夜行列車総合スレ★19
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日本の夜行列車も2020年5月現在で定期運転しているのはサンライズ「出雲」・「瀬戸」だけになり、
臨時列車で何とか走っている「ムーンライトながら」も一時期より運転数を減らして残すのみとなり、
これらもいつまで運行が継続されるか不透明な状況で今後が気になります。
その一方で「ななつ星」「四季島」「瑞風」「カシオペアクルーズ」「カシオペア紀行」
「WEST EXPRESS 銀河」など、豪華な客室を売りにする寝台列車は従来の夜行列車とは全く趣向が異なる、
ツアー方式クルーズトレインへの業態転換が特徴です。
当スレでは、もはや輸送列車としては絶滅寸前となった夜行列車全般について、
過去の列車の思い出話を中心に語ることで雑談などをします。
辛うじて現役である列車やクルーズトレインは、鉄道路線・車両板の個別スレでお願い致します。
※個別スレへのリンクは>>2以降で
前スレ(夜行列車総合スレ★18@鉄道懐かし板)
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/jnr/1577960481/
鉄道総合板の夜行列車総合スレ(★14)はこちら
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/train/1517052329/ >>496
ロネが2両連結してた急行安芸は東京駅発着の頃ね
1965年くらいまでは夜行急行なのに14両編成で1〜2
号車のオロネ10と5号車のマシ38(のちにオシ17)
以外は全てB寝台車で組まれてる夜行急行なのがすごい
流石に夜行列車が一番華やかな時代でもあった
それに比べると1978年以降の夜行列車なんてしょぼい >>504
北斗星やトワイライト・カシオペアは夜行列車末期だよ
しかし団体専用列車「特別なトワイライトエクスプレス」と
北海道行きの「カシオペアクルーズ」「カシオペア紀行」は本当に
いい列車で乗れる事ならもう一回乗ってみたいものである
「特別なトワイライトエクスプレス」は山陽と山陰に乗ったけど
山陰が特によかった、ダイナープレヤデスの食事にも満足 >>505
しょぼいかどうかの話なのにいいきなり末期だよと言われてもw >流石に夜行列車が一番華やかな時代でもあった
>それに比べると1978年以降の夜行列車なんてしょぼい
これ読んで 末期は除くと解釈しろってのは無茶すぎる罠 夜行鈍行列車は乗務員の人件費で大赤字だったのでは?
到着時間帯に駅を開けないといけないので駅員の人件費も嵩む 戦後から日本が復興して東海道新幹線が開通するまでは夜行列車の宝庫であった 北斗星もトワイライトも中古改造車の寄せ集めだからねぇ >>509
それは夜間に貨物列車なし かつ該当夜行で郵便・荷物輸送がないという前提ならその通りかと
まあ 改札開けると待合室も開けなきゃで防犯上の問題があるかもだが・・・
そういう駅で一夜を明かす ライダーや乗り鉄も昔は多かったな 郵便・荷物輸送のおまけで旅客輸送してた感あるよな
純粋に旅客だけでは大赤字
ムーンライトながらも本来は特急格上げしないと満員になっても赤字垂れ流しのはずだが青春18きっぷユーザーが怒るので渋々運行してる感じ
しかし新型コロナウイルスの影響で今夏は運転なしになってしまい存続が危ぶまれてる 夜行特急・急行は朝刊の早版、夜行鈍行は朝刊の遅版の輸送が主の時代があったなぁ
まぁその新聞輸送も赤字だったわけだし、電信技術と印刷技術の発展で地方の印刷
工場で新聞刷れるようになったのが夜行列車のとどめ刺した。 昔の夜行列車は一部の寝台特急以外は客車・電車・気動車に限らず荷物車や郵便車を連結していた
夜行列車に限らず44〜45年前までは普通列車の一番前か後には荷物車や郵便車が連結されて
貨物列車も連結していた混合列車なるものが存在してあったが清水港線や釧網本線は知られていた >>514
たぶん秋から冬にかけて新型コロナウィルスは更に増殖するだろうから
ムーンライトながらは運休してこのまま完全廃止になればめでたい 39年頃、東海道夜行が夜9時10時代は10分に1本って言うのが今見るとイカれてさえいるように見える。でも新幹線開業後もまだヨチヨチ歩き。航空バス自家用車はまだとてもメインにはなれない状態ではそれで当然だったろう。
しかし関東から関西山陽九州への移動人数は今の方が当時とは比較にならない
くらい多いだろう。夜行バスなど使えばアルバイト数時間で関東から関西へ移動
出来る今の方がずっと幸福なはずなんだがどうして自分は鉄道黄金期を
これほど懐かしんでしまうのか?そんなに価値観の狭い偏った人間なんだろうか? >>518
> 39年頃、東海道夜行が夜9時10時代は10分に1本って言うのが今見るとイカれてさえいるように見える。でも新幹線開業後もまだヨチヨチ歩き。航空バス自家用車はまだとてもメインにはなれない状態ではそれで当然だったろう。
> しかし関東から関西山陽九州への移動人数は今の方が当時とは比較にならない
> くらい多いだろう。夜行バスなど使えばアルバイト数時間で関東から関西へ移動
> 出来る今の方がずっと幸福なはずなんだがどうして自分は鉄道黄金期を
> これほど懐かしんでしまうのか?そんなに価値観の狭い偏った人間なんだろうか?
39年生まれで43年10月ダイヤ改正以前うっすらいやかなりはっきりマセガキ故記憶にある個人的に言いたい事は解る。まぁあれだ、うまく言えないんだけどもあえて一言で言えば日本が元気だった、その一言に尽きるのではないだろうか。
幼稚園児どころかそれ以前だったのに、pre大阪万博活気熱気はっきり覚えてる
阪急電車のステッカーは代表例であるがTV番組1つとってもきりがない言うか。
CoronaVirusの今アルバイトさえあいやCampusLifeさえまともに送れない今、昔はよかったと誰しもが思うだろうし。2度と前の東京オリンピック大阪万博の
2度とあの頃コロナ前戻れないから尚更 >>518
> 39年頃、東海道夜行が夜9時10時代は10分に1本って言うのが今見るとイカれてさえいるように見える。でも新幹線開業後もまだヨチヨチ歩き。航空バス自家用車はまだとてもメインにはなれない状態ではそれで当然だったろう。
> しかし関東から関西山陽九州への移動人数は今の方が当時とは比較にならない
> くらい多いだろう。夜行バスなど使えばアルバイト数時間で関東から関西へ移動
> 出来る今の方がずっと幸福なはずなんだがどうして自分は鉄道黄金期を
> これほど懐かしんでしまうのか?そんなに価値観の狭い偏った人間なんだろうか?
39年生まれで個人的にはメインの記憶が43年10月ダイヤ改正後いう事になるが例えば福知山線山陰本線の急行だいせん1つとっても中国自動車道なかった頃のそれは山陽新幹線なかった頃のそれは、まさに大阪から山陰へ唯一の交通手段、阪急沿線住んでたので宝塚から乗ったが宝塚から福知山迄立ちっぱなしだった。しかし帰りに乗った旧型客車普通列車、724列車鳥取発大阪行きガラガラだった山陰の人がいかに旧型客車列車と段違い58系気動車急行切望したかよく解った今そのようなことはないのではないか?CoronaVirusにより何でもない様な事が幸せだったと思う事は増えてるかもだがあの頃に比べればやはり段違いだろう。
Real timeでしかあの頃の熱気いうのはReal timeでしか解らないのは当然だがCoronaVirus後そもそもそんなことは、CoronaVirus後活気を感じられるのか?20000%そんなことありえないだろう。こういう言い方はあまりにも残酷だが。 >>520
昭和43年10月1日白紙時刻大改正の
急行下りだいせん3号(大阪ー大社)
号車 系式 所属
ー スユニ 大郵101
ー マニ 米荷3
1 オロネ10 宮原
2 スロ62 〃
3 オハネ12 〃
4 オハネ12 〃
5 オハフ 〃
6 オハ 〃
7 オハ 〃
8 オハ 〃
9 オハ 〃
10 オハフ 〃
急行だいせんの劣化が始まったのはA寝台が抜かれた頃かな
すでに20系化された時には事遅しだった >>517
コロナ禍、事実上「季節に全く関係なく続く」って感じだから
秋に入ったら今以上の惨状が待ってそうだな
下手すると、年越しの終夜運転も来年に限っては一切なかったりして(もちろん初詣は禁止)
通勤路線での疑似「夜行列車」体験も、しばらくできなくなるのかも >>523
この時間に見たら腹が減ってきて幕の内弁当が食べたくなったよ
ぱっとみて153系か455系の夜行列車かと思ったが蛍光灯の位置と
ユニット窓と窓鍵の位置や窓際に肘掛がなかったのでスタジオ内の
架空の列車なのだろう
昔は多くの駅で深夜の駅弁販売をしていたけど・・・ 大阪万博懐かしいな 人類の進歩と調和 EXP70
大阪万博は小学校5年春の時だったが東京から新幹線ひかりに乗って新大阪まで
行って千里中央行きだったか北千里行きだったかの高速道路のセンターラインに
線路が走ってる地下鉄で万博会場へ行ったが俺は大阪万博よりも一部の外人が
走るパビリオンと評価していた新幹線に夢中だった。
2回目の大阪万博は父親が勤める会社で従業員の家族も含めて団体旅行として
小学校6年生の夏に行っている。品川駅へ21時集合で22時過ぎに発車したと記憶するが
12系と呼ばれる1969年に万博波動輸送用に作られた団体専用客車で夏なので冷房が
あるので親たちや会社関係者は喜んでいたようである。
自分にとって初めての夜行列車は季節臨銀河のスジに近い12系の団体専用列車だった。 >>525
>千里中央行きだったか北千里行きだったかの高速道路のセンターラインに
>線路が走ってる地下鉄
今なら千里中央行きだが万博会期中は万国博中央口行きだな >>525
大阪万博って半年間の開催なのに、小学校5年の春と小学校6年の夏に行ったの? >>527
小学校5年春という言い方がおかしいんだろうな
一回目は1970年の3月中に行ったんだろう
だとするとまだ5年生 1958年度生まれということなんだろう
1958年度生まれのいとこがいるもんで自分はすぐにピンと来てわかったけども 日本万国博覧会(大阪万博)の開催期間は1970年3月15日〜9月13日
だとすれば1回目は1970年3月18日だとすればまだ進級する前の小学5年生の春休み前、
2回目は1970年8月だとすれば進級した後の小学生6年生という事になるのだが・・・ 直流電機の青は20系からの流れなのかな?EF60特急色が登場した当時は、茶色が標準色。先に特急色が誕生してそれに真似た? カニ22が作られたことで、カニパンを上げてMGを使うためには直流電機に通称「カニパンスイッチ」が必要となり、
それを装備したEF58を他のEF58と区別するために、ブルトレ色へ塗り替えられた
もちろん東京・宮原両区の該当EF58のみ >>532
EF60 500番台が前面上部・下部および側面を青15号(濃青色)は
20系と同じ青15号(濃青色)ですが512号機・513号機は
手違いにより一般形と同じ塗色で落成している >>531
違う
>>525の表現がおかしいんだよ
小学校5年春といったら普通学年上がった4月5月のことだろ? >>532
先に特急色
64からじゃないかな、青15号の一般色
60の一般形も同じ時期だと思うけど 確かに直流標準色が青とクリームになったはのはEF64からだけど、それ以前の昭和38年にブルトレ牽引のEF60500番台が誕生したので新直流標準色の先取りはEF60特急色が手本になったのかなと。
もっと辿れば20系の塗装が新直流標準色の元祖なのでは。 >>535
学年上がる前の5年生3月も「小5の春」でよくないか? 今だったら深夜徘徊防止の観点から保護者同伴のない18歳未満乗車禁止とかしないといけないかもな
18歳未満が保護者同伴なしで夜行列車に乗ったら青少年健全育成条例に抵触する可能性があるし犯罪に巻き込まれる危険性も有り得る せんきゅーひゃく ななじゅーねんの こんにーちはっ♪
自分はまだ3才だったけど、何となく万博の世間の雰囲気は覚えてる。
その後九州で蒸気機関車を見たのが俺の鉄道の原点だが、
東京から福岡までどうやって行ったのか記憶にないのが惜しまれる。
相次いだ日航機の墜落やハイジャック事件、ベトナム戦争と
おっかない事故にはただただ震えていた。
昭和40年の臨時あさかぜが20系の最初で最後。
50年3月の博多開業ははっきり覚えてる。 1970年といえばまだSL牽引の列車が国内を走っていた
EF65PFが世に出たのもその頃だった 1970年3月、北海道と九州を除けばSLが定期旅客列車を牽引する事はなくて
本州でも一部の貨物列車だけであった。1970年はあけぼのが20系化された年 >>543
> 1970年3月、北海道と九州を除けばSLが定期旅客列車を牽引する事はなくて
懐かし板でそんな大嘘吐いてもすぐばれるよ坊や それこそ1970年の安芸や音戸はなんだったんだろうねと >>539
普通は言わないよ
春=学年はじめ
5年と6年の間の春とかだったらありだけどさ
「小5の春」が学年はじめの4月5月と学年末、つまり翌年の3月を表すとしたら
全く連続しない2つの期間を表すことになって不便極まりないだろ? >>546 呉線はDD51入ってなかったのか。DF50だと平坦地の加速性能でC59に負けるというが。
自分の記憶では、69〜70年頃、秋田県北部の奥羽本線客車特急、急行は皆DL牽引だったが(全てDD51でDF50の記憶はない)、勾配のある区間にDD51が優先的に投入されたんだろうな。 呉線は電化工事してたから。山陽や瀬野八の迂回にも使うから、電化した方がよかったんだろうね
距離の短い常磐線みたいな感じか >>548
秋田以北の奥羽線の優等列車は秋田機関区のDD51でした
確か秋田〜青森間の電化は1971年8月くらいでそれまでは日本海や
あけぼのがDD51牽引で津軽は1960年代はDF50が牽いてたか
補機なのか覚えていないけどそんな事を誰かから聞いたようなような気がする
秋田以南は1975年秋くらいまであけぼの・津軽・おが がDD51牽引でした >>548
山陽本線との関係で早期に電化されるのは目に見えてた上に広島周辺は入換か支線以外にDL使う区所も無かったからな
(しかも呉線の線路は広島県内だが糸崎機関区は岡山の管轄だったのでそっちの事情も絡んでくる) >>547
春 3〜5月
夏 6〜8月
秋 9〜11月
冬 12〜2月
だからじゃない? どこの懐かしスレもレスが進むと思ったら揚げ足取り。やっぱり鉄ヲタってアスペのオッサンばかりなんだな。 呉線は急行あきも素晴らしいけど、朝の通勤列車でC62が3本連続して発車する
シーンとか蒸気機関車黄金期みたいな動画がカラーで残ってるよね。
これが電線貼られて電化された後に煙はかない青い機関車にその後もうすぐ
なっちゃうんだな〜ってゴハチファンの俺は寂しく思った。 C62牽引末期の急行上り「ニセコ1号」なら子供の頃に親と乗った事があるけど夜行列車ではないから
別の話題にするけど実際に見た事はないけど1970年の7月か8月くらいまでは全車10系寝台の
13両編成(うち編成中、11号車〜13号車は東京⇔糸崎のみ)、急行「安芸」は東京〜糸崎間がEF58牽引で
糸崎〜広島間がC59牽引だったと思う。
実際に乗車したのは寝台特急になってからの25形「安芸」で廃止直前の1978年夏であった。 >>545
↑自ら老人語(語尾カナ)で自己紹介(笑) >>559は本当の事を言われてよっぽど悔しかったのだろうなw >>543
関西本線・中央西線・羽越本線・奥羽本線・陸羽東線・米坂線・石巻線・五能線・二俣線
山陰本線・姫新線・伯備線・七尾線まだまだあったと思うが
定期夜行客レは少なかったとは思う
奥羽、山陰や羽越ぐらいじゃないか
年末年始などの臨急とかは腐るほどあったが >>561 また、70年頃の秋田県北部奥羽本線だが、蒸気は貨物専用に回ってたな。D51しか見なかった。
60年代後半の蒸気の運用は年毎に相当な変化があるのだろうけど。 子供の頃、根室本線の滝川寄りの産炭地のマチに住んでいた。
オイルショック前後の頃だ。
たまに大幅遅延したのであろう「からまつ」が明るくなってから通過する事
があって、茶色や青の客車の長い編成がDD51に牽かれて行くのを見て興奮した。
当時は石炭列車を9600やD51が牽いていて毎日駅へ見に行ったものだ。 >>561
当時既に福知山線から引退していたのでSL牽引乗れなかった今でも悔やまれる 日本最後の現役蒸気機関車牽引の貨物列車って夕張線(追分駅〜初代夕張駅)で
1975年12月24日が蒸気機関車牽引の貨物列車が最後だったと思う
夕張炭山の相次ぐ閉山で北炭夕張の事故閉鎖で貨物列車自体も1978年に廃止された >>566
それは阿房列車の先生と関係あるのですか? >>562
80年代中頃、自宅界隈の古本屋で60〜70年代の鉄道ファン等が100円で手に入り、少ない小遣いで買い漁った。
1970年辺りだと、巻末の"車両のうごき"に蒸機の転属なんかが結構載っていた。 >>563
蒸機は電気機関車を電機と略すのと同じだよね >>547=>>555
>普通は言わないよ
「普通」。w
>何が?
他者とのやりとりが、小学5年生みたいですね。w >>547=>>555
>普通は言わないよ
「普通」。w
>何が?
他者とのやりとりが、ガキのままね。w 1973年の鉄道ファンはSLを特集した号が多かった
鉄道ファン1973年1月号(通巻141号)勢揃い梅小路17人衆
鉄道ファン1973年2月号(通巻142号)雪中奮闘のC55
鉄道ファン1973年3月号(通巻143号)C56の里をたずねて
鉄道ファン1973年4月号(通巻144号)伊賀のデコイチ
鉄道ファン1973年5月号(通巻145号)陸東のC58
鉄道ファン1973年7月号(通巻147号)SL撮影ガイド(1)
鉄道ファン1973年8月号(通巻148号)SL撮影ガイド(2)
鉄道ファン1973年9月号(通巻149号)パシフィックの残煙
鉄道ファン1973年10月号(通巻150号)甦ったC623
鉄道ファン1973年12月号(通巻152号)48年・10月で消えるSL達 昭和50年代後半でも上野から磐越西線へは特急「あいづ」の他に、急行「ばんだい」が昼行3往復、夜行1往復運転されていたが、会津若松や喜多方との間にそんなに流動があったものだろうか。 >>582 南東北最大級の観光路線だから。猪苗代湖に裏磐梯、若松城に温泉は磐梯熱海、東山温泉、日中温泉諸々。
昼間急行の方の「ばんだい」だが、昭和40年代後半、紅葉期の連休は超満員だった。 急行ばんだいは臨時列車でキハ58・キハ28を使ったばんだい61号があった
夜行急行ばんだいは455系でグリーン車連結の6両編成で郡山まで急行あずまに併結
夜行ばんだいが定期から臨時に格下げすると12系6両で郡山まで臨時夜行ざおうに併結
[急行]ばんだい
6号(4215M) 上野 23:55 → 5:12会津若松
6号(4214M) 会津若松23:15 → 4:37上野
日中の455系急行ばんだい、喜多方行きに乗った事あるけど会津若松で
9割以上の乗客は降りて塩川駅や喜多方駅まで乗った乗客は郡山駅からの
区間乗車のほんの一部だったと思う 福島・会津磐梯ミニ周遊券という都区内から2800円(学割は更に安い)の切符を使って
会津若松や喜多方へ2〜3回ほど行った事があるよ。福島・会津磐梯ミニ周遊券は
東北線:郡山〜貝田、磐越西線:郡山〜喜多方、日中線:喜多方〜熱塩、会津線:
会津若松〜湯野上、磐越東線:郡山〜菅谷と川俣町方面の国鉄バスが自由周遊区間内。
7日間有効なので夜行急行「ばんだい」に乗って行き、翌日からは24時間ホームの
待合室が開いて冬は深夜でも暖房が入ってた郡山駅や福島駅のホーム待合室で
駅寝しながら東北線、磐越東・西線、日中線の旧型列車に乗ったり、撮影して
青春を楽しんだ昭和50年(高校生)だった俺。 84年の春だったか、12系臨時夜行ばんだいで大宮から猪苗代まで乗ったことがある。
猪苗代に5時前に着いて、駅の待合室で五色沼行き始発バスを待ち合わせ。裏磐梯は雪が積もってたが、夜行使って行く観光客が結構いた。
もう少し前、東北新幹線開業直前の頃であれば、もっと利用者多かったんだろうな。 なるほどな。
確かに海外に行くわけではないし、新幹線や高速バスもない時代なら、近場の観光地でも夜行含めて何本も列車を組み立てる需要があったわけだな。
もっとも、それにあぐらをかいてた観光地は、世の中の変化に対応できなかったら、平成に入ってポシャるんだな。 とは言え、夜行で五時間位の移動は少し中途半端。これより短いと昼行で行った方がいい。
朝早く現地行動ができるメリットもあるが、接続の始発バスまでの待ち時間も考えなくてはならない。 >>588
そういう接続についちゃ昔の方がしっかりしてたよ
というか、地方は国鉄の時刻表ありきの時代だし 小さい時、日の出が早い今頃に早起きして出羽、日本海3号、臨時日本海、天の川、東北夏祭り号、あおもり号とか見ていたなぁ。 小学校高学年の頃に親と夜の青森駅へ行った事があるけど客車ゆうずる2本と日本海1本が綺麗に並んで
青函連絡連乗り場の跨線橋の上から3本のブルートレインの最後尾が3本並んだ姿が素晴らしくみえたよ
14系寝台車と24系24形寝台車だと思うけどテールマークが絵になる前の文字だったがそのシーンが
頭の中に焼き付いてよい想い出になってる。大阪へ行く日本海は九州内の車両区だと学校の友達に教え
られて長崎県から遥々本州最北の青森まで来ているのかと思うと胸が熱くなり子供ながらに浪漫を感じた >>588
昔、宮脇俊三氏は、東京から日帰りには遠いし夜行では近すぎて深夜にならないと便がないから、「会津若松は私には扱いにくい」と書いていた。
確かに24時近くに発車するのでは、それまでの時間を持て余す。 >>593 時間的に夜行妙高で上野から長野、夜行アルプスで新宿から松本行くのと同じくらいだぞ。発車時刻まで駅周辺の銭湯に入って飯食って一杯引っかければ3時間位あっという間だが、鉄道ライターだから酔っぱらって車内で寝るわけにはいかなかったのか?
他の客が寝ているのに、夜通し起きて観察しなくてはならないというのも酷だと思う。 594です。自分も87年の夏、大山に大汗かいて登って米子駅前の銭湯で汗を流して飯食って、これまた20系「だいせん」で大阪まで乗った。
登山の疲れが残ってたが、それでも20系B寝台で途中、何度か目を覚ました。 夜行の醍醐味は夜間・早朝に目覚めた時だと思ってる
あの非日常感が最高だった >>597
ああ 可能な限りサンライズとか乗ってるよ
あと夜行イベントもチケットさえ取れたらね
次は三峰号の乗る予定
あとサンライズは定期より臨時の方が長時間停車が多くて楽しいな >>566
基本的には無関係
百鬼夜行は、古くからあった熟語。
百鬼園の由来はそもそも百閧セし、その百閧ヘ地元岡山の百間川が由来だからね。
ひゃっけんの読み→もじって当て字で百鬼園 あれ?二重投稿しちゃった?
ごめん!
と思ったら語尾違う。 >>596
上野に早朝着く夜行で、川口辺りの工場が朝焼けに染まっている
こんなのもアリかと 高松から特急瀬戸に乗って夜の瀬戸大橋を見る予定だったのが、酒飲んでたために気づいたら岡山、完全に見逃したことがある。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています