懐かしの武蔵野線
俺鉄道オタクなんだけど
関内音みたいな嫁さんゲットするにはどうすればいい? 開業初日、新松戸の駅前から流山鉄道の電車が走っていくのが見えた。視界遮るものは無かった。
東所沢も新座も、駅前何もなかった。
日中は40分に一本のローカル線並みダイヤ。 武蔵野線沿線に越してきて20年ちょっとなので、まだまだ新参者ですが、越してきた当初は
ちょうど8両化に移行する辺りで、混色編成こそ知りませんが、201系は覚えています。
そういえばその頃って、クハが中間に入ってる編成ってなかったっけ?、記憶にはクハの頭と
モハが連結してた記憶があるんだけど、もしかしたら他での記憶と混同してるかも…。 一時期、青梅・五日市線と共通運用をしていたことがあったので、
あったかも知れない。 ちなみに東京地下駅で103系3000代が入っていた時は感激した。 やはり記憶は合ってましたか。
幼少期に近くを走っていた京成電鉄には「先頭に立たないクハ(2250)」というのがあったので、
そのせいか中間クハには萌えてしまいます。
他にも武蔵野線には特急型車両が臨時で入線して来たり、学生の頃(40年位前)は全部同じに見えた
103系が一台々々個性的だったりと、忘れていたマニア心をくすぐられる思いでした。 昭和50年代後半、車齢25年前後の101系はとにかく室内が汚くて暗かったな。
おまけに発車して「ヒュウウウウ…カチョン!ズシズシン!」制御回路の切り変わり(?)でよろけるほど前後の衝動が酷かった。 >>11
火事の前年秋、中学の持久走大会で西浦和駅から秋ヶ瀬公園まで歩くのに現場前を通りましたよ。
4〜5メートルは積み上がって、むき出しの芯が錆びてたり溜まり水や草まで生えてたりとんでもない量だった。
クルマに乗るようになって知ったけど、タイヤって炭素成分を含んでるからものすごい高熱になったんだな。
よく高架が崩れなかったものだと改めて恐くなりましたわ。 千葉と多摩を都心を避けて行き来するのに叔母が使っていた。 101系は仕切り窓の大きな初期車だったが、国鉄時代だから2枚とも下ろされてて一度も前が見られなかったな
意識改革が叫ばれた最末期には開いたのかしら? >>10
新車を入れないでA−A基準にした101系1000番台を投入した。
国鉄の財政の問題もあったのかな? >>16 そもそも、旅客輸送する予定が無かったから。計画変更して旅客輸送もすることになったが、貨物輸送のおまけという趣旨だった。
開業当時はほとんど田舎のど真ん中を突っ走る感じだったし、沿線人口がここまで増えるとは予想されていなかった。 開業した頃はホームにベンチがなく、施設は最新だが乗客のこと考えていないと新聞に叩かれてたな。
西国分寺に駅ナカができるなんて想像もできなかった。 北朝霞や新松戸はともかく、三郷や吉川の宅地開発が進むとは、開業当時、国鉄も予想してなかったんじゃないかな。 >>16
101-1000はA基準。
国鉄の時代は、主要路線に新車を入れてそこから玉突きでローカル線に転属させた。
武蔵野線の場合、モハ72系が転属してくるのが本来の姿だったのだが
A基準化改造に手間がかかるからな。
72系アコモ車を入れるって計画もあったらしいけど。 岡多線は70系入れてるが、武蔵野線に入れるとしたらA基準への改造必要になるか?
3ドアセミクロスで捌ききれたかという問題もあるが。 あの長いトンネルで吊り掛けの轟音つーたらハッキョしちゃうわ。 >>22 軟弱なこと言ってないで丹那トンネルを行く80系、笹子トンネルを行く70系で鍛える! 確かに通勤客からの苦情が続出するとは思うが。 >>23
通勤客より沿線住民からの苦情の方が先に来る予感。
武蔵浦和〜南浦和間、2つのトンネルをシェルターでつないでるくらいだし >>24
あの接続部はもともと「根岸沼」ってのがある谷間の湿地帯だったんですよ。
開業後1〜2年はまだ葦原の一部が残ってた。
そういや『埼玉県のこども作文集(?)』にトンネル工事中に南浦和小学校が陥没して、木造校舎がVの字に折れた写真があった。
公害問題が騒がれ出した時代だから、反発もあって早々と覆いをつけたんじゃないかな。 武蔵野線の工事中、今の南流山から馬橋に向かう支線に流山電鉄の線路が直結していて、
資材を馬橋からモーターカーに牽引させて乗り入れていた。
今でもちょっと頑張れば直結できそうな感じだ。 >>5
轟音オンボロポンコツ103だらけの中で、スムーズな加速に高速走行時もまあ静かな201だけが特別な感じだったな。
新車投入は僅かな丸目205だけだし、けっこう経年の関東中古車両掃き溜めな、国鉄時代からどんだけ冷遇されてんだジャカルタ特区ムサシノラインw >>28
101-1000ばかりだった国鉄の時代に、1編成だけ新車で入った103がいるんだよ。
だから、武蔵野線に新車で入った電車は、今のところ46両。
武蔵野線生え抜きの103がジャカルタに売られていったわけだが。 >>30
タイヤ火事の翌年、1981年夏前に高運非ATCクハの冷房車6両が入った記憶はあるが、8両化以前にどこかへ出たような気がするんだよなあ。 >>31
103系の6連の新製車が、武蔵野線と青梅・五日市線にそれぞれ1本ずつ入った。
のちに、武蔵野線と青梅・五日市線の車両を共通で使うようになったので、
豊田から転属はしていないけど武蔵野線以外でも使われることがあった。
8連化の時は、青梅線用に入った編成から1ユニットもらって8連を組んだ
って経過だったはずだが 新小平水没は誰もが知ってるが、昨夜(2020.06.06)の本町で冠水〜運休なんて武蔵野線史上初だろうな。
まぁ軌道が水浸しになったんじゃなくて、信号や通信の回線が一時的にやられたんだろうけど。 >>35
平成3年の話だから、もう30年前の話なので知らないナウでヤングな若者も多いぞ。
新小平水没が西武国分寺線の増発に貢献したんだよな。
日中は4両編成が20分間隔で走っていたところで武蔵野線が不通になって、
振替客のために6連の10分間隔に増発したら、西武新宿線で都内に向かっていた人が
国分寺乗り換えに移行して、2ヶ月後の復旧時に元のダイヤに戻したら非難囂々で
次のダイヤ改正で国分寺線増発。 101系は暖房性能が低く、冬の空いた時間帯は寒かった 新小平水没の際、新秋津行きの幕をわざわざ作ったんだっけ? >>38
長期化が予想されたため幕を作ったのだと思う。 >>37
非冷房車のグロベンにはシャッターが無かったからね。
せっかくの温気も文字通り屋根から筒抜けに吸い出されてしまった。 新造の103系が出てからだったかな、本町⇔大宮の臨時直通電車が走り出した。
新幹線が大宮開業する前か後かは記憶が定かでないが、北朝霞から乗ってみたことがある。
西浦和を過ぎて貨物線に入ったらとにかくノロノロ走ってて、クハの車輪がやたらゴトゴトうるさかったおぼえがある。
大宮操車場の西端、今のラフレやさいたま赤十字病院辺りを通ったはずなんだが、初見の景色が思い出せない。 >>42
北マトの103系のホリデー快速大宮・取手もあった。
大宮ー武蔵浦和ー南浦和ー南越谷ー三郷ー南流山ー柏ー我孫子ー取手
が停車駅だったように記憶している。 >>43
ほんの一時期、北マトの103系のホリデー快速ときわハイキング号もあった。
確か往路が我孫子ー拝島、帰路が拝島ー取手だったように記憶している。 >>46
確かに。
復路は一応茨城まで乗り入れるから良しとしたのではないか? でもさぁ、目的地が茨城じゃないんだから"ときわ"はおかしくねぇか?
他にも似たようなケースがあり、あれもこれもとなるにはなるんだが・・・。 >>50
ほんの一時期しか営業しないで廃止になったね。
乗ったことある人で存命なのは何人いるだろう? 府中本町→東京競馬場前
南浦和→浦和競馬入り口
船橋法典→中山競馬場前 >>38
そうです。当然快速新秋津や、むさしのドリーム新秋津もありました。
むかしの冷房車は冷房と暖房の電源を切り替える必要があったのですが(一年中冷房は使えなかった)
切り替え忘れがあって、今頃の季節なのにシータの下のヒーターが入っている車両があった。
その車両だけ室温が異常に高くてシートの下が暑いのに、お客はみんな平気で座っているんだよね。 俺が子供の頃は武蔵野線にはD51が居た。
西へ東へ貨物を牽いて走り回っていたな。
懐かしい。 貨物列車引いていた機関車、EF15だったのだろうか。
線路端で眺めていた当時のオレは幼すぎて、機関車に種類が
いくつもあることを知らなかったから、形式がなんだったのかは謎。
DD51ならまだ可能性はあるけど、D51が走った可能性があるのは
下河原線だけだろう 俺は武蔵野線でキハ58乗った事あるよ
団臨で袋田の滝を往復した。
これホントだから。昭和50年の話。 >>57
昭和52〜53頃ならEF15に混じって13も大宮操車場まで来てたよ。
連結部の形と側窓数が違うから遠目にもすぐ分かった。
下河原に重たいD51は無いはず。
Cタンクかせいぜいハチロククラスじゃないのかな。
極末期はDD13が牽いてたようで検索するとけっこう出てくる。 ワシは武蔵野線で583系乗ったことあるよ。
大宮発万博中央駅行きの臨時列車 んー、ムサシーノラインで583ってそんなに珍しい話ではないんだわ。
晩年まで良く来てたからね。
ま、今はもう無いけど。 臨時の客車列車はどれだけ走ったかな?
北関東発着の成田初詣臨があったような気がするな。 >>62
「上越スキー」だな。
おもしろいのは、越谷貨物ターミナルで運転停車して運転士が交代したんだけど、最後に運転された時は大宮で運転士が交代して線内無停車だった。 松戸から葛西臨海公園に行く103系の「ひまわり号」もあった。
南流山でスイッチバックっていうのも面白かった。 東浦和ー東川口でキハ58の10連を偶然撮った事がある。
昭和58年だったか。廃車回送だろな。 >>65 常磐線DC急行用の改造か転用で武蔵野線を走っていたのでは?初期型でもまだ20年位しか経過してないし、事故以外の廃車はまだ出ていなかったはず そうか、改造か。
俺は富士山入れて撮るので東浦和ー東川口で昔、多く撮ってたけど
昭和の時代はその他にも色々来たよ。
気動車ならキハ17も見たし、旧型国電の73系も。
あと20系寝台車はもう何度も目撃してる。
勿論撮ってあるよ >>67
よかったらupお願いします。
特にキハ17と、73形。 >>67
自分は帰宅の時に東所沢でDC181系とC11の回送を見たな。
うーんと昔だけど >>67
富士山が望めるのは見沼代用水東縁の高台寄りかな?
列車とお山両方が収まる場所はそうそうありませんわね。 >>70
今は某高層マンションが建っているの敷地辺りから撮ったのです
脚立で富士山入る様に高さ調整して。
あの頃はよくマムシの出る雑木林でしたなあ 昔の武蔵野線は府中本町から新松戸までだった。
キップの裏面が茶色い磁気で自動改札を見たのはあれが初めてだった。 今日午後の東浦和の豪雨は凄まじかった。武蔵野線を横切る芝川も氾濫寸前
明日以降暫く、撮影の人は足元注意な。こんな時は蛇が大量発生するから メルヘン顔っていつ頃から呼ばれるようになったんだろうな。
武蔵野線に205が投入されてからしばらく経っても
鉄道雑誌等ではそんな愛称表記見たこと無かった。
当時のメルヘンと言ったら167系アコモ改造車を指してたと思う。 >>74
大抵は雑誌の関係者がだれも使ってない用語を
あたかも流行ってるかの如く勝手に流行らせてるだろ。(鉄道に限らず)
ファミマ色と呼ばれている…カフェオレと呼ばれている…かぼちゃと言われている…等々 >>72 自動改札機に、駅長が隣接する駅をも集約管理する方式で人員削減、そして最新技術による貨物操車場と、当時の新技術のモデルとしての要素が多かった。 在来線なのに踏切がなく駅間距離が地方路線並みに長くて、そこを快速等の優等列車でない通勤電車が時速80q以上で飛ばすというのも目新しいものだった。 >>78
なるほど、そう言えば踏切が無いな。
当たり前すぎて全く気付かなかったよw
80近い叔父が通勤で武蔵野線に乗り、開業直後は
誰も電車に乗って居なかった事を言っていたが、
俺はSRで同じ体験したな >>80
6両。
McM'TT'MMc'だったか、McM'T'TMMc'だったかは忘れたが、両端はすべてクモハなのは確か。 全車電動車にするつもりで作っていたから、101系の初期車にクハはなかった。
トンネルさえなければ72系を入れた、って路線だから、中央線の101系の中から
初期車を選んで1000番台化改造をした。
よって両端クモハで真ん中にサハが2両挟まっていた。 トンネルの中でEF65牽引の貨物列車が脱線した事故があった ガキの頃ATS-Pなんて知らなくて
運行表示窓を潰したクモハ103を初めて見たとき
改造理由も分からず理解できなかった。 >>84
ちょっと調べたけど生田トンネル内の事故で
流転した貨物が後続に激突らしい
転覆4両脱線11両っぽい
新小平駅の冠水はやっぱ10月だったか(1軍カープ優勝の前々日)
9月に平塚球場行った時ァ新小平から乗った記憶あるんだわ。相模線もまだディーゼルだったけ
===
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%A0%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%81%B8%E6%89%8B%E6%A8%A9
ファーム日本選手権(Wikipedia)
1991年9月21日
読売ジャイアンツ(イ)2年ぶり4回目 8 - 7 広島東洋カープ(ウ)平塚球場 呂明賜 61
昔のムサシーノはカラフルで良かった。
黄色+青色+オレンジ+緑って103系の編成が普通に走ってたからねw 70年代後半? 国鉄時代はまだ旧式の自動改札だったな、切符の磁気面も酸化鉄な茶色 自分が覚えてる混色編成は
・ウグイス+カナリア
・オレンジバーミリオン+エメラルドグリーン
・オレンジバーミリオン+エメラルドグリーン+スカイブルー >>89-92
分割民営化前後くらいが混色だらけだった記憶
1980〜86年くらいかな。
増発と101-1000置き換え用の103をほぼすべて転属でまかなった。
常磐線から来た車両が多かったかもな。 開業当時と比べて最も変わったのが吉川の辺りだろう。あの辺まで通勤圏になるとは思えなかった。越谷レイクタウンもできたし。 吉川は昔も今も田舎だよ
変わったと言ったら武蔵浦和 元火葬場によく住めるよな…てか知ってるのか知らないのか まあ、越谷レイクタウンや三郷と、マンション買うんだったら洪水で武蔵小杉の二の舞になる危険性考えとかないとな。 >>97
別にそこに埋葬している訳でも無いし、ナイーブ過ぎね?
太古の時代に遡れば、あちこちに埋葬されているだろうし。 >>97 都営新宿線の用地買収、建設当時に土壌の六価クロム汚染が判明した東大島の駅周辺に比べたら、たいしたことないんでは。もちろん、同駅周辺の汚染物質は除去されてるけど。武蔵野線沿線も産業廃棄物処理場が幾つもあるんではないかな。 北口側にしかロータリーがなかった東川口
浦和から鳩ヶ谷を結ぶ路線しかバスが通ってなかった東浦和
高島平や川口へのバスが運行していた南浦和 >>26
開通後もしょっちゅう陥没してましたよ。当時浦和市民だったから武蔵野線陥没は日常だった。 >>101
南浦和の田島団地行きバスは埼京線が出来、武蔵野線が増発されてしまったら廃れてしまって平日1往復のみにw
俺の思い出の路線を返せw >>103 陥没が度々起こる地質だから、武蔵浦和から戸田にかけての東北上越新幹線ルートが地下化できなかったのは当然か。高架反対運動のため、新幹線の建設が遅れたが。 >>105
それ以前に鴻沼毒水とか流れてる低湿地を通すんだから地質的に高架一択だわ 東浦和の田圃の畦道で撮影してたら足元にマムシがw
低湿地だからあの辺り多いのよね。 >>104
南浦01が保守化した今は、西口からの団地行きって辻・五反田経由のがかろうじてあるだけだね。
西側地区の発着拠点が武蔵浦和になってからは、曲本〜美女木〜下笹目方面の利用者はやたら多い。 >>109
かろうじてって、辻五反田経由の南浦08って今でも日中20分間隔だぞ >>101
東浦和は蕨と川口からのバスは駅至近の附島橋、
西川口からのはさらに一つ手前の柳崎県営住宅までだったな
今は川口からのバスや浦和〜鳩ケ谷の路線は無くなった >>111 開業した頃の新聞で、東浦和付近から南浦和までバスを利用していた人に武蔵野線使うかと聞いたら、本数少ないのでバスのままと語っていたそうな。
武蔵浦和もなかったが、当時とは様変わりだろうな。 越谷街道を通るバスで浦和に出て志木街道を進むバスに乗り換えか
同じ浦和市内とはいえ東西方向に長いからな
なお、浦和市域は荒川から綾瀬川までが範囲になる模様 >>80
開業当初は4両編成で程なくして6両になったと思っていたけれども記憶違いかな? >>115
開業時から6両編成なので記憶違い
試運転も6連だったかどうかは知らない >>116
試運転も6両編成だったのは記憶している。
試運転といってもオイラン列車はわからないけど。 武蔵野線建設工事していた頃、かつての流鉄から資材を搬入していた。
今でもその気になれば繋げそう。 今思い出しても製造後25年くらいの1000番台って、車内が暗くて色褪せててものすごくポンコツ感があったな。
それでも1本だけ生き残って秩父線で21世紀を迎えたのはホントに奇跡だと思う。
何番編成だか忘れたが運転室仕切り窓の縦横比が変なのがあったから、あーこれが初期車(元90系)かぁと判ったよ。 >>119 開業当時の乗り換え可能な駅といったら、府中本町、西国分寺、新秋津、南浦和、新松戸だけだったからな。東上線朝霞台と伊勢崎線新越谷できるまで1年ちょっとかかった。
駅前人口そこそこあるのが府中本町〜新秋津、南浦和位だったかな。 今は5番線への階段ができた場所にあった南浦和の立ち食い蕎麦屋が
武蔵野線への乗り換え客のおかげで売上日本一だったと聞いたことがある >>122
南浦和店が無くなった後に北朝霞の店(改札外)で食べたら店員だったオバチャンがいたわ。
JR構内はどこもいろり庵になったから甘めのお汁と学食っぽいかき揚げが懐かしい。 >>120
初期型101系は尾灯が飛び出ててないんでしたっけ?
あと、妻面にも旧型国電っぽさがあったような >>125
101系の内はめ式尾灯ってごく初期のだけだよね?
俺も内はめ式の方が好き
JRには引き継がれなかったのかな? >>124
武蔵野線時代はすべて内ばめのつぶらな瞳、別の見方をすると頭が痛そうな顔した101系でした。
秩父線に移ってからいつの間にか大きい尾灯に替えられたね。 オレンジの101系は東京の方を走っていると聞いていたので、試運転で新松戸で見たときは感激した。
でも実際乗って中央線のお古と知ったときはがっかりした。 トンネルに突入すると、先頭車最前部の扇風機がグロベンの吸出しでクルクル逆回転してたな。 103系が6両編成だった頃、青梅線・五日市線と共通運用だったことがあった。
中に元仙石線のモハ72改造のサハが組み込まれている編成があった。
東京地下駅でその車両を見たときは感激した。
もちろん、手動用のドア取っ手はそのままだった。 >>131
あのサハたちは、川越線西側が八高直通に合わせて4両化される際に、元の編成に組み込まれたんだったっけね。 >>132
そう、青梅・五日市用編成から外されたから、鉄ファン誌のニュース投稿欄には【サハ103 3500番台 ついに廃車】という記事が載ってありゃーと驚いた記憶がある。
塗り替える必要があったわけで。 トンネル入ると会話できないくらいモーター音がうるさかった 懐かしにはまだ早いが特急型のホリデー快速にはとうとう乗らず終い。
普段の通勤でくっそうるさいトンネルでどんな走りだったのか、特急型で体験できなかったのは残念。 >>95
新秋津に住んでたんだけど、当時の中学の先生が吉川団地に住んでて、吉川から新秋津まで通ってた。
乗り換えなしとは言え、毎日じゃ大変だと思うよ。
>>128
>>135
車内が静寂なのは201系。西国分寺〜新秋津を乗ってたけど、103系より明らかに車内が静かだった。
制御方式の違いだけじゃないと思うんだけど。 あまり機器には詳しくないが、201よりも103の方がモーターの音や揺れる音が大きかったと思う。
それと103は駅でドアが閉まって発車する時の、
チッ!、ガラガラガラ…バタン!、プシャーッ…
という感じの様な音が印象的であった。 >>138 常磐快速もそうだが103は高速域での騒音と振動が大きいからな。空気ばね台車でないことも一因だが。 武蔵野の201系も乗らず終いだった。
量産車は185系と共に造りのいい高剛性だったから静粛性もマシだったんじゃないかな。
重い分ワンテンポ遅れるロールが泣き所だったが。 市川大野駅が最初から自動改札で駅員の気配が感じられない不思議な駅だった。キオスクがあったがこちらも気配が感じられなかった。 >>141
開業当初に利用していたが、昼間でも二人は改札内に居たように思う。
キヨスクは時刻表発売日に朝イチで購入するので重宝していた。
早売りとか一般的でなんかった頃の話し。
あと、あの頃の自動改札機は水色のバーだった気がする。 開業時に使われた自動改札機は本体が水色でゲートが青だった さいたま⇔大阪間出張したり埼玉大学の学生が大阪へ帰省したりする場合は
赤羽経由より西船橋経由(武蔵野線)のほうがお得
営業キロが600越えて往復割引の対象になるから 6両編成だった頃の一時期、武蔵野・青梅・五日市の車両が共通運用だったことがあった。101の1000番台、103、201が共通運用されていた。
103には元73改造のサハ3000番台も組み込まれていた。
東京地下駅でも見ることが出来た。 >>144
わざわざ遠回りしなくても、少し先まで買えば済むのでは…。長距離乗って少しでも元を取りたいのならともかく、時間が勿体ないよ。
>>145
全く同様の内容が>>131で既出。 >>146
201が共通運用で来ていたことは>>131には書かれてない。長くないのだから慌てずよく読もう。 もし今でも武蔵野・青梅・五日市の車両が共通運用だったら武蔵野線でE233も見れたはずだ。 >>148
8連化されて共通運用はなくなったわけだが。
武蔵野線と共通運用じゃなくなったから、青梅・五日市線専用車が
中央快速線と同じE233新製投入で、いざとなったら中央線でも使える状態になってる。
それに引き換え武蔵野線は総武線のお古 >>148
武蔵野線の車両の茶色い線の意味がわかった。
昔の総武線のモハ72の色を意味しているわけだね。 お下がりが来るのは沿線ユーザーとしては心穏やかに過ごせない 南浦和駅って田んぼの真ん中に出来たんだぞ。
本当だぞこれ。 >>151
昔からお下がりばかりなのに何を言ってるんだ >>153
過去に46両新製投入車があったんだけどな。 >>150
武蔵野線の茶色いラインは、オイラン車の色を表しているのかと思っていた。 開通から当面は、日中40分間隔
あまりに不便で、しかしそれでも人は乗っていたと思いました
府中本町⇔新松戸、の幕で、本町と新は小さい文字でした >>158
西川口から北小金まで行く時にそれまでは西日暮里を経由していたけど、武蔵野線が出来て
かなり時間短縮になった。
ただ開通したての頃の沿線風景は田んぼと畑だらけで、今とは隔世の感がある。 40分間隔とは、なんとも中途半端な数字だな
毎時1.5本 40分間隔がしばらく続いた後に、20分間隔になった
20分なら待てる?かも
すごい増発と当時意識していました
30分間隔は覚えていないです 2時間に3本の均等間隔なんだから中途半端ってことはないわな したね。
中山競馬開催日には市川大野の中線で待機している列車を見たことがある。 >>163
国鉄監修 交通公社の時刻表
だと、中央線のページの下に全駅全列車掲載されていて、競馬臨の時刻もそこに書いてあった。
増発された今でも、重傷レースのときは増発便が出るんだから
競馬の集客力って凄いよな >>165
> 重傷レース
馬にとっては出たくないレースだなw ちなみにどんなかたちの増発だったんでしょうか?
全線通しで走る増発だと車両不足に陥りそうだし
区間運転でピストン輸送をしたんですかね? >>168
1.東所沢から営業?で西船橋へ
2.西船橋から回送で市川大野中線へ
3.市川大野から回送で船橋法典へ
4.船橋法典から営業で西船橋へ
2から4をもう一回繰り返して5.西船橋から営業?で東所沢へ
こんな流れだった。
1と5が営業していたかあやふやだが。 101系が103系化で車内走行音が煩くなり、競馬場に向うおっさん達も怒鳴り声で会話するようになった35年前の思い出 >>170
夕方は競馬場から帰るおっさん達で酒臭かったなぁ。
(´・ω・`) 103系は初期車のクハ(サハ)と後期車のモハの騒音が特に喧しく、高速走行時は顕著だった
ヲタク連中には人気があったが乗客には嫌われていた 船橋法典駅について教えて
法典駅の出入り口って 県道の木下街道北側にあるけど、
木下街道の南側ホーム上方にも橋上駅のような白い建物あるけど
あれは何??
昔は駅舎として使ってたの??? >>175
今でも使ってるだろ
競馬場へ向かう臨時口 へーー
そうなのか
Googleストリートビューで見たら
線路西側の道細くて出入り口があると思わなかったw 新秋津の改札からホームに下がるエスカレーター
あの音が103系のブロア音と今でも錯覚させられる >>175
法典駅の名を見るといつもハムラビ法典を思い出す 103系の走行音は何度か録音にトライしたが上手く行かなかった >>97
家賃が高い都内は、空襲で何万人も焼けてますが… モーターの唸りは懸命に走ってくれてる証しであり、うるさく感じるよりも嬉しかったけどな でも唸ってるだけで車窓の風景がゆっくりとしか流れないとちょっとイラっとしちゃうね 眼をつぶってるとスピード感があるが
眼を開けると車窓がスローモーションみたいで違和感があった
特に操車場みたいな所の横を走るとき 中1のときにはじめて武蔵野線に乗ったんだが(1978年)
西国分寺を出てしばらくすると入る長い長いトンネルがどうにも苦痛だった。
(うるさい+景色がない、ってことで)
新秋津あたりで外の世界に出たとき、すごくうれしく感じた。 窓外の風景があまりに雄大だと、実際の走行速度とは違ってゆっくり動いてるような錯覚に陥りますね 新八柱から南船橋まで通勤に使ってる。
夕方、南船橋から武蔵野線方面に行く列車が少ない。
ホームで待ってると、東京方面はガラガラでたくさんくる。
武蔵野方面行きは20分以上の間隔で混んでる。 東川口が最寄りだったんだが(今は浦和美園)
親父が都内に通勤するんで武蔵野線を使っていた
早くから磁気券を導入していたから定期券もセルロイドで出来ていてね
親父がくれたのを何枚も今でも持っているけど
沿線も変わったところは変わったけど
変わってないところは本当に田舎のまま
東浦和―東川口間なんて湿地帯の中を走ってるようなもんだもんな
まあ微妙な不便さは変わっていないが,ないよりはマシ程度の認識w 開業3年目くらいの市川大野は開発とは無縁の感じだったな
今は変わったのだろうか 少し離れると新興住宅街が広がってるけど、駅前はあまり変わってない。
里山も残ってる感じ。 >>186
北船橋のままだったら、浦和に次いで東西南北の駅名コンプリートになってたのに・・・と消防のころからずっと思ってる 東浦和の東に東川口があるのが奇妙に感じてた。開業初日に乗ったとき、こんなど田舎が川口市内?と思った。川口と言えばキューポラがある街の工場密集地を連想したもので。東浦和も似たようなものだったが。 >>195 湿地帯って見沼田んぼだろ。開発規制がされているからな。規制されてなければとっくに宅地化されている。 101-1000が走っていたのはよく覚えているが、EF-15など旧型電気機関車は記憶にないんだな。貨物列車に関心なかったからだけど。 >>201
関心がなかったのもあるだろうし、たとえばば西船橋〜新松戸がメインの利用区域だったとしたら貨物列車にお目にかかることがないからそういう影響かもね >>201
開通した日、オレンジの電車が千葉県まで来たと喜んだのもつかの間、101-1000の古さにたまげたもんだ。 新松戸開業の1973年4月1日時点で101系登場から16年しか経ってないのに
前年まで常磐線には72系が残ってたし >>205
状態の悪い鉄ドア、尾灯は内はめ、乗務員室窓は大型
出自はモハ90のが多かった この4月で開業50周年か。府中本町で南武線の72系と比較したら、101-1000の方が新しいと感じた。
新松戸の駅前から総武流山電鉄(当時)の電車が見えたが、戦前製の古めかしさには驚いた。
ここまで古くはないが、交差する西武や東武の路線にも吊りかけが当たり前に走ってたし。 でも結局、101-1000を筆頭に、改造車や他線からの転入ばかりで、令和の今まで、新製車の投入がほとんどないのが武蔵野線の寂しいところ…
新製投入は205系のメルヘン顔編成くらい?あれも中間車はどこかからの転入だったかな? >>208
武蔵野線に新製投入された電車は合計46両。205系のメンヘル顔40両以外にもある。
101-1000ばかりだったときに、103の新製車6連1編成が入っている。
当時の武蔵野線で貴重な冷房車だった。
その後入ってきた103は他路線からのお古。
ちなみに武蔵野線新製投入車のうち先頭車を含む4両は廃車後ジャカルタに売られていった。 子供の頃、南浦和と東浦和の間で蒸気機関車の牽く貨物列車を線路脇から眺めるのが楽しみだった。 >>208 でも新製車大量投入後、世代交代が中々進まなかった常磐快速103系の例もあるからなあ。
205や209も入らなかった。4ドア車でE-501を少数、新製投入しているし、常磐緩行で203新製投入で一気に103-1000置き換えているからそれ以上は急がなくていいだろ、ということか?
武蔵野線は中古車ばかりだけど、結構、世代交代してるよね。 線区によって車両投入に癖があるのは面白いよね
常に新製車が投入される中央快速線や横須賀線は一度入れると使い倒すし >>212
近年の東を見ていると、新車を直接投入してその路線で最後まで使い倒すのが方針みたい。
だが武蔵野線は例外。
山手線は新型じゃないといけないようで、山手→総武線→武蔵野線の玉突きの流れができている。
この3路線、ほぼ踏み切りなしって点で共通している。
踏切を考慮していない先頭車は他路線に転属させにくい。 >>213
> 踏切を考慮していない先頭車
これの意味が分からない
山手線新製投入車だけ運転席まわり変えてる訳じゃないし >>214
ヒント、正面の床下に最近付けられている物
(但し、踏切の無い路線は除外) 何気に、国鉄〜JR東日本で製作された通勤型車両の形式が最も多く投入されている路線では?
101系
103系
301系×
105系×
107系×
201系
203系×
205系
207系×
209系
E331系×
E231系
E233系(これから可能性ゼロではない)
E235系(これから可能性ゼロではない) >>218
あなたが挙げた車両(×無し)全てと301系が運行されていた
中央総武線各駅停車が最強ですよね。残念!
他にもメトロ車を含めて良いならば5000、05、07、15000も。 昔は関東でも103系が走っていたのか
ライル・ヒロシ・サクソンさんの動画を見て初めて知った 鶴見線が関東最後の103系だった?
実は関東は103系より101系の方が長く走ってた 武蔵野線は1988年南浦和の私立高校に入学してから
1991年卒業するまで通学の為利用していた。
その頃の武蔵野線はもう既に101系1000番台は
無く103系と極少数の201系が走っていたな。
103系は両端クハの編成と西船橋寄りクモハの
二通り有った。通学の時に乗るのは圧倒的に
103系が多かったが極たまに201系に乗った記憶が有る。 103系が関東から早々に全滅した理由は故障頻発だったみたいだが、そんな深刻なものだったのか?
(関西に残っているものはそんな事は無いみたいだが) >>224
一日あたりの走行距離、および、加速減速の頻度が関西とは桁違いだったんだろう 開業からしばらくは、日中は40分間隔
国電区間とは思えないほどの頻度
乗遅れは、待ち時間ありすぎでした >>218 京葉線だと103、201、205、209、E331、E233の6種類となるが、武蔵野線は京葉線の車両更新に割と足並み揃えているような。
E231は京葉線には入ってないし、331は京葉線オンリーだったが。 武蔵野線は元々貨物路線で今でも府中本町以南は基本貨物列車のみ走る
(府中本町は東京競馬場のすぐそばで旅客利用も多い)
同様の貨物目的の路線は下河原線(廃止)で、終点下河原は貨物駅だった >>230
構想時は貨物専用だったとか聞いたことがある。
南線のみは今もそれを死守しているわけだね。 >>231 南線も旅客化の構想あったけど、需要が少ないとして実現に至ってないだけ。
並行して南武線が走ってるし。 >>230
武蔵野線の起点って、じつは新鶴見(信)らしいんだよな。
だから武蔵野線は東海道線に属している。
つまり、西船橋から府中本町に向かうのが「上り」である。
もっといえば、府中本町発の東京行きは、武蔵野線内では「下り」ってことになるわけだ・・・ 50年もたつんだね。
初めて乗ったとき、沿線が田舎過ぎてたまげたもんだ。
今では隔世の感が有る。 開通当初な南越谷、北朝霞に東武の駅はなくひっそりしていたけど、
今では隔世の感が有るね。東武側も南越谷、北朝霞に駅名を合わせた方が良かった。 >>237
同じ駅にしたら連絡運輸だのなんだのと面倒くさいことになるから、
後から作った東武の駅は別の名前。
どちらも別の場所に作るつもりだった新駅を、武蔵野線の駅の隣につくるように
越谷・朝霞市が仕向けたんだよな。
それがあまりに上手くいきすぎて、北朝霞は死者が出るレベルまで客が増えた。 武蔵野線、おいらが小2のときに開業した。
その前の年に買ってもらった折りたたみ式の全国鉄道路線図にはまだ載ってなくて、
自分で武蔵野線を書き込んだりした・・・
そのとき思った。武蔵野線の駅名って、北ナントカや西ナントカ、南ナントカ、東ナントカっていうの
ばかりだな、方角が入ってないのって新座だけだな、つまんねーな、と。
ちなみにはじめて武蔵野線に乗ったのは中1のときで、特急ヘッドマークの記念切符買いに大宮駅に行ったとき。
あの長大トンネルを轟音の中乗ってるのはちょっとキツかった。 >>243
府中本町、新小平、新秋津、吉川、三郷、新松戸 >>244
三郷・吉川間には広大な武蔵野貨物駅があったけど、廃止されてしまい、
新三郷と吉川美南の二駅が出来た。今となっては隔世の感がある。 三郷駅近くには今でも少しだけ線路が残っている。
後世に伝えるために残してあるんだろうか? >>246
単に、撤去費予算不足だっただけと思われ・・・ 吉川美南駅誕生のニュースは鮮烈に記憶
まるで人の名前みたいに