夜行列車総合スレ★19
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日本の夜行列車も2020年5月現在で定期運転しているのはサンライズ「出雲」・「瀬戸」だけになり、
臨時列車で何とか走っている「ムーンライトながら」も一時期より運転数を減らして残すのみとなり、
これらもいつまで運行が継続されるか不透明な状況で今後が気になります。
その一方で「ななつ星」「四季島」「瑞風」「カシオペアクルーズ」「カシオペア紀行」
「WEST EXPRESS 銀河」など、豪華な客室を売りにする寝台列車は従来の夜行列車とは全く趣向が異なる、
ツアー方式クルーズトレインへの業態転換が特徴です。
当スレでは、もはや輸送列車としては絶滅寸前となった夜行列車全般について、
過去の列車の思い出話を中心に語ることで雑談などをします。
辛うじて現役である列車やクルーズトレインは、鉄道路線・車両板の個別スレでお願い致します。
※個別スレへのリンクは>>2以降で
前スレ(夜行列車総合スレ★18@鉄道懐かし板)
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/jnr/1577960481/
鉄道総合板の夜行列車総合スレ(★14)はこちら
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/train/1517052329/ >>438
電報は夜行列車より前から存在してるんだよ >>434
DDIと日産のご都合で生まれたツーカーは
日産の経営破綻でものの見事に崩壊したよな(最終的にはKDDIの手で葬り去られる)
・ツーカーグループ3社(東名阪):第二電電(DDI)
(地方のローミングは合弁時代の名残でJフォン系6社を頼ることに)
・デジタルツーカーグループ6社(地方):日本テレコム
(ローミング関係のデジタルホンと統合Jフォン結成、ツーカーローミングは維持)
デジタルツーカーの担当エリア内(東名阪以外)だと
お上による共倒れ防止対策の呉越同舟という構図なのを知らなくて
デジタルホン(JR系、日本テレコム傘下)+ツーカー(日産系)=デジタルツーカー(合弁)
キャリアショップなど販売関係もツーカーって言ってたこともあって
デジタルツーカー=ツーカー
と思いこんでた人も多かったらしい
ttp://hp.vector.co.jp/authors/VA020302/html/cellular.html >>412
マニュアルで自動車のシンクロ機構が無い時代の
運転を知っている人なら、
理解できるでしょ?
気動車のトランスミッションは仕組みが色々あるけど、
ギアを落とす時にそのままつないでも
シンクロがあればそのままつながるけど、
エンジンの回転が低いのでエンジンブレーキがかかり
それが乗り心地に影響。
ダブルクラッチをして、
一旦エンジンの回転数を上げてから
ギアを落とせば乗り心地はスムーズに。
昭和40年頃に北海道を走っていた、
運転席にギアのチェンジレバーが付いていた、
旧式の気動車ならその技が使える筈。
当時に運転されたいた経験者の方、
もう相当お年を召しておられる・・・・・
お話を聞きたいものです。 移動通信(IDO)→KDD→KDDI→au
J-PHONE→Vodafone→ソフトバンク
セルラー系・ツーカー系 KDDIに統合
だったような? 二番目、見事に日本企業→イギリス外資系企業→在日企業に変遷しとるな 俗に言う"大垣夜行"の下り、自分の時代は345Mだったけど、朝の放送開始が"東刈谷"だったんですよ。
他の人に聞くと"刈谷"だったり"安城"だったりすることもあるけど、だいたい"東刈谷"だとか・・・。
だいたい、そう言うのって自治体の代表駅だったり、乗り換えがある拠点的な駅、運転や営業上の拠点駅とかじゃないですか?
中途半端な駅って言うと失礼ではあるけど、なぜ東刈谷だったんですかね? 5:30以降で到着する最初の駅
と言う話じゃないかな 1977年の347M時代は刈谷駅(5:40発)でしたよ レスありがとうございます!
そうしますと時刻でって事ですかね?
その頃に近い年の時刻表見たら東刈谷発5:32でした・・・。 大垣行きは昭和39年頃も準急東海でバンバン出てるね。個人的には東海道はこの頃から遡って昭和30年頃、まだ門司行鈍行があった頃が一番好きかな。
電車もありーの従来の超長距離鈍行もありーのの多様性が良い。
更に遡り20年代の復興前とか引き揚げ列車の頃になると明治期みたいな鈍足が痛々しい。昭和40年代になるとどんどん近代化が完成の域まで達して
何だか気だるさを感じる。 ゴーサントオの347M 1977年の347M
岡崎駅 5:23・・・・ 5:24
安城駅 5:30・・・・ 5:31
東刈谷 5:35・・・・ 5:36
刈谷駅 5:39・・・・ 5:40
1分しか違わないw 家にある153系347M
小田原発車時のアナウンスで
刈谷到着まで放送は休むと言ってるぞ >>453
昭和40年だとまだ東海道線では80系電車の首都圏乗り入れも見られた時代
東京発着の優等電車は151系、153系、157系に切り替っていたと思う
東海道新幹線開業前の東海道線は長距離列車や優等列車の華でした 大昔の夜行列車は本数も種類も沢山あって良いかも知れないけど
乗るなら2段ハネが最高で俺は24系25形や14系15形が投入された
頃が一番良い様に思える 狭い10系の3段寝台50pベッドでは燃えない
ところで初めて全車25形100番台で走った寝台特急って何だっけ? >>445
微妙な違いあるぞ。
IDO→au(初期の日本移動通信担当)→au(KDDI)
当初はauも旧IDO系と旧セルラー系を一旦KDDIに統合の後、運営
会社として株式会社エーユーに移管する計画だったはず。 日本テレコムは鉄道通信株式会社(JR通信)>日本国際通信(ITJ)との合併
そしてジェイフォン→ボーダフォンを経てソフトバンクテレコムになってる 458 昭和51年のはやぶさ 富士 じゃないかね?
あさかぜはまだ20系で臨時のやつに宮原早期落成車の25 0番台が使われた旨。 その後逆に定期の方がオハネフ200番台含めた最新編成に置き換えられてそれから10年も20系の臨時あさかぜが走ってたのは面白い。 ダブルルーフ含んだ旧型客車の九州東京間引き揚げ列車で、明治期並みのノロノロダイヤで運転してた終戦後から僅か10年で20系が世に出て3等冷暖房完備のあさかぜまで至ったと思うと感慨深い。それから寝台幅も広く2段の車両になるまでさらに20年。 >>458
ググると30秒かからずにわかるのだが・・・。 >>463
CDMA 1はauブランドを展開する移動通信システムのサービスだよ >>468
運用歴の流れさえ把握してりゃいいのにな >>458
1977年9月1日から運用についた新大阪〜下関を
呉線経由で結んだ寝台特急「安芸」が最初ですが
1978年10月2日改正で廃止となった約1年の短命
因みに2番目は1977年9月25日から運用に付いた
寝台特急下り「あさかぜ2号」と上り「あさかぜ1号」で
3番目は1977年9月26日から運用に就いた「瀬戸」
「安芸」は全車下関運転所の100番台で電源車も貫通扉が
ついたカニ24-100、「下関あさかぜ」と「瀬戸」は
全車下関運転所と広島運転所の100番台で電源車も同じ
下関あさかぜと瀬戸のオハネフ25は全て東京向きに編成
されていたのが特筆され、下関あさかぜは当時広島駅で
付属編成(広付101運用)を解放/連結してたのにオハネフ
同士を向かい合わせない編成に納得できなかったが
広島運転所にオハネフ25の200番台が配備されていないのが理由 >>465
当時のはやぶさ・富士・博多あさかぜの24系25形100番台が使われたのは
2号車〜6号車、9号車〜13号車のみで電源車も新型のカニ24-100ではない >>462
携帯の方は、デジタルホン(東名阪)デジタルツーカー(それ以外)→日産が経営離脱→
ブランド統一でJフォン(当初は運営会社名はそのまま)→Jフォン東日本、Jフォン西日本
に再編→Jフォン全国一社化→ボーダフォン買収→ブランドもボーダフォン化→ソフト
バンク買収によりソフトバンクモバイルへ→親会社の持ち株会社化によりソフトバンク
へ社名変更→Yモバイル吸収
と、この20年でめまぐるしく変わった >>471
25形で走り出しては短命だったけど列車としての歴史は古いよ
1948年7月に客車急行(一時期準急)として走ってその後に電車急行として
走るものの、1954年から寝台車が連結されて1964年から寝台専用列車へ
1965年から全車10系寝台に変わって1970年10月に特急「あさかぜ」
への格上げにより廃止されるが大阪ー呉間電車急行として再登場
1975年3月改正で急行「音戸」の特急格上げにより寝台特急安芸として
再々度新設、20系のブルートレインへ変貌
約2年6ヵ月後、25形100へ変更 [特急]安芸
1001列車 新大阪22:58 → 8:38下関
1002列車 下関 20:05 → 5:36新大阪
寝台特急安芸の末期の時刻だが上り1002レの新大阪着が早いだけで
特に不具合はないと思うダイヤであるが呉線経由で遠回りというだけで
毛嫌いされて乗客が増えなかった。
新大阪発なら九州に入っている所要時刻なのにやはり利用客は増えな
かったのである。この程度の距離なら自由席連結の雲仙・西海・阿蘇・
くにさきで充分だと思う乗客が多くて淘汰に至った理由。 >>477
呉線経由というだけで時間がかかったというよりは、山口県内を有効時間帯におさめるためにゆっくり走ってたんだと思ってた。 高度経済成長期はあちこちに忖度して優等列車が色々立ち寄っていた
んだよなあ 下り安芸は下関到着時刻が遅くて、上り安芸は大阪到着が早すぎる
下り 新大阪発23:20→下関到着8:00
上り 下関発22:05→新大阪到着7:36
くらいのダイヤなら利用しやすいけど上りの新大阪5時台到着は論外
夜行列車は20〜22時台くらいに乗って朝8時前後で降りるのがベスト
こんなダイヤ設定では廃止になるのもむべなるかな 安芸のターゲットは山口や広島の客だから、そういうダイヤになったんだよ
例えば広島だと下りも上りも23時から5時という行程になる いずれにしろ、新幹線より便利な列車では絶対に無い。
新幹線開業後にわざわざ格上げされたのは理解に苦しむ。 関西から広島圏や山口圏なら山陽新幹線の方が便利
安芸も山陽新幹線が開業してからはジリ貧の大赤字だと思うが
当時はヤル気のない腐った体質の国鉄なので乗車率が
悪くても放置だったのかも知れない
まだ急行時代でA寝台や食堂車を連結していた頃が華だったのでは? そのころは大阪と広島を結ぶグリーンフェリーというのもあったが、昭和50年台のうちになくなっている。
新幹線で2時間以内だし、中国自動車道もできたから宜なるかな。 安芸のメイン客は大阪広島間の需要で音戸のときは定期2往復に多客期は臨時もあった
(寝台列車のほうの編成の一部は広島回転)
特急化したことでスピードアップしたんで広島着は5時台、せっかく呉線経由してるのに
呉到着は4時台じゃはっきりいって使えない
ダイヤが旧音戸1・4号(寝台列車の方)のままならもう数年は延命したと思うよ
>>480
新大阪5時台着なのは新幹線の始発に乗り継げるようにしたんだろ
新大阪発の時代の月光と同じ × ダイヤが旧音戸1・4号(寝台列車の方)
〇 ダイヤが旧音戸1・2号(寝台列車の方) 論外って、短距離夜行なんかなんでもそうだろ
ビジネス客狙いで、朝のラッシュ前に到着。
新大阪5時台ならそのまま新幹線使って東京に9時に着けるしな
音戸のころなら呉の造船関係者なんかが使ってたんだろうけど、安芸にしたころは
造船はもう不況だったし、そもそも時代が違うんだな
20系使いたかっただけだよ。よく25型化したと思うわ
銀河を20系化したときに、急行落ちにでもすればよかったのにな。そういう例ないから
しょうがなかったんだろうけど 夜行列車の衰退を年代別に分けると、
80年代 国鉄不信による客離れ
90年代 夜行バスの台頭
00年代 整備新幹線の開業
10年代 格安航空会社の出現
で合ってる?特に00年代を境にダイヤ改正毎に廃止祭りだった。 >>487
下りが呉着4時41分、上りが呉発23時59分。
使いたくても使えないダイヤだな。
ましてや呉線内で他に停まる広や竹原は尚更。 >>488
1974年にはスト権ストや順法闘争などで国鉄不信に拍車がかかっていた国鉄が一番輝いて
いたのは戦後復興〜高度成長時代、そして東海道新幹線の開業とEXP70開幕から
山陽新幹線岡山開業前だと思う。
国鉄の赤字問題が深刻となってきたため、1969年に日本国有鉄道財政再建特別
措置法が成立した。経営の合理化、赤字ローカル線の廃止、新路線建設の凍結、
国鉄用地に対して地元自治体に支払う市町村納付金(固定資産税)の減額などを決めた。
それでも政府と国会は運賃値上げを認めず、新路線の建設は続行した。新路線の建設は
国鉄自身ではできないため、鉄道建設公団を作って政府が建設し、国鉄に無償譲渡した。
国鉄にとって建設費負担はなかったため、今までよりはマシだ。しかし、結果として
赤字路線が増えたため経営をさらに圧迫した。
1976年、ようやく国が運賃値上げを認めた。ただし、今までの赤字を取り返すため、
同年の値上げ率は50%と急上昇となった。1977年にも50%の値上げ。そして、1978年から
毎年の運賃値上げが始まる。この極端な値上げ策と、1975年の8日間にわたるストライキで
深刻化した労働組合問題、その後の職員のモラル低下は、長距離旅客と貨物荷主の国鉄離れを招いた。 ストライキと順法闘争懐かしいな
機関車や列車のボディーにスローガンを落書きして酷いものだった
JRになってからのストライキは千葉動労だけだったが
やはり国鉄は分割民営化して正解だった
できればあと10年早かったら国民の血税を無駄に注ぎ込む事はなかったのに >>492
懐かしいなんて、思い出したくもないです 長期ストライキで電車通学してたのでストライキ期間が高校休みになったので俺も懐かしいわ
春闘の長時間ストライキが終ると通学定期券の有効期限にスト中の日数を増やしてくれたよ スイッチバックといえば、山形新幹線の開業と同時に廃止された、奥羽本線の赤岩・板谷・峠・大沢の各駅。
今でもそれらの遺構の一部が見られるが、旧赤岩駅にはスイッチバックの距離を稼ぐためだけに掘られたトンネルがある。
15年程前は旧駅構内からそのトンネル内部までレールが敷かれたまま残っていたが、今もあるだろうか。
子供の頃、母方の田舎に帰省してた頃は、旧国鉄の姫新線から因美線に入る時、
津山でスイッチバックしてた。戻るときももちろん同様。
普通車両だったんで、単に進行方向が変わっておしまい。
今は津山に何も用が無くなったけど、その代わり今度は、鳥取−岡山間の特急スーパーいなばで、
途中の上郡でスイッチバックする。特急車両なんで、客がぞろぞろ立ち上がり、一斉に座席を回転させ始める。
ずっと前は「席、回します」みたいな声かけがあったが、近年は皆暗黙の了解のように動く。結構楽しい。最近コロナで乗ってないなあ。
スイッチバックではないですが、昔の夜行列車は走る距離が長いだけに途中で進行方向が変わるものが多かったですね。
このうち北斗星や紀伊なんかは深夜〜明け方の短い時間帯に2回方向を変えるので
寝台なんかで寝てると気付かないこともありましたが、北陸なんかは深夜に1回だったので朝目覚めると進行方向が逆になっていて、
分かっていても「ん?」と奇妙な違和感がありました。今では味わえなくなった感覚です。 スイッチバックといえば、山形新幹線の開業と同時に廃止された、奥羽本線の赤岩・板谷・峠・大沢の各駅。
今でもそれらの遺構の一部が見られるが、旧赤岩駅にはスイッチバックの距離を稼ぐためだけに掘られたトンネルがある。
15年程前は旧駅構内からそのトンネル内部までレールが敷かれたまま残っていたが、今もあるだろうか。
子供の頃、母方の田舎に帰省してた頃は、旧国鉄の姫新線から因美線に入る時、
津山でスイッチバックしてた。戻るときももちろん同様。
普通車両だったんで、単に進行方向が変わっておしまい。
今は津山に何も用が無くなったけど、その代わり今度は、鳥取−岡山間の特急スーパーいなばで、
途中の上郡でスイッチバックする。特急車両なんで、客がぞろぞろ立ち上がり、一斉に座席を回転させ始める。
ずっと前は「席、回します」みたいな声かけがあったが、近年は皆暗黙の了解のように動く。結構楽しい。最近コロナで乗ってないなあ。
スイッチバックではないですが、昔の夜行列車は走る距離が長いだけに途中で進行方向が変わるものが多かったですね。
このうち北斗星や紀伊なんかは深夜から明け方の短い時間帯に2回方向を変えるので
寝台なんかで寝てると気付かないこともありましたが、北陸なんかは深夜に1回だったので朝目覚めると進行方向が逆になっていて、
分かっていても「ん?」と奇妙な違和感がありました。今では味わえなくなった感覚です。 >>498
>>499
旧赤岩駅スイッチバックホームから続くトンネルだが2005年か2006年の11月中旬に
山形新幹線専用のDD18(ラッセルヘッド車付き除雪用ディーゼル機関車)とDD19
(ロータリー式除雪用ディーゼル機関車)の試運転を撮影した時に件のトンネル上から
松川橋梁をゆく姿が撮影できないかロケハンした事がある。
旧ホーム跡から歩くと線路は途中で途切れたがまた線路は復活してトンネルの中まで
続いていたがトンネル内は入れないようになっていたよ。板谷峠廃止から28年経過
するけど今はどうなっている事だろう。
自分は車で大平部落まで出てそこから歩いてスイッチバック旧ホームに簡単にアクセス
できたけどホームが終ってトンネルまでは藪こぎが必須だよ。
夜行列車でスイッチバックといえば急行ちどりの出雲坂根三段スイッチバックは
最強だと思う。 現在赤岩駅は通年全列車通過駅になってるけど廃止になるのかな? >>496
ロネが2両連結してた急行安芸は東京駅発着の頃ね
1965年くらいまでは夜行急行なのに14両編成で1〜2
号車のオロネ10と5号車のマシ38(のちにオシ17)
以外は全てB寝台車で組まれてる夜行急行なのがすごい
流石に夜行列車が一番華やかな時代でもあった
それに比べると1978年以降の夜行列車なんてしょぼい >>504
北斗星やトワイライト・カシオペアは夜行列車末期だよ
しかし団体専用列車「特別なトワイライトエクスプレス」と
北海道行きの「カシオペアクルーズ」「カシオペア紀行」は本当に
いい列車で乗れる事ならもう一回乗ってみたいものである
「特別なトワイライトエクスプレス」は山陽と山陰に乗ったけど
山陰が特によかった、ダイナープレヤデスの食事にも満足 >>505
しょぼいかどうかの話なのにいいきなり末期だよと言われてもw >流石に夜行列車が一番華やかな時代でもあった
>それに比べると1978年以降の夜行列車なんてしょぼい
これ読んで 末期は除くと解釈しろってのは無茶すぎる罠 夜行鈍行列車は乗務員の人件費で大赤字だったのでは?
到着時間帯に駅を開けないといけないので駅員の人件費も嵩む 戦後から日本が復興して東海道新幹線が開通するまでは夜行列車の宝庫であった 北斗星もトワイライトも中古改造車の寄せ集めだからねぇ >>509
それは夜間に貨物列車なし かつ該当夜行で郵便・荷物輸送がないという前提ならその通りかと
まあ 改札開けると待合室も開けなきゃで防犯上の問題があるかもだが・・・
そういう駅で一夜を明かす ライダーや乗り鉄も昔は多かったな 郵便・荷物輸送のおまけで旅客輸送してた感あるよな
純粋に旅客だけでは大赤字
ムーンライトながらも本来は特急格上げしないと満員になっても赤字垂れ流しのはずだが青春18きっぷユーザーが怒るので渋々運行してる感じ
しかし新型コロナウイルスの影響で今夏は運転なしになってしまい存続が危ぶまれてる 夜行特急・急行は朝刊の早版、夜行鈍行は朝刊の遅版の輸送が主の時代があったなぁ
まぁその新聞輸送も赤字だったわけだし、電信技術と印刷技術の発展で地方の印刷
工場で新聞刷れるようになったのが夜行列車のとどめ刺した。 昔の夜行列車は一部の寝台特急以外は客車・電車・気動車に限らず荷物車や郵便車を連結していた
夜行列車に限らず44〜45年前までは普通列車の一番前か後には荷物車や郵便車が連結されて
貨物列車も連結していた混合列車なるものが存在してあったが清水港線や釧網本線は知られていた >>514
たぶん秋から冬にかけて新型コロナウィルスは更に増殖するだろうから
ムーンライトながらは運休してこのまま完全廃止になればめでたい 39年頃、東海道夜行が夜9時10時代は10分に1本って言うのが今見るとイカれてさえいるように見える。でも新幹線開業後もまだヨチヨチ歩き。航空バス自家用車はまだとてもメインにはなれない状態ではそれで当然だったろう。
しかし関東から関西山陽九州への移動人数は今の方が当時とは比較にならない
くらい多いだろう。夜行バスなど使えばアルバイト数時間で関東から関西へ移動
出来る今の方がずっと幸福なはずなんだがどうして自分は鉄道黄金期を
これほど懐かしんでしまうのか?そんなに価値観の狭い偏った人間なんだろうか? >>518
> 39年頃、東海道夜行が夜9時10時代は10分に1本って言うのが今見るとイカれてさえいるように見える。でも新幹線開業後もまだヨチヨチ歩き。航空バス自家用車はまだとてもメインにはなれない状態ではそれで当然だったろう。
> しかし関東から関西山陽九州への移動人数は今の方が当時とは比較にならない
> くらい多いだろう。夜行バスなど使えばアルバイト数時間で関東から関西へ移動
> 出来る今の方がずっと幸福なはずなんだがどうして自分は鉄道黄金期を
> これほど懐かしんでしまうのか?そんなに価値観の狭い偏った人間なんだろうか?
39年生まれで43年10月ダイヤ改正以前うっすらいやかなりはっきりマセガキ故記憶にある個人的に言いたい事は解る。まぁあれだ、うまく言えないんだけどもあえて一言で言えば日本が元気だった、その一言に尽きるのではないだろうか。
幼稚園児どころかそれ以前だったのに、pre大阪万博活気熱気はっきり覚えてる
阪急電車のステッカーは代表例であるがTV番組1つとってもきりがない言うか。
CoronaVirusの今アルバイトさえあいやCampusLifeさえまともに送れない今、昔はよかったと誰しもが思うだろうし。2度と前の東京オリンピック大阪万博の
2度とあの頃コロナ前戻れないから尚更 >>518
> 39年頃、東海道夜行が夜9時10時代は10分に1本って言うのが今見るとイカれてさえいるように見える。でも新幹線開業後もまだヨチヨチ歩き。航空バス自家用車はまだとてもメインにはなれない状態ではそれで当然だったろう。
> しかし関東から関西山陽九州への移動人数は今の方が当時とは比較にならない
> くらい多いだろう。夜行バスなど使えばアルバイト数時間で関東から関西へ移動
> 出来る今の方がずっと幸福なはずなんだがどうして自分は鉄道黄金期を
> これほど懐かしんでしまうのか?そんなに価値観の狭い偏った人間なんだろうか?
39年生まれで個人的にはメインの記憶が43年10月ダイヤ改正後いう事になるが例えば福知山線山陰本線の急行だいせん1つとっても中国自動車道なかった頃のそれは山陽新幹線なかった頃のそれは、まさに大阪から山陰へ唯一の交通手段、阪急沿線住んでたので宝塚から乗ったが宝塚から福知山迄立ちっぱなしだった。しかし帰りに乗った旧型客車普通列車、724列車鳥取発大阪行きガラガラだった山陰の人がいかに旧型客車列車と段違い58系気動車急行切望したかよく解った今そのようなことはないのではないか?CoronaVirusにより何でもない様な事が幸せだったと思う事は増えてるかもだがあの頃に比べればやはり段違いだろう。
Real timeでしかあの頃の熱気いうのはReal timeでしか解らないのは当然だがCoronaVirus後そもそもそんなことは、CoronaVirus後活気を感じられるのか?20000%そんなことありえないだろう。こういう言い方はあまりにも残酷だが。 >>520
昭和43年10月1日白紙時刻大改正の
急行下りだいせん3号(大阪ー大社)
号車 系式 所属
ー スユニ 大郵101
ー マニ 米荷3
1 オロネ10 宮原
2 スロ62 〃
3 オハネ12 〃
4 オハネ12 〃
5 オハフ 〃
6 オハ 〃
7 オハ 〃
8 オハ 〃
9 オハ 〃
10 オハフ 〃
急行だいせんの劣化が始まったのはA寝台が抜かれた頃かな
すでに20系化された時には事遅しだった >>517
コロナ禍、事実上「季節に全く関係なく続く」って感じだから
秋に入ったら今以上の惨状が待ってそうだな
下手すると、年越しの終夜運転も来年に限っては一切なかったりして(もちろん初詣は禁止)
通勤路線での疑似「夜行列車」体験も、しばらくできなくなるのかも >>523
この時間に見たら腹が減ってきて幕の内弁当が食べたくなったよ
ぱっとみて153系か455系の夜行列車かと思ったが蛍光灯の位置と
ユニット窓と窓鍵の位置や窓際に肘掛がなかったのでスタジオ内の
架空の列車なのだろう
昔は多くの駅で深夜の駅弁販売をしていたけど・・・ 大阪万博懐かしいな 人類の進歩と調和 EXP70
大阪万博は小学校5年春の時だったが東京から新幹線ひかりに乗って新大阪まで
行って千里中央行きだったか北千里行きだったかの高速道路のセンターラインに
線路が走ってる地下鉄で万博会場へ行ったが俺は大阪万博よりも一部の外人が
走るパビリオンと評価していた新幹線に夢中だった。
2回目の大阪万博は父親が勤める会社で従業員の家族も含めて団体旅行として
小学校6年生の夏に行っている。品川駅へ21時集合で22時過ぎに発車したと記憶するが
12系と呼ばれる1969年に万博波動輸送用に作られた団体専用客車で夏なので冷房が
あるので親たちや会社関係者は喜んでいたようである。
自分にとって初めての夜行列車は季節臨銀河のスジに近い12系の団体専用列車だった。 >>525
>千里中央行きだったか北千里行きだったかの高速道路のセンターラインに
>線路が走ってる地下鉄
今なら千里中央行きだが万博会期中は万国博中央口行きだな >>525
大阪万博って半年間の開催なのに、小学校5年の春と小学校6年の夏に行ったの? >>527
小学校5年春という言い方がおかしいんだろうな
一回目は1970年の3月中に行ったんだろう
だとするとまだ5年生 1958年度生まれということなんだろう
1958年度生まれのいとこがいるもんで自分はすぐにピンと来てわかったけども 日本万国博覧会(大阪万博)の開催期間は1970年3月15日〜9月13日
だとすれば1回目は1970年3月18日だとすればまだ進級する前の小学5年生の春休み前、
2回目は1970年8月だとすれば進級した後の小学生6年生という事になるのだが・・・ 直流電機の青は20系からの流れなのかな?EF60特急色が登場した当時は、茶色が標準色。先に特急色が誕生してそれに真似た? カニ22が作られたことで、カニパンを上げてMGを使うためには直流電機に通称「カニパンスイッチ」が必要となり、
それを装備したEF58を他のEF58と区別するために、ブルトレ色へ塗り替えられた
もちろん東京・宮原両区の該当EF58のみ >>532
EF60 500番台が前面上部・下部および側面を青15号(濃青色)は
20系と同じ青15号(濃青色)ですが512号機・513号機は
手違いにより一般形と同じ塗色で落成している >>531
違う
>>525の表現がおかしいんだよ
小学校5年春といったら普通学年上がった4月5月のことだろ? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています