク増結用の3両はやりくりして捻出した3両を合わせて北斗増発(48.10の31D/32D)へ回された
定期で北見解結が行われるのは、55(1980).10のおおとりか1ら ようつべでおおとりのダイジェスト映像?を見かけたことがあったが、真冬は扉が凍りついて駅員だったか車掌が蹴ったりするシーンがあったりしていかに環境が厳しくて大変なのかが判ったわ。 >>295
当時通常期でも満席の日が珍しくなかったおおとりならともかく、盆暮れ正月を除けば
満席の日は稀だったオホーツクに増結なんて俄かには信じ難い話だが。ソースを教えてほしい。
(道内気動車特急の中で真っ先に自由席が設けられたのも乗車率の悪さ故と思っていたw)
北斗1・3号(31/32D)は なは 電車化で発生した捻出車による増発だったと思う。 「北海」の網走延長と間違えていないかい?(下りで末端は普通車全て自由席)
おおとりもオホーツクも自由席が通しで設定されたのは昭和53年10月ダイヤ改正からだったと思うけど >>298
オホーツクの自由席設定は、昭和51年10月から。 >>299
しかも初めは3両だったなorz(53-10改正から2両) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています