懐かしの武蔵野線
>>5
轟音オンボロポンコツ103だらけの中で、スムーズな加速に高速走行時もまあ静かな201だけが特別な感じだったな。
新車投入は僅かな丸目205だけだし、けっこう経年の関東中古車両掃き溜めな、国鉄時代からどんだけ冷遇されてんだジャカルタ特区ムサシノラインw >>28
101-1000ばかりだった国鉄の時代に、1編成だけ新車で入った103がいるんだよ。
だから、武蔵野線に新車で入った電車は、今のところ46両。
武蔵野線生え抜きの103がジャカルタに売られていったわけだが。 >>30
タイヤ火事の翌年、1981年夏前に高運非ATCクハの冷房車6両が入った記憶はあるが、8両化以前にどこかへ出たような気がするんだよなあ。 >>31
103系の6連の新製車が、武蔵野線と青梅・五日市線にそれぞれ1本ずつ入った。
のちに、武蔵野線と青梅・五日市線の車両を共通で使うようになったので、
豊田から転属はしていないけど武蔵野線以外でも使われることがあった。
8連化の時は、青梅線用に入った編成から1ユニットもらって8連を組んだ
って経過だったはずだが 新小平水没は誰もが知ってるが、昨夜(2020.06.06)の本町で冠水〜運休なんて武蔵野線史上初だろうな。
まぁ軌道が水浸しになったんじゃなくて、信号や通信の回線が一時的にやられたんだろうけど。 >>35
平成3年の話だから、もう30年前の話なので知らないナウでヤングな若者も多いぞ。
新小平水没が西武国分寺線の増発に貢献したんだよな。
日中は4両編成が20分間隔で走っていたところで武蔵野線が不通になって、
振替客のために6連の10分間隔に増発したら、西武新宿線で都内に向かっていた人が
国分寺乗り換えに移行して、2ヶ月後の復旧時に元のダイヤに戻したら非難囂々で
次のダイヤ改正で国分寺線増発。 101系は暖房性能が低く、冬の空いた時間帯は寒かった 新小平水没の際、新秋津行きの幕をわざわざ作ったんだっけ? >>38
長期化が予想されたため幕を作ったのだと思う。 >>37
非冷房車のグロベンにはシャッターが無かったからね。
せっかくの温気も文字通り屋根から筒抜けに吸い出されてしまった。 新造の103系が出てからだったかな、本町⇔大宮の臨時直通電車が走り出した。
新幹線が大宮開業する前か後かは記憶が定かでないが、北朝霞から乗ってみたことがある。
西浦和を過ぎて貨物線に入ったらとにかくノロノロ走ってて、クハの車輪がやたらゴトゴトうるさかったおぼえがある。
大宮操車場の西端、今のラフレやさいたま赤十字病院辺りを通ったはずなんだが、初見の景色が思い出せない。 >>42
北マトの103系のホリデー快速大宮・取手もあった。
大宮ー武蔵浦和ー南浦和ー南越谷ー三郷ー南流山ー柏ー我孫子ー取手
が停車駅だったように記憶している。 >>43
ほんの一時期、北マトの103系のホリデー快速ときわハイキング号もあった。
確か往路が我孫子ー拝島、帰路が拝島ー取手だったように記憶している。 >>46
確かに。
復路は一応茨城まで乗り入れるから良しとしたのではないか? でもさぁ、目的地が茨城じゃないんだから"ときわ"はおかしくねぇか?
他にも似たようなケースがあり、あれもこれもとなるにはなるんだが・・・。 >>50
ほんの一時期しか営業しないで廃止になったね。
乗ったことある人で存命なのは何人いるだろう? 府中本町→東京競馬場前
南浦和→浦和競馬入り口
船橋法典→中山競馬場前 >>38
そうです。当然快速新秋津や、むさしのドリーム新秋津もありました。
むかしの冷房車は冷房と暖房の電源を切り替える必要があったのですが(一年中冷房は使えなかった)
切り替え忘れがあって、今頃の季節なのにシータの下のヒーターが入っている車両があった。
その車両だけ室温が異常に高くてシートの下が暑いのに、お客はみんな平気で座っているんだよね。 俺が子供の頃は武蔵野線にはD51が居た。
西へ東へ貨物を牽いて走り回っていたな。
懐かしい。 貨物列車引いていた機関車、EF15だったのだろうか。
線路端で眺めていた当時のオレは幼すぎて、機関車に種類が
いくつもあることを知らなかったから、形式がなんだったのかは謎。
DD51ならまだ可能性はあるけど、D51が走った可能性があるのは
下河原線だけだろう 俺は武蔵野線でキハ58乗った事あるよ
団臨で袋田の滝を往復した。
これホントだから。昭和50年の話。 >>57
昭和52〜53頃ならEF15に混じって13も大宮操車場まで来てたよ。
連結部の形と側窓数が違うから遠目にもすぐ分かった。
下河原に重たいD51は無いはず。
Cタンクかせいぜいハチロククラスじゃないのかな。
極末期はDD13が牽いてたようで検索するとけっこう出てくる。 ワシは武蔵野線で583系乗ったことあるよ。
大宮発万博中央駅行きの臨時列車 んー、ムサシーノラインで583ってそんなに珍しい話ではないんだわ。
晩年まで良く来てたからね。
ま、今はもう無いけど。 臨時の客車列車はどれだけ走ったかな?
北関東発着の成田初詣臨があったような気がするな。 >>62
「上越スキー」だな。
おもしろいのは、越谷貨物ターミナルで運転停車して運転士が交代したんだけど、最後に運転された時は大宮で運転士が交代して線内無停車だった。 松戸から葛西臨海公園に行く103系の「ひまわり号」もあった。
南流山でスイッチバックっていうのも面白かった。 東浦和ー東川口でキハ58の10連を偶然撮った事がある。
昭和58年だったか。廃車回送だろな。 >>65 常磐線DC急行用の改造か転用で武蔵野線を走っていたのでは?初期型でもまだ20年位しか経過してないし、事故以外の廃車はまだ出ていなかったはず そうか、改造か。
俺は富士山入れて撮るので東浦和ー東川口で昔、多く撮ってたけど
昭和の時代はその他にも色々来たよ。
気動車ならキハ17も見たし、旧型国電の73系も。
あと20系寝台車はもう何度も目撃してる。
勿論撮ってあるよ >>67
よかったらupお願いします。
特にキハ17と、73形。 >>67
自分は帰宅の時に東所沢でDC181系とC11の回送を見たな。
うーんと昔だけど >>67
富士山が望めるのは見沼代用水東縁の高台寄りかな?
列車とお山両方が収まる場所はそうそうありませんわね。 >>70
今は某高層マンションが建っているの敷地辺りから撮ったのです
脚立で富士山入る様に高さ調整して。
あの頃はよくマムシの出る雑木林でしたなあ 昔の武蔵野線は府中本町から新松戸までだった。
キップの裏面が茶色い磁気で自動改札を見たのはあれが初めてだった。 今日午後の東浦和の豪雨は凄まじかった。武蔵野線を横切る芝川も氾濫寸前
明日以降暫く、撮影の人は足元注意な。こんな時は蛇が大量発生するから メルヘン顔っていつ頃から呼ばれるようになったんだろうな。
武蔵野線に205が投入されてからしばらく経っても
鉄道雑誌等ではそんな愛称表記見たこと無かった。
当時のメルヘンと言ったら167系アコモ改造車を指してたと思う。 >>74
大抵は雑誌の関係者がだれも使ってない用語を
あたかも流行ってるかの如く勝手に流行らせてるだろ。(鉄道に限らず)
ファミマ色と呼ばれている…カフェオレと呼ばれている…かぼちゃと言われている…等々 >>72 自動改札機に、駅長が隣接する駅をも集約管理する方式で人員削減、そして最新技術による貨物操車場と、当時の新技術のモデルとしての要素が多かった。 在来線なのに踏切がなく駅間距離が地方路線並みに長くて、そこを快速等の優等列車でない通勤電車が時速80q以上で飛ばすというのも目新しいものだった。 >>78
なるほど、そう言えば踏切が無いな。
当たり前すぎて全く気付かなかったよw
80近い叔父が通勤で武蔵野線に乗り、開業直後は
誰も電車に乗って居なかった事を言っていたが、
俺はSRで同じ体験したな >>80
6両。
McM'TT'MMc'だったか、McM'T'TMMc'だったかは忘れたが、両端はすべてクモハなのは確か。 全車電動車にするつもりで作っていたから、101系の初期車にクハはなかった。
トンネルさえなければ72系を入れた、って路線だから、中央線の101系の中から
初期車を選んで1000番台化改造をした。
よって両端クモハで真ん中にサハが2両挟まっていた。 トンネルの中でEF65牽引の貨物列車が脱線した事故があった ガキの頃ATS-Pなんて知らなくて
運行表示窓を潰したクモハ103を初めて見たとき
改造理由も分からず理解できなかった。 >>84
ちょっと調べたけど生田トンネル内の事故で
流転した貨物が後続に激突らしい
転覆4両脱線11両っぽい
新小平駅の冠水はやっぱ10月だったか(1軍カープ優勝の前々日)
9月に平塚球場行った時ァ新小平から乗った記憶あるんだわ。相模線もまだディーゼルだったけ
===
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%A0%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%81%B8%E6%89%8B%E6%A8%A9
ファーム日本選手権(Wikipedia)
1991年9月21日
読売ジャイアンツ(イ)2年ぶり4回目 8 - 7 広島東洋カープ(ウ)平塚球場 呂明賜 61
昔のムサシーノはカラフルで良かった。
黄色+青色+オレンジ+緑って103系の編成が普通に走ってたからねw 70年代後半? 国鉄時代はまだ旧式の自動改札だったな、切符の磁気面も酸化鉄な茶色 自分が覚えてる混色編成は
・ウグイス+カナリア
・オレンジバーミリオン+エメラルドグリーン
・オレンジバーミリオン+エメラルドグリーン+スカイブルー >>89-92
分割民営化前後くらいが混色だらけだった記憶
1980〜86年くらいかな。
増発と101-1000置き換え用の103をほぼすべて転属でまかなった。
常磐線から来た車両が多かったかもな。 開業当時と比べて最も変わったのが吉川の辺りだろう。あの辺まで通勤圏になるとは思えなかった。越谷レイクタウンもできたし。 吉川は昔も今も田舎だよ
変わったと言ったら武蔵浦和 元火葬場によく住めるよな…てか知ってるのか知らないのか まあ、越谷レイクタウンや三郷と、マンション買うんだったら洪水で武蔵小杉の二の舞になる危険性考えとかないとな。 >>97
別にそこに埋葬している訳でも無いし、ナイーブ過ぎね?
太古の時代に遡れば、あちこちに埋葬されているだろうし。 >>97 都営新宿線の用地買収、建設当時に土壌の六価クロム汚染が判明した東大島の駅周辺に比べたら、たいしたことないんでは。もちろん、同駅周辺の汚染物質は除去されてるけど。武蔵野線沿線も産業廃棄物処理場が幾つもあるんではないかな。 北口側にしかロータリーがなかった東川口
浦和から鳩ヶ谷を結ぶ路線しかバスが通ってなかった東浦和
高島平や川口へのバスが運行していた南浦和 >>26
開通後もしょっちゅう陥没してましたよ。当時浦和市民だったから武蔵野線陥没は日常だった。 >>101
南浦和の田島団地行きバスは埼京線が出来、武蔵野線が増発されてしまったら廃れてしまって平日1往復のみにw
俺の思い出の路線を返せw >>103 陥没が度々起こる地質だから、武蔵浦和から戸田にかけての東北上越新幹線ルートが地下化できなかったのは当然か。高架反対運動のため、新幹線の建設が遅れたが。 >>105
それ以前に鴻沼毒水とか流れてる低湿地を通すんだから地質的に高架一択だわ 東浦和の田圃の畦道で撮影してたら足元にマムシがw
低湿地だからあの辺り多いのよね。 >>104
南浦01が保守化した今は、西口からの団地行きって辻・五反田経由のがかろうじてあるだけだね。
西側地区の発着拠点が武蔵浦和になってからは、曲本〜美女木〜下笹目方面の利用者はやたら多い。 >>109
かろうじてって、辻五反田経由の南浦08って今でも日中20分間隔だぞ >>101
東浦和は蕨と川口からのバスは駅至近の附島橋、
西川口からのはさらに一つ手前の柳崎県営住宅までだったな
今は川口からのバスや浦和〜鳩ケ谷の路線は無くなった >>111 開業した頃の新聞で、東浦和付近から南浦和までバスを利用していた人に武蔵野線使うかと聞いたら、本数少ないのでバスのままと語っていたそうな。
武蔵浦和もなかったが、当時とは様変わりだろうな。 越谷街道を通るバスで浦和に出て志木街道を進むバスに乗り換えか
同じ浦和市内とはいえ東西方向に長いからな
なお、浦和市域は荒川から綾瀬川までが範囲になる模様 >>80
開業当初は4両編成で程なくして6両になったと思っていたけれども記憶違いかな? >>115
開業時から6両編成なので記憶違い
試運転も6連だったかどうかは知らない >>116
試運転も6両編成だったのは記憶している。
試運転といってもオイラン列車はわからないけど。 武蔵野線建設工事していた頃、かつての流鉄から資材を搬入していた。
今でもその気になれば繋げそう。 今思い出しても製造後25年くらいの1000番台って、車内が暗くて色褪せててものすごくポンコツ感があったな。
それでも1本だけ生き残って秩父線で21世紀を迎えたのはホントに奇跡だと思う。
何番編成だか忘れたが運転室仕切り窓の縦横比が変なのがあったから、あーこれが初期車(元90系)かぁと判ったよ。 >>119 開業当時の乗り換え可能な駅といったら、府中本町、西国分寺、新秋津、南浦和、新松戸だけだったからな。東上線朝霞台と伊勢崎線新越谷できるまで1年ちょっとかかった。
駅前人口そこそこあるのが府中本町〜新秋津、南浦和位だったかな。 今は5番線への階段ができた場所にあった南浦和の立ち食い蕎麦屋が
武蔵野線への乗り換え客のおかげで売上日本一だったと聞いたことがある >>122
南浦和店が無くなった後に北朝霞の店(改札外)で食べたら店員だったオバチャンがいたわ。
JR構内はどこもいろり庵になったから甘めのお汁と学食っぽいかき揚げが懐かしい。 >>120
初期型101系は尾灯が飛び出ててないんでしたっけ?
あと、妻面にも旧型国電っぽさがあったような >>125
101系の内はめ式尾灯ってごく初期のだけだよね?
俺も内はめ式の方が好き
JRには引き継がれなかったのかな? >>124
武蔵野線時代はすべて内ばめのつぶらな瞳、別の見方をすると頭が痛そうな顔した101系でした。
秩父線に移ってからいつの間にか大きい尾灯に替えられたね。